6話 ラップトップモンキー
扉絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330656315910627)
一日の観光を終え、ホテルに戻る。
歩き回ったおかげで、疲労感はピークに達していた。
やっぱり、箱根といえば温泉だろう。きっといくらか疲れを癒せるはずだ。
荷物から着替えを取り出しながら、俺は声を掛ける。
「先生、そろそろ温泉に――」
「部屋にも浴室がついてるんだろう? 私はそこで済ませるから」
「ああ、分かりました」
そういえば、先生は潔癖症なのだった。温泉はとても耐えられないという。
客室に付属している小さい浴室程度ならさっと除菌して使うことができるが、まさか大浴場でそんな真似をするわけにもいかないし。
箱根に来て温泉に入らないなんて、木をつつかないキツツキのようなものだが、無理強いするわけにもいかない。先生は部屋に置いておこう。
「あれはきっとテリトリー意識の暴走なんだろうな……」
そんなことを呟きながら、風呂に入る。
大浴場は露天風呂になっていた。
湯気と林のコントラストがいかにもな感じである。
俺は、露天風呂というのは開放感がありすぎてどうにも落ち着かないのだが、それでも旅行気分がダイレクトに味わえて悪い気分ではない。
身体を洗ってから、湯船の中に腰を下ろす。
ここにどんな効能があるのかは知らないが、温泉というだけでご利益があるように感じてしまう。
深く息を吐くと、それと一緒に全身から力が抜けていく。ここ最近の疲れが丸ごと
* *
アメニティの浴衣に着替え、部屋に戻る。
先生は、持って来ていたノートパソコンに向かっている。執筆中らしい。入浴も済ませていたようだが、格好は私服だった。
かたかたと、部屋に心地良いタイプ音が響いている。捗っているようだ。
箱根まで来た甲斐があったというものである。
先生は、小説を書く前にプロットを書かない。執筆中に何かをメモすることもない。
全く迷わずただ規則的にタイプし、しばらくすると小説が完成している。寸分の誤りもない、完全な小説が。
まるで機械のようだ。
一体どうなっているのか、頭の中を覗いてみたい。
「ああ、おかえり」
俺が戻ってきたことに気付いたようで、先生が少し振り返る。
「ただいま。先生、そろそろお腹すきませんか?」
作業の邪魔をするのはもったいないが、食事はちゃんと摂らないと。
「そうだな」
先生は首肯して、コンピュータをスリープモードに移行させた。
「夕食はどこで食べるんだ?」
「このホテルにレストランがいくつか入ってるみたいですから、気分に合わせてそのどれかにしようと。食べたいものはありますか?」
「食事……ね」
顎に手を当て、彼女は考え込む。面倒な質問をしてしまっただろうか。極力そのときの気分に合わせようとした結果なのだが、でも食べたいものなんて急に言われても思いつかないよな。
「昼は洋食だったので、夜は和食にでもしますか?」
「そうだな、そうしようか」
そうして二人、和食レストランに入る。
席は座敷だった。掘りごたつになっているので、足が曲げられるのは嬉しい。先生と向かい合って座る。
食事が運ばれてくる。
小さな釜に入った炊き込みご飯にお吸い物、細々とした小皿に、そして刺身。
うん……これはおいしいな。
やっぱりホテルでの食事も、旅行の醍醐味の一つだな。
先生はにこりともせずに箸を口に運んでいる。
「先生、味はどうですか?」
試しに声を掛けてみる。
「ああ、おいしいよ」
返ってきたのは素っ気ない答だった。本当においしいと思っているのかどうか疑わしい。
とはいえ料理を瞬く間に口に運んでいるため、不味いと感じているわけではなさそうだ。
「今日一日色んなところを見て回りましたが……どうでした? 作品のアイデアは浮かびました?」
「…………」
「先生?」
そう訊くと、彼女は箸を止める。
「……そうだな、まぁ、来ないと分からないこともあるし」
なんだか奥歯に衣を着せたような切れが悪い物言いだ。
「ひょっとして、芳しくないんですか?」
「そんなことはない」
「まぁ、そうですよね、先生が書くことに困るなんてなさそうですし」
なんだったらわざわざ箱根まで来る必要すらなかっただろう。
「君は私のことを買い被り過ぎだよ。一体なんだと思ってるんだ」
「何って、そりゃ天才だと思ってますよ」
「天才……天才ね」
嚥下するように先生は繰り返す。
「なんてちゃちな言葉だろう。世の中は天才ばかりだよ。チンパンジーだって天才と呼ばれることもあるからな」
「一口に天才と言ったって、軽重がありますよ」
そして、言うまでもなく先生の才能の重さは比肩し得るものを持たない。
「私に才能はないよ」
先生はきっぱりと断言する。
