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     ☆   ☆   ☆

 

 散々泣いた後で顔を上げれば、そこには柔らかく微笑む蓮がいた。

 もちろん前世の蓮と今の蓮の容姿は全然違うけれど、その微笑みに私は不思議と懐かしさと安心感を覚えた。

 あぁ、昔の蓮もこんなふうに微笑んでいたな…………と。

 しかし突如、気恥かしさが私を襲う。

 

 わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜ッ!

 相手が蓮とはいえ、くっ付きすぎだから!

 そもそも前世でも、こんな風にくっ付いたことなんてないからね!

 っていうか、この場合私が意識しすぎなの⁉

 ここはカレンと思うべき?

 いやいや思いっきりレインの姿だし!

 姉弟?それとも赤の他人?

 正解はどっち⁉


 前世においても、男性とほとんど縁がなかった私にしてみれば、とにかくこの状況は心臓に悪すぎる。

 そこで、一先ず蓮から離れようと顔を上げた。その私の目に飛び込んで来たものは――――――――


 ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜ッ!

 蓮の上等そうな服に、私の涙の跡がぁ!

 は、ははは鼻水は付いてないわよね!

 うん、付いてない!付いてないはず!

 

 もはやプチパニックだ。

 でも、このまま黙ってやり過ごすわけにはいかない……と、馬鹿正直に自己申告することにする。但し、神妙に……とはならず、プチパニックを継続したままで………だ。

「れ、れれれれ蓮!いや、レインさん、どうしよう!染み作っちゃった!こ、こんな上等な服に!あぁぁぁぁぁ〜ごめん!クリーニング代はちゃんと出すから!」

「へっ?」

「ほ、ほら、ここよ、ここ!でも大丈夫!鼻水は一滴たりとも垂らしてないから!そこは安心していいからね!」

 必死に最悪の事態だけは免れているからと、慰めにもならない言葉を重ねる。

 そんな私を、蓮は暫く呆けたように眺めていたけれど、突然何かのスイッチが入ったかのようにお腹を抱えて笑い出した。

「ね、ね、姉さん、笑わせないで……鼻水って………それに、クリーニング代って………」

「いや、だって……こんな上等な服、家では洗えないよ?ここはクリーニングのプロにお任せしたほうが……」

 洗濯機の手洗い機能だって所詮家庭用の代物だし、たとえCMでお馴染みの某手洗い用洗剤エ◯ールを使おうとも、限界があることを切々と語って聞かせてやれば、さらに大笑いしはじめた蓮の隣で、シエルが呆れ顔で告げてきた。

『貧乏性すぎや!アイリ、今のあんたは公爵令嬢で、レイン……いや、カレンは男爵令嬢なんやで!』

「あ……………………」

 そうでした…………とは思うけれど、未だこの意識にアイリスの記憶が一欠片も定着していないため、前世の貧乏性が前面に押し出てきてしまうのは致し方ないことだと思う。

 だいたいこちらは覚醒して数十分足らずの身なのだ。

 大笑いし過ぎだし、辛辣過ぎだと、一人と一匹を交互に睨み返しておく。

 しかし、図らずも蓮の腕から無事に脱出を果たした私は、憤慨しながらも改めて蓮の話を聞くことにした。


 

「―――――何と言ってもここは異世界だし?身寄りもないしさ、暫くは追手を警戒しながらシエルと一緒に路上生活をしていたんだけど、でもすぐに孤児院に保護されてさ………けれどその時、カレンの姿で保護されちゃったもんだから、そのまま表向きは女の子として生きることにしたんだよ」

「何歳だったの?」

「ん?五歳かな」

「そう………五歳で…………それからダイアー男爵家の養子となったのね?」

 思わずしんみりとした私の気持ちを慮ってか、御名答とばかりに蓮がニッと笑う。そして殊更軽い口調で続けた。

「ほら、レインの時もそうだけど、カレンとしての見た目もなかなかいいらしくてさ、王太子好みの女の子…………って言っても、所詮ダイアー男爵の好みなんだけど、孤児院で見初められてね、八歳の時に引き取られたんだよ。ついでに言うと、俺ってさ普通の人間より魔力量が多いらしくてね、そこも気に入られたポイントかな」

