第七話 お化粧の理由


「なな、なんで……げほげほっ!」

「ああ、落ち着いて。はい、お茶飲んで深呼吸しんこきゅう」


 むせる私を見てアプリさんが背中を擦ってくれた。

 言われるがままにお茶を飲んで深呼吸すると確かに少し落ち着いたけど、それでも心臓がドキドキして目が回っている。


「急にごめんね」


 アプリさんは指でお茶を持つ私の手を撫でる。

 見た目よりも体温が低く、指先がひんやりして心地よい。

 それだけで不思議と私の心はゆっくりと落ち着いていった。


「まずは今の気持ちに素直にならないとね」

「別に普通で……」


「前を向くのが辛いのは普通じゃないよ」


 その一言で息が止まりそうだった。

 言葉に詰まった私を見たアプリさんが微笑み、メイクボックスの鏡のライトを点けて私の顔を照らした。

 まるで芸能人のメイクの準備みたいで無意識に背筋が伸びてしまう。


「まずはお試しってことで、すこーし気分を『軽く』しようね。お代はもらってあるから気にしないで」


 お代ってさっきのスフレ?


 首を傾げているとアプリさんは私のほっぺを両手で包むように触れた。ドキッとしているとこうか?こうだ、と私の顔をぐにぐに動かし、鏡に対してまっすぐに向けさせる。

「ん、これで正面」

 アプリさんがよし、と笑った。


 ……正面を向くとこんなに視界が広いんだ。


 視界に床がない。私は自分がどれだけ下を向いていたのか思い知る。

 アプリさんはそれからファンデーションを開け、中のケーキを幅の広い筆で撫で、私の頬をくすぐったいようなふんわりした力加減で染めはじめた。

 嗅いだことのない優しい香りがして気が緩む。

 そして次に細い筆とリップを取り出す。

 リップをさっとなでると穂先が淡い桃色に染まりキラリと光る。穂先が私の唇に近づき思わず目を瞑る。


「はーい、動かないでね」


 唇につややかに綺麗にリップが塗られる、かと思ったんだけど。


「む……」


 アプリさんは小さく唸って筆の穂先を私の唇に触れるか触れないかの距離でちょこちょこ、と動かす。

 リップクリームくらいは塗ったことがあるけどそれとはぜんぜん違う初めての感覚だった。

 筆で塗るとこんな感じなんだ。くすぐったい。


「次はアイライン」


 アプリさんが迷いのない動きでペンを持ち替え、私の目元にペンを走らせる。それもやっぱり塗るというよりつつくような不思議な指使いだった。

 それは何故か心地よくて、お腹の中からふわっと何かが浮かんでくるような気分になる。

 不思議でびっくりで固まっているうちに「はい」とアプリさんは筆を離して両手をぱっとひらく。

 一分もないような、一時間も過ぎたような、不思議な時間の流れだった。


「鏡を見て」


 アプリさんがメイクボックスの鏡を指差す。すこし緊張しながら鏡を見ると。


「誰?!」


 思わず声が出た。

 映っているのはもちろん私。でもやっぱり誰? と思わずにいられなかった。

 同じ顔なのに違う。

 自分が他人になってしまったような気がしめまいを起こし、ふらついた私をアプリさんが身を乗り出して支えてくれた。


「大丈夫?」

「あの、これ、私?」


 鏡の中の私を指さしながら言うとアプリさんはにこりと頷く。

 自分で言うの悲しいけど、うすらデカくてボーッとした冴えない顔のパーツ一つ一つがどこかシャキッとして見えた。

 うまくいえないけど、まるで水を撒いて艶が出た花。

 化粧をしたなんて言われないと分からないのに、とにかく違う。

 これって……そう、まるで今朝の若狭さんだ。


「アイライン引いて少しファンデしただけなのに……」

「アイラインの中に文字が隠れてるんだよ。元気になるおまじないの文字が」

「え?」


 鏡を見ても普通に線があるようにしか見えない。


「ね、軽くあーーーっ、て言ってみて」

「は、はい……」


 すう、と息を吸う。……あ、なんか肺が広がったような気がする。


「あーーーー。……あ? うえぇっ?」


 驚いて喉を押さえる。声まで何かが違っていた。

 いや、違わないよ。なんにも変わってない。

 でもそれでも確かに何かが違っている。


「え? 私、何か変になっちゃった?」

「何も変わらないよ。すこーし心の重しをとっただけ」

「重し?」

「今の視界はどう?」

「視界って……」


 そういえばなんだかアプリさんがさっきよりも小さくなったと思ったけど……ううん、違う。

 そうだ、私の背筋が伸びているんだ。


「うん、しゃんとしている方がいいよ。息も楽でしょ?」

「私、背中をこんなに丸めていたんだ……」


 胸に手を当ててもう一度深呼吸。

 空気を吸って気持ちいいなんて感じたこと無かった。


「これ、今のおまじないで……ですか?」

「そだよー」


 アプリさんがカニみたいにチョキチョキしながらにっこりと微笑んだ。


「……魔法みたい」


 普段は思っても言わないような例えがぽろっと出た。


「魔法だよ、ある意味」


 ふんわりと微笑みながら言うその言葉があまりに自然で信じてしまいそう。

 私は首元をくすぐられたような気分になり笑い返す。

 そして、楽になった呼吸と一緒に胸の奥に押し込んでいた言葉が勝手に溢れだした。


「今日、学芸会でやる演劇の役決めがあったんです」

「ああ、そんな季節だね。何やるの?」

「『鳥巫女とりみこ』ってお話、知ってますか?」

「江戸時代、この辺りが村だった頃、一帯を飢饉から救った鳥使いの巫女のお話だね」


 あ、知ってるんだ。かなりマイナーなお話だと思ってたのに。


「神の使いの鳥たちが持ってきた種や果物を持って村を救おうとするっていう、この辺りに伝わるふるーい伝承じゃない。渋いねぇ。そんなに明るい話でも無いよ?」

「若狭さんの案です。父母や先生に好印象になるからって。で、これが台本です」


 ランドセルから台本を出してアプリさんに見せる。


「どれどれ……。うわ本格的。セリフはさすがに簡単にしてるけど、おおよそ物語どおりだねぇ。……ああ、ここはこういう伝わり方かぁ。違うんだけどなぁ……」

「はい?」

「何でもないよー。それで?」

「若狭さんがプリントして作ったんです。で今から台本は常に持ち歩いてセリフを覚えるように。自分のセリフだけじゃなく前後のセリフも頭に入れて、状況と感情が繋がるようにしなさいって」

「すごいねその子」

「あ、若狭さんはクラスの女子で、なんていうか……その、ボス的な感じ?」

「ボスかぁ」


 アプリさんが変な顔で笑う。


「それで若狭さんが鳥巫女の主役をやりたがっていて、今日学校にお化粧して来たんです」

「へぇ……。何? 主役ってそんなに倍率高いの?」

「いえ、どっちかと言うと確実にするため、かな。元から若狭さん以外の女子はそんなに積極的に主役やりたいって子はいないし」

「確実に主役の座を掴み取るため、印象を良くしようとお化粧してきたと。どんな感じに見えた?」

「ぱっと見は普通なんです。よぉく見ても正直わからないくらい。でも、明らかに普段よりキレイで、すごく魅力的に見えて……」


 輝いている。

 まさにそう見えた。思い出すだけでまた背が丸まりそうになる。


「ゆっくりでいいよ」


 アプリさんの一言。それだけで縮みかけていた背筋が伸びる。

 アプリさんの言葉って一言一言がその気にさせてくれるなぁ、と私は救われる気分だった。



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