7話 出火
「ねえ、あなたはどんな本を読みたい?」
彼女は、微かに笑う。
しばらくそんな表情を浮かべていなかったのか、笑い慣れていないぎこちないものだったが、それでも格別に魅力的だった。
「わたし、いくらでも書くから。読みたいのを言って」
そのとき、俺はなんて言ったのだろう。残念ながら、もう覚えていなかった。
* *
七時丁度に目を覚ます。
俺の体内時計は旅行先でも正確らしい。
横を見ると、ピンクの蓑があってぎょっとしてしまう。
ああ、そうか、先生、寝袋使って寝てるんだっけ……。なんて風情がないんだろう。
寝袋から覗く顔を窺うと、やはりまだ眠っているようだ。俺は、起こさないように慎重に立ち上がった。
朝の身支度を一通り済ませても、まだ先生は眠っていた。
起きるのはいつになるだろう。だけど予定には余裕を持たせてあるし、急かしても仕方がない。
椅子に座って、自分の鞄から本を数冊取り出す。
旅行先に持ってくるものじゃない気がしたが、そもそも今回の旅行は先生の書く推理小説シリーズ『デルージョン』の新作のための取材が目的なのだ。そのシリーズの既存の本全てを持ってくることは、決して無意味ではないだろう。
自慢じゃないが本を読むのは早い方だと自負している。三百ページほどの小説なら、二十分で読める。無論斜め読みではなく。
そんなペースで読み進んで、熱海が舞台の最新刊まで行きつく。
悪い旅行の例にうってつけな取材旅行が影も形もないくらい、面白おかしくちょっと物悲しい至高の推理小説だった。
描かれている愉快な珍道中ぶりは、まるで実際の旅行もそうだったように錯覚させてくれるので、感服すらできる。
……俺は、根に持ちすぎているのかもしれない。
そんなことを考えながらページをめくっていくと、すぐにあとがきに達してしまう。そこには先生の当たり障りのない近況報告と――飼っている犬の話だ。だが無論先生は犬を飼っていない――謝辞が載せられている。
取材旅行に関しては一切書いてないが、さすがの彼女でも何かを察したのか、取ってつけたように「そして、担当してくださった編集者の方に
……本当にどうしようもない人だ。
そのとき突然がさごそと、寝袋が擦れる音が聞こえた。
「ん……」
先生が身体を起こそうとしていたが、諦めたようにまたベッドに体重を預けた。
「あー、頭痛い……」
わりと低血圧な人なのだ。
だが、今日のは一段とひどいらしい。昨日、早く寝るように言っておけば良かっただろうか。
「先生、何か軽い朝食を持ってきましょうか?」
「……いらない。おなかすいてない」
これは相当重症のようだ。
しばらく様子を窺っていると、先生はやがてもぞもぞと寝袋の中から這い出して来る。
まさに脱皮だった。
「うーん……」
彼女は苦しそうに唸りながら立ち上がろうとして、危うく倒れそうになる。
「うわっ、先生、気を付けてくださいよ」
慌てて手を伸ばすと、どうにか抱き止めることに成功した。
「……ああ、ありがとう」
力のない声で言う先生。身体を離し自分の足で立とうとするものの、またバランスを崩してこちらに寄りかかってくる。
立ちくらみか……。しかし、ここまで症状が重いのは初めて見た。
俺は彼女を椅子に座らせる。
「先生、その様子だともっと休んでいた方が良いみたいですね」
「ああ。はぁ……最悪の気分だよ」
先生は嘆息した。
「鶏と卵は庭で三歩歩いて棒にぶつかるからな……」
最早何を言っているのか分からなかった。
* *
グロッキーな先生は休ませておいて、俺は日課の、霧島一葉のパブリックサーチを行う。
先生は、SNSの類を一切やっていない。あとがきにも、真実をほとんど書いていない。
近況報告として嘘を並べ立てるのは、いちファンとしてどうかと思うが、そこまでしないと自衛できないんだろうな……。もっとも、本人の自衛する気のなさを見るに、嘘だらけの近況はただ単に性格だと思うが。
「ん?」
ネット上でちょっとした小火が起きていた。
大手SNS上で、「sayu*」というアカウントによる昨晩の投稿が、拡散されている。
「箱根で霧島先生に会っちゃいました💕 取材旅行中で、次の新作は箱根が舞台だって💕💕 楽しみ~」
箱根駅周辺で撮ったであろう写真が、添えられている。
明らかにさゆるちゃんだった。
「な――」
なんてリテラシーがない投稿なんだ。
予想外の拡散に、アカウントは慌てて削除したようだが、スクリーンショットやアーカイブなどが保存され、今も話題の的になっている。
正体が謎に包まれた大作家の、目撃情報。
ネット上では格好の話題の的になっており、「霧島一葉 箱根」がトレンドワードのトップに来ている始末。
「【ソースあり】霧島一葉の次回作は箱根舞台? 取材旅行中?」というような記事まで複数作られていた。
いずれも、「いかがでしたか? 真偽は不明ですが、霧島先生の次回作が楽しみですね!」と〆られている。
その上、噂を鵜呑みにした過激なファンたちが箱根に集い出しているらしい。
先生の根も葉もない目撃情報なんて普段いくらでも流れているだろうに、なんで今に限ってこんなに注目されているんだ?
俺は、先生と昔からの知り合いだとか幼なじみだとか思い込んでる人間を、三十人以上知っている。
今回の投稿だって、傍から見れば信憑性は薄い。下手に公式が反応すると、余計に事が大きくなる。
ただ風化するのを待てばいい。
さゆるちゃんには、さすがにお灸を据えなければならないが。
俺は、先生にさゆるちゃんの家の電話番号を聞いてから、洗面室に移る。
電話すると彼女の母と思われる人が出たが、すぐに本人に代わってもらえた。
「さゆるちゃん、これは一体どういうことだ?」
「う、うう……ごめんなさい……」
ここまでの大騒動になっていると、さしものさゆるちゃんも堪えるらしい。俺はストーカー行為の違法さとSNSの危険性をこんこんと話して聞かせた。
「は、はい……すいません……」
「二度とこんなことするなよ? 先生にも、もう関わるな」
「はい……」
電話を切ると、三十分近く経過していた。
さゆるちゃんはもういいとしても、これからどうすべきか……。
俺が先生のデビュー当時から運営している、霧島一葉ファンクラブ――完全なファンメイドだが、まめな更新と管理、長い歴史により膨大な会員数を誇る。編集者になってからも、趣味で運営を続けている――のサイトに、「風説に惑わされないように」という注意の呼びかけを出す。
公式から声明を出すとそれはそれで
「先生、どうします? 東京に帰りましょうか?」
「今日は芦ノ湖に行くと言ったじゃないか。こんなに早々に帰っては、箱根まで来た意味がない」
「それはそうですが……」
正直事こうなってしまっては、箱根を舞台にした作品など当分出せないだろう。「sayu*」の投稿を裏付けることになってしまうのだから。
「……私の小説のネタにならなければ、旅行する意味はないと、そういうことか?」
「そ、そういうわけではないですけど……」
「だったら構わないだろう。早く芦ノ湖に向かおうじゃないか」
こうして、箱根旅行二日目は波乱とともに始まった。
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