5話 ハダリーの嘆き
先生は、さゆるちゃんに帰りの運賃を貸す。
気まずいのか、悪質ストーカーは最初の勢いがどこへやら、さっさと退散した。相変わらず台風のような少女だ。
気を取り直してフロントで鍵をもらった俺達は、早速部屋に入った。
ダブルルーム、である。
まぁわざわざ部屋を分ける意味もないだろう。
白い壁にベージュのカーペットは、いかにも清潔そうな印象を与える。外が見渡せる大きな窓と、ベッドに、ささやかなテーブルと椅子のセット。
先生が椅子に座布団を敷いて、座り込む。
「砂洲本くん、そんなに才能が好きなら天才チンパンジーとでも仲良くしていればいいじゃないか」
しまった、さっき才能と顔以外褒めるところが思いつかなかったので、拗ねてしまったらしい。
「こ、言葉の綾ですよ」
「へえ」
彼女は、俺が持ってきた霧島一葉の著書をつまらなさそうにめくっていた。滅多に自分の書いた本を読まない人なので、これは相当だ。
「えっと、先生は、その……すらりとしてて脚が長くてスタイルもいいですよ」
「結局見た目じゃないか」
「ぐ……っ」
目の前の女性は、大きくため息をつくと本を置いた。
ひとまず俺の追求はやめにするらしい。
「にしても、彼女……頭がおかしいとしか思えない」
先ほどまでのさゆるちゃんの話だろう。
「作品から人格が伝わってくる? 小説なんてのは結局嘘の羅列でしかない。ひどく不完全なそれを、読み手の頭の中で都合よく受け取って作り上げているだけだ」
どんな作品も、読者の受け取り方次第なのは間違いない。同じシーンでも受け取り方によって、持つ意味は百八十度変わる。
「だから、少し理想から外れれば、すぐに怒り出す。裏切られたとかなんとか言ってな。元より何のやり取りもしていないのに」
確かにさゆるちゃんは、先生が少しイメージと違う行動をしただけで逆上しそうだ。
いや、端から受け入れようともしないか。全て「ぼうふら」の責任にでもするのだろう。
「誰も彼もが正気を失っている」
世界でそんなことを言えるのは、彼女だけだろう。特に、霧島一葉を神様だと思っている層が聞いたら、卒倒しそうだ。
「先生、気を取り直して、箱根旅行を始めましょう」
「はぁ、もう一仕事終えた気分だよ」
「何言ってるんですか、まだまだこれからですよ。とりあえず必要なものだけ鞄に移して……」
そう言いながら、俺は先生のトランクを開く。
中には衣服類やタオル、旅行に必要なものが一式入っている。ついでにノートパソコンもある。大体は俺の用意したものだった。
しかし、その中に見慣れないものがある。
五キログラムのダンベルが、二つ。銀色で、真新しい。
およそ旅行に持ってくるようなものじゃなかった。
「な、なんでこんなのが……」
「ちょっと体力をつけようと思って」
正気か? こいつ。
道理でトランクが重いわけだ。俺はここまでずっと米をかついで来たようなものだったのだ。
帰りは荷物持つのやめておこうかな……全く、作家じゃなかったら単なる性格破綻者だ。
痛くなる頭を押さえながら、トランクを閉める。
「後がつかえてることですし、そろそろ出ましょうか」
* *
こうして、思わぬ横槍こそあったものの、箱根旅行は始まった。
観光スポット一つ目、星の王子さまミュージアム。
サン=テグジュペリによる言わずと知れた名作を主題にしたスポットだ。
入館料を払う際、クーポンを差し出したら先生が意味ありげな目で見てきたが、仕方がない。これで百円安くなるんだから。
「先生は好きですか? 『星の王子さま』」
「読んではいるよ」
先生が腕を組む。その表情はどことなくぱっとしない。
「でも、ミュージアム、ね。何の縁もゆかりもないだろうに。そもそも作者はフランスの人間だろう?」
