2章 ふたりの作家
1話 邂逅
それは彼女に根こそぎ剥奪されるまでの、物語。
* *
箱根旅行の翌日。俺は、さゆるちゃんの家に来ていた。
住所は、先生に訊いたらすぐに分かった。
箱辺家は、都内にある小さな純日本家屋だった。さゆるちゃんの母が応対してくれて、縁側に面した部屋――客間らしい――に通される。
さすがにあの一件を穏便に済ませることはできない。俺は先日の一件と、ついでに先生の家に押しかけてきた件を含めて、説明する。
既にさゆるちゃんの口からある程度のことは聞かされていたらしいが、虚実入り混じる自己弁護の乱立で、実際にあったことを聞くのはこれが初めてのようだった。
「あの子、最近急に霧島一葉の作品にハマり出したと思ったら、あんなふうになっちゃって……そこまでご迷惑をかけていたなんて……」
さゆるちゃんの母は、しくしく泣いていた。
そりゃ、娘があんなのだったら日頃の苦労も偲ばれる。俺までいたたまれなくなってきた。
「ごめんなさいね、あの子ったら部屋に閉じこもっちゃって、お詫びのひとつも言わないなんて」
むしろ顔を合わせたらめんどくさそうなので、俺としてはその方が助かる。
「さゆるも反省してて、SNS全部やめましたから。もうストーカー行為もしないよう、きつくお灸を据えましたし。次やったら警察を呼んでください」
四十代程度の少しふくよかな女性は、こちらが申し訳なくなるほど頭を下げ続けていた。
「ええ、次何かあったら、恐縮ですが警察を呼びます」
「はい……」
こればっかりは容赦できない。
「あの子、高校までは陸上やってて……」
ハンカチで目元を拭いながら、さゆるちゃんの母は話し始める。
「それなりに大会で結果を残してたんですけど、脚の怪我で続けられなくなって……。それからは、何事にも興味を持てないみたいで……」
へえ、彼女にはそんな時期があったのか。
「でも、ある日霧島一葉の本を読んでから、すっかり夢中になっちゃって。それからは、ずっとあんなふうなのよ」
先生の本を読んだら、彼女のファンにならざるを得ないのは至極当然だったが。悪質ストーカーになるのは困る。
「ところで一昨日、帰りの運賃がないとかで、さゆるちゃんに交通費を貸したんですが……そのことについて本人は何か言ってました?」
「いえ、特に何も……」
「…………」
もしかして、踏み倒す気じゃ……。
「い、いくらあの子でも、返さないわけないと思います」
「そうですよね……」
「…………」
「…………」
嫌な沈黙が訪れる。
「借りたお金を踏み倒そうとするなんて……育て方を間違えたわ……うう……」
さゆるちゃんの母は泣き崩れた。
俺は、何も言えなかった。
* *
箱根で貸した分は、さゆるちゃんの母が迅速に耳まで揃えてくれた。
「本当にすみません……」
「いえいえ……」
今度会うときに先生に渡しておこう。
「でも、――ちゃんが元気になったみたいで良かったわ」
箱辺さゆるの母は、先生の本名を口にした。
「――ちゃん、一時期この家で暮らしてたのよ。もう十年も前になるけど。えっと……あんなことがあった後に。でも、中学を卒業したらすぐに出て行って、それからずっと連絡も取れなくて……心配してたの」
そうか、先生は一時期ここで暮らしていたのか。さゆるちゃんは当時六歳くらいだろう。そのときの記憶なんてさぞ薄ぼんやりしたものだろうな。
「霧島一葉」は、当然ペンネームだ。先生の本名ではない。もっとも、彼女を本名で呼ぶ人間なんて滅多にいなかった。
* *
用を終え、旅行中に溜まっていた急ぎの仕事をいくらか片付けた後は、自宅に戻る。
今日は休日だった。当然、先生の家も訪ねない。
あれだけ口をすっぱくしたのだ、さゆるちゃんに関してはもう大丈夫、だと信じたい。
ふと、箱根旅行で撮ったばかりの写真に目を向ける。
そこには俺の担当作家のすらりとした姿が写っていた。
……やっぱり、気疲れする。
普通恋人に敬語なんて使ったりしないし、「先生」なんて呼んだりもしない。
――さっきの話、本当だったらどうする?
