第5話 影
「魔法は、簡単に言えば何でもあり。無から有を生み出し、扱う者の心に反応してその力を発揮する。ちょっと安っぽい言い方すれば気持ちの強さがおのれの力になるってことさね」
ぺらぺらしゃべる人間は教員だったが、先生と呼ぶにはためらわれるくらい気安い印象だった。まあ親の同意もなく魔力を与えてくれる、学校とは名ばかりの施設なのだから全うな生き物がいるわけがない。
「自分の体の部位、どこかひとつを選ぶんだ。そこを魔力の出入り口にする。たいてい大勢は手を選ぶ。操りやすいし瞬発力もばっちり。ただ一生そこを魔力が出入りするんだ。他の生き物より、老朽化は早い。ジエルに義手義足職人が繁盛する理由はそこだよ」
「声帯にしてください」
ひゅう、と口笛を吹かれた。
「珍しいねキミ。歌い手とか?」
「そうです」
「歌かあ……まあ、あくまでもキミ次第になるわけだけど、瞬発力、即効性にはかける」
「わたしにはそれしかないので」
「そんなこと言うなら、なおさらおすすめはしないよ。人工の声帯なんてジエルにないからね」
身を守るための魔法ではない。ただ、自分の持ち得るもので唯一誰かを笑顔にできたものだからそれ以外あり得なかった。もし声を失ったらその時は。
教員の目を見返した。
「構いません。お願いします」
シャラの答えに教員はおっけー、と笑うと、人差し指をシャラに突きつけた。
「口を開けて」
言われた通りにする。目は閉じなかった。彼の指先から火花が散り、熱がぼうっと喉の奥に通り抜けて、弾けた。
「シャーラ!」
唐突に現れたはちみつ色の瞳に体が跳び上がって転びかけた。間一髪腕を掴まれて「ご、ごめん。そこまでびっくりするとは思わなかった」「あ、いえ……ごめんなさい」「おはよ」ニット帽を被っていない、あちこち跳ね回る寝ぐせが風に揺れた。すっかり過去の記憶にふけってしまっていたようだ。
「おはようござ、」
「あ、やだ」
「……お、おは……よう」
「うん。おっけ」
満足げに笑顔を作るディオン。敬語を使うたびこうしてたしなめられるのだが、こっちはちっとも落ち着かない。家族以外の誰かに敬語を使わないで話すなんて、変な感じだし申し訳なくなる。そのことをディオンには言いづらかったのでソルトに相談したら「あいつあんな嬉しそうだぞ」そう、ディオンは、嬉しそうだ。だから申し訳なさが少しだけ和らいだ。
「シャラいつも朝早いよなー。寝てる? 本当に」
「あんまり……寝るの、下手だから」
「上手い下手なんかあるの? 目つぶればいいだけじゃんか」
確かに彼はいつもころっと寝てしまう。苦笑で応じると、ディオンはこちらの手元に興味を滑らせていた。
「これ何ていう花なの?」
「あ、ハイドレイジア、っていうの」
いくつもの小さな花が束なって、ひとつの花となっている。大きな垣根を見つけて、しばらく眺めていたのだ。
「へえ! 初めて見る」
「雨の日に咲く花なんだけど、強いんです。雨が止んで枯れても、根はまだそこに張って、葉も落ちたりせずにそこにあり続けて、また花を咲かせる」
「すごいなあ。いっぱい咲いてる。これから雨降るのかな?」
「もしかしたらそうですね。小さい頃はよく、この花を見て天気を予想してた」
「花、好きなんだな」
そう言われてシャラははっと我に返り、
「ごめんなさい、つまらない話して」
「え? つまんなくないよ。俺勉強のほうも全然ダメだったからさ、シャラ色々教えてくれるから楽しいよ」
笑顔と、率直な口調。いつもなら相手の言葉の裏を考えて不安でたまらなくなってしまうけれど、不思議とディオンに対してはそうならなかった。まだ短期間しか一緒に行動していないのに、彼は言葉に裏を感じさせない。
「なあなあ! なんで同じとこから生えてるのに色違うの? これは青いのに赤いのもあるよな?」
「えっと、それはですね、」
「あ」
「あっ……つ、土の成分が違、うの」
「敬語のほうがすらすら喋れるって変なの」
ディオンが屈託なく笑った。その頬に、滴が一滴落ちる。見上げると、朝の空はすっかり曇天となりあっという間に雨が降り注いでくる。
滅多に天候に変動がない『リーン・アス』にも関わらず、バケツをひっくり返したような、とはまさにこのこと。雨具を身に付けている間にどんどんびしょ濡れになったので、慌ててテント内に避難した。サムの街を出てようやく広々とした空が見えるようになってのびのびした気分になったのもつかの間のことだった。
「うあー……びっしょびしょだよー」
「着替えろ、風邪引くぞ。シャラも、」
ソルトがタオルを差し出したまま急に黙り込んだ。ディオンがくしゃみをして服を脱ごうとすると「えっちょっとなになにっ?」「シャラ、先に着替えろ。タオルでよく拭くんだぞ」ディオンの腕を引いてそそくさとテントから出て行く。どしゃ降りのさなか二人で濡れに行くかたちになり、
「なにソルト! 寒いぃぃぃ!」
「レディーファーストだ」
「レディっ? ……あ、そっか」
小さいテントに仕切りなどあるわけもなく、ディオンは体をさすりながら黙って雨に打たれた。……明日絶対熱出る。けれどガリガリなシャラが風邪を引いたらそれこそ一大事な気がする。
すると、ソルトが自分の外套を頭から被せてくれた。
