変わってしまう前に

三鹿ショート

変わってしまう前に

 私の毎月の楽しみは、住んでいる地域から遠く離れた場所に存在する旅館にて、無為に過ごすことだった。

 初めて訪れたのは、忙殺される日々から逃げ出そうと思ったときである。

 仕事を無断で休み、電車に飛び乗ると、聞いたことがない名前の駅で降りた。

 駅を出てしばらく歩き続けていたところ、現在贔屓にしている旅館を発見し、私はそこに宿泊することにした。

 何の変哲もない旅館だったが、そこでの休息が私にとって良薬となった。

 探せば他に幾らでもこの場所よりも素晴らしい旅館が存在するのだろうが、私は偶然の出会いを大事にすることにし、それ以来、毎月の褒美としてこの旅館を訪れるようになったのである。

 何度か旅館の職員が入れ替わったこともあったが、それ以外は、この旅館において特に変化したことはなかった。

 この不変さが、私には心地よかった。


***


 気まぐれに旅館を出、近くの海岸へ向かった。

 時季がはずれているのだろう、観光客らしき人間の姿は皆無だった。

 私は砂浜に腰を下ろし、打ち寄せては消える波を無言で眺め続けた。

 忙しく働いている人間からすれば、時間の無駄だと言うことだろう。

 だが、このような時間が存在するからこそ、私は普段の仕事に精を出すことができるのだ。

 そんなことを考えながらしばらく砂浜に座っていたが、そろそろ旅館へ戻ろうと考え、立ち上がる。

 視線を海から砂浜に転じたとき、私はその女性を発見した。

 彼女は砂浜の中央あたりに倒れていたのだが、私は彼女の気配をまるで感じていなかった。

 しかし、そのようなことはどうでもよい。

 急病で倒れたのではないかと彼女に駆け寄り、声をかけながら頬を何度も軽く叩いた。

 やがて、彼女は寝起きのように声を漏らしながら目を開けた。

 しばらく周囲に目をやった後、私の存在に気が付くと、短く声を出した。

 突然、眼前に見知らぬ人間が存在していれば、驚くことは当然である。

 私は気分を害することなく、

「倒れていたが、どこか調子が悪かったのか」

 そう問うと、彼女は数秒ほど私を見つめてから、首を左右に振った。

「転んでしまったのです」

 その言葉が真実であるとは思えなかったが、初対面の人間に対する詮索は、あまり良いことではない。

 そう考えると同時に、彼女の腹部から大きな音が聞こえてきた。

 彼女は慌てて腹部に手を当て、その顔を真っ赤に染めた。

 思わず口元を緩めながら、旅館の方を指差すと、

「あそこに見える旅館に宿泊しているのだが、きみも来るかい。戻れば食事が用意されているだろう」

 私の提案に、彼女は目を丸くした。

「良いのですか。このような見ず知らずの人間を相手に」

「ここで出会ったのも、何かの縁だろう。たまには孤独な食事から離れてみることも、悪くはない」

 私が歩き出すと、彼女は無言で後を追ってきた。

 私の向かう先には、ここにやってきた際の私の足跡のみが存在していた。


***


 旅館での食事を終えると、彼女が立ち去ろうとしたため、私は止めた。

「今日はもう遅い。何処に住んでいるのかは不明だが、泊まっていってはどうだい。もちろん、何かあっては困るだろうから、私とは別の部屋だが」

 私の言葉に、彼女は再び驚いたような表情を浮かべた。

「何故、それほどまでに私に対して親切なのですか」

 そう問われ、私は自分でも不思議な感覚に陥っていることに気付いた。

「どうにも、きみを見ていると放っておくことができないようだ。上手い比喩が思い浮かばないが、道に迷い、痩せ細った犬を発見したような気分なのだ」

 私がそう告げると、彼女は初めて笑みを浮かべた。

 つられて、私もまた、笑顔になった。


***


 私が起床した頃には、旅館に彼女の姿は無かった。

 だが、彼女から依頼されていたのであろう職員から、彼女の連絡先を受け取った。

 連絡先が書かれた紙切れの隅には、機会があればこの旅館で再び会いたいというような内容が記載されていた。

 私は職員に礼を告げると、軽い足取りで旅館を後にした。


***


 それから私は、彼女と何度もこの旅館で会った。

 他の場所に外出することなく、ただ日が暮れるまで会話を交わし、食事を共にしては、別々の部屋で寝るということの繰り返しだった。

 単なる友人関係だと思っていたが、それに終止符を打ったのは、彼女の方だった。

 彼女は風呂から出たばかりの姿で私の部屋を訪れると、纏っていた湯帷子を脱いだ。

 彼女が帯びていた熱は、その唇を通じて私に流れ込み、我々はその日初めて、身体を重ねた。

 事が済み、寝転がっていた私は、外の景色を眺めながら涙を流す彼女を見た。

「一体、どうしたのだ。何が悲しいのだ」

 私が問うと、彼女は意識をこちらに向け、

「ここまで優しいあなたは、初めてだったものですから」

 彼女の言葉の意味が分からず、私は首を傾げた。

「まるで、これまでは別の私しか知らなかったかのような物言いだが」

「その通りです」

 彼女はやおら立ち上がると、鞄の中から奇妙な形をした物体を取り出した。

 硝子で出来ているようにも見えるが、材質は不明である。

 彼女は胸の前でその物体を両手で包み込みながら、

「これより数年後に出会うあなたは、乱暴的で、誰に対しても攻撃的な人間でした。それでも、私はあなたに好意を抱いてしまった。交際関係に至れば、どのような仕打ちを受けるかどうかなど、想像することもできていたにも関わらず」

 やがて、彼女が手にしていた物体から、光が放たれ始めた。

 闇夜を消し去るかのような強い発光に、私は思わず目を背ける。

「だからこそ、一度は優しいあなたというものを感じてみたかったのです。これで、思い残すことはありません」

 彼女が別れの言葉を告げると同時に、一際強い光が、室内を包み込んだ。

 目を開けた頃には、彼女の姿は消えていた。

 残された私は、彼女の言葉を脳内で反芻する。

 自身が暴力的な人間だと思ったことはないが、彼女と出会うまでの数年のうちに、私の性格を激変させるような何かが起きるということだろうか。

 途端に、己が恐ろしくなった。

 そのような攻撃的な人間と化せば、周囲は敵だらけとなり、平穏な生活を送ることは不可能だろう。

 彼女の忠告ともとれる言葉を受け止め、私は自分を律することに決めた。


***


 何故、あの人間は笑みを浮かべているのか、私を笑っているのだろうか。

 腹が立ち、殴りつけると、泣きながら財布を差し出してきた。

 これは良い、楽に稼ぐことができる。

 それを何度も繰り返しているうちに、私に近付く人間は皆無となった。

 しかし、彼女は異なっていた。

 苦痛を与えると、彼女はその表情を歪ませるが、よく見れば口元が緩んでいる。

 需要と供給が一致したというわけだ。

 彼女の姿は何処かで見かけたような気がするが、どうでも良いことだった。

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変わってしまう前に 三鹿ショート @mijikashort

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