第3話 二章

 昨夜はよく眠れたのか、なんとアラームがなる前に目が覚めた。枕元においてある携帯の電源をいれると、時刻は五時と表示されていた。まだ、みんなが起きるまで三時間もあるから、荷物の整理をしたいがうるさくはできない。

 その結果、枕元に設置されている小さなライトをつけて、持参した小説を読むことにした。


 普段から小説を読むわけではないけれど、飛行機での移動中に読もうと思って購入したものだ。ただ、本の選び方もわからないので話題の新刊というコーナーから適当に見繕ってきたものだった。


 その小説の一幕にはこんな言葉があった。

「人間とは生物全体で見ても、身体的には平均的だ。大きさもクジラのように大きいわけでもなく、蟻のように小さいわけでもない。力もゴリラほども無いが、カブトムシよりは大きい。人間の特徴とは、その頭脳である。しかし、その頭脳は太陽すらも超えてしまった。ついには生命活動にも関係のないところで、大量の死が訪れた。いずれ、人間はみな太陽に焼かれて死んでしまうのだろう。そんな時に私は、真っ先に海にたたきつけられて死にたい。太陽の熱で焼かれたくはない」と。


 亜蓮にはこの言葉の意味が分からなかった。

 結局、難しい小説は最高の睡眠薬となる。途中で再び亜蓮は眠りについた。



 ジリリリリリリリリリン、ジリリリリリリリリリ

 目覚まし時計のけたたましい音が、四人を無理やりに夢から覚めさせる。

 午前八時ジャスト、時計は狂っていないようだ。

 今日は入学式と、教科書などの備品を受け取りに行く。


「朝ごはんも、食堂で支給されるから。取りに行こうか」


 最低限の歯みがきと洗顔を終えて、四人で食堂へと向かう。ちらほらと他の部屋からも出て来る人が見える。食堂は、思ったとおりにこんでいた。流れ作業で朝食の準備をする食堂のおばちゃんたちは、寸分狂わぬ完璧な動きで次々とセットを作り上げていく。


「今日はスクランブルエッグとトースト、ソーセージみたいだね」


 えらく外国的だ。どうやら、白米に味噌汁と味付け海苔の日もあるらしいので、亜蓮は楽しみだった。味は、もちろん美味しい。


「今日の荷物はなんだ?」


「筆記用具ぐらいでいいんじゃないかな。一応、カバンがないと教科書を受け取る時に不便だと思うけれど」


 部屋に戻って荷物の準備をする。こんな風に誰かと会話をしながら登校の準備をしたのなんて初めてだ。なんだか、初めてだからか少しの高揚感を覚える。

 制服は部屋のクローゼットに全員分が準備されていた。少し紺色がかった黒のブレザーに、真っ白なカッターシャツという、無難な組み合わせだ。一つだけ特徴をあげるとすれば、日本最高級の衣類メーカーの『ラ・アンクル』によって作られたものだ。この『ラ・アンクル』も当然のことだが、学園に出資している企業の一つだ。


 それから体育館に移動した。昨日の夜に、通りがかっただけでその大きさはイメージで来ていたが、いざ入場してみるとそれ以上だった。全校生徒がすっぽり収まってなおも余りある。多分、片方で集会をやりながら残ったスペースでバスケットボールの大会でも開けそうだ。壁にはゴールが八個と、アリーナ席まで用意されている。

