9話 ゆれるブリンソンノット


「ま、そんなわけねえか」

 糾村はひとりで結論を出す。


「面は悪くねえからもしかしてと思ったが……霧島一葉がこんな無個性な野郎と歩いてるわけねえよな」


 鎌かけ……二十五歳前後の女性に手当たり次第声を掛けているのか?

 なんてはた迷惑な……。


 しかし、バレたわけではなくて胸を撫で下ろす。

 こんな危険な男に先生の顔が知られてしまったら、一巻の終わりだ。


 さゆるちゃんを上回る悪質ストーカーが誕生し、最悪刃傷沙汰に発展しかねない。

 先生の作家生命も生命自体も脅かされる。


「あんな頭の軽いガキが霧島一葉の情報をいち早く掴むなんて許せねえ……早く見つけねえと」

 糾村は、ぎりぎりと歯ぎしりをしている。


「俺が霧島一葉を一番よく知っている。絶対にそれを証明してみせる。あれは俺の物だからな」


 「俺の物」という鳥肌ワードに、先生は一層眉をひそめる。

 彼が、霧島一葉とその交際関係にある男が目の前にいると知ったら、発狂しそうだ。


「霧島一葉が箱根にいるってSNSの話ですよね? その投稿は俺も見ましたけど……嘘かもしれないじゃないですか。似たような噂はこれが初めてってわけでもないですし」


「本当だったらどうするんだ? 他の人間に先んじて霧島一葉の正体を暴かれるわけには行かねえ。にわかどもに偉そうな真似されるわけにはな」


 信憑性がなくても、真実である可能性を完全に否定しきれない以上、それに乗るしかないのか……。


「お前ら、霧島一葉のことが好きか?」

「ええ、まぁ……」

 世界中の何よりも、彼女の作品が好きだ。


「大昔にイベント限定で配布された霧島一葉の短編『メランコリー』の小冊子、持ってないだろ? オークションサイトで十万もの値がついてたけど、俺は落札したぜ」


 どうやら糾村は、ファンとしてマウントを取って鬱憤を晴らす方向にシフトしたらしい。

 口には出さないものの、俺は普通に『メランコリー』をイベントで入手したが……。


「霧島一葉の歴代作品全部の初版も持ってないだろ? 十三年前から霧島一葉を愛してないとできないからな。当然古本なんてのは無しで、だ」


 もちろん俺の家の本棚には揃っている。保管用と読書用の二セットが。丁寧にブックコートフィルムを貼って、綺麗に保存している。


「『ペーシェント』の百冊限定のサイン本も、『ディソーダー』に出てくる『微睡みの笛』を完全に再現した限定レア物グッズも、当選倍率千倍のファンイベントのリーフレットも、デビュー十周年を記念した限定販売シリアルナンバー入り懐中時計も持ってねえだろ?」

 当然全部持っている。


 突っ込みどころが盛りだくさんだ。そもそも、偶然出くわしただけの俺たちにそんな自慢を始める時点で、相当脳が膿んでいるが。


「……それで何が測れるというんだ?」

 先生の呆れた声。


「初版全部持っていたって、百冊しかないサイン本を持っていたってそれで霧島一葉を知ることにつながるのか? 金銭をいくら費やそうが、霧島一葉なる人物を知った証明にはならない。事実、何も知らないように」


 目の前にいる人間が霧島一葉かどうかすら分からないのに。

 先生の言葉にはそんな含みがあった。


「君は、他のファンに自らの優位性を誇示し、霧島一葉の威を借ろうとしているだけだ。君自身は何も偉くないのに、あたかも霧島一葉が受ける称賛の一部が自分にも向けられていると勘違いしているだけだ」


