2話 カタレプシー
十畳の生活空間――俺の家は、整頓されているというより単に物が少ない。
ダイニングとリビングを兼ねた空間。
部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台と、ソファベッド。パソコンラックにオフィスチェア。白物家電を除けば、家具はそれくらいだ。
だが、だからこそ壁の二方を埋め尽くす本棚の圧迫感はひとしおである。きちんと固定してはいるものの、地震が来たら総崩れになって俺は下敷きになることが予測できる。そのときはそのときだ。
本に押しつぶされて死ぬなんて、数ある死因の中じゃ上等だろう。特に、それが霧島一葉の作品ならなおさらだ。
本棚のおかげで若干手狭な部屋とはいえ、掃除の手間も省けるし一人暮らしにはぴったりだ。先生の家に比べるとどうしても見劣りしてしまうが。
まぁいい。あれに比肩し得る家の方が少ないだろう。
読みさしの本を置いて、部屋の片隅に置いてある鳥かごに近づく。
中にいるのは、一羽の小さな手乗り文鳥。およそ人では出せないような、何かを乾いたものを弾いたような短い鳴き声を出している。とてもちよちよと鳴いているようには聞こえない。
真っ白な身体に、朱が差した嘴。どこかぽてっとしたフォルムが愛らしい。
雛のときから面倒を見続けてきて、もう二年になる。
最初世話に苦労した甲斐があってかすっかり人に慣れ、手を出せばひょいと乗ってくるし、懐っこい。
いつものように手に乗せて、腹を撫でる。柔らかい。当の本人は行動の意味が理解できないのか、首をかしげているが。そして、きんきん鳴く。
いつまでもそうしていても仕方ないので、かごの中に戻した。そして、水を換える。
この白文鳥は豆苗の葉しか食べない。穀物やペレットには一切興味を示さないのだ。餌箱に入れても、まるで目に入っていないようだ。
心なしか嬉しそうに豆苗をつつく文鳥を見ながら、俺は一年半ほど前のことを思い出す。
* *
俺が先生の担当編集者になってから、少し経った。
しかし、未だに先生と言葉を交わすことすら叶わなかった。
俺は、手の中の合鍵を見る。
一人暮らしの女性の家に押しかけるのは気が引けるし、あまり使う機会はなかった。
かといって、メールや電話といった手段で連絡を取ろうとしても、一切反応がない。
昼時、オフィスで編集長が声をかけてきた。
「砂洲本さん、どうです、一緒にお昼でも」
「ああ、ぜひ」
編集長に連れられてやってきたのは、いかにも高級そうな中華料理店だった。通された席は個室、大きな丸いテーブルが中央に置かれている。
……肩が凝りそうだな。
円卓の上に、次々と料理が並べられていく。
誰もが知っている定番中華料理の皿から、名前が分からないものまで……これはふかひれか?
美味いのだろうが、味が大まかにしか分からない。それは編集長と二人きりという今の状況下のせいだというのは明白だ。
そもそも俺の舌は家庭料理を毎日おいしく食べられるようにデチューンされきった代物だから、こういう場を楽しめるようにはできていないんだよな……。
「調子はどうですか?」
北京ダッグを口に運びながら、編集長は急に問いかけてきた。
調子、とはもちろん先生とのことだろう。
「ああ、その……芳しいとは言えませんね」
「そうでしょう。これまで数々の編集者が玉砕してきました。私含めてね」
入社二年目の俺にお鉢が回ってくるほど、会社は打つ手をなくしているというわけだ。
「霧島一葉ほどの才能がこのまま潰えてしまうのは惜しいと思いませんか?」
編集長は、まっすぐ俺の目を見て言った。
「彼女は出版業界の希望です。このままでは、業界はまた斜陽へと向かってしまいますよ」
霧島一葉が新作を出さなくなって久しいが、未だにベストセラーランキングは彼女の作品で独占されている。
すごいと言えばすごいのだが、それは新たな神の不在を意味していた。
どんなヒット作でも、霧島一葉の過去作に売上で敵わないのだ。
巷では、新作が出るまで毎日一冊霧島一葉作品を買うという謎の願掛けが流行っていた。霧島一葉の作品だらけになった本棚の写真をSNSにアップロードすれば、「いいね」がたくさんもらえるのである。
「君には期待していますよ。コンスタントに小説を書かせてくれれば、なんだって構わないですから」
「はぁ……」
なんだって、とはどういうことだろう。
「どうして彼女が小説を書かなくなったのか、分かりますか?」
「い、いえ……どうしてですか?」
「私にも分かりません」
「え……」
「天才の考えることなんて、常人には測りかねますよ」
目の前の女性は、相変わらず顔色を一切変えずに話し続ける。
「凡人からしてみれば喉から手が出るほど欲しい才能を持ちながら、あれが嫌だこれが嫌だと言って、自らの尊い価値を毀損する。私もこの業界は長いので、そういった手合は何度も見てきました」
「は、はぁ……」
先生をそんな一般論に押し込められるのは、なんだか嫌な感じがした。並一通りな言葉で、彼女を片付けていいものか。
「霧島一葉は、父親に小説を書かされていた、というのは以前に話しましたね」
「はい」
先生に初めて会いに行く前に、軽く聞かされた。
霧島一葉の父は小説家志望だったが、生憎夢破れてしまった。そして、自分の娘に夢を託したのだと。
