(9)
冷たい雨が降っていた。
その事に気がついたのは、一人家に帰って本を読んでいた時だ。
雨粒に濡れた窓に映るのは、外の景色ではなく俺自身。
どうやら外もすっかり暗くなっているようだった。
台所からは、愛梨の母が忙しく夕食の準備をしている音が聞こえてくる。いつもならそこに、愛梨の機嫌よく手伝いをする声も入り混じっているのだが、この日はなかった。
その事に、途端に胸が騒ぎ出す。
まさか…………
まだ公園から戻ってきてない?
いや、そんなこと…………あるわけがない。
かくれんぼがしたいと適当なことを言って、愛梨に鬼を押し付け、自分だけは隠れるふりでとっとと家に帰ってきた。
最初はそれなりに探すかもしれない。でもある程度探して見つからなければ、家に帰ったと思うだろう。
そうなれば愛梨も気兼ねなく友達と一緒に遊べるはすだ。
本当の弟でもない、可愛げの欠片すらない奴に気を遣いながら遊ぶよりも、その方がずっと楽しいに決まってる。
まぁ、その友達とやらがあの女どもという点がどうにも納得がいかないが、それは愛梨の問題であって、愛梨が誰と仲良くなろうと自分には関係のないことだ。
だから、これでいい。
愛梨も困った顔をしていたし………………
幼さゆえの幼稚で自分本位な捻くれた思考。
そうだと勝手に決めつけて、愛梨を一人公園に置き去りにしてしまった。
まさか『ちゃんと探してね』と言い残したあの言葉を鵜呑みにして、今も馬鹿正直に探しているのだろうか。
居るはずもない公園を、この雨の中で、一人………………
いやいやそんなわけない!
心の声に呼応するように、実際でも首を横に振る。
愛梨もちゃんと家に帰っているはずだ。声が聞こえてこないだけで、きっと台所で母親の手伝いをしているに違いない。
だから…………だから…………大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、台所へ行こうかどうしようかとこの期に及んで二の足を踏む。
そもそも食事の時にしか、台所に踏み入れたことはない。なぜならあの場所は、愛梨が手伝いと称して、実の母親に甘えられる場所だから、所詮血の繋がりのない自分が踏み込んでいい場所ではないと、そう思っていたからだ。
でも………………
今、本当に愛梨がいないのだとしたら………
ゾクリと一気に心臓が冷えた気がした。
二の足を踏んだ足が、不安に駆り立てられるかのようにフラフラと台所を目指す。そして――――――――
「あら、蓮。もしかしてお腹が空いたの?もうすぐできるから、愛梨と一緒に居間で待っていてね。ふふふ、二人が仲良くなってくれて嬉しいわ」
「ッ!!」
台所を覗いた瞬間に、愛梨の姿がないことはすぐにわかった。それでも暫し呆然と立ち尽くしていたのは、どこか信じたくない気持ちがあったからだ。
でも、愛梨の母親の台詞で一気に現実が突きつけられた。
愛梨はいない。
帰っていないのだと。
咄嗟に踵を返し、玄関へと駆けていく俺に、愛梨の母親の声と腕が追ってきた。
『蓮!どうしたの⁉そんなに血相を変えて……』
『………………』
『まさか愛梨と一緒じゃないの?もしかして公園から一人で…………」
玄関先で愛梨の母親に掴まれた腕。その腕に食い込む指が痛いと感じたが、それは愛梨の母親の心配からくるものだと思えば、振り払うこともできなかった。
パクパクと空気を求める魚のように口を開くけれど、結局ろくな言葉も発せないままに、俺は泣きそうな顔でコクンと首を縦に振る。
怒られると思った。いや、それだけのことをしたのだから、怒られて当然だと思った。
けれど愛梨の母親は、ぽんっと俺の頭で手を一つ弾ませると、俺の顔を覗き込みながら、愛梨によく似た柔らかい笑みを零す。
そして、穏やかな口調で告げてきた。
『弟に心配させるなんて困ったお姉ちゃんね。いえ、私が駄目な母親なのね。二人一緒に帰ってきたと、確認もせず勝手に思い込んでいたのだから……心配しないで、蓮。あぁ見えても、愛梨は結構しっかりしているのよ。今から私が迎えに行ってくるから、蓮は家で待っていなさい』
『ちがっ……ボクが…………』
『大丈夫。ちゃんと連れて帰ってくるから。そして皆でご飯にしましょう。鍵は持っていくから、私が帰ってくるまで絶対に開けては駄目よ』
そうじゃない!
そうじゃないんだ!