 至上の大作家は、冷淡に自分のファンを見た。

「だが君は霧島一葉を何も知らない。霧島一葉が君のことを何も知らないのと同じように。君と霧島一葉の間には何のつながりもない」


 一気に怒気に満ちる糾村。

「お前に霧島一葉の何が分かる!」

 他ならぬ本人なんだが。


 彼は、鞄からサバイバルナイフを取り出した。


「え――」

 なんでそんなものを持ってるんだ? 一体何をするつもりで――


「お前如きが霧島一葉を語るな! 霧島一葉を語っていいのは俺だけなんだよ!」

 彼はナイフを持った手を大きく振りかぶった。


 前頭葉が焼き切れているのか? でないとこの自制心のなさは説明できない。


 まずい。先生に傷のひとつでもつけさせるわけにはいかない。彼女は体力がないから、易々と逃げるのも難しい。


 俺は先生と糾村の間に割って入ると、

「逃げてください!」

 彼の顔に旅行鞄を投げつけた。


 重たい鞄はしたたかに顔面に直撃したが、大したダメージにはならない。精々少しの間動きを止めるだけだ。

 だが俺はその隙に糾村に接近し、みぞおちを強く突いた。


「ぐ――」

 呻くストーカー男。痛みに耐えながら辛うじて刃物を振り回すが、そんな攻撃、当たらない。


 ナイフが描くたわんだ曲線をすんでのところでかわし、彼の無防備になった右ひじの内側を激しく打つ。

 衝撃で手が緩み、武器を取り落としたところを見逃さず、奪い取る。


 編集者たるもの、これくらいのことはできなければならない。


 サバイバルナイフは、ずしりとした重みがあった。太陽光を反射して、刃が鈍く光る。

 こんな危ない代物にはさっさと退場してもらわないといけない。


 近くにあった木の幹に突き刺して、思い切りねじる。

 ナイフは、「ねじる」という動きに非常に弱い。これで壊れるか、使い物にならなくなるだろう。木に傷をつけるのは申し訳ないが、非常事態なので勘弁してもらおう。


「さ、砂洲本くん、大丈夫!?」

 逃げるよう言ったのに、先生は少し離れたところに移動しただけだった。本当にこの人は……。


「少し切られているじゃないか」

 見ると、先ほどの攻防でジャケットの左肩部分がすっぱりと切れていた。少しかすっただけだが、相当の切れ味だ。


「これくらい大丈夫ですよ。それより……」

 問題は暴漢だ。


 みぞおちとひじに攻撃を食らい、苦しみながらも糾村は体勢を立て直そうとしている。

「ぐ……この野郎」


 彼は懐から三つ撚りのロープを取り出した。


「――――」

 先生が息を呑んだ。


「な、なんでそんなもの……」

 俺の問いに、

「霧島一葉を捕まえるために決まってるだろ!」

 ダメだ、イカれているとしか思えない。


「こうなったらその女だけでも――」

 俺を相手取るのは無理だと悟ったのか、糾村は先生の方へと向かって行った。とことん不甲斐ない奴だ。


 ナイフを無効化した今、さっさと逃げて人通りの多いところに向かいたいが、先生は完全に固まってしまっている。

 こうなったら仕方ない。


 俺は地を蹴って一気に糾村との距離を詰めると、組み付いて羽交い締めにする。彼はもがくが、振り解かれる程度の力はなかった。武器がなければ、こんな男、敵にもならない。


 思い切り急所を蹴り上げて崩れ落ちさせたところで、すぐさまロープを奪うと、彼の手足を縛る。


「は、離せ! こんなことしてただで済むと思ってるのか! 警察を呼ぶぞ!」

 こっちの台詞にも程がある。


 俺は糾村の靴下を脱がせると、なおもうるさく騒ぐその口に押し込む。しばらくこれで黙っていてもらおう。


 110番通報してから、地べたに座り込んでいる先生のもとに駆け寄った。


「だ、大丈夫ですか!?」

「――――」


 その肩に手を置くが、反応は何もない。瞬きもせずに、動かない。


 彼女は、中身がどこかに消えてしまったとでも言いたげに、空っぽになっていた。

 全身に力はなく、瞳は虚ろだ。


「――――」

 俺は彼女の名前を呼んだ。何度も何度も。


 やがて、あくがる魂が戻ってきたかのように、先生ははっと我に返った。

 何も言わずに、ぎゅっと俺の胸に顔を埋めて来る。


 その細い身体から、小刻みに揺れが伝わってくる。

 震えている……?


「…………」

 俺は、彼女の背に腕を回した。


「大丈夫ですよ、危険な奴はもうなんとかしましたから」




 * *




 その後、糾村は警察に連行されていった。銃刀法違反に傷害未遂――他にも余罪は色々出てくるだろう。


 俺たちに事情聴取していた警官が、ため息をつく。


「同じ霧島一葉のファンとして、こういう蛮行は許せないですよ」

 この警官も先生のファンだったのか……。


 軽い事情聴取こそ受けたが、すぐに解放された。俺たちは単なる旅行客ということで口裏を合わせたため、先生の正体がバレることもなかった。「霧島一葉」を名乗らなければいいだけなので、簡単な話だった。


 にしても、あんな凶行を犯すなんて……。

 霧島一葉に余計な風評が立たなければいいのだが。


――俺が霧島一葉を一番よく知っている。


 糾村の言葉が、頭によぎる。


 つくづくバカらしい話だった。

 そもそも、先生の作品を一番理解しているのは俺なのだから。

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