「それって………………」

 私が目を瞠ると、蓮はその通りだと謂わんばかりに頷いた。

「そうだよ。俺は見た目と魔力で王太子を垂らし込むために、ダイアー男爵から見い出されたってわけ。カレンとしてね。もちろん今だってダイアー男爵は俺のことを正真正銘の女の子と思い込んでる。姿替えの魔法がかかってることにも気づかずにね。でもさ…………これがゲームの強制力ってやつなんだろうね」

「ゲームの……強制力…………」

 僅かに首を傾げながらそう呟いた私に、蓮はさらに言葉を噛み砕くように重ねた。

「シエルのせいで、俺はこの世界のヒロインでありながら男として生まれた。でもこの世界はそれを良しとはせず、強引に修正をかけて、他の誰かをヒロインにするのではなく、俺自身がヒロインにならざるを得ない状況を作り上げたんだよ。俺の過去も、俺がカレンとして生きるしかなかったことも、ダイアー男爵に見出されたこともすべて、俺をこのゲームのヒロインであるカレン・ダイアー男爵令嬢という本来のゲームキャラに戻すための、この世界の強制力ってこと」

「つまり…………蓮が男の子だろうと、蓮にその気がまったくなかろうと、この世界は蓮をヒロインにして乙女ゲームを強引にスタートさせたってわけね………」

「みたいだね」

 蓮は肩を竦めながらうんざりしたように答えると、一転、今度は私に真剣な目を向けてきた。

「だから、この乙女ゲームにハマりにハマっていた姉さんならわかるはずだ。このあと、どんなことが起こるのか。正直、前世で散々姉さんに話を聞かされてはいたけれど、まさかこの世界に転生するとは思ってなかったからさ、話半分…………いや、ほとんど右から左で聞いてたし、俺自身がそのゲームをしてないから、全然わからないんだよ。もしここが本当に乙女ゲームの世界なら、悪役令嬢の末路は大概断罪されて、修道院行きとか、国外追放とか、下手すれば処刑されるってことくらいはわかる。でもさ、俺はそんな姉さんを見たくないし、姉さんを不幸にしてヒロインの俺が幸せになるとか、そんな未来真っ平御免なんだよ。それなのに……俺はこのゲームの内容を知らないから、どうしてもすべてが後手に回ってしまう。今回のことだってそうだ。悪役令嬢である姉さんが殺されかけるなんて夢にも思わなくてさ………ほんとごめん。事前に阻止できなくて、姉さんに苦しい思いをさせてしまった…………」

「蓮………………」

「だから……今度は面倒くさがらずにちゃんとこの乙女ゲームの話を聞くからさ、姉さんが知っていることを全部教えて。この毒殺未遂事件は乙女ゲームでもあったことなの?っていうか、この乙女ゲームって、ただイケメンと恋愛を楽しむだけのゲームじゃないの?」

 蓮の口調と言葉から、なんとなくこの乙女ゲームに取り巻く不穏な空気を感じ取っているのだろうな…………と予想する。

 しかしそれは当然のことだ。

 そもそもこのゲームは、“乙女ゲーム”などと銘打ちながら、実のところヒロインの周りで起こる様々な怪事件を、攻略対象者たちと謎解くことが一番の醍醐味となっているのだから。

 そしてこのゲームにおける私――――――悪役令嬢、アイリス・フローレス公爵令嬢は、全ルート死亡確定キャラだ。

 言い換えるなら、怪事件の被害者ポジである。

 刺殺、絞殺、毒殺と、その手段はルート毎に違えども、必ず死ぬことに変わりはない。

 蓮にそれを伝えるのはかなり気が重いけれど、ここまで真剣に問われれば、伝えないわけにもいかない。

 そこで私は、できるだけ蓮のショックが少なくて済むように言葉を選びに選び、尚且つ感情を乗せず淡々とした口調で伝えることにした。

 もちろん、どんな伝え方をしたところで、蓮のショックは変わらないことはわかっていたけれど――――――――

「そうね。私はこの乙女ゲーム“甘くも危険な恋と魔法のレッスン”のほとんどのルートを攻略済だから、ある程度知っているわ。ちなみに、攻略対象者の好感度をしっかり上げて、さらに怪事件の謎を解きさえすれば、ヒロインは全ルートで極甘のハッピーエンドが用意されているから楽しみにしていてね。それと、悪役令嬢アイリスは全ルート死亡キャラなんだけど、まぁ悪役って名が付いてるくらいだから、そこは自業自得ってことで気にしないでちょうだい」