「怪我に障る」
「もう大丈夫だって。心配しすぎだよ」
「……そうか」
表情を曇らせて、ソルトは頷いた。シャラの治癒魔法は一度で完治するものではないので、街を出てからも何度か施してもらい、ようやくといったところだった。しかし包帯もガーゼも取れたのに、ソルトは未だしきりに心配する。確かに怖い思いしたけれど、ディオンからすれば結局みんな無事でいるのだから別にいいのにと思う。なのでちょっとからかい口調で、
「サムからもらった鉄パイプ齧ってる?」
ソルトは少し押し黙った後「齧ってる」その答えにぷっと笑うと、おでこを指で弾かれた。
「笑うな。努力だ」
「ったいなあ。わかってるよ。ただ面白いだけで」
再び弾かれる。その時には、ソルトも少し笑っていたので安心した。ごくたまにピリピリした態度の時もあるけれどだいぶ減ってきている。
テントから声をかけられたので入ると、普段より厚手のワンピースに着替えたシャラが泣いていたので度肝を抜かれた。
「なに! どしたの、どっか痛いの?」
「……っごめ、ごめんな、さいっ」
「へ?」
「わ、わたし着替えるの……へ、下手だから遅くてっごめんなさいっごめんなさいっごめんなさい」
まるで母親に叱られた子供みたいに泣きじゃくっていた。
「シャーラ! 大丈夫だよ、そんなことで怒ったりしないって」
シャラの「ごめんなさい」にもう腹は立たなくなっていた。明るいトーンで、
「シャラのほうが俺より細いんだから、早く着替えたほうが良かっ、」
「わたしなんかどうでもいいです」
ぴしゃりと言い放たれて、思わずディオンは二の句が継げなくなった。少しの間、テント内に気まずい沈黙が落ちる。すると今度はその空気に自責の念を感じたのか、シャラの涙は止まらなかった。
「シャラ、まだ髪が濡れてるぞ。ディオンほら、お前も着替えろ」
ソルトが大きめのタオルをディオンに渡して言った。ディオンは小さく頷いて、頭をわしゃわしゃしながら自分の荷物を探り始めた。
ソルトはもう一枚のタオルでシャラの長い黒い髪を丁寧にタオルで拭いていく。
「今まで、誰かにそうやって責められてきたのか?」
小さく問うとシャラは一瞬はっとしたが、すぐ涙を溜めてしまう。タオルで軽く涙をぬぐってやる。
「シャラ、見てみろ」
言われてソルトの目線を追うと、水分をたっぷり含んだスウェットを脱ごうと格闘しているお腹を出したディオンがいた。「う、あれ、キツ、俺太ったのかな、あれっ」べっちゃりと素肌にどんどん吸いつくスウェットからなかなか脱出できずよろめいて、その動きは物語に登場しそうな、首のない不気味な化け物か何かのようだった。
「へったくそだろ。あれ見て、シャラは腹立つか?」
半分口で笑いながら再度聞くと、シャラは首を振った。頭をぽんっとしてから、ソルトは立ち上がった。「ディオンじっとしてろ」「なあ俺太ったのかなー?」「水分で服が重くなってるんだ」「ていうかへたくそって何がだよっ」「ほら脱がすぞ、せーの」ぽんっという音がぴったり、スウェットから解放されたディオンが尻もちついた。
テントのスタッツに紐を結び付けて、よく絞った服を干した。ビニール布越しに聞こえる雨音は、風が通り抜けたときの草原と似ている気がした。誰かが内緒話でも囁いているみたいだ。
テント内は三人が横になれるほどの広さしかないので、ディオンはひたすらトレーニング、ソルトは本を片手にそれを見守り、シャラは毛布にくるまり横になっていた。やがて雨音に混じり、シャラの歌声が聞こえてくる。鼻歌のような、詩もちゃんと乗せているような、その間くらいの、小さな歌。
それさえあれば どこでもゆける
聞き取れたフレーズがふと耳に引っかかる。何だろう、これがあればどこへだって行けると思えるもの。自分をそこまで心強くしてくれるもの。……剣かな。いやそれだけじゃ不安だ。今よりもっと強い力? でも怪我したら力があってもどうにもならない。
「ソルトあのさあ」
腕立て伏せを一旦止めて視線をやると、ぶふっと盛大に吹き出してしまって慌てて口を塞ぐ。シャラが歌うのをやめてこちらに振り返ったので「こっちこっち」こそこそっとディオンは手招きする。シャラは眉をひそめて、そっとそばに寄りディオンの隣まで来ると、
「見て見て。ソルト白目剥いてる」
いつの間にかあぐらをかいたまま眠ってしまったようだ。本が落ちたのも気づかずこくりこくりと頭を揺らして、赤い瞳が行ったり来たりする。最終的には完全に白目を剥いて、瞼が白いものだからぱっと見目がないように見えてちゃっかりよだれも垂らしていた。
起こさないよう小さくくすくす笑うと、シャラも口元を押さえてうつむいていた。……ちゃんと笑ってくれている。ディオンは嬉しくなった。
「シャラの歌聞いてると落ち着くもんな」
「本当?」
「うん。怪我治してくれてるときの歌は、なんか、胸の奥すーって撫でられてるみたいに感じる。それと同時に痛みも引いていくんだ。収穫祭のときに聞いた歌は、その、迫力があって。もう体中がシャラの歌でいっぱいになった感じ!」
「……体中?」