全部全部ボクが悪い…………
声が出る代わりに、涙が堰を切ったように溢れ出す。
そんな俺に愛梨の母親は「大丈夫だから」と、念押しするように言って、傘を片手に家を飛び出して行った。
そこからはただただ恐怖の時間だった。
もし、愛梨が見つからなかったら。
もし、雨に濡れて震えていたら。
もし、そのせいで愛梨が死んじゃったら。
その時はきっとボクも死ぬ…………
いや、死ぬのはボクだけでいい。
ボクと姉弟にならなければ……
ボクさえいなければ………
ボクさえ生まれてこなれば………
愛梨はこんな目に遭わなかったはずなのに………
不安が恐怖を増長していく。
愛梨の性格を考えれば、馬鹿がつくほど必死になって、俺を探しているのはわかりきったことだった。
なんせ俺はあの時、『ボクが公園のどこかに隠れるから、ちゃんと探してね』などと宣わったのだから。
そりゃ、愛梨なら探すだろう。
疑いもせずに公園の中を必死に。
わかっていたのに。
知っていたのに。
人間恐怖症で、女嫌いの俺は、いつか愛梨も嫌気が差して俺から離れていくとのだと決めつけて、自分が傷つく前に突き放した。
放置という一番最悪な形で。
このまま嫌われてしまっても仕方がない。
それだけのことをした。
けれど、それでも許してくれるというのなら、もう一度『れん』と、あの笑み含んだ優しい声で呼んで欲しいと、切に祈った。
愛梨は日の暮れた公園で、冷たい雨の中しとどに濡れて見つかった。どうやら皆が帰った後も、一人公園で俺を探していたらしい。
愛梨曰く――――――――
『家に帰ったかな……って、何度か思ったけれど、でももしわたしが帰ってしまうところを、公園のどこかでれんが見ていたら、置いていかれたって思って、泣いちゃうかもしれないでしょ?だからね、探したの。でも……ちゃんと一人で家に帰れていたんだね。ほんとうによかった……だって、わたしより小さいのに雨にぬれて風邪とか引いちゃったら、れんがかわいそうだもの……』
――――――ということらしい。
ほんとお人好しにも程がある。
しかも、人ことをかわいそうだという愛梨こそが風邪を引き、そのまま肺炎を併発して、暫く入院となった。
そして俺はというと、事のあらましを知った父にこっぴどく叱られ、愛梨の母親からは『頭ごなしに叱りすぎです!』と、庇われた。
どうやら愛梨の母親は、俺の過去やら、精神状態やらを慮ってくれたらしい。
さらには『もう心配いらないから大丈夫よ。愛梨は丈夫だから』と、何度も何度も言葉をくれた。にもかかわらず、どれだけ頼んでも入院中の愛梨とは会わせてくれなかった。
そしてようやく俺が愛梨と会えたのは、あの雨の日から一週間後のこと。
それは愛梨の退院が翌日と決まった日のことだった。
その理由は、熱と咳で辛そうにしている愛梨と会わせることで、俺が余計に落ち込んでしまいかねないと思ったらしい。
あとは愛梨の風邪が移ってはいけないという至極単純な理由もあったみたいだが…………
正直気まずかった。
あれだけ会いたいと思っていたくせに、いざ会えるとなるとどの面を下げて?と、自分で自分を罵りたくなった。
とはいえ、どの面も何もこの面しかないため、否応なしにぶら下げて行くしかないわけで………………
俺は愛梨の病室の入り口で立ち竦み、唇を噛みしめたまま項垂れた。
三人部屋だという小児病棟の病室には愛梨しかおらず、暫し入り口を塞いでいようとも、看護師や医者が来ない限り問題はない。しかし、愛梨の母親がそっと俺の背中を押し、ある意味強制連行に近い形で、愛梨の前に押し出された。
ずっと落としたままの視線。
足元の床でほぼほぼ埋まる視界の隅には、白いシーツらしきもの。
部屋には消毒薬のような薬品の匂いが漂い、ここが紛うことなき病院で、俺のせいで愛梨が入院していたという事実に、心と口がさらに重くなる。
身勝手な自分のせいで、愛梨に本来させなくてもいい辛い思いをさせたのだと…………
だから、ただただ謝りたいだけなのに、散々家で練習してきた謝罪の言葉ですら巧く紡げない。だったら最初は体調の加減を聞くなりして、取っ掛かりを掴めばいいのだろうが、愛想やら、気遣いやら、それらすべてを母親の腹の中にごっそり置き忘れてきたらしく、それすらもままならない。
そんな沈黙の間に溶け合うのは、愛梨の母親の苦笑と、愛梨から寄せられる不思議そうな視線と、俺の頑なで屈折した心の葛藤だった。
しかし俺にとっては針の筵の上に座るかのような苦痛でしかなかった沈黙も、愛梨の声によってあっさりと霧散することになる。
『れん、心配かけてごめんね。でももう大丈夫だよ。だから……またわたしと一緒に遊んでくれる?』
なんで?と思う。
謝らなければならないのはボクの方なのに、何故愛梨が謝るのか…………と。
どうして、こんなボクとまた一緒に遊びたいと言ってくれるのか。
そう願っているのはボクだけではないのか。
もう一度、そう望んでも許されるのだろうか。
ずっと愛梨のそばにいたいと、そう願っても…………
愛梨は笑顔で頷いてくれるのだろうか………
グルグルと不安と期待が俺の中でマーブル模様を描いていく。
そんな相反する感情に揺れ動く想いが『…………いいの?』という一言に凝縮された。
もっと他に言うことがあるだろうにと思うけれど、ここでもまた零れて落ちてくるのは涙だけで――――――
『いいよ。わたしもれんと一緒に遊びたいから』
迷い一つなく降ってきた声に、俺は涙でボロボロの顔を上げた。
そこには、真っ白で純朴な花が愛らしくふわりと綻んだかのような愛梨の笑顔。
その顔を無性に目に焼き付けておきたいと思うのに、一層涙で視界が歪んでしまう。
『…………ほん……とうに?』
『うん。ほんとうにほんとうだよ』
『だった……ら……だったらボクと…………ずっと一緒にいてくれる?』
『いるよ。だってわたしはれんのお姉さんだもん』
それは俺の欲しかった言葉じゃなかった。
それでもずっと一緒にいてくれるのなら、俺を一人にしないというのなら、今はそれでいいと思った。
“義理の姉”と“義理の弟”という関係が一緒にいられる免罪符となるなら、今はそれで構わないと。
そう、この瞬間。
俺の中でただ燻り続けるだけの愛梨への想いは、名前を持ち、形を持った。
それは永遠に不変で、生涯愛梨だけに捧げ続ける俺にとっての唯一のものに――――――
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