 言葉を選びに選んでこれか?と問われれば、「はい、これです。これが精一杯でした!」と、答えるよりほかない。

 確かに自分で言ってて、悪役令嬢悲惨だな…………とは思うけれど、この乙女ゲームではそうなっている以上、そう伝えるしかない。

 しかし案の定、どれだけ言葉を厳選しようとも、重み一つないぺらぺらな口調だろうと、蓮は相当ショックを受けたようで、顔からすべての表情がごっそりと削ぎ落し、真っ青になってしまった。

 そして、焦点を合わせきれないままに呟く。

「全ルート……死亡って………………そんなの嘘だ…………」

 私は眉尻を下げて、へらりと笑った。日本人特有の困った時は笑ってごまかしてしまえ戦法だ。

 そんな私の顔を見て、嘘ではないと読み取った蓮は、今度は一気に険しい顔となると、自称レッサーパンダを射殺さんばかりに睨みつけた。そして、「シエルッ‼」と怒髪天を衝く勢いで叫ぶ。

 名前を叫ばれたシエルもまた、私の話を聞いて呆然となっていたけれど、蓮の怒号に『ひッ!』と、ベッドの上でその身体を跳ねさせ、そのまま私の背後に隠れてしまった。しかし蓮はそれを許さず、シエルの首根っこを捕まえて、強引に引き摺り出す。

「シエル!これは一体どういうことだッ!」

『どないもそないも、ボクも知らんかってんて!今、アイリの話を聞いてビックリしたくらいや!だって、まさかアイリの憧れの世界がそんな救いようもない世界やと思わんやろ?っていうか、アイリもアイリや!なんでこんな世界に憧れてるんや!これじゃ、ボクが恩を仇で返したみたいやろ!』

 仰る通りで…………とは思うものの、前世の私がこの世界に憧れていたかと言えば、答えはNOだ。

 私は確かにこのゲームにはハマってはいたけれど、決して憧れていたわけではない。

 各ルートに用意されている謎解きに夢中となっていただけで、推しの攻略対象者がいたわけでもない。ただ、その謎解きに攻略対象者の好感度も影響されるので、必然的に好感度を上げることに必死になっていたのは事実だけれど。

 しかし今それを口にすれば、シエルに明日はないかもしれない。いや、間違いなくない。

 なのでここも、シエルが無事明日を迎えられるようにと、曖昧に笑って誤魔化しておく。

 けれど、多少のブランクがあるとはいえ、蓮は私の義弟だ。

 前世からバッチリ引き継いでいるらしい重度のシスコンと、今はシエルの明日のためには不要でしかない有能さをここぞとばかりに発揮した蓮は、シエルのこめかみを(レッサーパンダ擬きに、こめかみがあるのかわからないけれど)拳骨で両側からグリグリと締め上げた。

「ほぉ〜〜〜自分のことを棚に上げて、姉さんの趣味を責めるとか、なかなかいい度胸じゃない。それに姉さんの反応からすると、絶対姉さんこの世界に憧れていないよね?なのに、お前の勘違いで、よりにもよって死亡確定の悪役令嬢に姉さんを転生させるって、もしかして俺に喧嘩売ってんの?姉さん、今すぐこのタヌキ擬きを始末するからちょっと待ってて」

『痛い痛い痛い痛い!全然そんなつもりやなくて!ちょっ……許してぇな!ア、アイリ、殺される!助けてぇ…………』


 あぁ……前世に引き続き、今世でも魔王が降臨していらっしゃる…………


 蓮の魔王モードは異世界関係なく降臨するんだな、などと場違いなほど呑気な感心をしつつ、私は一先ず魔王に囚われた、(自業自得でもある)レッサーパンダ擬きを救出するために、重い腰を上げることにした。

 

 

 

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