きょとんとするシャラだったが「そうそう!ぶわわわってシャラの歌声が全身駆け巡ってそれしか考えられなかった!すごかった!」若干興奮しつつ満面の笑みのディオン。すごかったこと以外意味を理解できなかったものの、ここまで自分の歌に好感触をもらえたのは初めてだった。胸のあたりが、くすぐったい。
「歌うだけで魔法使えるってすげえよな。どんなこと考えてんの?」
「そう……ですね。この前も話したけど魔法は心の力で威力が変わってくるの。だから怪我を治すときは子守唄にして、その傷を眠りにつかせるイメージ。変身のときは、こうなりたいって思い描いた人に合うような歌を選ぶ」
ふと、声のトーンが暗くなった。
「わたしには歌しかないから。歌以外、何もないの。歌えなくなったら……わたし、」
「シャラ、やさしいよ」
ディオンは目をぱちくりして言った。何言ってんの、と言いたげに。
「物知りだし、俺が聞いたこと嫌な顔しないで全部教えてくれるじゃんか。それにさ、怪我したらすぐに治してくれるし、俺とソルトのこといつも心配してくれてさ、自分のことより。逆にこっちが心配になるくらい」
「そんなの大したことじゃ、」
「すげーことだよ、それ。……ねえ怖くないの? その……自分よりも、相手を優先するって」
「怖く、ない。……ただ、その……」
シャラが続けようとした時だった。
ばりばりっと何かが剥がれる音が突き抜けて、天井を仰ぐと布ではなく雨風に荒れる木々が見えた。考える間もなく、あっという間にテント全体が吹っ飛ばされた。一瞬の出来事だった。一瞬の出来事すぎてディオンとシャラはしばし残った布の上で雨に降られ、呆然としていた。
「うっそ……」
「うそみたい……」
「なんだっ吹き飛ばされたのか!」
さすがに目を覚ましたソルトが後ろから二人を揺すった。
せっかく着替えたというのに雨と風と飛んでくる草やらでぐちゃぐちゃになりながら、とにかく大急ぎで武器と荷物を抱え込んだ。「ソルトどうしよ!俺らまで飛ばされるよ!」「一旦木の陰に行け!」「ゎきゃッ!」足をもつれさせたシャラが風に押し飛ばされてディオンがとっさに掻き抱いた。
「ごっごめんなさっ、」
「このまま捕まってて! 木の陰までなんとか……わ! リュックお前は行くな!」
体勢を低くして、這うようにして大きめの木まで進む。首に巻き付いたシャラの体重は軽すぎて、この強風ならすぐに遠くまでさらわれてしまいそうだった。
靴もいつの間にか消えていて、三人とも裸足だった。もはや嵐と言っても過言でないほどの大粒の雨は骨まで染みるほど体を冷やした。
「無事か!」
「けっ剣とリュックと……シャラ確保!」
「よし!」
ソルトは少し離れた木の陰に背中をつけていた。槍は布に巻いて肩がけにしてある。
「俺とシャラのは吹き飛ばされた!」
「うっそ! メシとお金!」
「槍が無事なのが奇跡だ……」
荷物は各々着替えと水、寝袋とランプに、武器。食料は三人で分担して持っていたが、ディオンは物の扱いが雑でシャラは体力的にあまり多く持てないという理由から、ソルトが多めに所持していた。お金の管理ももちろん彼であり、つまりそれらが吹っ飛ばされたということは、旅の命綱がほぼ切られたということになる。
「どうすんの! 餓死しちゃうよ!」
「先のことは後で考える! とにかく風が止むまでここにいるんだ!」
ぐしょ濡れの包帯から赤い傷たちが透けて、余計に痛々しく見えた。
強風も雨脚も一向に弱まる気配を見せない。何度目かのため息をついて、ディオンは肩越しに空を仰ぐ。険悪な色をした曇天。いつぞやの収穫祭で食べた、ワタアメというお菓子を思い出した。ザラメを加熱して糸状になったそれを巻いたふわふわの、まさに雲みたいなお菓子。今日の雲をワタアメにしたら苦そう、絶対まずい。……いつかまた食べたいな。こんな状況でも食べ物のことを想う自分に内心あきれた。
葉っぱやゴミ、衣服など色んなものが雑多に舞い上げられているのを見ていると、苦い鈍色には不自然な鮮やかな色彩がディオンの目に留まった。青と紫のグラデーションがかったベールのような半透明な羽根をはためかせ、黒い体を泳ぐようにくねらせ移動している……シャインだった。確か彼らは夜行性じゃなかったか、陽が出てないから? いやこの際何でもいい、すぐにディオンは大きい声で、
「助けてーッ! そこのシャインさんッ! 助けてッ! 助けてッ!」
ディオンの声に弾かれたようにソルトも空を仰いだ。「助けてー!ここだよ!気づいて、ここー!」風に吹かれているのではなく、泳ぐように身を任せているさまは優雅。羽根から顔が見えると、眉を上げてこちらまで下りてきた。
教科書でしか見たことがなかったシャイン族。体は大蛇のようだが四本指の手が生えていて、わずかに黒く光っている。他の生き物より大きな目は黒い瞳孔に黄金の瞳。羽根は背中から一際大きな二枚が揺らぎ、脇の下から小さなものがいくつか生えている。
「おや。旅人さん? 人間にギルデラ……揃って、まあ大変そうだね」
のんきな口調で笑った口にはのこぎり状の歯が覗き、彼らは戦闘時主にこの牙で敵の首を食いちぎるのだという。
「どっから来たの! もしかして街があんの!」
「街~? んー街? 村……ではないけど、あれえ、でもボクどっから来たっけ~」
えらくのんびりした調子でシャインが首をかしげる。彼らは鳥のように高くは飛べないものの、多少の浮遊力が備わっていた。
