幕間 パールグレー


 他人に触れた瞬間、自分の指先から粉々に砕け散っていきそうだった。

 それは異分子を拒絶する唯一の方法で、それしか自分を守る手立てはなかった。


 床に散らばった破片になれば、わたしはそれ以上何にも変容させられない。絶えずわたしを侵そうとする外圧から逃れられる。

 だから、今すぐ瓦解してしまわないといけなかった。


 全身に広がっていく白い亀裂が、透明を濁らせ、溶けるように千々に砕かれていく。全て床に落ち切るまでの一瞬に、耳障りな音が響き、欠片たちはきらきらと輝いてすら見えるかもしれない。


 そして静謐は動かず、血流は聞こえず、終わる。


 人間は存在するだけで、多くのものを発信している。

 その顔が、わたしを内側からひび割らせる。その視線が、亀裂を走らせる。その声が、わたしを砕く。


 行動は振るわれた鈍器で、言葉は切削の回転刃で、表情は気化する燃焼装置で、仕草は瞬間冷却の温度だった。


 発信されたものがどんな意味を持っていようが、関係なかった。

 どれもが等しくわたしの形を顕にして、輪郭をぼやかして混ざって消えていくことを許さない。


 それは点数だ、と思った。

 頼みもしないのに強制的に値踏みされている。


 満点だろうが、赤点だろうが。如何に丸をつけられようが、朱を入れられようが。

 感情を波立たせるもの全てが不要だった。


 尽きることのない点数を受け取ることに、わたしは、疲れていた。




 * *




 アコウの木の間をずっと歩いて、ふくらはぎほどの高さがある雑草を踏み分ける。


 明け方降った雨のせいか、空気から溢れた小さな水粒が無数に浮かんで、前も見えないくらいだった。霞越しの葉の影だけが分かる。息を吸い込むと、のどの奥に刺さった。


 このところ眠りが浅くて、日が昇る前に目が覚めた。

 微睡みはいつも三時間半で事切れる。脳が酸欠を訴えていることも構わずに。


 歩みを進めると、白い霞の中からアコウの木が首を伸ばして現れる。

 いつ見ても異様な姿だ。


 二十メートルに届かんばかりの高さで、幹はほとんど無数の気根になって地面を這っている。

 半常緑の葉を悠々と伸ばして、曇り空から陽光を受け取ろうとしている。


 アコウは、別種の木に宿って発芽することがある。そして根を土台の木に絡ませ大きく成長し、少しでも高く、日光を目指す。宿主を覆って締め付け、枯らして空洞にする。

 宿主亡き後でも、死骸の上で成長する。


 その様がまるで根で絞殺しているようだと、絞め殺しの木とも呼ばれている。

 だからこの木はこんなにも異様なのだ。


 なぜそんなことをするのだろう、と思った。

 他の木々を贄として消費してまで、太陽を目指したいものなのだろうか。


 ただ、分からないわたしが劣っているのだということは、分かった。


 不自由な視界の中進み続け、ようやくトタンと木の板を組み合わせて作られた工房が見えてくる。


 波打つ亜鉛鉄板は、かつての色の面影すらないほどに錆びていた。それは、幾度も風雨に晒された証だった。


 工房は、絡まった蔦を、積もった埃を払われるときを待っていた。

 しかしここを訪れる者は、わたし以外いなかった。


 扉を開けると、蝶番が甲高く悲鳴を上げる。


 物事を行うには、相応しい場所がある。

 森の中に分け入って、今にも朽ちそうなこの小屋に来たのは、そのためだ。


 わたしは、人形を作るときは必ずここで行うと決めていた。


 作品に命を込めるには、揺れる神経を一点に絞り沈潜しなければならない。

 絞首台を一段ずつ上るような、そんなおごそかな気分でなければならない。


 ハングマンズノットの形に結ばれた縄を首に掛けるかの如く、わたしは作りかけの作品を手に取った。


 これ﹅﹅が何なのか、わたしには分からなかった。

 人形とは言うものの、これが人の形なのか分からなかった。


 腕が三本で、脚が一本で、頭がない。

 小さなはぎれを無理やり繋ぎ合わせて人形の皮にしているせいで、よれた布の端は糸がほつれ飛び出している。


 この形も布地も、全て彼が選んだものだった。


 うねったペイズリー柄。途切れない唐草模様。密集するボタニカル柄。神経質に並んだ麻の葉柄。


 無数の柄はお互いに反発し合い、調和からかけ離れている。

 どれもくたびれていて、古びている。廃品処理場から無理やり拾い集めてきたような生地。


 出来損ないのコラージュ。

 継ぎ接ぎのパッチワーク。


 どうして綺麗な布地一枚を使ってはいけないのだろう。

 どうしてこんなものを作らないといけないのだろう。


 この人形はわたしなのだと、彼は言った。


 だとすれば、わたしの頭はどこに行ったのだろうか。

 脚はどこに行ったのだろうか。


 皮を破れば白い中綿が出てくるのだろうか。

 糸で縫い合わせれば、また元の形に戻るのだろうか。


 何も分からなくて、厭わしくて、歪な形をした醜悪なそれが気持ち悪くて、今すぐ投げ出したかった。

 こんなものを完成させるなんて、気が触れてしまいそうだった。


 それでもわたしは針を通し、糸を返し、縫い続ける。

 白い繊維が撚り合わさった木綿を、ざらついた布地に押し込んでいく。砕かれたわたしの破片と一緒に。


 切り売りの個性。

 切り売りの人格。

 切り売りのわたし。


 報酬系が壊れたモルモットはボタンを押し続けるだけ。


 結局、物事は全てどう呼ぶかが重要なのだ。

 名前を与えた瞬間、形が規定されるのだ。


 彼がこれを人形と呼ぶのなら。

 人の形だと定義づけられる。


 ああ、まただ。

 息をするよりも早く、それ﹅﹅はわたしに到達した。


 針を持つ指が、形を捉える瞳が、身体を支える足が、割れ落ちていきそうだった。

 心臓の脈動が全身に響き、ぐらぐらと揺れていた。横隔膜の動揺に似た、一瞬の浮遊感が連続する。


 この人形を完成させたら、終わりだ。

 わたしの命運が尽きるときだ。


 彼から発信されたものは、わたしを砕くことなく内側に入り込んでくる。

 いや、それこそがもっとも危険を孕んでいるのだ。わたしはわたしを守る術を剥奪されてしまうから。


 彼に晒されたわたしはひどく無防備で。

 露光したフィルムのように。

 変質する。


 しかし、人を象るには必要不可欠なプロセスでもあることを、わたしは知っていた。

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