3話 Lopado...pterygon
先生にとって、自分の作品とはなんなのだろう。
書かされるだけの小説が、なぜあんなに傑作なのだろう。
俺はまた彼女の家を訪ねた。
編集長にもらった鍵で扉を開け、中に入る。
先生は、既視感すら覚えるほど微動だにしていなかった。
暗い部屋の隅で、膝を抱えてカーテン越しの空を見ている。
テレビは、古い洋画を映し出していた。これも、前回来たときと同じ作品だった。
……まさか、ずっと同じものをループしているわけではないだろうな。
二言三言話しかけても、反応がない。
確かにここにいるのに、ここにいないみたいだ。
どうしたものか俺が考えあぐねていると、彼女はふらり、と立ち上がって、こちらに背を向ける。別の部屋に移るつもりなのだろう。しかし、その身体が不意に傾いた。
「先生――」
咄嗟に腕を伸ばして支える。彼女は、まるで木の葉でもつかんだかのように軽かった。
「さわらないで!」
つんざくような声。それは俺が先生の担当編集者になってから、初めて聞いた彼女の声だった。
先生は咄嗟に飛びのき、その勢いのまま廊下に消えていった。
* *
俺はそれでもめげずに家を訪ねた。収穫はないに等しかったが。
その日も彼女の家を訪ねた俺は、思わずぎょっとした。
「先生!?」
その細く折れそうな身体が床に倒れていた。
慌てて駆け寄ると、うめき声が聞こえる。
「先生! どうしたんですか!」
顔を近づけて声を聞き取ろうと試みる。先生はやっとのことで六文字を絞り出した。
「お、おなか、す、いた……」
「…………」
俺は言葉を失った。唖然としたのだ。
まさか自分の家で飢え死にしそうになる人間がいるとは思わなかった。しかも金銭的事情ではなく。
ほとほと呆れ返りながらも、仕方ないので何か持って来ようと家の中を回る。キッチンはすぐに見つかった。
しかし食料は見つからなかった。
キッチンにはダンボールが散乱していた。それはカップラーメンや割り箸や炭酸水の箱のようで、割り箸はまだいくらかあったがカップラーメンは全て残らず尽きていた。
気になるのは、炊飯器や鍋が入っていると思われるダンボールが未開封のままで、端に追いやられるようにして置いてあった点だ。
よくよく見てみるとキッチンには食器類や調理器具がなかった。塩や砂糖等の基本的な調味料も、箸もコップもない。
本来のキッチンは別にあって、ここはゴミ溜めとして使われていると言われた方が納得できる有様だ。
辛うじてあるのは電気ポットと冷蔵庫のみ。だが冷蔵庫を開けてみると、上から下まで何も入ってない。それどころか、妙に暗い。コンセントにつながっていないのだということに気付くのに、いくらかの時間を要した。
「これは……」
人の住む場所なのだろうか?
これ以上ここにいても、食べ物は見つからないだろう。
念のため他の部屋をちらりと覗いてみても、ろくなものは置いていなかったし、使われた形跡すら乏しい場所ばかりだ。完全に部屋数の多さを持て余している。
ある部屋はゴミ袋が山積みのゴミ置き場と化しているし、またある部屋には何も置かれておらず、真っ新なままだった。どの部屋も俺の家より広いというのに。
普段彼女が生活しているであろうリビングは、散らかっているがまだ生活感があった。だがそれ以外の部屋の惨い有様と来たら。
とにかく、あんな食生活――こんな生活では、彼女はすぐ死んでしまうだろう。
俺は急いで最寄りのコンビニに向かい、おかゆを買って――ついでにその場でレンチンしてもらって――戻った。
「先生、食べ物持ってきましたよ」
「うう……」
話しかけても、声にならない声が漏れるだけだ。仕方ないので彼女を仰向けにさせ、片腕で上体を少し起こさせる。
「さ、さわらないで……」
「そんなこと言ってる場合ですか。食べさせたらすぐ離しますから。早く口開けてください」
「…………」
先生は観念したように、口をあーんと開ける。これ幸いにと、おかゆを匙で掬って食べさせた。
「むぐぐ……」
彼女は苦しそうに呻いているが、飲み込めてはいるようだ。全く……俺は一体何をしているのだろう。
「し、死ぬかと思った……吐きそう……」
しばらく様子を見ていると、回復したらしい先生が身体を起こす。回復したといっても、まだまだ注意しなければならない状態にあるだろうが。
「一体どうしたんですか? 倒れるほどの空腹って……」
「知らない……」
……この人は本当に大丈夫なのだろうか。こんなに危なっかしい存在見たことがない。頭に血が上った人間に刃物を持たせても、まだ先生よりは危なっかしくないだろう。
「おかゆ、何個か買ってきましたから。差し当たってはそれを食べてくださいよ。絶食状態が続いたときは、いきなり元の食生活に戻すと身体に負担が掛かりますから」
自然諭すような口調になってしまうが、無理からぬことだと思う。しかし、先生は黙り込む。
「…………」
「どうしたんですか?」
「そ、その……」
「はい」
彼女は一切俺と目を合わせようとしない。
「えっと、あ、ありが……」
それは、消え入りそうな声だった。
「……それより、また同じ轍を踏んだら大変ですから、食事には気を付けてくださいね」
「うん……」
恐る恐る首肯する先生。
「先生、もしかしていつもカップラーメンしか食べてないんですか?」
「そうだけど……別にいいでしょ」
「よくないですよ。大体飽きるでしょう、いつもカップラーメンなんて」
「…………」
また黙り込んでしまった。
「先生は何か食べたいもの、ないんですか?」
しばらく考え込んでから、彼女は口を開く。
「……オムライス」
「じゃあ作ってあげましょうか?」
「いいの?」
「はい、胃が本調子に戻ったら、ですが」
そう言うと、こくりと先生は頷いた。
* *
俺はまず調理器具を揃えた。じゃないと料理を作れないし。
コンセントにつないだ冷蔵庫に食材を詰め、ダンボールから鍋や炊飯器を取り出し、調味料を揃え、料理を作る環境を整えた。
その一連の行動に、先生は我関せずといった態度だった。
……いや、代金は出してもらったが。
あの異様なキッチンは、すっかり至って普通のキッチンに様変わりした。
散乱したダンボールは処分したし、溜まっていたほこりもなくなった。やっぱりキッチンとはかくあるべきだと思う。
ついでに、他の部屋にあったゴミも片付けて掃除した。
台車を使ったが、ゴミ捨てだけで何往復もすることになった。
そうこうしている内に、先生が倒れていた日から少し経ったので、料理を作る。そろそろボリュームがある料理を口にしてもいいだろう。
完成したのはデミグラスソースのオムライスだ。いい具合に卵をふわとろにできた。
早速ダイニングに運ぶと、先生が寄ってくる。
「食べて、いいの?」
「もちろん。先生のために作ったんですから」
「…………」
彼女は出来立てのオムライスをスプーンで口に運ぶ。そして、表情一つ変えずに咀嚼していく。
「どうですか?」
「……おいしい」
とてもそうには見えないが……。
しかし食べ進める手は止まっていないから、少なくともまずいわけではないだろう。彼女はあっという間に食べ切ってしまった。
「先生、明日は何が食べたいですか?」
「シチュー……」
「分かりました」
別にこれからずっと作るつもりはないが、とりあえず家庭料理の感覚を取り戻してもらうのだ。
先生に死なれでもしたら世界規模の損失だからな……。
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