「どっちだよ!」
「んふふふっ短気な人間クンだなー。教えてやってもいいけど、何か報酬がないとなあ」
「ほうしゅうっ?」
下顎をガタガタ震わせながら、ディオンは叫ぶ。報酬という言葉の意味を必死で考えながら。
「そーだよー。ボクらシャインは夜キミたち生き物を死音から守ってやってんだからさあ。全く馬鹿げた役割を与えられたもんだよ。さんざんコキ使いやがってさ」
「取引を持ちかけるということはあるんだな、街が!」
ソルトが吠えるとシャインが意表をつかれたようにむっとして、
「ギルデラはジョークが通じないから嫌いだよ。……そだなあ、三万ギーロでどうかな?」
「三万! て、どれくらい?」
「食料三カ月分だ……」
「俺たちお金も着替えも、全部この嵐に吹っ飛ばされたんだ!」
「じゃさよならー」
「やだー! 待ってー!」
背を向けてディオンの悲鳴を羽根でふわっと受け流す。が、シャインがもう一度振り返る。視線はディオンに注がれている。いやらしく歪めた口元から、一本一本のこぎりの歯のように尖っている牙が覗く。
「なあんだ子供クン。いいもん持ってんじゃん」
「へっ? 俺?」
自分の身なりとシャインに目を行ったり来たりさせていると、シャインが傍らにふわりと降り立つ。これだけの嵐にも関わらず、優雅さが乱されることはない。
「君の剣。それくれたら街まで連れてってあげるよ」
「剣っ? だめだめ! これ俺の武器!」
「じゃーこのままお仲間サンと揃って路頭に迷ってもいいわけ? 夜まで止まないよー止んだとしても死音うじゃうじゃだよー?」
「だめ!」
断固拒否すると肩をすくめられ、
「第一さー、子供クンが持ってるのおかしくない? もっとふさわしい大人が持つべきだよー不相応」
「剣もらったってお前持てないじゃんか! シャインは腕力弱いんだろ!」
言いたい放題の相手に腹が立って数少ない知識をぶちまけると、少し間があってから「はあ?」思いのほかシャインの地雷を踏んだ。
「持てるに決まってるだろそれくらい! これだから人間は!」
「嘘だね! そんなひょろひょろの腕じゃ持てないよ!」
「ボクらシャインが今までどれだけの死音ぶっ倒してお前ら人間を守ってきてやったと思ってんだ! 武器だってお前らなんかよりすごい職人がシャインには多いんだぞ!」
「知らないもんね! 俺成績悪かったから知らないもん! ただこうして直に見てみれば一目瞭然だ、俺の方が腕力ある!」
我ながら何言ってるのかわからなくなりつつ叫ぶと、あーもう!とシャインが憮然とした顔で、
「百聞は一見にしかず……思い知らせてくれる!」
「え? あ、ぅわっ!」
シャインが浮上したと同時に、なんとディオンの足が浮いた。慌ててシャラを強く抱え込むとどんどん地面が離れていき「ディオン!シャラ!」ソルトが追いかけてきて間一髪、ディオンの足に捕まると気づけば森を一望できる高さまであっという間で、自分たちは深く大きな森にいたことを思い知った。
しかしシャインが思い知らせたいのはそんなことではなく、今ディオンが背中に装備してある鞘のベルトだけで生き物三人を持ち上げている腕力だった。
「ほーら見ろ! 所詮お前ら人間ちっぽけな生き物なんだよ!」
「うわすっげー! 飛んでる! すげー!」
「聞いてんのか子供!」
曇天下に広がる街並みにディオンは興奮を隠せなかった。森を抜けた先にわあっと街が広がり、それは一点に向かって密集しているのだと気づく。
白い塔だ。嵐に紛れず圧倒的な存在感を持って建っていた。城? 城下町なのか? 王族が住んでるとか? そしてその背景、嵐で濁っているようだったがおそらく海が見えて「うわ!」深く考える前にシャインが急旋回しシャラとリュックを抱えた両腕に力を込めた。
急降下。胃が浮遊するかのような感覚に、ぐんぐん近づいてくる地面に思わずぎゃあぎゃあ叫び目を閉じた。一度上にきつくつままれたような感覚の後、やわらかくちくちくする場所に降ろされた。恐る恐る目を開けると、地上だった。
古びた建物があった。この雷雨の中だと若干頼りにならない気のする、木造の屋根を被り黒ずんだ外壁の一軒。中からガラス戸を引いて一人の老人が出てきた。突然上空から現れたディオンたちに目をまん丸くしていた。
「せいぜい熱でも出してねんねしなー! 特に人間は弱いからすぐダメになる!」
憎まれ口を叩きつつ、しかしこうして運んできてくれたので意地悪なんだか親切なんだか……。シャインは再び舞い上がって姿を消した。
「シャインってあんなに高く飛べるんだな! 見た? 海が見えて城が……シャラ、大丈夫?」
「は、はい、なんとか……」
頷いた矢先シャラがくしゃみをすると、玄関前で立ち尽くしている老人と目が合った。
「大変だ……早く入りなさい、ほら」
ずぶ濡れのディオンたちを立たせると、老人は中へ促した。ガラス戸に宿の名前が書かれていた。
湿った木の匂いが鼻腔にむわっと触れる。生き物の気配がしない。それを裏付けるように石畳の玄関の脇にある靴箱は空っぽだった。
渡された大きいタオルであちこち拭いていると、
「酷いスコールだったろう。……お前さんたち、旅人かい?」