亜蓮達が所定の場所に着くと、壇上に一人の男が現れた。

 亜蓮と同じ制服を身にまとっているので、先輩にあたるのだろう。その人は新入生たちの雑談が止まないまま、話を始めた。

 マイクを使っているわけでもないのに、その音を一言一句、聞き逃すことは無かった。


「新入生諸君。おはよう」


 おはようという言葉に合わせて、雑談の音が徐々に小さくなる。

 しかし、壇上の彼が話始める前から、同じようなボリュームだったのではないかと思う。不思議な感覚だ。体育館の壁に音が反響しているせいだろうか。

彼は続けて、


「僕達はここにいる百二十人の入学を心から歓迎します。どうぞこれからよろしく」


 彼が深々と頭を下げると、それに合わせて拍手が起こる。

 彼の声には、人の心を掌握するような落ち着きがある。


「申し遅れました。僕の名前は有栖川清治。この学園の生徒会長を務めています」


 所々で声が聞こえる。


「生徒会長か~すごい」


「なんかちょっとカッコよくない?」


「生徒会に入ろうかな~」


 ほとんどが女子生徒によるものだ。下世話なものが大半で、女性というのはどうやら高校生くらいから話すことが変わらないらしい。


「本日は校長が不在のため、このまま僕が進行させていただきます」


 そこから十分ほど話して、舞台から降りて行った。その説明はとても分かりやすかった。この説明の原稿作成者の思慮深さがうかがえる。

 代わりに今度はスーツを身にまとった、先生らしき人が話を始める。


「俺は一年一組を担当することになった尾形だ。担当教科は国語と社会科だ。よろしく」


「二組の担任を務めることになりました。更科です。担当教科は理科と数学。よろしく」


「三組の担任をします。新垣です。担当教科は英語と音楽。どうぞよろしく」


 亜蓮は三組なので新垣先生が担任だ。


 長い髪の毛を後ろで結った、キリっとした感じの美人だ。スーツ姿にハイヒールが良く似合っている。背も高く、まさに女性が憧れる女性像だった。しかし、その目が鋭いせいか少し怖く見える。慣れるまでは、少し気を使ってしまいそうだ。


 そこから、担任の先生に連れられて体育館を退場する。てっきり校歌斉唱や、来賓の挨拶でもあるのかと思っていたが、時間にしてはわずかに三十分ほどで入学式は終わった。まあ、毎度の始業式と終業式で校歌を斉唱するなんて今になって思えば、無駄なことだ。

 どこの高校でもこれくらいスムーズなら、生徒たちは喜んでいるだろう。


 そこからは校舎を歩いて先生の説明を聞くことになっていた。


「ここが理科準備室だ。実験の時はここを使用する」


 先生は、とにかく端的な説明で終わらせる。そのおかげか、亜蓮たちは立ち止まることなく、校舎を一周した。まあ、地図も配られた生徒手帳に乗っているから大丈夫だとは思うけれど、果たしてこの人が英語を教えるのに向いているのだろうか。


「そして、ここが教室だ」


 先生がぶっきらぼうに教室のドアを開くと、そこにはまっさらな教室が広がっていた。いくつか、私立の高校に学校見学へ行ったが、それらはあくまで綺麗に掃除して取り繕われたものだった。しかし、これはものが違う。まるで、出来立てのようだった。


「席順は前に書いてある通りだ。これは五十音順になっている」


 とりあえず、先生が教壇の隣に立ったから、亜蓮達は座れということだと解釈して各々が自分の居場所を見つけて席に着いた。五人の列が縦に八列。合わせて四十個の席がどんどん埋まっていく。そして、最後に残った席が埋まった時点で、先生は話し始めた。


「さっきも言ったが。新垣凪沙。担当科目は英語と音楽。君たちの担任だ」


 それだけ言って出席簿を開く。どうやら、生徒たちと業務以外で関わる気は無いらしいけれど、既に男子の中には先生に対して鼻の下を伸ばしている奴らがちらほらいた。例えば、ちょうど隣に座っている藤川とかだ。


「おい、何をどぎまぎしてるんだよ」


「うるせぇよ」


 亜蓮が肘でつつくと、藤川が少しオーバーなリアクションをした。視界の端では青山と赤城がこちらを見て笑っているのが見えた。しかし、その空気を一瞬で凍らせたのはやはり彼女だった。


「静かにするように」


 その威厳たっぷりの声が教室に響き渡ると、顔を見合わせていた生徒たちもすぐに姿勢を正して教卓のほうへと向き直った。それに満足したのか、先生は話を続ける。


「まあ、自己紹介は各々でしてください。これから十分の休憩をはさんでから、授業の流れなどを説明して今日は終わりです。トイレは皆さんから向かって廊下に出てから前に行けばあります。では、十分後に再びこの状態で集合してください」