「まぁいいじゃないですか。ヨーロピアンガーデンもあるそうですし」
「……それで誤魔化されているような気がする」
何か言いたげな先生は放っておいて、敷地内に足を踏み入れる。
エントランスには、小惑星B612の彫像。
さらに進むと、件のヨーロピアンガーデンが広がっていた。
『星の王子さま』要素はそこだけではなく、通りや広場の名前が「地理学者通り」や「点燈夫の広場」だったりと、作品の登場人物の名前が付けられているし、登場人物の像まである。
両脇を花が飾り彩る道を進んでいくと、その奥にはチャペルがある。サン=テグジュペリが生前過ごした礼拝堂を再現しているらしい。
「先生、ここって『エギューシア』に出てきた教会に似てませんか?」
『エギューシア』も当然、先生の作品だった。
「え? ああ……そうだったかな」
「なんかうろ覚えって感じですね」
「当たり前だろう? 今まで何冊仕上げて来たと思ってるんだ」
「五十二冊でしょう?」
「……ああ、一々覚えてられないよ」
果たしてそういうものだろうか。
あれはなかなかの名場面だったと思うのだが、本人からしてみればその程度の認識だったらしい。なんともがっかりな話だ。
* *
ちょうど昼時だったので、レストランで『星の王子さま』をモチーフとした料理を食べる。
次に向かったのは観光スポット二つ目、彫刻の森美術館。
その名の通り彫刻がテーマの美術館だが、特筆すべき点はそれらが主に屋外に展示されていることだろう。
日本初の野外美術館で、総作品数は千点以上。広大な敷地内を歩けば、その至るところに置かれた彫刻を見ることが出来る。
敷地内を少しと歩かない内に、彫刻と出くわす。
俺の身長をゆうに超えるような大きさ。それが間近で、何の隔たりもなく見られるのだから威圧感もひとしおだ。
「砂洲本くん、彫像が急に人間になったらどう思う?」
『海辺を歩く少女』を見ながら、先生は急に話し始める。
「石を削って作られた少女に理想を見出し、恋をした男がいたとする。やがて、彫像に血が通って動き出すことを切望するようになる。その姿を哀れに思った神が、願いを叶えてやり、男は生を得た彫像の少女と結ばれる」
偶像への恋と、その成就。
人ならざるものと結ばれる物語の類型。
「いいんじゃないですか? 特に今の時代、それを願う人は多いでしょう。真の理想は空想の中にしか存在しませんから」
求められているから、そういう物語が多く存在するのだろう。
「そうか」
彼女は、何の感情もないように声を発した。
「しかしそれは誰にとっての幸福なんだろうな」
それだけ言うとひとりで歩き出して行ってしまったので、慌てて追いかける。
「あ、先生、作品と並んでくださいよ。一緒に写真撮ります」
『横たわる像』と先生に向けて、俺はファインダーを向ける。
「えー、物とのツーショットなんて有難味がないなぁ」
「いいからいいから、じゃあいきますね」
かしゃりとシャッターを押す。
「もういい?」
「はい、いいですよ」
そういえば今回の旅行で先生の写真を撮るのはこれが初めてだった。
先生は撮られたがらないし、俺も特にカメラ好きってわけじゃないからな……。
カメラの液晶を見る。
彫刻と並んでいると、先生がやけに小さく見える。これで動きの大きなポーズをしていればまだ映えるんだろうが、やたら低い位置でのピースだし、にこりともしていない。
むしろカメラを向けられている分、普段より硬い。「ピースさえしていればいいんでしょ?」とでも言いたげだ。
「砂洲本くん、今度は私が撮ってあげるよ」
携帯電話を構える先生。
仕方ないので、笑顔を浮かべる。
「随分板についた業務用スマイルだね」
「うるさいですね、こうしておけば後から見返したとき楽しい旅行だったように錯覚できますから」
