10話 帰路


 大騒ぎだった箱根旅行は、ようやく終わりを迎えた。


 警察沙汰になったため、さすがに編集部が迎えの車をよこしてくれた。まさかこのまま公共交通機関で帰るわけにもいかないし。


 スモークフィルムが貼られた白い小型セダン。無口な運転手は、車を東京まで走らせる。


 後部座席で、俺は窓の外を流れていく景色をぼんやりと見る。

 すっかり日が落ちて、暗闇の中に街灯や遠くの建物の光だけが浮かんでいた。


 なんとも慌ただしい旅行だった。リラックスなんて期待できるはずもない。

 結局箱根を舞台にした作品をボツにせざるを得ないのも口惜しいし……。


 横に座る先生は、ひざの上にノートパソコンを乗せて、絶え間なく何かを打ち込んでいる。


「先生、何を書いてるんですか?」

「新作だよ。今回の旅行で、新たな着想が得られたからな」

「え、本当ですか!」


「ああ、気が狂ったファンの異常心理についてな」

「…………」


「まず参考に君の話を聞きたいな。その異常心理のルーツはどこだ?」

「お、俺はまともなファンですよ」

 あんな刃物を振り回すような連中と、一緒にしないでほしい。


「……どうだか」

 先生はそっぽを向くと、またタイピングに戻る。彼女とは一度ひざを突き合わせて話す必要がありそうだ。


 何にせよ、また先生の新たな作品が読めるのなら重畳だ。


「作品は上手く仕上がりそうですか?」

「いつも通りつつがなく、だよ」


 確かに執筆する指が全く止まっていない。思案することもない。規則的にもほどがある、メトロノームのようなタイプ音。


 本人曰く、彼女の執筆速度は一時間にきっかり決まって三千二百文字なのだという。意図せずとも、自然とそうなってしまうのだとか。


 それはまたすごい話で、狙ってやっても難しいだろう。それだけテンポが一定ということだが。でたらめにキーボードを打っているというよりは、機械か何かだった。


 小説を書く際、彼女の頭の中では一体何が組み上がっているのだろう。

 頭の中を覗いてみたくなる。それはもう深淵を覗くような、一度見たら後戻りできない底なし沼なんだろうな……。


「砂洲本くん」

 作業の手を一切止めないまま、そう言う先生。


「なんですか?」

「君は、今回の旅行どうだった?」

 どう、って言われてもなぁ。


「ストーカーは置いておくにしても、まぁまぁ楽しかったですよ。ご飯もおいしかったですし、いい気分転換になりました」

「そうか」


 短く言葉を発して、彼女はエンターキーを押した。それにつられて、うっかり画面の方に視線を遣ってしまう。


 全画面でWordが表示されており――そう彼女はWordを使っているのだ――縦書きの文章が並んでいる。生憎一瞬過ぎて内容は読み取れなかった。


「でも、先生がそんなこと気にするなんて珍しいですね」

「だって君、前回の旅行ではひどく苦虫を噛み潰したような表情をしていたじゃないか。帰って来てからしばらく音信不通だったし」


「しばらくって……たった四日でしょう」

「三十四万五千六百もの時間を、たったと言うかね」

「単位は秒じゃないですか」

 まるで詐欺の手口だ。


「正直腹に据えかねるところはありましたけど……もう気にしてませんよ。だからこうして誘ったんだし」


「ふうん……」

 先生はそれきり何も言わず、またパソコンに目を向けた。


 俺の答えが好ましくなかったのかもしれないし、単に興味がなかっただけかもしれない。よく分からない人だ。


 あまり見ても邪魔になるかなと思って、俺は携帯電話に目を落とす。今回の騒動の、ネット上の動向を追いたかった。


 逮捕者が出たので、ファンの間で自浄作用が生じ、大部分は箱根から去ったようだ。

 騒動を起こしたことに関しては、みんな霧島一葉が大好きなので、一部のファンに非難が向かっただけだった。むしろ先生には同情の声が向けられている。


 糾村の悪評はファンの間で轟いており、ネットでは「捕まったの糾村じゃね?」「マジでやりやがった」「とうとう逮捕されたか」「もうシャバに出てくんな」といった反応だった。