「そうだ。申し訳ないが、雨宿りだけでもさせてもらえないか」
ソルトが言った。宿主は少し考える素振りをして、
「荷物はそれだけかい?」
「全部吹っ飛ばされちゃってさ。服もメシも……お金も」
「またそれは……災難だったな」
待ってなさい、と言い残してから奥に消えると、大きめの木箱を抱えて戻ってきたので慌てて支えた。中は服だった。
「息子のお古ですまないが、よければ着てくれ。さあ、濡れた服を脱ぎなさい」
「え! いいの?」
「いや、そこまでしてもらわなくていい。さっきも言った通り払える金がないんだ」
「金はいらない。私の仕事は訪れた生き物に安心して過ごしてもらえるよう、手を尽くすことだ」
宿主はゆっくり、笑みを深くした。
「一人息子が嫁をもらった途端出て行き、跡継ぎがいなくなってね。ここは私の趣味でやっているようなものだ。私に付き合うつもりでいてくれればいい」
「しかし……」
「寂しがりやな老いぼれのわがままを聞いてくれ」
愛想笑いではない、本心からの言葉のように思えた。ディオンが目を向けると、渋々といったようにソルトが頷いた。
部屋に辿り着くまで長い廊下を歩いた。その間宿主はどこから来たのかとか何を目的に旅をしているのかとか、こんな物騒な世の中子供を連れてあちこち歩き回るのは危険だなどなどよく喋った。ソルトは丁寧にひとつひとつ答えた。いつもと同様ローティフルのことは伏せて、あくまでも修行だと言った。宿主が、肩越しにディオンを見た。
案内された部屋は三、四人分の一室だった。キングサイズのベッドは清潔な枕とシーツできちんと整えられているが、床は軋み天井は黒ずんでいる。まるで宿主とともに歳を重ねてきたみたいだと思った。壁の半分ほどの大きな窓からは庭が一望できる。嵐はまだまだ居座ったまま、木々や花々が容赦なく振り回されていた。
疲れたー、とディオンはベッドに飛び込んだ。もらったチノパンがぶかぶかだったのでサスペンダーで吊るし、半袖Tシャツに着替えた(サイズが大きくて五分丈くらいになった)。
「あのシャインがいなかったら今頃どうなってたか……あー助かった。じーちゃんも、やさしい人だな!」
「金を作らないとな……」
入口すぐにあった簡易なクロゼットに槍を収納しながら、ソルトはげんなりとため息をつく。宿主が去ったことを再度確認してから、びちょびちょの包帯をゴミ箱に捨てて、着替え始める。
「え? だっていいって言ってたじゃんか」
「そういうわけにはいかない。泊めてもらうだけじゃなく、服までもらって。きっちり礼はしないと」
「そ、そっか……」
語気を強めるソルトに、ディオンは胸中で反省する。何の躊躇もなく宿主の言葉に甘える気満々だった。
「人間は金を稼ぐ時どうするんだ?」
「うーん……お金のことは全部姉ちゃんが管理してたからなあ。ギルデラは?」
「ギルデラの里でしか手に入らない食物や、独自の武器を商人たちに売っていた。手に入った金は皆で分ける」
「何か売るものないかな? ……ないか」
自問自答してうなだれるディオン。が、矢先、
「あ! 俺いいこと思いついた!」
威勢よく手を叩いて立ち上がるとソルトがびくっと体をすくませた。ディオンがきらきらした目で視線を注いだのは、ニットのワンピース(本来はトップス)に着替え終えてトイレから出てきて、目をぱちくりするシャラだった。
幸い嵐はその日のうちに去り、午後の中ごろが過ぎた市場は遅ればせながら商人たちが客引きや商売を始めた。そんな風景には不似合な姿をした人間が一人いた。
真っ白な絹のワンピースに身を包んだ彼女は、にぎやかな空間の中でゆっくり裾を揺らしながら市場の中央部に進んでいく。その容姿の美しさゆえに皆自然と道を開け、特に男たちはしばらく目でその背中を追った。腰まである黒い髪が、陽の光を含んだ。
子供向けの遊具が設置された小さな公園で、彼女は足を止めた。人の波がない、子供とその親だけだった。走り回る子供たちも話に花を咲かせていた親たちも、一瞬その場は静まり返る。髪と同じ色の瞳を周囲にすらりと滑らせると、胸に手を当てて、息を大きく吸った。
どこまでも響き渡る声量と、奥で神秘さを奏でる鈴のような声色。祈念歌だった。感嘆のため息があちこちから聞こえ始めて、子供も大人も、あらゆる種族たちが公園に集まっていく。
「心配なんていらなかったか」
ソルトが小さく息をつき、ディオンも頷いた。二人はテントたちの脇にできた、お客たちがたむろする小さな空間の中に交じり、シャラを見守っていた。ソルトは長袖のシャツにジーンズ。包帯は雨ですべてダメになってしまったため、手と首、顔が露出している。別段周囲の反応は普通かのように思えたが、ソルトはなるべく肌が人目に触れないように振る舞っていた。
「ああしてると気丈だな」
「ゼイラで歌ってた曲だよ、あれ」
彼女の姿、というより歌に釘づけになっていた時を思い出し、口元がほころぶ。
「俺シャラの歌好き」
「それ、本人にちゃんと伝えてやれ。自信になるからな」
「うん」
あっという間に近くの商人たちを皮切りに、人だかりができた。いつものシャラなら怯え出しそうなものの、体も声も震わせずに、歌い続けていた。
「なんで変身してから歌うんだろ。ゼイラの時もそうだった」
