(2)

 うん、これは夢だ。

 それも、とんでもなく悪夢に近い夢だ。

 だってそうだろう。

 私は悪役令嬢として毒を盛られているわ、義弟の蓮は乙女ゲームのヒロイン(もちろん女性)になっているわ、すべてが奇想天外すぎてとてもまともな夢とは思えない。ましてや現実などと思えるはずもない。

 だとしたら、ここはやっぱり…………………

「よし、寝よう」

 私は乙女ゲームヒロイン、カレンの姿となった蓮に抱きつかれたままで、強引に現実逃避を敢行した。

 しかし、すぐさま蓮に現実直視を強制的に求められる。

「姉さん!寝ないで!これは紛れもなく現実だから!俺たちは今、姉さんがドハマりしてた乙女ゲームの世界にいるんだよ!それもしっかりこの世界の人間としてね!だ・か・ら、寝るな!」

 抱きついていた姿勢から一転、蓮は私の頬を指でぎゅ〜っとつねってきた。

 こ、こ、このつねり方と物言いは――――――――


『姉さん、起きて』

『う~ん…………あと五分』

『さっきもそう言って、かれこれ十分は寝てるよ』

『だったらあと三分…………』

『駄目。それでなくてももうギリギリなんだよ。ほら、目を開ける』

『瞼がストライキ中で無理………それが終わるまで……おやす…み…………』

『だ・か・ら、寝るな!』

『い、いひゃい、いひゃい、いひゃい!ひょっぺた(ほっぺた)つねらないでぇ…………』

『だったら、さっさと起きる』

『うぅ………………おはよ、蓮』

『おはよう、姉さん』


 ――――――――そう、朝が極端に弱い私はいつも蓮に頬をつねられて、起こされていた。情けないことに…………

 それも飽きもせずほぼ毎日。だからわかる。このつねり具合といい、容赦のない感じといい、今私の頬をつねっているのは間違いなく義弟の蓮だと。

 それに………………

「い、いひゃい………これは夢じゃないの…………?」

 私の頬をつねる美しすぎる少女の琥珀色の瞳を涙目で見つめて、改めて問い返す。

 夢ならば、頬をつねられても痛くないはずだけれど、今は本当に痛い。リアルに痛い。というか、これが現実なら毒から生還したばかりの義姉に対して、手加減なくつねり過ぎだと思う。

 そんな恨み言も交えながら、その瞳を覗き込めば、蓮ことヒロインのカレンは再び破顔した。そしてもう一度抱きついてくる。

「うん、夢じゃない……俺たちはね、この乙女ゲームの世界に転生したんだよ。俺はヒロインのカレンに、姉さんは悪役令嬢のアイリスに…………ずっと、待っていたんだ。アイリスの中で姉さんの意識が覚醒するのを。ようやく……ようやく会えた。俺の姉さんに………」

 切々と女の子の声で、そんなことを告げてくる蓮に、義姉としてついつい絆されてしまう。

 それもこの状況を丸ッと鵜呑みしてしまう勢いで。

 けれど、確かに私に抱きついてくる彼女は、蓮に違いないと確信を得たとしても(つねり具合で)、ここが乙女ゲームの世界で、私が悪役令嬢のアイリスに転生したことに関してはまた話が別だ。

「はい、そうですか。わぁ……びっくり」とは、さすがにならない。

 そんなファンタジーな…………と、絶賛混乱中の思考から一人抜け出した冷静な自分が、精々ご尤もな突っ込みを入れてくるくらいだ。

 とはいえ、頬に残る痛みの余韻が、これは紛れもない現実と告げている。いや、夢ならば間違いなくここが目を覚ますポイントのはずなのに、その気配はまるでない。

 つまり、どれだけ受け入れ難くとも、まずはこの状況を現実だと受け入れるしかないわけで――――――――


「嘘でしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――――――――――ッ‼」

 

