4話 is-ness
今日も食事を用意すると、テレビを見ていた先生が寄ってきた。俺が作ったハンバーグを、もぐもぐ食べ始める。
「先生、もしかして俺が来るとき以外ごはん食べてないんですか?」
前回来たときに用意したシチューの残りに一切手を付けた様子がない。
他に何かを食べている形跡もないし……。
「…………」
先生は何も答えない。無口な人だ。こちらを見ようとしないし、ひとつひとつの動作が小さい。
こちらを警戒して寄ってこないが、食べ物を置いて少し離れると恐る恐る食べ始める野良の動物のようだ。
何度かこの家を訪れて気づいたが、先生は一日中リビングで、同じ映画をループで見ているようだった。映画を見ているというより、何も見ていないと言った方が正確だろうが。
ただ、無音を嫌って。何か流れていないと物足りないから。
そんな雰囲気だ。
流れている映画だって、特別好きなものではなさそうである。
ひたすらそうして、身じろぎもせず一日を過ごす。
死んでいないだけ、といった有様。
俺が用意する食事も、出されたから食べる、というだけに見える。
まぁ、出されたものを食べるだけいいのかもしれない。
俺は、残り物のシチューを温め直すと、テーブルの反対側に置いて食べ始める。余らせたらもったいないからな。
ルーならではの風味が漂うクリームシチューの味。
大きめに切られたにんじんや肉、じゃがいも。
ふと視線を感じると思ったら、先生がちらちらと、こちらを気にしているらしかった。
向かいに座って食事を摂っている人間に、意識が向くようだ。
「先生、炭酸水が好きなんですか?」
箱買いされていたものが、部屋に置かれていた。ろくに何も口にしないが、炭酸水だけは飲んでいるようだし。
「味がしないの、嫌だから。炭酸水はしゅわしゅわするし」
それだけ言って、彼女はハンバーグを口の中に入れる作業に戻る。
この人は、どんなことを楽しいと感じて、どんなことに笑顔を見せるのだろう。
まさか趣味がないというわけでもあるまい。
「先生、買ってきてほしいものはありますか?」
この様子じゃ、欲しいものがあっても買いに行かなさそうだ。
「……ない」
相変わらずの、短い言葉だった。
食事を終えた後、俺は部屋の中のゴミをまとめて、ゴミ置き場に持っていく。
二十四時間ゴミ出し可なのは便利だった。
帰りに、郵便受けの確認もした。
そこには、封筒が隙間なくぎゅうぎゅうに押し込まれて、最早引き抜くだけで一苦労だった。
なんとか取り出したはがきを見ると、数年前の日付が印字されている。
ポスティングの有象無象チラシ、水道料金の検針票といったものはまだいい。
役所や銀行から届いた封筒には、「親展」「重要」「至急」という文字が躍っている。
これ、ほっといていいものなのか……?
さすがに確定申告は税理士が代行しているようだが、それ以外は大体放置されているようだ。
大事そうな郵便物は取っておくことにした。
もっとも、先生は一切興味を示さないだろうが。
* *
度々家に通うにつれ、先生は少しずつ話してくれるようになった。
「家に入るときは、手を洗ってね。あと、外のものは消毒して。外のものと中のものは一緒にしないで」
彼女の中には、独自のルールがあるようだった。それが、彼女を動かすもののひとつらしい。
いわゆるところの、潔癖症。
話を聞くと、彼女が「家の中」を大事にしていて、「外のもの」でかき乱されるのが嫌だという。
そして「外のもの」を「中のもの」にするために必要な工程が、消毒とのことだった。
「外のもの」は汚れていて、触れた瞬間その汚れが移ってしまうから。「外のもの」に触れた手で「中のもの」に触れると汚染が広がるから。
彼女が自分を
手荒れがひどくて絆創膏だらけの彼女の手は、「消毒」を繰り返した結果なのだろう。
「先生、ハンドクリームです」
俺は、缶タイプのハンドクリームを差し出した。
「手を洗う前に、クリームを塗るといいですよ」
「え?」
「必要な皮脂まで洗い流さないよう、クリームが肌を保護してくれるんです」
「…………」
先生は相変わらずにこりともしなかった。だが、クリームを受け取る。
「
彼女は自分の指先を見ながら、そう言う。
荒れに荒れている彼女の手は、指紋すら潰えてしまっている、ということなのだろう。
* *
その日先生の部屋に入ると、相変わらずエアコンの稼働音とテレビの音だけが聞こえてきた。
「ん?」
床に伏せった人影が見える。先生だ。
また倒れているのかとぎょっとするが、ただ眠っているようだ。
折角寝室にキングサイズのベッドがあるんだからそれを使えばいいものを、床に倒れ込むようにして寝ている。
当然枕も布団も無い。部屋に敷かれた絨毯の毛足が長いおかげで身体を痛めることはないにしても、それでもあんまりだろう。
俺は彼女の顔を見た。
血色すらない、透き通った白い肌。瞳を閉じていると、長い睫毛がよく分かる。手入れされていない黒髪が、くしゃくしゃになっていた。
薄くくちびるが開いていて、かすかに呼吸の音が聞こえる。
これまで見たことがないほど穏やかな表情だ。起きているときより、ずっと安らかなのかもしれない。
「…………」
いくら夏だからって、こんなに冷房を効かせている中で寝たら風邪を引いてしまう。
エアコンを「おやすみモード」にしてから、毛布でも掛けようと思ったが見当たらなかった。
仕方がないので、寝室から薄い布団を一枚持ってきて、先生の上に被せる。
料理の用意を始める。
今日は青椒肉絲だった。細く切った豚肉とピーマン、たけのこを炒めていく。
フライパンの火を消したところで、リビングの方からごそごそと微かに物音が聞こえた。
先生が目を覚ましたらしかった。
「……頭痛い」
「ベッドで寝た方がいいですよ。風邪引いちゃいますよ」
そう言うと、彼女は黙り込む。
先生の沈黙は今に始まったことではなかった。
何を言うべきか考えているというより、触れられることを拒んでいるようだった。
「……意味が、ないから」
「え?」
「どこで寝ようが、食べものを用意するのも、食べるのも、立ち上がるのも、全部」
意味がない?
