ラピスラズリ・ボトルメール - 人格を伴わない小説

すがらACC

1章 ストーカーがいっぱい

1話 襲来



 天才は誘蛾灯のようだ。




 * *




「はぁ、はぁ、はぁ……」

 俺は、息せき切って長い階段を駆け上っていた。


 タワーマンションを最上階まで階段で上るなんて、明らかに正気の沙汰ではない。

 しかし、そうまでしてでも最上階を目指す理由があった。


 俺の名前は砂洲本さすもとけん。二十五歳。出版社に勤めている文芸編集者だ。


 きっかけは、俺が担当している作家先生に届いたファンレターの中身を検めているとき。

 微笑ましいものから悍ましいものまで、様々なファンレターがあった。その中で、ひとつの手紙が目に留まった。


 それは至って普通の熱烈なファンレターだった。先生に送られるファンレターにはもっと常軌を逸したものがたくさんあるので、それ自体は問題ない。


 しかし、目を引いたのは最後の一文だ。

 この手紙はこう締められていた。


「今度、会いに行きますね!」


 先生は素顔を一切公開していない。無論住所等も。ファンと顔を合わせるような催しを行う予定もない上に、これまでやったこともなく、会いに行けるはずがない。


 それなのに、「会いたい」でも「会いに行きたい」でもなく、「会いに行く」という書き方。


 嫌な予感がして、ずっと心の片隅に残っていた。

 そういう予感というのは往々にして当たるものだ。


 今日、先生の家――高級住宅街のタワマン最上階を訪ねようとしたとき。

 エントランスに、妙な人間がいた。


「先生っ! 早く開けてください! あたしが、会いに来たんですよ!」


 高校生くらいであろう容姿。長い茄子紺色の髪を二つ結びにしている。

 オートロックの前のインターホンで、何やら騒いでいた。


「どうして開けてくれないんですか!? 他の誰かと間違えてるんじゃないですか? ちゃんと確認してください! 先生!」


 ……先生?

 この世には、先生と呼ばれる職業なんていくらでもある。

 だが、胸騒ぎが膨れ上がる。


「すぐ帰りますから! 会ってくれるまで帰りませんから!」

「……分かった」


 インターホン越しに、部屋主の応答があった。

 機械を通した、音質が悪い声。だが、それは俺の担当作家の声に聞こえた。


 間髪置かずに、固く閉ざされていた自動ドアが開く。オートロックが解除された証だ。


 少女は、喜び勇んでマンションに入っていく。


 なんだ?

 招き入れたのか?

 あれを?

 

 家まで突き止めて突撃してくるなんて、明らかにまともなファンじゃない。

 それなのになんで――


 俺は慌てて少女の後を追う。

 だが、彼女の足取りは速く、既にエレベーターに乗り込んで行ってしまった。移り変わっていく階数の表示で、上に――最上階に向かっていくのが分かる。


「ぐ……」

 俺は急いでエレベーターのボタンを押す。


 しかし、二基あるエレベーターの内、もう片方はご丁寧に各階に順々に停止していた。誰かが、全ての階のボタンを押したらしい。


 ……なんだ? 小学生の仕業か?