 今回あれほど多くのファンが箱根に集ったため、一部ではアンダーカバー・マーケティングの一種ではないかと邪推されていた。

 次似たようなことがあっても、今回ほどファンが躍らされることはないだろう。


「せんせ――」

 不意に声を掛けるが、返事はない。先生は眠っていた。

 窓にもたれかかって、微かに寝息を立てている。


 こうして見ると、病的なほどに肌が白い。ともすれば保存状態のいい死体と見間違えかねないほどに。こういう人が早すぎた埋葬の対象になるんだろう。


 ……まぁ、不健康そうな生活、送ってるもんな。

 でも、ここまで白くなるものなのか。


 生まれてから一度も日に当たらず、何も口にせずにいた人間がようやく辿り着くような、そんな色素の薄さ。

 だけど、決して青ざめているわけではない。ただ、どこまでも白いだけなのだ。


 しかし横で寝られると、起こしてしまわないかと気になってしまう。なんとかならないものか……。




 * *




 車に揺られながら電子書籍を読んでいると、

「……今、どこ?」

 目を覚ました先生が力なく訊いてくる。


「町田を通り過ぎたところです」

「そうか……」

 また頭痛がするのか、頭を押さえている。


「はぁ、全く嫌になるよ」

「仕方ないですよ。昨日、遅くまで小説を書いていたんですから」

「……小説、ね」

 先生はどこか自嘲気味に笑った。


「砂洲本くんは私の著書が何冊か、知っているだろう?」

「五十二冊、ですね」

 昨日もこんなことを答えさせられたなと思いつつも、口に出す。


 十三年間で五十二冊。単純計算で一年に四冊のペースだ。

 それだけでは多いとも少ないとも言えないが、わりと筆を折っていた時期があるだけに、かなりの速筆家と言えるだろう。


「その五十二冊全て、ゴーストによるものだと言ったら、君は驚くか?」

「……まさか」


 ゴースト。

 ゴーストライター。


 霧島一葉の作品が?

 そんなの、ありえないだろう。

 現に、俺は彼女の執筆作業を間近で見ているわけだし。


「そりゃ書けるよ、ある程度は。でも、そんなのフェイクにしかならない。執筆中、君に画面を覗かれたくなかったのは、ボロが出るのを恐れてだ」

「え、でも――」


「霧島一葉というのは、複数の作家が共同で使っているペンネームだ。よくあるだろう? そういうの。まぁ、複数の作家といっても、総勢百名以上にも及ぶ大所帯だがな」

 一切の淀みなく、先生は言葉を続ける。


「霧島一葉がヒットメーカーたる由縁は、その大所帯――大勢のライターの作品の中から『傑作』だけを選び取って著作にしているから、それに尽きる」

「なぜそんなことを……」


「マーケティングの一種だよ。『天才』が作者という情報は、作品の価値を何倍にも高める。世の中、内容より誰が書くかの方が重要だからな。私は若くて、しかも女だから。霧島一葉の看板――あるいは生贄として選ばれたんだ」


「…………」

 俺はただ、あんぐりと口を開けることしか出来なかった。


 一体今何を聞かされているんだ? あまりにも斜め上の話で、理解が追い付かない。

 先生が、まさか、そんな――


「……冗談だよ」

 彼女は人差し指を唇に当てながら――俗に言う内緒話のポーズだ――悪戯っぽく笑ってみせる。


 その仕草は悔しいことにかなり、いや相当様になっていた。もし仮に人を殺したとしても、その表情を浮かべるだけで許されかねないほどに。ダメだ、絆されてどうする。


「なんでそんな嘘を……」

「砂洲本くんの驚く顔が見てみたかったんだ」


 だったらその目的は、さぞ十二分に果たされたことだろう。

 いや、考えてみれば突っ込みどころ満載だったんだ。


 総勢百人以上? そんなの、必ずいつかどこかから秘密が漏れるはずだ。なのに、担当編集者にすら隠し続けるなんて無理な話でしかない。意味もない。


 それに、先生を看板に使うのならもっと表舞台に出させるだろう。若き天才美人作家なんて、いかにも売れそうじゃないか。

 第一、そんな事実が裏にあったら、そもそも俺は――。


 もう突っ込みどころしかない。

 だけどあまりにももっともらしく話すから……。

 作家と嘘つきは、まさに紙一重だった。


 そんな話をしている内に車が目的地に着いた。

「行こうか」

 先生はそう言った。




 * *




 先生の家の前で俺たちを下ろした車は、すぐに走り去っていった。


 外はすっかり暗くなって、いい時間になっていた。移動で心底疲れ果てた。さっさと家に帰って寝たい。


 先生の部屋に入り、俺は持っていた赤いトランクケースから手を離す。

「では俺はこれで。今日はありがとうございました」


「もう遅いし、泊まっていったらどうだ?」

「今日は疲れたので、遠慮しておきますよ」

「そうかい」


 彼女はそのまま洗面所に向かって行った。いや、行き先は浴室の方かもしれない。ジャグジー付きの広々とした立派なバスルームがあるからな……。


 そんな取り留めもないことを考えながら、玄関のドアノブを握ろうとすると、後ろから声を掛けられる。


「砂洲本くん」

 先生はただこちらに背を向けたまま、言葉を続けた。


「さっきの話、本当だったらどうする?」

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