 最後の足掻きでそう叫べば、蓮から「耳元で、うるさい!」と、再び頬をつねられた。

「いひゃい…………れす」

「だろうね。現実だから」

「うん。理解しまひた」

「よろしい。じゃあ、詳しい説明の前に、姉さんの身体の毒を全部抜いてしまうね。実は、もしかしたら姉さんの意識がこれをきっかけに覚醒するかもしれないって思ってさ、その時に変なことを口走らないように、さっきは敢えて加減して毒を抜いたんだ。ごめん……姉さん。苦しかっただろ?」

 そう言って、蓮はつねった私の頬を優しく撫でると、私に抱きついていた身体を起こし、ベッドに腰かける。そして目を瞑り、私に両手を翳す。

「癒しのギフト展開!清き光よ、邪なるものを払え!」

 思いの外短い詠唱の直後、蓮の身体が淡く光り、翳された両手からキラキラとした光の粒子が私へ降り注いでくる。

 毒を盛られたと言われれば、確かに…………と頷きたくなるような、重怠く、若干痺れのようなものを感じていた身体が、まるで重い拘束具から解き放たれたように一気に軽くなる。

 蓮はそっと目を開けると、翳していた手を下ろし、私の様子を探るように見つめてくる。そして、呆けたままの私にふわりと目を細めると、優しく問いかけてきた。

「どう?楽になった?」

「楽に……なった………」

「だったら、水を飲もうか」

「うん……飲む」

 私から返す言葉は明らかに幼稚園児並み。しかし、いくらこの状況を現実と認めたからといって、思考がすぐに追いついてくるはずもない。

 そんな私に蓮はクスクスと笑いながら、私の身体を丁重に起こし、背もたれ代わりに大量のクッションを敷き詰めてくれる。

 完全に要介護者になった気分だ。

 しかしその際に、自分の着ているものが蓮と同じ制服だということにようやく気づく。

 紺地と白のラインが美しいAラインの可愛らしい制服だ。

 さすがヒロインだけあってカレンこと、蓮は似合うけれども、私は…………なんてことは考えない。決して考えない。考えれば虚しくなるだけだ。

 うん、自己防衛は大事。特にメンタル面は。

 そこで、この制服は魔法学園の制服なのね…………などと自分にとって無害なことを考えることにする。

 その間にも、せっせと献身的に場所を整えてくれていた蓮は、私の身体を敷き詰めたクッションにそっともたれさせた。

 そして、「身体きつくない?もう少しクッションを足そうか?」と、私を気遣う。

 それに対して「ううん、大丈夫」と、私が首を横に振ると、ようやく安心したように形のいい眉を下げてから、サイドテーブルの上にあった水差しからガラスのコップに水を注いだ。

 しかしそれを私に差し出すのではなく、まず蓮自身が一口飲む。

 ふふふ、蓮も喉が乾いていたのね…………

 なんてことが脳裏を過ぎった瞬間、衝撃の台詞が来た。

「大丈夫。これには毒は入ってない」

「れ、れれれれれ蓮ッ!」

 私はここでようやく蓮の行動の意味を理解し、声を上げる。まさか毒見をしていたなんて思いもしなかったのだ。

 けれど、私は毒を盛られた身。だからこそ、私が不安にならないようにと蓮はこんな行動を取ってみせたのだろうけれど、それをそう簡単に寛容できるわけもなかった。

「お願い、蓮。正直今の私は何が何だかさっぱりわからない状況だけれど、蓮が危ない目に遭うのだけは絶対に嫌なの。どんな姿であれ、こうしてまた蓮に会えたんだし……だから、自分を犠牲にするようなことはやめて頂戴」

 昔からそうだった………………

 私が六歳の時に母が父と再婚し、私より一歳年下の蓮はその父の連れ子だった。酷い人見知りで、はじめは私にも打ち解けてくれようとはしてくれなかったけれど、ある日を境に蓮は私を義姉として慕うようになってくれた。

 けれどその結果、幸か不幸か蓮は世間でいうところのお姉ちゃんっ子となってしまい、義姉の私が自慢したくなるほどのイケメンでありながら、周りからは“シスコン”という不名誉な称号を得ていた。