「たとえば君がクレヨンを持って、白い画用紙にでたらめに線を走らせたとしよう」
「……幼稚園児ですか、俺は」
「ああ、まさしく幼稚園児的行動だろう? しかし、それに目を留めたある大人が、画用紙を掲げて賛辞の声を上げるんだ。他の人間も、無闇やたらに凡百な園児の絵をありがたがる。家が買えるだけの値段で売り買いされ、一躍天才園児として持て囃される。そこで、描いた本人は思うわけだ、『こいつら見る目ないな』と」
「……先生もそう考えていると?」
「自分の作ったものの価値がどれほどか――取るに足らない落書きだということくらいは――分かる。何せ、私は小説を書く際何も考えずでたらめにキーボードを叩いているだけだからな」
「そんな……猿がシェイクスピアの作品をコピーしてみせるような荒唐無稽な話、あり得るわけないでしょう」
猿をタイプライターの前に固定して、永遠に等しい時間を費やせば、猿の無作為なタイピングでも、いつかシェイクスピアの作品と全く同じ文章を作り出し得る、という考え方がある。
でたらめにキーボードを叩いていても、偶然何かしらの単語になることはある。それを突き詰めれば、シェイクスピアの作品になる可能性だってゼロではない、ということだ。
もちろんこれは単なる思考実験に過ぎない。
実際に猿がシェイクスピアの作品を書けるはずなどない。
傑作を書くのは、天才にほかならないのだ。
「猿は作品を作らない。周りの人間が作品として扱うだけだよ。無作為に打ち込まれた文字列を、人は文章として扱い、物語性や整合性を見出すんだ」
「…………」
「そもそも言語なんて不確かなものだ。君だって異国の言語で記された文章を見たって、無作為な文字の羅列にしか見えないだろう? だけどそれを有り難がる人間はいる。文化や社会なるものが――共同幻想がそれを意味づける」
言語や文化や社会を否定し出したら、何も始まらないだろう。
小説は、それらを前提として書かれるものなのだから。無論、先生の作品だって例外ではない。
「とはいえ、そんなものがいくら評価されたところで、無意味な文字の羅列であることに変わりはないし、才能が存在しているとは言えないよ。それなのにかくも素晴らしいもののように扱われるのは、最早世界のつくりが元来そういう風に出来ているのだと――そう解釈するしかない。この世界は無作為なテキストを作品と呼ぶ世界なんだってな。小説が世界に合わせるんじゃない、世界が小説に合わせて成り立っているんだ」
「だったらそれはきっと、先生が特異なんですよ」
そんな、天から才能を贈られた存在のことを天才と呼ぶんじゃなかろうか。
「たとえそうでも、俺が先生の作品を尊ぶことに変わりはありませんよ」
「君も強情だな」
仮に園児の落書きでも、己が素晴らしいと思えばそれだけで比類なき価値がある。
「じゃあもし皆が見る目を取り戻して、私が鳴かず飛ばずに落ちても、パトロンになってくれる?」
「もちろん」
「ふうん……」
先生は気にも留めていない様子で箸を動かす。
「やっぱり炊き込みご飯はおいしいな」
「そうですね」
それにしても……何も考えていない、ねえ。さすがにそれは誇張だとしても、常人より感性が鋭敏で、余計な試行錯誤や苦悩、停滞が省けるというのはあるのかもしれない。
何にせよ、俺には窺い知ることができない領域の話であるが。
* *
食事を終え、部屋に戻る。
おいしい料理というのはやはりいい。満足感もひとしおだ。
「明日は芦ノ湖に行きたいな。遊覧船があるんだろう?」
先生が急にそんなことを言い出した。
「……分かりました、そう言うと思ってましたよ。でも、今日はもう遅いから明日、ですね」
夕食を摂り、風呂はとっくのとうに終わらせ、あとは寝るだけだ。だが大の大人が就寝する時間としては早過ぎる感が否めない。明日の予定を立て直しながら、時間を潰すとするか。
そう考えて椅子に腰掛けると、先生がトランクから何かを取り出すのが見えた。
それは寝袋だった。ドキツイ蛍光色のピンク。
先生は、ベッドの上に寝袋を広げた。
「今日はこれで寝るんだ」
「…………」
俺は頭を抱えそうになるのを、どうにかこらえる。
確か熱海でもこれをやっていた。
潔癖症にとっては、ホテルのベッドに直で寝ることすら抵抗を覚えるのだという。丁寧にメイキングされたであろうこちらの方が、先生の家のより余程綺麗だろうに、そういう問題ではないらしい。
白いシーツの上に置かれた、真っピンクの蓑。
ツインルームにすればよかった……。そう思わざるを得ない。横に寝袋で寝ている女性がいて、俺は何を思えばいいんだろう?
寝具をセッティングし終えた後、先生はまたすぐにパソコンに向かい直した。
「…………」
気にしないことにしよう。
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