(7)

     ☆   ☆   ☆


 姉さんが――――――愛梨が俺の腕の中にいる。

 

 言うまでもなく、この身体は前世の“前田蓮”のものではないけれど、それでもようやく愛梨が俺の手の中に戻ってきた…………そんな気がしてならなかった。

 本当に長かった。

 愛梨の意識がアイリスの中で覚醒するまで、本当に長くて、気が遠くなるほどの時間を費やしてきた。

 とはいえ、乙女ゲームとやらも、そして俺と愛梨の今世での関係も、これからが本番ではあるのだが。

 それでも、今くらいは腕の中にある愛梨の温もりに溺れてもいいだろうと、自分自身を許すことにした。

 もちろんまだ時期尚早だと、男として劣情に強力なストッパーをかけることは忘れたりはしないが………

 

 そう、前世でも今世でも、俺は愛梨を姉として見たことは一度たりとしてない。

 親同士が再婚し、俺の義理の姉となってから、愛梨は必死に俺の姉になろうとしていたけれど、歳だってほとんど変わらないのに、姉だ、家族だ、などと突然言われてもピンともスンともこなかった。

 なんなら、当時六歳だった愛梨は、当時五歳だった俺とほとんど背丈も変わらず(いや、間違いなく俺の方が1センチは高かった。愛梨は全力で自分の方が高かったと言い張ってきかないが)、やたら嬉しそうにニコニコと笑いかけてくる愛梨を前にして、ボクより子供じゃないか…………と思ったことは今でもしっかりと覚えている。

 実際、確かに俺は愛梨よりも一歳年下で、生れ月の関係もあって学年上でも一学年下になるわけだけど、正確には半年と八日しか違わず、幼心にもどうにも姉として受け入れることは難しかった。

 いや、直感ともいえる何かがこの時の俺に働いていたのかもしれない。


 この人のことを姉とは思いたくないな―――――――などと。


 それが初恋と呼ばれるものかどうかは、自分でも定かではない。

 そもそもそんな情緒など、この時の俺は微塵も持っていなかった。いや、そんなものを持てる環境ではなかったというべきか――――――

 


 俺を生んだ前世の母は、俺を産み落としたと同時に亡くなったらしい。

 そのため、いきなり乳飲み子を一人で育てることになった父は、突然妻を失った悲しみに暮れる間もなく、子育てという戦場に放り込まれ、完全に途方に暮れた。

 そりゃそうだろう。

 乳飲み子を育てることになったからといって、母体の神秘よろしく自分の身体から母乳なんてものが出てくるわけもなく、生活のためには仕事だってしなければならない。

 しかし、生まれたての赤ん坊に、いきなり自立しろというにはさすがに無理がある。鬼だってそんなことは言わない。

 そこで父は、連れ添った夫を一年前に亡くし、余生を田舎で過ごしていた自分の母親――――つまり、俺にとっては祖母にあたる人に、俺を預けることにした。当然の選択だ。

 だがその祖母も、俺が二歳の時に他界した。

 再び取り残されることになった俺と父。

 うん、我ながらなんとも疫病神的な存在だと思うが、だからといって俺のせいでもない。というか、記憶にもない。

 こうして父は、実の母親を失った悲しみに暮れる間もなく、子育てという戦場にまたもや放り込まれ、再び途方に暮れることとなった。

 今度は乳飲み子ではなく、多少成長した幼児ではあったが、それでも自立しろというにはこの段階でもさすがに無理がある。やはり鬼だって、まだそんなことは言わない。

 そこで今度は働く親にとって頼りになる存在、保育施設へと預けることにした。

 だがこの頃の父は仕事で大きなプロジェクトを任されており、とてもじゃないが定時に帰れるような状態ではなく、その日のうちに俺を迎えに行くことさえままならなかった。そこであっさりと保育施設に入れることを諦めた父は、ベビーシッターを雇ったのだが……………

 そのベビーシッターの女は、抓る、踏む、叩く、ご飯を与えないなどの陰湿な虐待を、俺に与え続けた。

 父がそのことに気づいたのは、半年以上経ってからで、俺は立派な自立した幼児になるどころか、立派な引籠りの人間恐怖症となっていた。しかも特に女性に対して。

 とはいえ、三歳を前にして引籠りとなった俺を、そのまま家に放置しておくわけにもいかない。

 そこで背に腹は代えられないとばかりに保育園に入れられるも、当然保育士に懐くわけもなく、周りの園児とも打ち解けることもなく、ただただ教室の角で絵本を読むなどして時間を過ごしていた。

 にもかかわらず、空気を読まない女子たちがやたらと俺に纏わり付き、時に『れんくんはわたしとあそぶの!』などと抜かして俺の腕を引っ張り合った。

 自分で言うのも何だが、どうやら俺はこの頃からそこそこ女受けする顔だったらしい。

 だが、所詮面の皮の見栄えがよかっただけの話であり、中身は人間恐怖症の女嫌いという、残念な子供であることに変わりはない。

 かといって、いくら人間恐怖症といえど、同い年代の女子どもに恐怖心はない。いやむしろ、この時分から見目のいい男に群がる女子どもの将来のほうがよっぽど末恐ろしく、毎日のように苛立ちと嫌悪を覚えただけだった。