「子供の姿だとつけ込まれやすいんだろう」
「何に?」
「悪い生き物はローティフル以外にもいるからな。この世界は酷だ」
「……ソルトの、これさえあればどこへでも行けるものって、なんかある?」
「なんだ急に」
「シャラの歌でそういう詩があったんだ。それほど心強いものって何なのかな」
商人やその客たち一人一人の顔を眺める。笑顔だったり涙を浮かべていたり、合いの手を入れたりしてそれぞれやさしい反応を見せていた。
「確かにさ、サムやガルカみたいにやさしい生き物ばかりじゃないから。それでも前に進めるものって何だろ」
ソルトはすぐには答えなかった。うつむいて思案している、ように見えたけれど、目を細めてつらそうな横顔。少しそうしてから、シャラの歌う姿に視線を移す。
「一概には言えないんじゃないか」
「え?」
「世界はあらゆる形で見せてくる、やさしさも酷さも。その時々でいかに必要なものを選択できるか、じゃないか?」
いつも自分の問いに明確な答えをくれるソルトにしては、曖昧に感じた。もっと掘り下げようと口を開いたが、ソルトがため息をついた。
「シャラはどうなんだろうな。あの歳でああして生きてきて……どうして一人でいるんだろうな」
ソルトのひとりごとはシャラの歌声に溶けるように重なった。
陽が暮れて宿に引き上げると、籠に入っていた金額に思わず三人で声を上げた。六千ギーロ。ディオンの感覚で言えば、ジーンの店で手作りケーキのホールを三個買える……つまりちょっとした贅沢ができる額だった。
「大したものだ。今までこうやって稼いで、生きてきたのか?」
「はい。今日みたいに路上で歌ってました。運が良ければ街の祭事やお葬式での歌を依頼されて、そこで……」
「葬式?」
「人間は、誰かが亡くなった時に歌うたいを呼ぶ習慣があるんです。故人が安らかに逝けるようにと、遺族が少しでも安堵できるようにと。鎮魂歌を歌います」
「ほお。そうなのか」
「すっげー! シャラありがと!」
シャラの両手を取ってぶんぶん振ると揺さぶられながら、
「おっ、お役に立てましたか」
「もちろんだよ! あ、また敬語に戻っちゃった」
「えっ。ご、ごめんなさい」
「シャラばっかに稼いでもらってちゃ、疲れちゃうよな。俺も大道芸とかできればよかったー」
嘆くディオンに、ソルトが笑った。
「なんでそこで大道芸が出てくるんだ」
「学校で成績いい奴らが休み時間やっててさあ。ボールの上で踊ったりバック転したり。大道芸人って商人より儲かるんだって。武術学校の成績が良くないとなれないから」
するとディオンが急に黙って、じっとソルトを見つめる。「なんだ?」「ソルトできたりして」「はあ?バカ言うな」「試し試し!一回だけ!な?」「……うむ」眉間に皺をうんと寄せたままだったが渋々立ち上がり、少し思案した後、バック転してみせた。
「おお!」
足を天井で止め、片腕だけで静止。その腕を曲げると、反動をつけて宙に浮いて、
そのまま中途半端な恰好でどさっと着地した。ディオンが腹を抱えて大笑いした。
「あんな強いのに!」
「戦闘と大道芸を一緒にするな!」
「だってさあ」
「よしディオン……稽古だ。ボールの上で素振り百!」
「げっ。ぼ、ボールなんかないよ?」
「今から買ってくる。戻るまでストレッチとスクワット五十だ。……シャラ、ありがたく使わせてもらうな」
瞳の奥をめらめらさせてソルトは外套を羽織ると、コインを何枚か取って部屋を出て行った。
「怒らせちった」
「……笑うから」
「シャラだって笑ってたじゃんか」
図星、というようにシャラは口を閉じた。ソルトはたまに変なところでムキになる。
ソルトの指示に素直に従い、ディオンはストレッチを開始した。
「ゼイラでも見たことあるよ、葬式のときの歌うたい。みんな魔法使いなの?」
「そうとは限らないかな。魔力じゃなくて、あくまでも気持ちを込めて歌うから」
「大変な仕事、だよな」
シャラのことだ、他人の悲しみも自分のことのように悲しむのだろう。
「わたしの痛みなんてどうでもいい。それより、目の前の人が痛がっているほうがずっとずっと悲しいし、やるせない。魔法で体の傷は塞げても……心まで届いてるのか、わからないから」
吹き荒れる嵐を、いや、それよりもっと遠くに視線を送りながらシャラは言った。ディオンの知らない場所……ディオンの知らないシャラのこと。
「テントで歌ってたの、えっとなんだっけな……これがあれば大丈夫、みたいな」
「……それさえあれば、どこへでも行ける?」
「あ、それ! あれ何の歌?」
「教えてもらったの。父さんに」
「お父さん?」
シャラの口から初めて出た、シャラ自身のことだ。
「へえ! なんかそのフレーズ、頭に残ったんだ。お父さんどんな人なの? お母さんは?」
嬉しくて前のめりに尋ねると、ひゅっとまた暗い顔に引っこんでしまった。三歩進んでは二歩下がる状態だ。
「ごめん。俺親いないから、つい」
「……そうなの?」
「詳しく聞いたことないんだけど、俺を傷つける最低な人たちだったって……それでフウ姉が赤ん坊だった俺を連れて、ゼイラで育ててくれたんだ。それからずっと二人で、」暮らしてきた、と言いそうになって口が止まった。赤ん坊の時の薄い記憶だけではなく、今もこうして何気なく話せる姉との暮らしも過去になってしまった。