 そう言って、先生は教室を後にした。それを見た赤城と青山がこちらに近づいてくる。


「お前ら、さっそく注意されてたな」


 赤城が笑う。青山も苦笑していた。まさか、こんな形で注目されるとは思っていなかったけれども。まあ、先生も後に引きずるようなタイプではないだろう。

 そう言って四人で話していた時だった。なんと、亜蓮たちに近づいてくる女子がいた。


「ねえねえ、青山君ってもしかしてサッカーしてた?」


 そこにいたのは、長身で手足もすらっと細い美人だった。足が教室の机を軽く超えており、座りながら話していた亜蓮は大きく見上げる形になる。


「ん? そうだけど」


「やっぱり! 青山君って埼玉出身でしょ!」


 どうやら、その女子は青山のことを知っているらしい。てっきり、青山の容姿にひかれて声をかけてきたのかと思ったけど、違うようだ。


「私、埼玉でサッカー部のマネージャーやってたんだ! 名前は銀木ありさ。よろしくね」


 そう言って、銀木さんは青山の手を握った。それがあまりにも自然だったけれど、いかにも女性に慣れていなそうな青山は、明らかにぎこちない。


「よ、よろしく」


 青山は差し出された手をなんとか握り返す。そんなことをされては、今日の夜に話すことは決まったようなものだ。


「いや~、これは邪魔してはいけませんな。俺たちは退散っと」


 赤城、藤川と目を合わせることもなく、三人は教室からトイレへと避難した。


 しかし、今度のいけにえはどうやら亜蓮らしい。


「あれ、亜蓮だ! お~い。って、なんだか駄洒落みたい!」


 廊下に出てきた亜蓮は、ある少女と出会う。

 この学校で自己紹介をしていない亜蓮の名前を知っているのは、ルームメイトの三人以外では、一人しか思い当たらない。この元気はつらつとした声は、間違いなく彼女だ。


「つむぎか。何組だったんだ?」


 堂場つむぎが、こちらに笑いかけてきた。周りには女子が複数人いる。


「こっちは一組だよ! 亜蓮は三組だよね。そっちはお友達?」


「ど、どうも……」


 つむぎは藤川と赤城に視線を移す。赤城たちはなんだか居心地が悪そうだ。ま、つむぎの周りには五人ほど女子が固まっているから仕方がないだろう。亜蓮も、なんとかつむぎのおかげでこの場所にいるようなものだ。いつかは、こういう女子の方が多い場所でも堂々とふるまえるようになりたいと思う。


 すると、藤川が亜蓮に耳打ちしてきた。


「お前まで抜け駆けかよ。じゃあ、またあとでな。俺たちは気の使える男だ」


 そう言って、赤城を連れて去っていった。まあ、こうなるだろうな。


「ねえねえ、もしかしてつむぎの彼氏さん?」


 つむぎと一緒にいた女子五人が騒ぎ立てる。亜蓮は、慌てて否定する。


「違うよ、俺とつむぎはただの幼馴染だ」


「え~、そうなの~」


 亜蓮がきっぱり否定すると、女子たちは残念そうに言った。


「友達、行っちゃったけど追いかけなくていいの?」


 つむぎはそういうことには疎いので、赤城たちの心配をしている。


「ああ、あいつらは大丈夫だから」


「そっか。それより、三組の先生はめちゃくちゃ美人だよね! 新垣先生だっけ。鼻の下を伸ばしてたらだめだよ!」


「はいはい」


 亜蓮とつむぎのやりとりを見て、他の五人は笑っている。風が吹いても笑う年頃の女子高生からすれば、夫婦漫才くらいの面白さはあるのだろう。


「なんか初々しいね。これからよろしく。山下君」


 結局、その場にいた五人とも顔見知りになったが、残念ながらほとんど顔と名前が一致しない。名前だけならともかく、どうやらみんな同じ化粧品で統一しているらしいからもう三回ほど会わないと五人の名前と顔が一致することは無いだろう。


「うん。よろしく」


 彼女たちは時計を見て、つむぎを一組へと連れて行った。


 一組の教室はトイレのほうから離れているので少し早めに戻らないといけないだろう。


「じゃあ、私たち行くね。バイバーイ」


「ばいばい」


 後ろ向きで歩くつむぎに手を振って、彼女たちと別れると、ちょうど藤川と赤城が戻ってきたので、亜蓮は二人に連れられて教室へ戻った。


 また、そこからの説明と言えば単調なものだった。新垣先生はとにかく説明が端的にまとまっている。それは効率を重視しているというよりは、無駄な音を省いているようにふるまっているんじゃないかと思えた。それは音を大事にしていると言えるのだろうか。難しいところだ。だが、亜蓮は理解ができたので問題はない。