 まぁ、本人はまったく気にしていないようだったけれど。

 しかも、私の面倒を見ることに生きがいを見出したらしく、私の方が歳上であるにもかかわらず(正確には半年と八日)、面倒をみられるのはいつも私で、『姉さんの面倒は一生俺が見るから心配しないでいいよ。皺くちゃのおばあちゃんになってもね』と、十代半ばですでに老後のことまで見据えた発言をしていた。

 何なら介護資格すら取る気満々で、資料請求までしようと目論んでいたくらいだ。

 さすがに全力で止めたけれど。

 その度に『いやいや、私が皺くちゃのおばあちゃんなら、蓮だって皺くちゃのおじいちゃんじゃないの!』という突っ込みを入れ、まぁ、そんな老後も面白いかもしれないわね…………などと呑気に考えたりもしていた。

 蓮の未来のお嫁さんには大変申し訳ないことに………………

 とまぁ、今思い出してみても、確かに蓮の私に対する過保護ぶりは酷かったし、今のこの献身的な態度も中身が蓮なら十分理解できるけれども、だからといって毒見はない。

 そんなことを許せるはずもない。

 しかし蓮は悄気返るどころか、さらに満面の笑みとなると、「やっぱり……姉さんだ……」と、毒見の済んだガラスのコップを差し出してきた。

 私はそのコップを親の敵のように睨みつけてから、「当たり前でしょ!」と受け取る。それからもう一度言葉を重ねた。

「蓮、約束して。もう危ないことはしないって。私のせいで蓮に何かあったりしたら、私も生きてやしないんだからね」

「死んじゃう?」

「そうよ!」

 半ば、ムキになってそう答えると、蓮は少し複雑そうな顔となってから、ポツリと呟いた。

「その台詞、そのまま丸っと姉さんにお返しするよ……」

 いやいや、いくらずっと世話を焼かれていたからって、私は蓮と違ってこんな危険な真似をして心配させたことはないはずだ。

 うん……ないわよね………………と、未だどこかぼんやりとしている頭で考えつつ、コップの水に口をつける。

 余程喉が乾いていたのか、程よい冷たさの水が、スルスルと喉を滑り落ちていく。

 きっと五臓六腑に染み渡るとはこういうことなのかもしれないと、我が身を持って実感する。

 そして、この水で癒やされたのは身体だけではなかったようで、幾分か頭がスッキリした気になる。

 やはり私の思考も毒に侵されていたらしい。

 そこで、少しばかりすっきりとした頭で、私は改めて考えみた。

 もちろん今の状況から、今に至るまでの蓮の言動、ヒロインでありながら、中身と外見がまったく一致していないこともひっくるめてすべてだ。

 しかし、すぐさま私はとんでもない事実に気づく。

 その瞬間、空となったコップを握り締めたまま一点凝視で固まった。

「姉さん、水のおかわりは?」

「もう……大丈夫。ありが……と」

「だったら、コップ貸して。そのままだと、姉さんに割られかねないからさ。その見た目を裏切る馬鹿力でね」

 いつもならここで「私はそんな馬鹿力じゃないわよ!」と、即座に言い返すところだけれど、今の私にはそんな余裕は微塵もなかった。

 ある事実を前に、衝撃を受けていたからだ。

 そのため、私はわなわなと震える手でコップを差し出しながら、本当に今更すぎる質問をした。

「ねぇ…………蓮、私たちはこの世界に転生したと言ったわね。この世界にうっかり召喚されたわけではなく、転生したと」

 蓮は感情を読ませない顔でコップを受け取り、飄々とした口調で返してくる。

「言ったよ。姉さんは乙女ゲームの悪役令嬢に、俺はヒロインに転生したって」

 私は一つ息を呑んでから、さらに質問を重ねた。いや、確認した。

「私たちは……………死んだの?」

 この世界が現実ならば、そして私たちが転生者ならば、自然とそういう結論に行き着く。けれど、生憎私にはその記憶がなかった。

 いや、正確にいえば、その記憶すらなかった。

 悪役令嬢として、この世界で生きてきたという記憶さえも。

 蓮は、たっぷりと時間をかけてサイドテーブルの上にコップを置くと、私へと向き直った。

 そしてやはり感情を一切乗せない声で淡々と答える。

 

「あぁ、死んだ。二人一緒にね」


 

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