寝心地がいいからベッドで寝る。おなかがすいたからごはんを食べる。それ以上の意味が要るのだろうか。
しかし、彼女には意味が必要らしかった。
「失望、したでしょ? 霧島一葉がこんなので」
失望?
そんな感情は微塵も存在していなかった。
どうして霧島一葉に失望する必要があるんだろう。
今この瞬間も彼女の作品は爛々と輝いている。
「だって、霧島一葉の作品とあなたは別物でしょう?」
「…………」
霧島一葉の作品は畏敬の対象で、燦々と世界を照らす太陽だ。
だけど、目の前にいる彼女は、ひとりの人間だった。
* *
一日の仕事を終わらせ、家に帰る。
先生があの調子なので、俺の仕事はほとんど閉店開業状態だった。
まぁ、今でも先生の作品のメディアミックスは活発に行われているし、過去作の新装版だのなんだの、やることはあるが。
無意識の内に、目が部屋の中の一点に向く。
本棚の、一番目立つところに置いてある一冊。
『パールグレー』。
先生の八作目で、デビュー三年目に発表された小説。俺はそれを手に取った。
相変わらず、ほれぼれするほど美しい装丁だ。
タイトルに違わぬ、くすんだ真珠色の表紙。
特殊な加工の紙を使っており、光に透かすと重層的な干渉色が生まれる。まさに真珠のような光沢だ。さらに、ガラスフレークがささやかな輝きを生み出す。
触り心地もよく、持つと手にしっくり馴染む。
ブックコートフィルムを貼るのが惜しくて、貼っていないくらいだ。まぁ保管用には貼ってあるが。
それを、また最初のページから読み返す。
一字一句覚えているとはいえ、紙上に並ぶ文章に目を通すだけで、未だに心躍る。
これは、人形を作ることしか取り柄がない主人公の話だ。
主人公は、大切な人のためにとっておきの人形を作ってプレゼントする。その人はいたく喜んでくれたが、そこで話が終わるわけではない。
深い思いの籠った人形の魔力ゆえか、大切な人は徐々に取り憑かれたようにその人形に耽溺していく。食事するときも、外出するときも人形と行動を共にし、主人公のことは視界に入らなくなる。
ラストシーンは、これまで作った人形たちを自ら壊す主人公の姿で締められる。
まぁあらすじはこんな感じで、至って普通のストーリーなのだが、特筆すべき点はそこにはない。
なんというか、読んでいるこちらを作品世界に引きずり込むほどの圧力を感じるのだ。
一度読んだら忘れられなくて、妙に胸に残って、気づいたら考えてしまって。
十五歳が書いたとは思えない悍ましい情景描写や、陰鬱とした人形の描写。作品全体に立ち込める沈んだ雰囲気は、ともすればホラー物だと思わせる。
先生の作品はどれも面白い。だが、それらとは一線を画す、妙に胸を穿つ重苦しい迫力。それに、俺はすっかり魅入られてしまった。
『パールグレー』はなかなか影の薄い作品で、霧島一葉の代表作として挙げる者なんて滅多にいないだろう。
今とは作風が異なるし、なんだったら霧島一葉の既存の小説のどれとも違う。唯一無二の作品だった。
だけど、俺はそれが先生の最高傑作だと確信しているのだ。
『パールグレー』は、『スリープレス』の直後に発表された作品だった。
作家と作品は別次元にあって、名作はどこまでも高次元にある。
しかし、霧島一葉の作品を生み出せるのは、彼女という人間しかいないのも事実だった。
俺は、『パールグレー』のページをめくった。
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