 結局、簡単にまとめられた説明のおかげで、亜蓮達は他のクラスよりは一足先に今日の授業を終えて、帰宅を許された。説明なんてだらだらしても仕方がないし、これが続くのならありがたい限りだ。


「なあなあ、どうせこのまま戻っても寮は混んでるだろうから、先に食堂へ行かないか?」


 先生が解散を宣言すると、各々が立ち上がってルームメイトのところへと向かった。椅子の足が床と擦れる音が教室に響く。当面の間は、このグループが行動の軸になるのだろう。


「まあ、そうするか」


 亜蓮達は、青山のもっともな提案に乗った。しかし、それは青山の青山による青山のための食事会だった。そう、やはり賢い奴は二手先を読むのが上手い。


「あ、ここだよ」


 亜蓮達が揃って食堂に到着すると、それを見つけた一人の女子が手を挙げた。


「お前、そういうことか」


 真っ先に気が付いた藤川が、あきれるように言った。今日の朝に語っていたが、藤川は両目の視力が揃って二ほどあるらしい。昔からゲームなどに興味を持たなかったためらしい。

 そして、やがてそこで手を挙げている女子の顔が亜蓮と赤城にもよく見えてきた。


「いや、向こうに誘われたから。せっかくならみんなでさ」


 青山が必死に弁明しようと、藤川の大きな背中に追いすがる。


「ほらほら、ここは奢るからさ」


 そう言われて、青山のおごりで今日は昼食を摂ることになった。なんだか引き立て役のようにされたのが気に食わないでもないが、美味しい昼食をただで食べられる喜びに比べれば些細なことだ。かつ丼は、卵がとろとろでカツもジューシー。特に人のお金で食べられることが何よりもその美味しさを引き立たせていた。


「みんなには自己紹介をしてなかったね。私、銀木ありさ。よろしくね」


 まるで太陽かと言わんばかりに明るい笑顔で、こちらに微笑みかけてくる。世が世なら極楽浄土の女神さまと崇め奉られてもおかしくない。綺麗に磨かれた食堂の白いテーブルにも負けないほどに綺麗な肌も、亜蓮をどぎまぎさせるには十分すぎるほどに魅力的だった。


「銀木さんは、青山と知り合いなの?」


「そうだよ。私は埼玉代表のマネージャーで、青山君は中学埼玉代表だったんだよ」


「ええっ!」


 それは初耳だつた。亜蓮、藤川、赤城が驚嘆の声を揃えてあげる。それがコント的だったのか、銀木さんは口に手を当てて控えめに笑っていた。


「いや、でも僕は代表の控えだから」


 だとしても、県の代表に選ばれるなんてすごいんじゃないか。サッカーをやったことがない亜蓮あらすれば想像もできないけれど、代表という響きはそれだけで威厳を感じさせる。


「でもね、青山君って私の事を覚えてなかったんだよ。ひどくない?」


「いや、ごめんって。それは」


 なんだか仲睦まじい。せっかくのかつ丼がまずくなりそうだ。そう思っているのは、どうやら亜蓮達だけではないらしい。銀木さんの隣に、ちょうど亜蓮の向かい側に座っている彼女も不満そうな顔をしながらスパゲッティをフォークに撒いている。


「どうしたの? 顔にソースが付いてる?」


 どうやら、亜蓮が気にしていたことを気づかれたらしい。赤い眼鏡の奥から、少しの警戒心を帯びた鋭い目が、こちらを見ている。


「いや、せっかくならクラスのみんなで仲良くしたいなって」


「そう」


 亜蓮がとりあえずの言葉で取り繕っているのがわかったのだろうか。彼女は興味なさげにそう言って、コップに半分ほど注がれていた水を流し込んだ。どうやら、新垣先生と同じく口数は少ないらしい。どこか、二人の雰囲気は似ている気がする。


「足利香澄」


「え?」


 彼女の口元が少し動いたのはわかったけれど、隣で藤川と赤城。銀木さんと青山が話しているせいでうまく聞き取れなかった。だんだんと昼食時になってきたせいか、食堂はざわざわとしている。亜蓮は、耳を近づけて指でもう一度と促した。


「名前よ。足利香澄。自己紹介の基本でしょ」


「ああ、俺は山下亜蓮。よろしくね」


「よろしく」


 彼女は亜蓮の名前を聞いても、ぶっきらぼうにそう返すだけだった。しかし、さっきほどは表情が強張っていない気がする。とりあえず、一歩前進だろうか。とりあえずの返事としてクラス全員と仲良くできればいいと言ったが、別にそれは嘘ではない。