 そのため、『うるさい!よるな!』と腕を振り解けば、女子たちには思いっきり泣かれ、そのウザさにますます女が嫌いになった。

 そんな俺の未来を慮ってのことではないだろうが、父は愛梨の母親と再婚を決め、ある日突然家に連れてきた。

 父が昼食に通う定食屋で、愛梨の母親は女の身一つで子供を育てるため必死に働いていたらしい。

 そんな二人の馴れ初めはさておき(ほんとどうでもいい話なので割愛するが)、俺は見ず知らずの愛梨と、突如して姉弟になってしまった。

 いきなりできた姉という存在。

 何も感じないわけがない。

 しかし、弱冠五歳で極まってしまった人間恐怖症に、女嫌い。

 そんな奴に情緒なんてものを求められても困る。

 だから愛梨と初めて会った時、俺の中にふと湧いた感情が何かしらあったかもしれないが、それが何なのか理解することはなかったし、深追いする気も毛頭なかった。

 そのため、どれだけ優しく話しかけられても、どんな笑顔を向けられようとも、俺は愛梨にも、愛梨の母親にも、言葉を返すどころか笑みを返すこともしなかった。

 しかし二人は引き際をわかっているようで、保育園の女子のようにズカズカと無遠慮に俺の中へ踏み込んでくることも、俺の心をかき乱すこともしなかった。

 おそらく、父からある程度俺のことを聞いていたのだろう。

 ちなみに愛梨の母親は、父と再婚したことにより、定食屋の仕事を辞め、専業主婦となっていた。

 もちろんそれは愛梨のためでもあり、引籠りの俺のためでもあったのだろうと思う。

 そして愛梨は、母親がずっと家にいることが嬉しいらしく、学校から帰ってくるなり、小鴨のように母親の周りをチョロチョロと付き纏っていた。

 もちろん俺はそんな愛梨を見ても何も思わなかったし、なんなら、俺を構おうとしないだけ楽だとも思っていた。

 けれど、当の愛梨はそうではなかったらしい。

 母親に言われたからなのか、それとも自分の行動を省みたからなのか、時折愛梨は申し訳なさそうに俺の傍にやって来た。

 そして、もじもじとはにかみながら話しかけてくるのだ。

『わたしと一緒に遊んでくれないかな……』

 ――――――と。

 遊ぼうとも、遊んであげるとも言わない。

 よかったら自分と一緒に遊んでくれないかと、いつだって頼んでくるだけ。つまりそれは、俺に選択権を委ねているということで…………

 だけどこの時の俺は、そんなことにも気づかず、ただ無碍なくそっぽを向いた。

 言うなれば、無視だ。

 そんな俺に愛梨は怒ることもなく、ましてや悲しむわけでもなく、「うん、わかった。邪魔してごめんね」と言って、少し離れた場所で本を読み始めるのが常だった。

 その背中をこっそり見やって、そんなにあっさり引くなら、声なんてはじめからかけてこなければいいのに…………と幼心に何度も思ったものだ。でも不思議と、この距離感を居心地悪く思うどころか、安堵さえ覚えていた。

 付かず離れず、それでいて憎くもなく………

 そう、姉弟としてはとても歪なものだったけれど、人間恐怖症で女嫌いの俺にとって愛梨は、ずっと傍にいても苦にならない初めての他人だった。


 だけどあの日、俺は気づいてしまった――――――


 その日も保育園の女子どもはとにかくうざかった。

 頼んでもないのに、誰が俺と遊ぶのかと喧嘩をしはじめ、「うるさい!」と言えば、今度は俺に向かってわけのわからない文句を言い出した。すべては俺がハッキリしないのが悪いのだと。

 ほんとふざけるな……と思う。

 ハッキリするもしないも、そもそも俺はお前らなんかと関わりたくもない。

 むしろハッキリ言うならば、お前らなんか全員大嫌いだ。

 だが、そんな言葉を言い返す価値さえ見い出せず、俺は無視し続けた。

 罵倒ではなく、無関心に徹することにしたのだ。

 うん、我ながら酷く達観した五歳児だったと思う。しかし、周りは当然のことながら年相応の思考しか持たないガキばかりだ。

 ずっとギャンギャン吠え立ていたものの、ようやく馬耳東風、暖簾に腕押しと思ったのか「れんくんなんか、もう知らない!そんな態度をとってたら、もうだれもあそんでくれなくなるからね!」という負け犬の遠吠えならぬ捨て台詞を吐いて、先程まで喧嘩していたのが嘘のように仲良く立ち去っていった。

 やっと静かになったなと思った反面、残された言葉が何故か棘のように胸に刺さっていた。

 別に女子なんかと遊びたいとは思わない。

 けれど、愛梨もいつかそう思って、俺に声すらかけてくれなくなる日がくるのだろうか…………と、ふとそんなことが脳裏を過り、急に胸がキリキリと締め付けられた。

 今までどうでもよかったはずなのに、あのはにかんだ顔さえももう見られなくなるのかと思うと、妙に腹立たしく思え、途端に息苦しく感じた。

 そして、付かず離れずの居心地のいい距離感さえも、愛梨が俺に愛想を尽かせてしまえば、簡単に失ってしまうことに気づき、不安で泣きそうになった。

 だからその日、愛梨がいつものように声をかけてきた時、「…………いいよ」と思わず返事をしてしまった。

 その時の愛梨の顔は今思い出してみても、軽く笑える。

 大きな黒目を真ん丸にして、鳩が豆鉄砲を食ったらこうなるとかいうまるでお手本のような顔だった。


 けれどこの後、俺と愛梨の間に起こったことは…………いや、俺が引き起こしたことは、決して笑えるようなことではなかった。

 

 

 

 

 

 

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