第十五話 風


「あの、なんて?」


「俺、やっぱ俺より早いやつの言うことじゃないと聞けないんだ。先生だって俺より遅いからさ」

「……成長してないぃ」


 私は陸上部に居た頃の伊勢くんを思い出す。

 ホント、誰の言うことも聞かずにただイノシシみたいに走るだけだったけど、それは残念ながら変わってないようだ。


「しょーがねぇじゃん。でも、お前の言う事ならきっとそれなりに聞くし守れると思うんだ! お前だけなんだよ、俺より早いのはさ!」

「いや、今は……」

「あの時は早かった! だからいいんだ!」


 伊勢くんが瞳を輝かせてずい、と前に出る。こんなときも前のめり、フライング気味だ。思わず一歩下がる。


「先生に頼んでも部を辞めたからって聞いてくれねぇし、探しても学校じゃなかなか会えないし」


 不満そうな伊勢くんの言葉にどきっとする。実際私、陸上部を避けていたから。


「で、そこの女子がよ、かなえと仲がいいって知って、聞いてみたんだ」

「この話、伊勢くんからだったの?」

「俺のことなんだから俺から言うに決まってるだろ」


 驚いて茉莉を見ると、茉莉はバツが悪そうに顔を背ける。


「……なるほど。そこの男子は自分のためだけにここに来たと」

「やな言い方すんなよな!」


 美菜を見て伊勢くんが口をとがらせた。


「で、どうだ? もうすぐ大会があるんだ。八百が走れる貴重な大会なんだよ! 俺、また予選落ちとかしたくないんだ! 頼む!」


 伊勢くんが周りに響くくらい両手を思いっきり柏手して頭を下げる。本当に何をするときも全力。全然変わってない。


「でも私、一年近くまともに走ってないんだよ?」

「知ってる。アドバイスだけでいいんだ。八百メートル走って俺に勝ったのはお前だけだ! お前の言う事なら聞くから! だから頼む!!」


 伊勢くんの目は本番直前の時のようにギラついていた。これは本当に本気の時だ。


「……今の私で出来ることなら」

「ぃよっしゃ!」


 伊勢くんが飛び上がった。うん、やっぱり脚力すごい。


「かなえ? ドーナツは? あと勝負は?」


 美菜、心配する順番がおかしい。


「私たちの勝負って、まさにこういうことじゃないの?」

「あ」


 美菜がはっと口を開ける。


「そんなに一緒にドーナツ食べたかった?」

「べ、別に……。まぁ、少しは……」


 甘い物好きが多いなぁ。


「そういう事だから、それはまた今度ね」

「……分かった。今度」

「うん、いい子」

「うん……って! いや、かなえ! 子供扱いしないでよね!」

「あ、ごめん。つい」


 我に返った美菜が口をとがらせた。怒った顔が今はそれほど怖くない。


「もう……」


「あの」


 ふと、不安そうな声が控えめに聞こえてくる。

 そうだ、と茉莉を見ると、むつけるような、不安そうな顔で私たちを見ていた。

 しまった、おいてけぼりだ。


「茉莉。茉莉のやりたいことは分かったよ。伊勢くんの事だから、確かに前もって言われていたら私、どうしたか分からなかったよね」

「……うん」


 茉莉が服の裾をいじりながら頷く。


「でも、もやっぱり言ってほしかった。聞いてすっぽかすようなマネはしないよ。多分」

「ごめん……」

「あと美菜の事だけど……。ええと、これは言い訳だけど今日ここに来るまで本当に知らなかった。だけど、私も茉莉と話すことから逃げすぎていたんだ。だから、ごめん」

「うん……」


 頭を重そうに、少しすねたような視線で顔を上げ、それから茉莉が美菜を横目で見る。

 私がほら、と促すと美菜は少し不満そうにしつつも。


「……若狭さん、私も一応、割り込むような真似して……悪かったわ」

「ううん。私も、クラスメイトなのに、嫌がるような真似してごめんなさい」


 私たちはお互いにごめんなさい、と頭を下げた。

 うん、これでとりあえずは収まっただろうか。


「なぁ、もういいかぁ?」


 蚊帳の外の伊勢くんが一人暇そうにしていた。


「あ、ごめん。えと、じゃあ私、これから伊勢くんとフォームとかの確認をしてくるよ」

「え? 今から見てもらっていいのか?! いや、それ最高だけどよ」


 やった! と伊勢くんの目が輝く。


「あ、なら私も一緒」「お前はいい」


 茉莉が言いかけると伊勢くんはバッサリ断る。


「話が分かるやつと集中したいんだ。連れてきてくれたのはサンキュだけど、悪いな」

「ううん、いいよ。その為に来てもらったんだもんね」


 茉莉はちょっとだけ苦笑いして遠慮してくれた。


「よし! 実は俺、靴もウェアも持ってきてんだ。今からグランド行くぞ!」

「やっぱりね」

「分かってたのかよ」

「伊勢くんが話だけするために来るとは思ってなかったよ。いつもならグラウンドにいる時間だし」

「さすがかなえだ!」

「じゃあ美菜、茉莉、ちょっと行ってくる。ゴメンね」


 二人は並んでいってらっしゃい、と私たちを仲良く並んで見送ってくれたんだけど。


「若狭さん」

「何? 能登さん」

「ちょっとお話、いい?」

「いいよ。私もお話あるんだ」


 仲良くしてくれるのはいいけど、できれば二人とも笑顔で語らってほしいなー。

 涼しすぎる表情の二人に後ろ髪惹かれる思いながら、私はその場を離れた。


 伊勢くんはリードが外れた犬みたいにすっ飛んでいく。

 追いかけて走る私の足は不思議と軽く、風が後押ししてくれている気がした。

 後ろを見た伊勢くんは私が意外に離れていないのを見てギョッとし、すこしつんのめる。

 危ない、と思いながらもその仕草がおかしくて、私は声を出して笑ってしまった。


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