 中学時代とは違って、みんなが違う場所から来たからそれが難しいことだとは分かっているけれども、仲が悪いよりは良い方がいい。亜蓮は、人を嫌うことをよしとしない。


 それは、自分の損にもつながるからだ。


「何か話してよ。話しかけてきたのに、こっちばかり話しているから」


「そ、そうだよな。えっと、出身は?」


「栃木。足利は地名姓だからね」


「じゃあ、好きな食べ物は?」


「これと、クリームソーダ」


 そう言って彼女が指さしたのは、ちょうど食べているミートソースのスパゲッティだった。学校の食堂にしてはかなり本格的で、おしゃれな葉っぱも端に添えられている。もう片方のクリームソーダが食べ物かなんて無粋な話はしない。あれの本体はアイスクリームとその上に添えられたさくらんぼだ。


「じゃあ、好きな音楽は?」


「平成初期のバンドグループ。最近の曲はあんまり知らない」


「へえ、どうして?」


 音楽には興味がない亜蓮は、勉強するときには基本的にラジオを流している。そのおかげで古今東西の様々なジャンルを知っているが、それは表面をなぞったに過ぎない。


 しかし、足利さんはどうやらその質問が意外だったらしい。少しだけ口を動かすこともやめて考えていたみたいだ。これまではテンプレートみたいな返ししかなかったし、こちらの質問もまるで就職面接のような淡々としたものだから仕方がない。


「そうね。例えば、流行りの曲は名曲かどうかわからないからかな」


「どういうこと?」


「平成初期なんて、私たちはまだ生まれていないでしょう?」


 平成初期。三十年以上も続いたその時代をおおまかに区切るのならば、平成元年から十年ごろになるだろうか。平成元年なんて九十年代にもなっていない。ベルリンの壁が崩壊した年で、ゲームボーイが誕生した頃だ。そんな頃の文化なんて、想像もつかない。


「ああ、そうだね」


「それなのに、私が知るほど誰かに語り継がれる。もしくは、どこかで聞く機会があるなんてそれは名曲であることを保証しているようなものだと思う」


 なるほど、それは一理あった。音楽制作に限らず、創作活動の難易度が格段に下がった現代において、名曲と呼ばれる曲かどうかをいちいち判断するよりも、昔から語り継がれる名曲を聴く方が、効率的である。なんだか、音楽に対するそんな姿勢が彼女らしい。


「それより、少し急いだほうがいいと思うよ」


 足利さんは、こちらのかつ丼を指さしてきた。確かに、藤川たちはすでに食べ終えているし、青山もそれなりに進んでいる。質問を考えることに集中していたせいか、箸が泊まっていた。亜蓮は、質問をやめてかつ丼をかきこんだ。


 足利さんが再び、つまらなそうに携帯電話を触っていたのは気のせいだろうか。

 結局、そこからは話す間もなく解散となった。別に足利さんを呼び止めても良かったけれど、あくまで銀木さんと青山が仕込んだ会だったので、そんなことを堂々とできるほど豪胆じゃない。いつか、話す機会はあるだろう。


「今日は、なんだかいい感じだったな」


 想像通り、夕飯時の話題は亜蓮と青山の女性関係についてだった。高校生の男子なんて、思考の大半は女の子だから、当然と言えばそのとおりである。


「そんなんじゃないよ。初めての場所で見知った顔がいただけだろうし」

 青山は謙遜するが、本人がそう思っていないのが口調や態度からも伝わってくる。まあ、亜蓮も青山ほどの容姿があれば自信を持つのかもしれない。アイドル系の顔に、サッカーも上手。よくよく考えてみれば、銀木さんともよく似合う。


「それで、亜蓮は二人の女の子に触手を伸ばしているわけか」


 二人の女の子というのは、つむぎと足利さんのことだろう。


 亜蓮が自分で言うのもなんだか、あまりにもタイプが違いすぎる。この二人を同時に好きになるのなんて、それこそ光源氏みたいな話だ。


「特につむぎちゃん。なんか馬鹿っぽくてかわいいよな」


 藤川はつむぎが好きか。まあ、足利さんには失礼だけれどもつむぎのほうが男子には人気があるタイプだろう。いつもニコニコしていて、どことなく抜けているから庇護欲もそそられる。