「彼女、父子家庭だったんです。幼い頃に母親は、夫に愛想を尽かして出ていったそうで。そこで娘は、作家になるための苛烈な教育を施され始めた」
「それは……なんというか」
スパルタ、と言えば聞こえはいいが。
聞こえの悪い呼び方も、いくらでもあった。
「父の要望通りに、霧島一葉は小説家としてデビューを果たしました。ですが、いざ作家になっても
「そういえば、そんな時期もありましたね」
出す作品全てが著名な賞を獲得していた頃が。
「霧島一葉が中学三年生のとき、『スリープレス』を発表し、国内で一番と言っても過言ではない賞を得ました」
「ああ、芥川賞と直木賞を同時受賞した年ですね」
前代未聞で、異例中の異例の事態だった。芥川賞と直木賞は、どちらかを受賞したら、もう片方は受賞できなくなるのだ。
そもそも、芥川賞は純文学、直木賞はエンタメ作品と、路線が全く異なる。
だけど、その年はどちらの審査員も、満場一致で霧島一葉とその作品の名前を挙げた。
他の候補なんて考えられないと、誰もが口を揃えた。
至高の純文学かつエンタメ作品。そんな不可能にも等しい作品を作り上げたのだ。
結果として、歴史上初めてで、恐らく今後二度とない同時受賞が実現した。
「もちろん、それも父に言われたからだそうです。芥川賞と直木賞の両方を取れと。前人未到の両受賞の知らせを受けた日、彼女の父は自殺しました」
「え……?」
俺は耳を疑った。
自殺?
なんだ? それは。
「居間のど真ん中で首を吊って……もちろん第一発見者は彼の娘でした」
彼の娘――先生。
「しかし、然るべき機関に通報したのは――私でした。霧島一葉は、宙ぶらりんになった父親の前に何日も座り込んで、一切動かずにいたんですから。連絡が取れないことを不審に思った私が、彼女の家に向かい、そこで事態が発覚したというわけです」
編集長は淀みなく話してから、ジャスミン茶を一口飲んだ。
「『どうしてすぐに通報しなかったのか』――私がそう尋ねたら、彼女、何と答えたと思いますか? 『どうすればいいか分からなかったから』ですよ」
「…………」
もしかして、先生の父は、彼女が成功しないことを願っていたのだろうか。
自分の夢を押し付けて、そして自分と同じように夢破れることを期待していたのだろうか。
最初は、純粋に夢を託そうとしていたのかもしれない。
しかし霧島一葉の道のりがあまりにも順調すぎて、徐々に彼女が躓くことを期待するようになったのかもしれない。
だから、「賞を取れ」と言うようになった。
ふつう、賞なんて狙ってもそうそう取れないものである。
少なくとも一回では難しいし、何年も掛かってもおかしくない。
だけど、霧島一葉はそれを実現させる特異な存在だった。
狙った賞を狙った通りに取れる。そんなふうに、小説を書ける。
化物としか言いようがない才能。
芥川賞と直木賞を同時受賞なんて、ほとんど不可能なことすらも、成し遂げてしまった。
だから彼は、霧島一葉の父は、もう首を吊るしかなかった。
「…………」
俺は、彼女の父を絶対に肯定したくない、と思った。
娘をなんだと思ってるんだ?
しかも、確実に娘が第一発見者になるような方法を選んで、縊死したのだ。
そんなの、当てつけじゃないか。
彼の人生とは、一体何のためにあったのだろう。
そんなことをするためにあったのだろうか。
「父の死後、霧島一葉は一作品だけ仕上げて、小説家をやめようとしました。ですが当然、彼女の才能を手放すのはあまりにも惜しい。私や編集部の強い要望のもと、霧島一葉は再び小説を書き始めました」
そんなことがあったなんて、ファンからしてみれば寝耳に水だ。
取り立てて新作の発表が途絶えたなんてことはなかったし。
しかし言われてみれば、その辺りから先生の作風はがらりと変わった。
純文学志向から、エンタメ路線になったのだ。その方が商業的に広がりがあるからという、編集部のリクエストだろう。
「霧島一葉が高校生の頃、彼女の母が急に接触してきました。元夫の葬式すらろくに連絡を取らなかったというのに、霧島一葉が長いことベストセラーランキングのトップにいるのを見て、娘への愛を思い出したようです」
編集長は相変わらず継ぎ目なく話す。
「娘への愛や美辞麗句を語りつつも、当の本人について何も覚えていなかったことがとどめになって、霧島一葉は母親に会うのを避けるようになりました。色々あって警察沙汰になり、今は接触禁止になっています。今度現れたらいよいよ塀の中に入れられるでしょうね」
「は、はぁ……」
「彼女は、たびたび小説の執筆をやめようとしました。そのたびに手を変え品を変え彼女に小説を書かせてきましたが、とうとう二年前に完全に筆を断ってしまいました。こちらが何をしようが、『絶対に小説を書かない』の一点張りで」
それはなんというか、「遅かれ早かれ」といった感じだった。
そもそも初期の文学志向も、父親がそう望んだから書いていたというだけだろうし。
彼女にとって小説とは書かされるものでしかなく、それ以上の意味はない。
そして今の彼女は、小説を書く意味を失くしているのだ。
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