8話 淡海
観光スポット三つ目、芦ノ湖。
箱根駅伝で有名だろうか。観光の要衝でもあり、様々な名所がある。山に囲まれた雄大な湖は、見ているだけで晴れ晴れとした気分になる。
いくらか歩くと、港に止まっている船が見えてくる。
「へえ……すごいデザイン」
先生が感嘆の声を漏らす。
それは一般的に船と言われてすぐに思いつくような、白く曲線的な船ではなかった。青と金色の派手なカラーリング、船体の側面には四角い窓が並び、デッキには大きなマストが三本も付いている。
言うまでもない。海賊船だった。
早速船に乗り込む。デッキでは、間近で見るとマストが凄まじく高い。
時間を調節したおかげで、出航の時間にはぴったり間に合った。晴天の下、大きな船が凪いだ水面をかき分けて、進んでいく。
「本当に動いてる……」
当たり前のことを先生が言うが、それでも共感できるほどの驚きがあった。初めて飛行機に乗ったときのような、未知のものに対する新鮮な高揚感。
彼女は、普段とは打って変わって目を輝かせていた。
声もどこか弾んでいる。
「実は私、今まで船に乗ったことがないんだ」
「そうだったんですか」
それならこの初々しい反応にも納得がいく。しかし身を乗り出し過ぎて、湖に落ちてしまわないか心配になる。
「気を付けてくださいよ」
「大丈夫だよ。それより、鳥居が見えるじゃないか」
「……そうですね」
確かに、湖に浮かぶ緋色の鳥居には趣を感じざるを得ないが。
先生は携帯電話を取り出すと、鳥居や船上の景色をぱしゃぱしゃ撮り始める。
ここまで楽しそうにしている先生はなかなか見られない。
連れてきてよかった、と思った。
「箱根神社もあるそうですよ。後で寄っていきますか?」
「神社か……」
露骨にテンションが下がる。先生の興味の対象はよく分からなかった。
「神社ってみんな同じに見えない?」
「ひどいこと言いますね……」
興味がなけりゃ、なんでも同じに見えるのは当たり前だ。
先生は次の興味の対象を発見したようで声を上げる。視線の先には遠く向こうに垣間見える山があった。
「あれ、もしかして富士山?」
「そうですね」
芦ノ湖では、山の隙間から富士山を見ることができるのだ。
青空を背にした霊峰と、穏やかな湖のコントラストは、手放しで美しかった。
先生は終始元気そうに船旅を満喫し、桃源台港で降りる。三十分ほどだった。
「ねえ砂洲本くん、その……」
「なんですか?」
「えっと、もう一回乗っていい?」
どこか申し訳なさそうに彼女は言う。余程遊覧船が楽しかったらしい。あんなにはしゃいでたしな。
「分かりましたよ」
結局、もう一往復することになった。
再び降り立った桃源台港。
「あ、先生、ついでだし船との写真も撮っておきましょうよ」
「そうだね」
カメラを構えると、先生は珍しく微笑みをレンズに向ける。ピースの位置も高い。普段からそうしていれば可愛げがあるというのに。
そんなことを思いながら写真を撮っていく。
「ねえ、まだ終わらないの?」
随分気が急いているらしい。
「……はい、もういいですよ」
見事船の全貌と先生の姿が映った写真が出来上がった。
「船写ってる?」
「もちろん」
「だったらそれ、後で現像してね」
「分かってますって」
言われなくても現像する。前回の旅行の後だって撮った写真をちゃんと渡したのに、見向きもしなかったのは先生なのだ。
「次はどこに行くんだ?」
「ロープウェイですよ。熱海以来ですね」
「え、乗ったっけ?」
「…………」
こいつ……。
いや、熱海の話はやめよう。それが大人の対応というものだ。
「その前に、先生、そろそろお腹すきませんか? 朝食にだってあまり手をつけてなかったでしょう?」
「そうだな。言われてみると空腹感がある」
「じゃあ軽く何か食べていきましょうか」
ロープウェイに乗ってから、空腹を覚え始めたら大変だからな。
ちょうど道中にレストランがあった。時間的に中途半端になってしまったが、遅めの昼食といったところか。
湖を眺めながら食事を摂り終え、箱根ロープウェイに乗る。
先生はさも初めてのように、この乗り物を楽しんでくれた。もし何日も同じ料理を出しても気づかれないんじゃないかと、そう思わせるほどの見事な記憶喪失ぶりだった。
本当に何だったんだ、前回の熱海旅行は……。
「今度旅行に行くなら、海に行きたいな」
「……一緒に見たことあるじゃないですか」
そうこうしている内に、ロープウェイは大涌谷駅に着いた。
箱根の代表的な観光スポット、大涌谷。
強烈な硫黄の匂いと、何筋もの大きな煙が立ち上っていた。間近で見ると、自然の噴気の迫力に圧倒される。
「良い眺めだね」
「そうですね」
このときばかりは、先生の言葉に同意せざるを得ない。
「砂洲本くん、あのさ」
「なんですか?」
「……いや、にしても良い眺めだね」
「ええ、そうですけど……」
なんなんだ?