「小賢しいねえ。はいチーズ」
言うが早いか、ぱしゃりとシャッター音が鳴る。
「ほら、これ」
先生が携帯電話を見せてくる。
うん、自分の顔だ。写真写りが悪いなという感想しか抱けない。
「じゃあそろそろ次の作品を見に行きましょうか」
果たしてカップルの旅行とは、一枚もツーショットを撮らないものなのだろうか。
しかし第三者がいない以上、撮ろうとすると通りがかった人間に頼まなければいけなくなる。そこまでの意欲はなかった。
* *
彫刻の森美術館を出る。
そろそろ日も暮れてきた。ホテルに戻るべき頃合いだろう。頭に入れた地図を辿りながら、道を選んでいく。
「シンフォニー彫刻はなかなか興味深かったな」
先生が感想を漏らす。
シンフォニー彫刻。小さな塔の壁が全面ステンドグラスでできており、中の螺旋階段を登って、光に透かされた色彩を楽しむスポット。
「そうですね、眺めも良かったですし」
「苦労して階段を上った甲斐があったよ」
「そんな高くなかったじゃないですか」
「骨を折ってまでわざわざ上りたがるものかね。もう足が痛いよ」
「じゃあタクシーでも呼びますか? 代金は先生持ちですけど」
「別に構わないが……ケチだな」
軽い口調だが、本当に疲れているらしい。先生はあまり外に出ないので、体力がないのだ。
「そこのベンチで少し休んでますか? 炭酸水でも買ってきますよ」
「ああ、頼むよ」
安請け合いしたものの、生憎自販機もコンビニも近くになかった。
少し遠くまで歩いたところでようやく見つけて、飲み物を買ってベンチに戻る。
すると、先生が見知らぬ男に絡まれていた。髪を明るく染めた、ちゃらそうな人物だ。
「ひとりで観光なんて寂しくない? 一緒しようよ」
またぞろストーカーか何かかと思ったが、ただのナンパらしい。
まぁ、先生は美人だからな。親しみやすさというより、近づきがたさを与える方の容姿だから、ナンパするのはなかなか度胸があると思うが。
「…………」
先生は男から目を逸らして、ベンチに腰掛けたまま一切反応しない。自分の白い指先だけを見つめている。まるで彼の存在自体を否定しているかのようだ。
「すみません、お待たせしました」
そう声を掛けると、
「ちっ男連れかよ……」
男は毒づいてすぐに去って行った。
「先生、大丈夫でした? すみません、もっと早く戻ればよかったですね」
「いや、君が謝る必要はない」
そうは言うものの、彼女は目を伏せたままだった。
「ああいう手合こそ、『誰でもいい』を体現しているんだろうな」
誰でもいい? 先生の容貌がすぐれているからだと思うが。
「いや、あれは『個』の否定だ。全てはただ『目についただけ』なのだから。こちらを人間として見ていない。個への毀損とも言える」
「ナンパはアレですけど……『目についただけ』っていうのが、そんなに個への毀損ですか?」
俺が最初に先生の作品を手に取ったとき――あれは、先生がデビューしたての頃。
書店にふらりと立ち寄って、新刊コーナーの小さなPOPが目に入ったのだ。
たしか、「十二歳、鮮烈のデビュー作!」と書いてあった。
俺と同い年だから妙に目を惹かれて、思わず一冊手に取って、レジまで持って行っていた。
あのPOPがなかったら、俺の人生は全く別のものになっていたかもしれない。
この広い世界、「目につく」ということは何よりも大きな意味を持つ。存在を認識できなければ、存在していないのと一緒なのだから。
「……そうか」
先生はそれだけ言うと、立ち上がった。彼女が何を感じているのか、分からなかった。
俺は、買ってきた炭酸水を渡す。
「じゃあ、そろそろホテルに戻りましょうか」
「ああ」
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