3話 飽食


 俺の用意した食事は幸い口に合ったようで、先生はすぐに皿を空にする。

 昼食なのか夕食なのか、はたまた朝食なのか分からない有様だが。


 基本的に味覚音痴な人だから何を食べてもおいしいと言うし、仮に俺が味付けを失敗していたとしても一切気にせずたいらげてしまうんだろうけど。


 しかし面倒くさがって自分ひとりじゃ食事すら用意しようとしないから、俺が作る羽目になる。


 箸を置いた先生は、炭酸水を口に運ぶ。こんなにだらしがないのに、その所作は美しかった。


 彼女は、味がしないからという理由で水を飲みたがらない。炭酸水は「しゅわしゅわ」するから、味がしなくても大丈夫だという。


「もういっそ、この家に住んでくれたらいいのに」

「落ち着きませんよ、こんなに広いんじゃ」


「ならいつでも引き払おう。別に住みたくて住んでるわけじゃないし」

 どこか不満げな口ぶり。


 なるほど、タワマン最上階なんて趣味じゃなさそうだと思っていたのだ。どうせ誰かに押し付けられたのだろう。


「というか先生、冷蔵庫の中もう空っぽになりそうでしたよ。おかげで大したもの作れませんでしたし」

「充分じゃないか」


「いやいや、そろそろ買い物に行った方がいいですって」

「大丈夫だよ、まだ何個かカップラーメンがあるし」

 全然大丈夫じゃない。


 彼女ほどの人だったら、誰かお手伝いさんを雇ってもよさそうなのに。


 こんな風に毎度毎度食事を用意して……明らかに仕事の域から逸脱している。差し入れくらいだったらいくらでもするが、俺は別にお手伝いさんじゃない。


 とはいえまかり間違って死なれても困るんだよな……。


 明らかに寿命を削って生きてそうだし、「天才は夭折する」なんて洒落にならない。

 彼女には長生きしてもらって、これからも作品を書いていってもらわないといけないのだ。


「それで、先生――」

「先生はやめてくれって言ってるだろう? 名前で呼んでくれ」


「ああ、すいません、癖で」

 そう返すものの、直すつもりはない。


「次作の話なんですけどね」

「気が早いな。今日完成させたばかりだというのに」


「全国津々浦々の人々が、先生の作品を楽しみにしてるんですよ」

「津々浦々?」


「無論俺もその内の一人です」

「ふうん……」

 彼女は興味なさそうにペンを回す。


「それはともかくとして、今度箱根にでも行きませんか? 一泊二日で。作品のネタになるでしょうし」

「箱根、ねえ。いいんじゃない?」

 無関心そうだったが、しかし断られたわけではない。


「じゃあぜひ行きましょう。来月の中旬頃なんてどうですか?」

 俺は手帳を開きながら訊ねる。


「ああ、構わないよ」

「分かりました。じゃあ、その辺りで色々準備しておきますよ」


 そろそろ、旅行物の推理小説シリーズの新作を上からせっつかれているのだ。箱根なら舞台としてちょうどいいだろう。

 普段家に籠りがちな先生を外に連れ出すことも出来て、一石二鳥だ。


「先生は行きたいところ、ありますか?」

「特には。君に任せるよ」


「わかりました。いやあ、楽しみですね」

「そうかい。そう言ってもらえて重畳だよ。私も楽しみだ。待ちきれないね」


 にこりともせずに、彼女は言う。取ってつけたような台詞である。

 分からない人だ。


「では、俺は編集部に戻りますから」

「もう行くのか?」

「はい、明日も来ますよ」




 * *




 見慣れた広いオフィス。

 持ち主の個性が色濃く表れた机が所狭しと並べられている。


 歩を進め、自分の机に腰掛ける。わりと整理整頓を心がけているのだが、改めて見ると少し散らかってきた。


 都内某所にあるビル。ここが、俺が勤める大手出版社――乾行けんこう社のオフィスだった。

 片付けは後回しにして、進行予定表を確認する。


 俺は先生の担当になってから、他の作家の担当から外れた。つまり今は先生専属である。


 全く、先生ほどの刊行ペース――今は月に一回新刊を出している――と人気があれば、編集者が複数人分業体制で付くこともおかしくないというのに。その辺も含めて特例といった感じだった。


 おまけに彼女は一任という名で何もかもを丸投げしてくるので、仕事は増える一方である。


 今日も霧島一葉宛てのファンレターがたくさん来ている。みんな先生の作品が大好きなのだ。


 先生はファンレターを一切読まない。彼女にはファンを愛する心というものが一切ないのだ。


 とはいえそれもさすがにあれなので、一応俺が手紙に目を通して精査してから、安全﹅﹅なものを先生に渡している。

 それでもやっぱり読んでいる様子はないが。


 早速封筒を開けていく。


 中からは、記入済み婚姻届が出てきた。新婦の欄だけが空いている。

 添えられたメモには、「霧島先生の気持ちはもう分かっています。一緒になりましょう」と書いてあった。


「…………」

 俺は、黙ってそれを握り潰す。


 先生はアイドルでもなんでもないんだが、たまにこういう類のものが送られてくる。

 さゆるちゃんみたいな例もいるし。


 もちろんまともなファンはたくさんいるのだろうが、どうしても目につくのは過激なタイプだ。


 「霧島先生、大好きです」「霧島先生は私の神様です」「いつも霧島先生の作品に救われています」「霧島先生の作品がないと生きていけません」――ファンレターには、そんな文字が躍っていた。