相変わらず先生は謎に満ちていた。
* *
箱根駅近辺に戻ると、来たときとは随分様変わりしていた。
まず、人口密度が大きく異なっていた。
閑散期のため、昨日は人がまばらだったのだが、今ではすっかり混雑している。
そして、どの層が増えたのかも一目瞭然だった。何しろ、大体の人物が見るからに霧島一葉ファンだったからである。
全身霧島作品のグッズで固めているような、視覚的にアピールしてくる類の人間はもちろん、何かしらの霧島一葉作品グッズを身につけている者が多い。
しかも、聞こえてくるのは霧島一葉の話ばかり。
ファンの中でも、際立った有名ファンが揃っていた。俺が名前を知っている者も結構いる。
さながら霧島一葉のイベント会場の様相を呈していた。
ろくに信憑性がないSNSの投稿ひとつに、ここまでやるのか……?
時折、普通の観光客や現地の人だと思われる人が、この人だかりにぎょっとし、訝り、恐れるように離れていく。
霧島一葉ファンの群れから、話し声が聞こえてくる。
「いやー、そろそろ『デルージョン』シリーズの新作が来ると思っていたんですよね。刊行ページ的に自然だし、熱海の後は箱根というのもあり得そうな話です」
「前作の熱海編で登場した観光スポットから逆算して考えるに、今回チョイスされそうな観光スポットは――」
ファン特有の考察に花を咲かせている。今に限ってはいい迷惑だ。
ふと横を見ると、先生の顔色が悪い。
「先生、大丈夫ですか? どこかで休みましょうか?」
「……いや、大丈夫だ」
先生の顔は知られていないんだから、黙って帰路につけば何も問題はない。
そう思って箱根湯本駅に向かうが、改札の付近がやたら混雑していた。
集団――またぞろ霧島一葉ファンだろう――が一列になって改札にじっと視線を向けて、監視しているようだ。
駅を見張っているのか……?
霧島一葉が都内かその近辺在住だとあたりをつけて、その帰宅経路を集中的に狙っているらしい。
張り付いたところで霧島一葉を見分けられるとも思えないが、二十五歳前後の女性ということは割れているし……。
事こうなっては、霧島一葉ファンの大群の中で、普通の観光客然としている俺たちの方が浮いているかもしれない。
仕方がない。タクシーを呼ぶか。
いくらか高くつくが、これも安全のためだ。
自然と人目を避けるように、
タクシーを呼ぼうと、俺は携帯電話を取り出した。
「ん?」
だが、その手は止まった。
ひとりの男がこちらに向かって歩いてくる。神経質そうなひょろ長い体格で、イライラを隠そうともせずに、貧乏ゆすりをしている。
「あれは……」
何回も他のファンと衝突しては、警察沙汰一歩手前まで行っている。
善良なファンに突っかかっては「自分の方が霧島一葉を理解している」と張り合ったり、最近新しく先生のファンになった人の知識量をバカにして、排除するような言動をしきりに行っている。
ほかにも、数量限定グッズの買い占めや、新作のリーク情報を鼻高々に拡散して「誰よりも霧島一葉を知っている」と誇示したりと、問題行為は枚挙にいとまがない。
送ってくるファンレターの内容も過激で、いわゆる霧島一葉ガチ恋勢だ。
つまり彼にとって、霧島一葉のファンは恋敵というわけなのである。
そんな危険な男、さっさとやり過ごしたいのだが、どういうわけだか彼は俺たちの前で立ち止まった。
糾村は先生に目を留めて言った。
「お前が、霧島一葉だろ?」
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