そこから話を続けられなくなってしまい曖昧に笑ってその場を濁してると、シャラが目を閉じて息を吸った。
そう それさえあれば どこでも行ける
そう きみはもうほら 星に手を 伸ばして
ここへおいで 大丈夫 きみはひとりじゃないから
スローテンポだが、それこそ星の光ような控えめな明るさのメロディ。
「歌の続き」
シャラが小声で付け加えた。
余韻に浸って何も言わないでいると「ごめん、なさい……」みるみるうちに萎んでいくシャラに、ディオンはくすっと笑った。わなわな震えるその手を握る。
「この歌好きだよ」
「……よかった」
「なんか、お互いさまだな、俺たち」
「え?」
「ありがとう」
ディオンは、とても嬉しそうに笑った。
喉の奥が縮こまるような感覚に目が覚めた。間接照明の橙色が沈殿する室内、まだ朝ではない。シャラは口元を押さえて慌ててトイレに駆け込み、せり上がるものを吐いた。息を吸うこともできない窒息しそうなこの時間は、いつもより長く続いた。胃の中が空っぽになっても止まらず、口内は苦くて酸っぱくてまずい。
ようやく落ち着いて、レバーを引いてから出る。体が、ある限りの力すべて出し尽くしたようで重く、トイレ前でへたりこんだ。ががっとラジオのノイズのような音に驚くと、寝返りを打ったディオンに目がいく。隣にはソルト。起こしてしまったか……息を殺して様子を伺うも、寝息のまま時間が過ぎる。目をつむればいいだけじゃんか、と昼間の彼がよぎった。
買ってきたボールと奮闘すること一時間、ディオンは見事ボールの上から何度もすっ転んで、お返しとばかりにソルトが大笑いした。顔面から着地した時に、宿主が夕食をどうかと尋ねて来た。
宿主はとことん親切な人で、手料理を振る舞ってくれたのだ。普段は手軽に食べられるパンや保存が効く肉やチーズの燻製などが中心なので、お米や野菜、果物などのやわらかくあたたかい食事が久しぶりだった。せっかくなのでその厚意に甘え、ディオンもソルトも嬉しそうにいっぱい頬張りおかわりまでしていた。宿主のやさしさでできた料理を残すわけにはいかない、と自分も詰め込んだ。結局吐いてしまったが……二人のように笑えていただろうか。
ゆっくり立ち上がり、洗面台の水で口をすすぐ。正面の鏡、暗がりでもぼんやり自分の顔が浮かぶ。死人みたい、不気味、気持ち悪いなど、自分に浴びせられた雑言も一緒に。これでいいと安堵する自分と、このままは嫌だと悔しがる自分。視線を外すと、ベッドでぐっすり眠る二人の足元を静かに歩き、ゆっくり戸を開けた。外の空気が吸いたかった。
庭に出るとやけに明るく、空を仰ぐと満月だった。ビロードのようになめらかな藍色の夜空は、月明かりに輪郭を縁どられた雲たちによって全く別物の景色となっている。絵みたい……綺麗だった。草木やアスファルトの坂道、鈴を転がしたような虫の鳴く声、昼間の湿気を含んだ風。この瞬間、眠れない生き物はどのくらいいるのだろう。理由は?気持ちは?自分のように安心感を抱くのは、おかしいのだろうか。
故郷を出たばかりの頃はひたすら怖くてしょうがなかった真夜中。しかしいつしか世界のすべてが活動を止める時間は、誰かの目を気にすることも、周りと足並みを揃えることもしなくていいことに気づいた。孤独だけれど、シャラにとっては心安らぐ一時となった。
「やあ、子供チャン」
突然降って来た声に身を固くする。振り返ると影が地面に落ちていて、かすかな風を持って青紫の羽根が舞い降りた。
「ニット帽の子供クンと一緒にいた子だよね? 昼間。ボクが運んできた」
少しして記憶がひらめく。ここまで連れてきてくれたシャインだ。
「こ、こんばんは」
「何してんの? 眠れないの?」
「はい……まあ……」
思わぬ来客にどっと不安が押し寄せ、さりげなく後ずさる。
「こんな真夜中なのに怖くないの? 外なんか出て」
「いえ……」
「へえ。人間なのに珍しいね。怖がりじゃん? 人間て」
ゆらゆら羽根を揺らし、シャインは言った。月明かりに透けて見える青紫の毛細血管がとても幻想的だった。
「月の淡い光と、それが溶け込んだ涼しい空気。夜は美しい世界なのにさ、危険だとか、化け物が出る時間とか、人間が勝手に妄想して暗闇を怖がって、あっという間に夜を恐怖の世界に仕立て上げた。それで怯えて、不安がって、死音に堕ちて……とんでもなく自己中な種族だよね。嫌でも生き物はいつか死ぬんだから待てばいいのに」
死音に堕ちるのは人間がいちばん多いと言われている。目の前にいるのがその人間であることを意識しているのか否か、敵意ある物言いに空っぽの胃がむかむかしてきた。
「夜は、嫌いじゃありません。安心します」
「変わってんね。そんなんだとのけ者にされるでしょ、人間そういうのすぐやりたがるからねー」
そんなん、というのが夜が嫌いじゃない点なのか外見の点なのか。わかりかねて返事ができなかった。
「ボクらシャインにとっては、月明かりや星が希望の光なんだよ。そんな風に考えたことないでしょ? 弱いやつは自分中心でしか物事考えられないからね」