 俺は狂気と正気が入り混じった手紙の束の中から、心洗われるものだけを選び取る。


 仕事が毎日辛いけど先生の作品が励みになってるとか、読書嫌いの子どもに先生の作品を読ませたら、すっかり読書にハマったとか。


 これらは、明日にでも先生に届けよう。

 あの冷血人間の先生も、少しはファンを愛する気持ちを持ってくれると良いのだが。


 仕事をある程度片付けてから、箱根の観光スポットのページを見る。


 旅行といったって、楽しいものじゃない。そもそも旅行といえば、成田離婚だのなんだの、喧嘩の種だらけの地雷原。

 実際、過去に先生と熱海に取材旅行に行ったとき、それはもうひどかった。


 先生がふらふらとあっちに行きたい、あれも見たい、と予定を一切意に介さない奔放な言動を繰り返し、おかげで予約していたものはほとんどがぱあになった。


 しかも、結局旅行での体験はあまり作品に反映されてなかったし。相当無理を押してまで訪れた熱海城が一文も登場していなかったことに関しては、正直今でも根に持っている。


「……今回はがっちがちに予定を固めておくのはやめとくか」

 オンシーズンじゃないから予約だってそれほど必要じゃないだろうし……。

 そんなことを考えながら、観光名所をリストアップしていく。


「ちょっと、何辛気臭い顔してるの?」

 声を掛けられて、顔を上げると、そこにいたのは先輩編集者の、室生むろう美織みおりさんだった。


 ストライプのブラウスにタイトスカート。後ろでシニヨンにしてある髪。とても気さくな人だ。

 先生とはまるで違う愛嬌のある笑顔を浮かべて、話し掛けてくれる。


「あ、いえ……そんな顔してました?」

「もう、げんなりって感じよ。見てるだけでこっちの気分まで暗くなっちゃう」

 パソコンのモニターにちらりと目をやって、室生さんは言葉を続ける。


「霧島先生、どんな調子?」

「いい感じですよ。今日も新作を一本もらってきたところで」


「……すごいよねえ、砂洲本くんが担当になってから、コンスタントに仕上げてくるようになったもん」

 褒められているんだろうが、でもすごいのは俺ではなく先生だった。


 室生さんは声を潜める。そして、からかうような笑みを浮かべる。

「でも、いいわねえ、旅行なんて。ラブラブじゃない」


「ら――やめてくださいよ」

 冗談じゃない。


 俺と先生が交際関係にあるのは、別に公然の事実というわけでもない。わざわざ言う必要もないだろうし、無駄にスキャンダラスになっても困るからだ。


 先生には厄介な狂信者がついている。隠すメリットはあっても隠さないメリットはないだろう。

 だから、室生さんはそれを知る僅かな人間のひとりだった。


「ふふ、照れない照れない」

 別に照れてるわけじゃないんだが。


「私、実は霧島先生に会ったことないのよね」

「あれ、そうなんですか」


 確かに先生は全くこの出版社に顔を出さない。どころか家から出ることもあんまりない。担当でもなければ顔を合わせる機会はないか。


「偏屈な人だって聞くけど、どうなの?」

「そうですね――」

 偏屈……というか、なんて言えばいいんだろう、あれは。


 どれだけ俺の言葉を尽くしても、上手く言い繕うことができそうになかった。ただいたずらに株を下げるだけになりかねない。


 あんな稀代の才能を損なって余りある欠点の持ち主、どう褒めればいいのか分からない。作品の話に持っていければ褒め称える言葉は尽きないが、それでは本題から外れてしまう。


「まぁ、変わった人ですよ」

「へえ……」


 室生さんは少し興味を惹かれた様子だったが、更に質問を続けては来なかった。答えに窮したのを察してくれたのだろう。


「私も色々な作家を見てきたけど……普通の人もいれば、変わった人もたくさんいたわ。ねえ、砂洲本くん、あなたは作家の人格は作品の価値に関わってくると思う?」


 作家の人格、か。

 別に作家に限らないけど、そういう話はたまに聞く。


 作品はいいけど性格がいただけない……とか、もしくはその逆とか。さらに言うなら、作家が気に食わないから作品も嫌いだとか、その反対とか。


 人間である以上、そういう判断基準からは逃れられないのかもしれない。だからこそ作家は極力表に出ないようにするべきだ、という意見も理解できる。


 だけど、俺はそもそも作家の人格と作品の価値に関わらないと思う。


「砂洲本くんは、霧島先生に出会って作品に対する見方が変わったりした?」

「そうですね――」


 作家は作品の付属品でしかない、と言ったのは誰だっただろうか。もう忘れてしまった。


 作家と作品は別次元にあって、名作はどこまでも高次元にある。とはいえ、こんな話を長々とするわけにもいかない。


「……まぁ、少しは変わりましたね」

 だから、そんな取ってつけた返事を、しただけだった。


 箱根旅行の計画決めに戻る。

 さすがに、そこで何か起きたりはしないだろう。先生に関してはもう慣れっこだし。


 俺は、先生の作品を読みたいだけなのだから。

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