「馬鹿っぽいか……」


「ん? 違うのか」


 もちろん、彼女がそういう風に見えるのはよくわかる。亜蓮が一緒にいて肩肘を張らずにいられるのも、そういうつむぎの姿勢があるからだろう。だけれども、亜蓮は彼女の奥底にはとんでもない怪物が眠っていることも知っている。


 今年度の帝国学園入学生。三クラスにそれぞれ四十人ずつの合計百二十人。


 その中でつむぎが最も賢いと言われても、亜蓮は素直に受け入れられる。


「まあ、俺よりは賢いよ」


「そうか。まあ、女子なんて基本的に賢いよな」


 藤川の言葉はその通りだろう。男と女では持っている思考回路が違うし、女性の方がよっぽどうまくできていると思う。ないものねだりかもしれないが。


「足利さんも、メガネを外したらたぶん美人だよな」


 一方の赤城も、失礼な言葉ではあるが彼なりに褒めているのだろう。実際に、メガネをかけていると光の屈折が影響して、目が小さく見えるらしい。彼女の鋭い目つきも、メガネ影響を受けているのだろうか。


「まあ、二人とも恋愛とかそういうんじゃない。そもそも、今はみんなが新生活に慣れる段階でそんなことを本気で考えている奴は少ないだろ」


 高校生の段階で、親元を離れて暮らすなんて経験があるのはごく少数だろう。みんな、初めての場所で、初めての暮らしを強いられるのだから。


「そういうもんか。つまらんな」


「お前は下世話な話で盛り上がりたいだけだろ」


 藤川と赤城はそれからも、クラスにいたかわいい子の話をしていた。亜蓮と青山はそんなにじろじろと周りを見ていなかったから、名前と顔が一致する人なんて銀木さんと足利さんくらいだ。もうすでに、つむぎの友達はほとんど顔を忘れていた。

 そんなことを考えていたのが、まるでテレパシーのように伝わったのか、ちょうどつむぎから電話がかかってきた。噂をすればなんとやらだ。


「もしもし」


『もしもし! そう言えば、アイスを食べに行く約束を忘れてたからすぐに校舎前に集合でお願い!』


 それだけ言って、ガチャリと切ってしまった。いや、こちらはもうすでにシャワーを浴びて寝間着姿なのだが。まあ、いいか。寮に入ってからは、学校内なら寝間着で歩いてもいいような気持ちさえする。


「出かけて来るよ」


 それだけ言って上着をハンガーから外して羽織ると、後ろから茶化すような声が聞こえた。その声も、ドアがしまると同時に聞こえなくなる。防音性も抜群だ。


「あ、ここだよ!」


 つむぎは、相変わらず元気だ。藤川が馬鹿っぽいと言ったのも納得できる。この天真爛漫な笑顔は、みんなを笑顔にできるとともに、人に安心感を与えるのだろう。


「それでね、みんなに聞いたらアイスって十種類もあるんだって」


「そうか。それは良かったな」


 もう、寝間着に着替えているから上着を羽織っても夜風が冷たい。きっと、アイスを素直に食べることはできないだろう。まあ、つむぎの横で最低限だけ注文したアイスを食べていればいいだろう。


「えっと、バニラにチョコ。イチゴ、抹茶、チョコミント。他にもクッキー&クリームにラムレーズン。キャラメルにコーヒーとグレープだって」


 きゃあきゃあとはしゃぐのを、隣で眺める。とりあえず、亜蓮はシンプルなチョコアイスを注文して、先に席へついた。さすがに、夜風を拭き荒むこの時間帯にアイスを食べる人は少ないらしく、店には亜蓮とつむぎ。店員さんの三人しかいなかった。


「う~ん、すごくきれいだね。映えってやつかなあ」


 つむぎは、カップいっぱいのアイスを詰めてやってきた。バニラ、チョコ、イチゴ、抹茶の組み合わせだ。少しでも溶けだせば、すぐにカップから溢れそうである。


 つむぎは昔から冷たいものが好きだった。『おもちゃばこ』の店先にもアイスケースが置いてあったけれど、その半分はつむぎが食べていただろう。特に彼女は、縁日によくある『あいすくりん』が大好きだった。『おもちゃばこ』が潰れてからは食べる機会もなくなったけれど、きっと彼女は今でもあの味が好きだろう。