 こんなの待っていたら、先生がどうなるか分からない。


 仕方なく俺は階段に駆け込んで、上を目指す。

 何段も上りながら先生に電話を掛けるが、出ない。元々あまり電話に出ない人とはいえ、こんなときにもか……。


「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」

 なんとか最上階に着いたものの、息ができなくて、えずきそうになる。


 頭がくらくらする。身体に力が入らない。

 だが休んでいる暇はない。


 考えてみればこれ、エレベーターを待っていた方が早かったんじゃないだろうか。

 そんなことが頭をよぎりつつも、必死に足を動かして先生の部屋の前を目指す。


 合鍵を使うまでもなかった。

 玄関のドアは開いていたから。普段は鍵が掛かっているにも拘らず、だ。


 まずい。

 既にあの少女、部屋に踏み込んで――


「先生!」

 俺はすぐに部屋の中に飛び込んで、広い廊下の先、リビングのドアを開ける。


 街が見渡せる眺望抜群の大きな窓。家具は、モデルルームからそのまま持ってきたかのようなデザインと配置。アーティフィシャルな観葉植物。


 部屋の中央のソファに、悠然と腰掛けている女性がいた。


「砂洲本くん? どうしたんだ、そんなに息せき切って」

 涼やかな声で、その人は言った。


 すらりとした細身の体躯。女性としては背が高い方だ。才知を感じさせる切れ長の瞳は赤く、肩にかかる程度の黒髪は、ウルフカットに近い。

 色白で容貌は整っている。全体的にマニッシュな雰囲気を身に纏った美人だ。


 霧島きりしま一葉かずは。今、日本で一番有名な作家と言っても過言ではない人物で、俺の担当作家だった。


「……誰の、せいだと。ちょっと階段で急いで来たんですよ」

「え?」

 先生は目を丸くした。


「階段って……一階から? ここまで? 階段で? 絶え間なく?」

 身体を動かすことを嫌う彼女には、余計に理解できないだろう。


 それもこれも、あの突然の闖入者が原因だ。


 やはり例の女子学生は、部屋の中にいた。

「なんですか? あなた。どうして先生の家に?」

 自分のことを棚に上げて、こちらに訊いてくる。


「き、君の方こそ、見ず知らずの人間の家に勝手に押しかけていいと思ってるのか?」

「あたしと霧島先生は見ず知らずなんかじゃありません! 強い絆でつながっているんです!」

 ストーカーの常套句を言いながら、少女は詰め寄ってくる。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330656080331373


「……知り合いですか?」

 そう訊くと、先生が何か答える前に少女が遮る。


「妹です!」

 妹? 誰の?

 無論この状況から鑑みるに、先生の、だろう。


 しかし果たして事実なのだろうか。兄弟がいるなんて聞いたこともない話だ。


「まぁ妹というか従妹だな。父方の。箱辺はこべさゆるちゃんだ」

 横にいる先生が呆れたような表情をして言う。


「ああ、なるほど」

「違います! ヒトの長い歴史において、四親等と二親等なんて大して変わらないじゃないですか! 同じようなものです!」


「は、はぁ……」

 屁理屈にもなっていない。なかなか素晴らしい思考回路を持っている人物のようだ。


 大方、親戚という立場を利用して先生の住所を突き止めたのだろう。


「それで、先生の従妹が何故ここに?」

「先生に会いに来たんです!」

「会いにって……何か大事な話でもあったのか?」


「先生に会いたかったからです!」

 さゆるちゃんは躊躇いもなく言い切った。この子、話が通じないタイプだ。


「というか霧島先生! この男は一体なんなんですか!?」

 それを言いたいのは俺の方なんだが。


「俺は先生の編集者――」

「恋人だよ」

 霧島一葉は、俺の言葉を遮ってそう言った。


「せ、先生……!」

 否定できるものなら、否定したかった。特に、今この場では。


 だが、生憎それはできなかった。

 事実俺は、先生と交際関係にあるのだから。


 彼女は、なおも言葉を続ける。

「これ以上ないくらいラブラブでね。私の担当編集者も務めてくれているんだけど、彼がいないと小説が書けないくらいだよ」


 火に油を注ぐような真似を……。一体どこからそんなでまかせが出て来るんだ。


 当然のようにさゆるちゃんは俄然気色ばむ。

「先生はこの男に騙されているんです! どうせ結婚詐欺師なんですよ!」


 全く根拠のない断定である。

 そりゃ金は欲しいけど、そのために先生みたいな人と付き合うほど物好きじゃない。


「霧島一葉ほどの人が、なんでこんなぱっとしない無個性な男とお付き合いしてるんですか!?」

「なんでって言われてもねえ……」

 先生は腕を組む。


「成り行き?」

 彼女にとって、あれは成り行きなのか……。まぁ俺にとっては成り行きだけど。


「そ、そんな自堕落な関係いけません! やっぱりこんな男とは別れるべきです!」

「ええ、でも別れたくないしなぁ……ほら、砂洲本くんからも言ってくれよ。がつんとさ」


 がつんと何を言えばいいというのだ。

 だが話を振られたからには仕方がない。咳払いしてから話す。


「それより……さゆるちゃん、だったっけ? 君、こんなことしていいと思ってるのか? 親御さんとか学校とか警察とか、そういうところに連絡してもいいんだぞ?」


「え?」

 さゆるちゃんは、さも思いも寄らないことを言われたかのように呆気に取られる。


「お、親とか学校とか警察は関係ないじゃないですか!」

「犯罪に直面したら、その辺に連絡するのは当然だろ?」


「犯罪……? 犯罪なわけないじゃないですか! あたしはただ先生に会いに来ただけなのに!」

「ええ……」


 犯罪だという自覚がないのか?

 他人の家に無理やり押しかけといて?


「住居侵入罪に、つきまとい行為、はたまたストーカー規制法……君がしていることは立派な犯罪だぞ!」

「そ、そんなわけありません! そうですよね、霧島先生?」


 さゆるちゃんは先生に水を向けるが、彼女は冷淡だった。


「犯罪である点に関しては疑いがないな」

「そんな……」

 不法侵入者はがっくりとひざを折る。


 こうして、あわれ危険ストーカーは撃退されたのだった。

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