4話 出立


 早朝。

 新宿駅。

 ということで、一泊二日の箱根旅行の始まりだった。


「いやー、晴れてよかったですね」

「……眠い」

 口に手を当てつつ、先生はため息を吐くようにそんなことを言う。


 旅行だが特に気合を入れた様子もなく、薄手の黒いジャケットに白いスキニーという装いだった。両手には黒い手袋。化粧っ気も全くない。


 ただ、重そうに小さな赤いトランクケースを引きずっている。俺はそのトランクケースを横から奪う。

 ……本当に重いな、これ。何が入ってるんだ?


 そうこうしている内にホームにロマンスカーが入ってきたので、乗り込んでいく。

 想像以上に内装がシックだ。臙脂色のシートに、大きな窓。オフシーズンとはいえ決して乗客はまばらではない。


 全席指定席のため、切符と見比べながら席を探す。幸いすぐに見つかった。

 当然のように窓側が先生である。彼女は自分の席に座布団を敷いて座った。


 ロマンスカーは、箱根に向けて進み始める。


「先生、本当にロマンスカーカフェに寄らなくてよかったんですか?」

「なんだいそれは。別に名所でもなんでもないんだろう?」

 冷めた物言いだ。


 仕方ないので、俺はひとりインターネットでロマンスカーのホームページを見る。

「あ、車内販売、季節限定メニューもあるそうですね」

「へえ」


 全く興味なさそうだった。頬杖をついて、手元の本に目を落としている。あれは確か以前も読んでいた本だ。余程箱根旅行に関心がないらしい。


 俺から誘ったんだから仕方ないのかもしれないが、もうちょっと楽しそうにしてくれたっていいだろうに。


 車内販売の饅頭とラスクをつまむ。横で先生が「割高なのにねえ」とかなんとかぼやいてたけど、無視した。分けてやろうと思ってたけど、それもなしだ。


 大体金持ちなんだから一々そんなこと言わないでほしい。しかも、俺よりもずっと浪費家で、金をゴミのように扱うくせに。


「箱根には一時間強で着くらしいですよ。案外近いもんなんですねえ」

「着いたらまずどこに行くんだっけ?」

「ホテルですよ。荷物置かないと」


「そうか」

 彼女はそう言ってラスクに手を伸ばす。


「あ、値段を個数で割って、食べた分だけ払ってもらいますよ」

「……小さい奴だな君は」


 そうこうしている内に、ロマンスカーは箱根湯本駅に到着した。

 山を背にした、のどかな風景。想像以上に都会然としていないが、都会人が観光に来るのだからこれくらい穏やかな方がリラックスできるのだろう。


 無論駅前にも見所がたくさんある。

「先生、ソフトクリーム食べていきましょうよ」

 それも観光スポットの一つだった。折角なんだから、食べていかないと。


 彼女は、手渡されたはちみつ入りソフトクリームをぱちくりと見つめる。先生は潔癖症で、手で触れたものを食べられないので、もちろんカップに入れてもらった。

「ソフトクリームか……」


「あれ、甘いもの嫌いでしたっけ?」

「そうじゃないけど……」


 歯切れが悪い。単に新しい食べものに戸惑っているらしい。恐る恐る付属のスプーンを使って、一口食べる。


「はちみつの味がする」

「どうせなら、もっと風情を感じさせるような感想にしてくださいよ」

 作家なんだから。


「うるさいな、私は食レポを生業にしてるわけじゃないんだぞ」

 先生はむっとしたような顔をするが、スプーンを止めない。味は悪くなかったようだ。


 東京の街中には「霧島一葉」があふれ返っているが、箱根でも同じだった。


 商店街には、現在放映中の霧島一葉原作のドラマや映画のポスターが色んなところに貼られている。


 どこかの店に入ってみれば、霧島一葉原作の映画の主題歌――絶賛大ヒット中だ――が流れる。


 店先には、国民的人気の霧島一葉原作アニメのコラボ商品が目白押しだ。

 書店にはもちろん、コンビニにも雑貨屋にも霧島一葉作品が置いてある。中華料理店や床屋の本棚には当然霧島一葉作品がある。


 街行く人々の声に耳を傾ければ、しばしば霧島一葉作品の話をしている。


「…………」

 先生はにこりともせず、むしろ不機嫌そうに歩いている。


「先生、山の方に行く前に、一度箱根の書店を見てみてもいいですか?」

 職業病か、遠出するとその土地の書店を覗きたくなってしまう。


「……はぁ、手短にしてくれよ」

 嘆息する彼女だったが、断られたわけではない。お言葉に甘えて寄って行こう。


 駅前には大きな書店があった。

 近年の読書ブームに乗じて建てられたものだろう。


 入ってすぐの一番目立つところで、かなりのスペースを取って霧島一葉特集が行われていた。

 もっとも、この様子じゃ常設コーナーのようだが。


 平積みされた新刊は、だいぶ数が減っていた。棚にも、空きが目立つ。

 脇には、書店員が気合を入れて作ってくれたであろう、凝ったPOPが添えられている。


 こうして愛を持って先生の作品をアピールしてくれている様を見るのはうれしい。

 俺は思わず携帯電話を取り出して、写真に納めた。


 先生は忌々しそうに一瞥すると、通り過ぎる。一般文芸コーナーに向かったらしかった。




 * *




 ホテルは山の方――観光スポットの近くに取っていた。

 まずは荷物を下ろそうと、駅からバスで向かう。


 急勾配と急カーブの連続に揺さぶられながら、バスは山を登っていった。

 予約していたホテルは山の中腹にあった。いたってふつうの観光客向けホテルだった。


 中に入ろうとしたそのとき。


「待ってください! 何をしようとしてるんですか!」


 覚えのある、絹を裂くような声が響く。

 振り向くとそこには、忘れもしない悪質ストーカー、さゆるちゃんがいた。


「なんでここに……」

「それはこっちの台詞です!」

 いやこっちの台詞だ。


「あたしは、偶然新宿駅で先生とそこのぼうふら野郎が一緒にいたのを見かけたので、ペテンを見破ってやろうと尾行してきたんです!」

 ぼうふら野郎? 俺のことか?


