2話 文学界の女帝


 箱辺さゆるなるストーカーは、嵐のように去っていった。


「先生、なんであんなのオートロック通しちゃったんですか?」

「しつこくインターホン鳴らしてきて、めんどくさかったし……ちょっと会えばすぐ帰るって言うから……」


「な……危なすぎますよ! すぐ帰るわけないですし。今度こういうことがあったら、真っ先に俺に連絡してください」


 なんでこの人はこんなに危機感がないんだ?

 不審者の相手には慣れているとはいえ、自宅まで押しかけてくるのは只事ではない。


 俺は、マンションの管理会社や警備会社、方々ほうぼうに連絡する。

 警察への相談事例も作っておきたいが、さゆるちゃんが先生の親戚なら、民事不介入と言うことになってしまうのかな……。


「いくら警備をしっかりしても、先生が鍵を開けて中に招いてしまっては、意味がありませんからね。頼みましたよ?」

 子どもに諭しているような気分になってきた。


「はいはい、分かったよ」

 分かったような分かってないような返事である。


 そうだ、俺はそもそも仕事をしに来たのだ。


「それで先生、新作が完成したという話でしたが」

「ああ、そうだったね」


 俺がここまでやってきたのは、その新作を一読して、あと編集者の仕事をこなすために他ならないのだ。


 先生は席を立つ。

「ちょっと待っててくれ、プリントアウトするから」


 どういうわけだか彼女は、原稿を渡すときは必ず印刷してからにする。無論後で原稿データを送ってくれるが、パソコンには触れられたがらないし、執筆中横から覗き見られるのも嫌う。


 まぁ、それは覗き見ようとした俺が悪いんだけど、目の前で名作が仕上がっていくんだ、気にならないはずない。


 とはいえ、ここは大人しく待とう。プリンターと向かい合う彼女の後ろ姿を見ながら、頬杖をつく。


 霧島一葉。

 そう、彼女が霧島一葉なのだ。


 日本に住む人間で、今その名前を知らない者はいないだろう。なんだったら国外にもその名は轟いている。


 十二歳、小学生のときに『カタレプシー』という作品で鮮烈なデビューを飾り、そこから二十五歳となった今日こんにちに至るまでヒットメーカーとして名を馳せ続けている超有名作家。

 水際立った、至上の大作家。文学界の若き女帝。


 文壇を唸らせる純文学の傑作から、語り継がれる児童小説の名作、重厚SFに恋愛小説まで、多岐に渡るジャンルの小説を書く作風の広さ。


 純文学新人賞三冠はもちろん数々の賞を総なめにし、十年間ベストセラーランキングを上から独占し続けている。印税だかロイヤリティーだかでこんなマンションに住めるくらいほどの、所謂売れっ子というわけだ。