昨日、別れ際の先生の言葉を思い出す。
さっきの話、か。
それはもちろん、ゴーストライターの話のことだろう。
先生が本当にあの作品群を書き上げたのか――書き上げられたのか疑問に思ったことがないとは言わないが。
いくら疑問に思ったところで、その答えは結局才能の有無に集約されるのだろうけど。
「……どうするって言われても」
どうもしない、としか答えられない。
だけど、俺が足しげく先生の家に通う意味は、全て消失する。
それだけのことだ。
* *
およそ一年半前。
あの日、俺は編集長と共にあのタワーマンションを訪れていた。
茹だるような暑さの中、今はもう通い慣れた道を先導されるがままに歩く。
豪邸が並ぶ都内某所の高級住宅街。
通りに止まっている、名前は分からないが恐らく文字通り桁違いの値段であろう白い外車を見ながら、俺は足を速める。
今でも、この圧力にも似た高級感――そして自分の場違い感に慣れることはない。根が貧乏性なのだろう。悲しい話だが。
一際目立つ、見上げるとくらくらしそうなほど高いタワーマンションに、急いで入る。
「そんなに気負うことはないでしょう」
編集長はそう声を掛けて来る。
いかにもキャリアウーマン然とした、知命を前にした女性で、長い黒髪を後ろで一つに縛っている。
霧島一葉をデビュー当時からサポートし続けた、成功の陰の立役者で、編集長というポストに就いたのも、霧島一葉という功績が大きく関わっているという噂だった。
俺は正直彼女が苦手だった。いつも無表情で、他人を寄せ付けない冷たさを振り撒いている。上司ということも相まって、会う度に背中に嫌な汗が流れるものだ。
「これが鍵です。これからはあなたに預けますよ」
編集長はエントランスを通った後、手に持っていた鍵を俺に渡した。
一応丁重に受け取っておくが、もらっていいのだろうか、こんなの。今日から担当編集者になるんだから、通い詰めることにはなるかもしれないが……。
そんなことを考えつつ、ただ編集長の後に続く。
彼女は迷いなくエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。
やっぱり売れっ子なだけあって先生はお金持ちなんだと、俺はのんきに思った。
今から初めて憧れの先生に会う。緊張しないわけない。
そもそも、編集者が作家に会おうと思えば、担当じゃなくても会うことは不可能ではなかっただろう。作家が集まる場などいくらでもあるのだ。
しかし、その全てに彼女は現れなかった。
「失礼します」
俺に鍵を開けさせると、編集長は丁寧な言葉とは裏腹に、ノックもせずにずかずかと部屋の中に踏み入っていく。
霧島一葉は、もう二年も新作を出していなかった。あの超人気シリーズ『ディソーダー』も『ペーシェント』すらも、ずっと続刊が止まっている。
先生は決して筆の遅い方ではなく、むしろ何種類ものシリーズを並行して捌き切るくらいには速筆家だったというのに。当然ファンの落胆は大きく、続編を求める声が絶えない。
しかし霧島一葉引退説が囁かれ始めているのも事実だった。
先生の新作が当然のように発表され続けていた頃が、どれだけ恵まれていたか。それに気づいてから、もう二年が経つ。
日々は精彩を欠き、全てが色褪せて、味気なく時間だけが過ぎていく。
感情はただ平坦になり、感動をなくし、何に対しても心が動かされない。
この先一生彼女の新作が読めないなんて、想像すらしたくなかった。
先生はまだ二十四歳なのだ。作家人生の終わりを迎えるには早すぎる。
まだまだ多くの作品を仕上げられる。一体どれほど珠玉の作品が生まれ得る可能性を秘めているというのか。
その全ての可能性を潰えさせてしまうのはあまりにも惜しい。
世界規模の損失だった。
廊下の先には、リビングルームと思しき部屋があった。
分厚い遮光カーテンで窓は覆われていたし、電気も点けていない。だから真昼とは思えないほど部屋の中は薄暗い。
エアコンの稼働音が低く響いていた。炎天下の外気と隔絶された冷気が、部屋中を満たしている。
百インチはあろうかというテレビから発せられる光と音が、その部屋を動かしていた。そこには古い映画が映し出されていた。
人の気配がしない。埃っぽい空気が淀んでいる。何年も放置された人家のような錯覚。
だが、そこに霧島一葉はいた。
床に座り込んで膝を抱え、 窓にもたれかかって、カーテンで覆われた空に目を向けていた。
長く伸びた黒髪は目まで覆い隠し、美しいと言うにはあまりに痛んでいた。手足は痩せ細り、両手は絆創膏だらけになっている。
だが、構わずに編集長は言葉を続ける。
「霧島先生、 彼が今日からあなたの担当になります」
先生は一切反応しなかった。
視線は窓の外というより、虚ろに向けられている。
ただ、点けっぱなしのテレビから、役者たちの他愛もない会話と笑い声が聞こえてきた。
「――――」
俺は、先生の名を呼んだ。
彼女と目が合った。
そのときになってようやく、俺は顔をはっきりと見た。
壊れ物のように精巧で、綺麗な造形。吸い込まれそうになるほど澄んだ瞳。曇りない白い肌。
不摂生等、余計な要素が邪魔をしてはいたものの、それでも滲み出る生来の美しさがあった。
「……先生」
* *
……妙なことを思い出した。
俺が担当編集者になったばかりの頃の、先生の姿だ。
全く、あんなことを言うから……。
気を取り直して、折角の休日を満喫しよう。
休みというのはいい。開放的な気分になる。一日小説でも読んで過ごそう。
編集者たるもの、街に繰り出すべきなのだろうが、たまにはいいだろう。友人からシーバス釣りに誘われていたけどそれも断ったしな。
積読本は溜まっていたが、それでも、やっぱり手に取ってしまうのは霧島一葉の本だった。
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