「そうです! 先生、この男に脅されて洗脳されて弱みを握られて騙されて操られているんですよね!? あたしが目を覚まさせて、真の愛を教えます! そしてあたしと先生は結ばれるんです!」


 何を言っているのか分からないが、まさか箱根までストーキングしてくるとは思わなかった。俺が高校生の頃は、隣の県に行くだけで大イベントだったのに。


 偶然見かけたと言っていたが、嘘くさい。もしかして、最初から尾けていたんじゃなかろうか。


 家にまで押しかけてくる悪質ストーカーに、官憲の力を行使しなかったのは甘かったらしい。


「それより! ど、どうしてホテルに入ろうとしてるんですか!」

「泊まりに来たからだけど……」

 それ以外に何がある?


 しかし、さゆるちゃんは顔を真っ赤にした。

「だ、だ、男女が一夜を共にするなんて……ふしだらな! ぼうふらのくせに!」


 なんだ? この子は。ふしだらなのはそっちの方だろう。その手のことしか頭にないのか?


 二十五歳の女性を捕まえて、ふしだらも何もないだろう。そもそも俺と先生は交際関係にあるのだから、なおさらだ。


「ここまであなたたちのことを観察してきましたけど……とても付き合っている間柄だとは思えません!」


 頭の中に花が咲いてそうな女子高生は、びしっと指を突きつけてくる。

「本当に愛し合っているんですか!?」


「…………」

「…………」


 しばしの沈黙。

 誰も口を開かなければ、自ずと沈黙が生まれるのは道理だった。


「……こほん。さゆるちゃん、大人の世界には色々あるんだよ」

「それは詭弁です!」

 わりに鋭い切れ味だった。


「じゃあ先生のどこが好きか挙げてみてくださいよ!」

「え……」


「結婚詐欺師じゃないなら言えるはずです!」

 そんなこと言われても……。


「あ、口ごもってますね! 化けの皮が剥がれてきましたよ!」

「いや……えっと、才能に溢れていて、それで、んー……あ、容姿が整っているところとか……」


「うわべだけじゃないですか!」

「ぐ……」

 さゆるちゃんには言われたくないんだが。


「…………」

 先生が絶対零度の目で突き刺してくる。


「せ、先生――」

「これでもうはっきりしましたね! この男の正体が! 先生、目を覚ましてください!」


 先生はもうこちらを見ずに、不貞腐れたように携帯電話をいじっていた。


「先生のような高潔な精神の持ち主が、こんなぼうふら野郎の餌食になるなんて許せません!」


「……君、親戚とはいえ私とろくに話したこともないだろう?」

 不意に、先生が口を開いた。

「私のことも大して知らないだろうに、なぜそんなことが言えるんだ?」


「分かります! 先生の作品を読んでいれば! 気高い人格が伝わってきますから! 二十五歳とは思えぬ人生経験の豊かさ、高潔な精神は一体何によって培われたものなのか……あたし程度の人間には仰ぎ見ることしかできません!」


 気高い人格?

 高潔な精神?

 この子、素晴らしく見る目がない。


 しかし、物が言えなくなっている俺達が目に入らないのか、少女の舌は留まるところを知らない。一気にまくし立て続ける。そして、その勢いのまま先生に抱き着いた。


「でも、見事こうして先生に会えました!」 

「うわあああっ」


「やっぱりあたしと先生の関係は運命が味方してくれているんです!」

「ぎゃああああっ!」


 先生はみっともなくじたばたする。潔癖症だから、他人に触れられるのはものすごく嫌がるのだ。

 あまりにも見ていられない惨状なので、仕方なくさゆるちゃんを引き剥がす。


「なかなか……熱心なファンですね」

「君ほどではないがな」

「いや、まさかそんな……」

 これ以上の狂信者なんて滅多に存在しないだろう。


「さゆるちゃん、君は何か勘違いしてるようだけど、これはそもそも仕事なんだ」

 いよいよ収集がつかなくなってきたので、俺は場を収めようとする。


「いわゆる取材旅行ってやつだよ」

 軽く経緯を説明する。これはプライベートな旅行ではなく、仕事の一環なのだと。


「先生の執筆の邪魔をしないでくれ」

「そ、そういうことなら確かに……先生がぼうふらと旅行をするのも仕方がないです」

 自分に都合のいい説明だったからか、さゆるちゃんは拍子抜けするほどあっさり納得してくれた。


「とりあえず、君は早く帰った方がいいよ」

「帰りの運賃、ないです」

「片道分しか持ってなかったのか……」

 無計画にも程がある。なんておっかないんだろう。


「あの……」

 さゆるちゃんはちらちらとこちらを見て来る。


 嫌な予感がする。この流れはまさか……。

 戦慄する俺をよそに、彼女は切り出してきた。


「帰りの運賃、貸してくれませんか……」

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