 書籍離れが嘆かれる時代に彼女は颯爽と登場し、世間に読書ブームを巻き起こした。

 本の売上はV字回復し、普段本を読む人の姿を見かける頻度が急激に増えた。


 出版業界や、社会そのものに革新をもたらしている。

 将来、間違いなく歴史の教科書に載る人だ。国語の教科書にも。


 デビュー当時、俺は自分と同い年とは思えない彼女の文才、構成力、想像力――才能にすっかり魅せられた。

 それから十三年間ファンを続けている。


 特に、一番好きな作品『パールグレー』は、自分の人生の柱とも言える存在だ。


 正直、出版業界を志したのも彼女の存在あってこその話だった。そのために努力を重ねて、霧島一葉作品を独占して世に出している大手出版社に入った。

 少しでも彼女に近づきたかったのだ。


 霧島一葉はあまり表に出ないタイプの作家で、年齢と性別――売る際に箔となる要素以外は全て伏せられている。


 もっとも容姿も大層なものだから、単に本人が表に出たがらなかったのだろう。それはともかくとして、俺は謎に包まれたこの作家のことをもっと知りたかった。


 だからこそ、編集者としてなら顔を合わせる機会もあるんじゃないか、という短絡的思考に至った。そのために頑張って、どうにか目当ての出版社に就職できたのだ。

 そして、念願叶って先生の担当編集者になって――


「印刷、終わったよ」

 彼女の言葉に、はっと我に返る。


「考え事をしていたのか?」

「ええ、まぁ、今晩何を食べようかな、と」

 つまらない嘘を吐いてしまうのが俺の悪い癖だった。


 虚言癖というほどでもないんだろうけど、でも似たようなものだろう。きっと根がひねくれているんだ。


「ほら、これが原稿だ」

 差し出された紙の束を受け取る。うん、当たり前だが分厚い。右上を大型ホチキスで留めてあり、なんとも手作り感が漂う。


 小説のページ数に換算すると、大体四百ページほどだろうか。至って普通の単行本一冊分程度だ。


 今作は、既存シリーズの続編ではなく完全新作で、不思議な世界を舞台にした少年少女の冒険活劇かつ群像劇だった。


「よく書けた方だと思うよ。最高傑作だと言う人間も多いだろう」

 いつも傑作しか書かないくせに。


「『パールグレー』を超える作品なんてこの世に存在しませんよ」

「君、本当にそれ好きだねえ」


 逸る気持ちを抑え、ページをめくっていく。

 相変わらず頭にすらすら入る文章だ。装飾過多ではなく、しかし別に平易というわけではない、絶妙なバランスの上に成り立った軽快なテキスト。


 だが特筆すべき点はそこだけではない。

 魅力的なキャラクター達。どんな端役にも用意された見せ場と好感の持てるシーン。

 巧みな緩急のつけ方による、息もつかせぬ展開の連続。万人に共通する感情を揺らし、物語世界に没入させ、魅了する。


 先生の小説は、一言でいうなら「完璧な小説」だ。

 文法の誤りが一切ないのは当然で、肝心の内容に関しても申し分ない。


 心に残る表現の数々、豊富な語彙、適度にセンセーショナルな要素も織り込み、エンターテインメント作品として十分過ぎるほどの強度を持っている。


 正直この瞬間で、日頃の苦労が全て霧散する。それくらいに有意義で、意味のある時間だった。


 最後のページまで目を通して、俺は顔を上げる。

 しまった、ついつい夢中になって一気に読破してしまった。やっぱり先生は天才だ。


 すごいのは、デビュー当時から既に今と同じように「完璧な小説」だったということだ。当時は文学志向が強く、そちらに最適化されていたが。本当に桁外れの人である。


 と、そこで先生の突き刺さるような視線を感じた。


「……なんですか」

「いや、ずっと見られても読み辛くならないものか、と思ってな」

「読み辛いですよ。やめてください」


 嘘だ。たった今まで見られていることにすら気づいていなかった。でもそこまで集中して読んでいたと思われるのも、なんだか癪だった。


「これならすぐ入稿できると思いますよ」

「そうか」


 とはいえ、俺が先生の原稿に修正を求めることなんてないのだった。別に手を抜いているわけではない。本当に直すところが皆無なのである。


 誤字脱字衍字は常にゼロだし、文字表記も全て統一してある。ストーリーの方の完成度は言うまでもない。あとは揚げ足取り染みた校閲をやってもらうしかないのだ。


 速筆で締切を破ることもないし、資料がなくてもなんでもすらすら書くから、資料集めをする必要もない。

 編集者にとっても大助かりと言えるだろう。


「それでこれ、タイトルはどうします?」

「うーん、ぴんと来るものがなくてね。君が決めてくれよ」

「え、嫌ですよ恐れ多い」

「とても編集者の言葉とは思えないな」


「そりゃ他の作品にはいくらでもつけられますけど、他でもない先生の作品ですよ?」

 わりと失言だった気がするのだが、しかし先生は大して興味なさそうに、ふうん、と言っただけだった。


 先生の作品のあらすじを考えること自体おこがましくて仕方がないってのに、ましてや、タイトルなんて。


 メディアミックスに際して原作に手が加えられるときもあるが、俺はその度によくそんな真似ができるな、と思ってしまう。

 結局先生の作品が一番素晴らしいのだから。


「では結局、私がタイトルを決めなければならないわけだ」

「いいのをお願いしますよ」


「んー……じゃあ『ファンタジー』で」

「適当に付けてませんか?」

「いいだろう? 別に。私が考えたのだから」


「……はいはい、分かりましたよ」

 いいのかなぁ……。

 仕方ないのでメモしておく。


「ところで先生、もう夕方ですけど、今日ごはん食べました?」

「え? 食べてないけど」

「…………」


 薄々そうじゃないかとは思っていたが、本当にその通りだったか……。


 先生は生活能力が皆無だった。

 放っておけば何も食べないし、身の回りのことは何もしようとしない。家事も掃除も、細々とした手続きも何一つやらない。


 家にはベッドがあるのに、寝るときはその辺の床やソファで寝るし、布団や毛布も使わないし。

 仕方がないので、先生の健康管理も俺の仕事になっていた。

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