「家にいた時は、こういうものも食べさせてもらえなかったからなあ」


「えらく、昔のことみたいに言うな」


「ほんと。生活が突然、変わりすぎてまだついていかないや」


 それはその通りだ。結局、高校への進学を決めたのだってほんの一か月ほど前だ。私立の受験が終わった後。一通の封筒が新聞受けに差し込まれていた。今時、新聞受けに何かが入っていることは珍しい。


「それでも、友達ができたみたいでよかったじゃないか」


 案の定、アイスは冷たかった。一気に、体に鳥肌ができる。


「そうなんだよ。みんな、すごく優しくてね」


 そこからアイスを食べている間のほとんどは、つむぎの語る友達の話に終始した。


 亜蓮はもうすでに顔も忘れているせいで、誰が誰かは当然だがわからない。けれども、つむぎが楽しそうにしているのならば、それでいいと思えた。


「あとは、雪奈が見つかれば。完璧だな」


 だとしても、二人のやるべきことは変わらない。突然の、帝国学園からの誘い。もちろん、都市伝説的だとしても受験期間にはそういう話が流行るものだ。突然、封書が届いて学園への案内が同封されている。その内容は公にはなっていないけれども、さすがに一つの学校を情報がゆきかう現代において情報を秘匿し続けるのは現実的ではない。


 そこで、噂に上がったのが『おもちゃばこ』の店主が老衰による体力の低下でお店を続けることは叶わず、そのタイミングで雪奈に帝国学園からの誘いがあったというものだった。

 もちろん、近所の主婦がスーパーの総菜コーナーで話していたくらいのものだから、信ぴょう性はそこまで高くない。だけれども、高校なんてどうでもいいと思っていた亜蓮とつむぎは雪奈と再会できる希望を胸に抱いて、この学園の門をくぐった。


 この広い学園で特定の人物を探すことはかなり難しい。だけれども、学

園は外に情報を漏らすことは極端に嫌うけれども、内部では普通の学校に見える。もちろん、高校に通うのが初めての二人からすればどれほどのセキュリティで個人情報が守られているのかはわからない。

 男子寮の寮長はそこまで厳しくないらしく、昨日の入寮手続きでは部屋の端に入居者の名簿が放置されていることは知っている。彼が適当なのか、それとも個人情報の取扱いに関してはそこまで厳格に定められていないのか。


「女子寮の寮長は、頑固一徹みたいな人だったから、軽い感じで聞いても教えてくれないと思う。私も探してみるし、寮長とも仲良くできるように頑張るけどね」


 亜蓮は、アイスで冷えた舌先を温かいお茶で和らげながら、ふっと笑みがこぼれた。


「久しぶりに見せたな。その表情」


 つむぎは無意識だ。無意識のうちに、まじめな顔をする。

 こうなった彼女に、亜蓮が勝てたことは一度もない。まるで肉食動物が獲物に狙いを定めるような。人間が動物本来のものとして持っているような目つきをしている。


「雪奈ちゃんのことは大好き。でも、何も言わずに私たちの前から去ったことは許せない」


「そうだな。俺も同意見だ」


「ちゃんと会って、しっかりと謝ってもらう」


「何を?」


 亜蓮は、全てをわかっていながら演じるようにそう聞いた。


「私と亜蓮に寂しい思いをさせたこと」


「そうだな」


 つむぎがそう言った。そのタイミングで、亜蓮は立ち上がり、店員に二人分の代金を手渡した。店員はゆっくりと小銭を数えて、「毎度あり」とつぶやく。

 どうやら、つむぎの本気モード。彼女がその表情をした時を亜蓮はそう呼ぶのだが、それは長くは続かないらしい。いわゆる、決意表明みたいなものだ。寮に戻るころには、その顔はふんわりと和らいだ優しい表情に戻っていた。


 いきなり、この表情を見たら同部屋の子たちもびっくりするだろうから、これでいい。


「じゃあね。おやすみ」


「ああ、おやすみ」


 夜風は、やっぱり冷たい。


 遠くにあるグラウンドの照明塔から降り注ぐ明かりが、まぶしくつむぎの後ろ姿を照らしていた。彼女の足取りは、やはり軽かった。

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