「シャイン族の皮膚は、太陽の光に当たると火傷を負ってしまう。だから夜に活動するようになり、それに伴い夜行性として進化を遂げ、夜に生きる種族となった。そうですよね?」
「……」
「どの種族にも理由があり、環境があり、性質があります。そのぶんだけ人柄も変わっていきます。すべての人間が弱いとか、夜を恐れているとか……簡単に自殺を選んでいってるわけじゃないと思います」
そこまで言い切って、自分が少なからず憤りを持って話していたことを自覚する。死音の話題はどうも頭に血が上る。それほど、簡単に口にしてほしくないことだった。勝手だとか、単に自己中心的な考えで選ぶような道ではないのだ。
シャインは別段反応を見せないままシャラをじっと見つめる。
「その年齢にしちゃ博識だねえ……シャラちゃん?」
「? 名前……どうして」
「どうしてだと思う? 魔法? それとも誰が教えてくれたか気になるかい?」
ずん、と不吉な黒い塊が胸に落ちる。ふふっと立てたシャインの笑い声は、無邪気だった。
「ボクは奴(、)ら(、)の考えなんてどうでもいいんだー。ただこの世界が……弱っちい人間どもが偉ぶってる世界が嫌いだから、それを壊してくれるなら喜んで協力するってだけ」
「ディオンさっ、ディオンさん!」
身を翻したが口を塞がれて月明かりに透けた青紫の羽根に視界がいっぱいになり、意識はそこで途絶えた。
一度寝たらちょっとやそっとじゃ起きないディオンには珍しく、何かの物音で目が覚めた。年季の入った木の天井と、簡易的な照明。よく寝た。ここのところテントの寝袋だったり床だったりしたけれど、シャラが「たまには二人ともちゃんとしたところで眠ってください」と譲らなかったのでありがたくソルトとベッドで眠った。少し布団の中でもぞもぞまどろみに浸っていると「待て!」鋭い怒声に余韻は吹っ飛ばされた。
何事かと起きてベッドから降りようとした時、床に敷かれた布団はもぬけの殻。シャラ先に起きたのかな、相変わらず早起きだとあくびをするとまた怒鳴り声が聞こえた。布団をまたいで窓を開ける。
まだ早朝のようで少し薄暗かった。雨上がりの朝の空気は冷たくて肌に湿気がべたべた張り付く。白い霧が朝の風景の輪郭をぼかし、太陽は厚い雲に隠れていた。右を見ると生き物の姿が二つ。ソルトと、おそらく昨日のシャインが言い争っていた。
「だーからー知らないって言ってるでしょが」
「管理人が夜、シャラとお前が話してるところを見たと言っていた。何をした!」
ソルトの激昂した様子に一瞬またドラッグの禁断症状が出てしまったのかと肝を冷やしたが、そうではないようだ。
「別に危害になるようなことしてないって。……ボクは」
「いい加減にしろ!」
ソルトがシャインに掴みかかったところで「ソルト!」ディオンは念のため剣を手繰り寄せると裸足のまま窓から外へ出る。シャラの話をしてる、でも彼女の姿はない。嫌な予感を抱えながら牙で威嚇するシャインとソルトのナイフが交わる前に大声で制止する。
「ソルト待てって!」
「ディオンッ」
「お? おはよう。キミがディオンくんかあ」
「何してんの」
「子供チャンが叫んでたよ。タスケテ王子様って感じ?」
ディオンが眉をひそめると、シャインはおかしくてしょうがないというようにくすくす笑う。問うようにソルトを見ると、
「シャラがいないんだ、どこにも。昨夜こいつと話してたらしい」
「どこにもいないなんて死んでるわけじゃなしに。まあ、わからないけどね」
こちらの神経を逆なでする言い方と、明らかな悪意。余裕綽々の態度で羽根を優雅に揺らし、
「教えてほしい? そーだなあ……相手は二十万ギーロくれたから、その倍くれたら教えてあげるよ」
「金で協力したのか。奴らに」
「そうだけどー? ていうか何、みんなしてあの子供チャン探して。大金かけるほどの価値あるわけ? いくら人間でも、もっと器量のいい子いるでしょうよ」
「! 貴様!」
頭に血が上りナイフを取り出した矢先、ディオンが相手の繊細な羽根を引っ張りながら怒鳴りつけた。
「どこだよ!」
「痛いなあ! 羽根はもっと丁寧に、」
「言えよ! シャラはどこだ! 奴らってローティフルのことだろ!」
さらに引っ張ると顔をしかめたシャインが吠えて、噛みつこうとしたので手が離れた。
「子供クンがいきがった程度で、ボクが吐くとでも思う?」
「……吐かせる」
殺気。ディオンのその声に、ソルトははっきり感じ取った。激昂したり動揺したり、怖がったりと彼の色んな声色を知っていたが、戦を幾度も生き抜いてきたギルデラが最も触れる空気だ、間違いない。
シャインが大口を開けて襲い掛かってきた。ディオンの半身など易々と飲み込みそうな勢いだったがディオンに臆する様子はなく、直後左拳を相手の鼻っ柱へストレートに叩き込んだ。鈍い音ともに鼻血を吹き出した相手の腹を突き飛ばし、脳天に踵を落とした。這いつくばった姿勢のシャインの羽根をぞんざいに掴んで渾身の力で引っ張った。
「いててっ、ガキてめえ! シャレになんねえ!」
「シャレで言ってんじゃない。シャラはどこだ」
「千切れる千切れる! 羽根!」
「どこだよッ!」
いよいよ剣を抜き、そこへ振り上げると「シダだよ!奴に頼まれた!」矛先が三センチほどのところで止まった。しかし体勢を崩さずに低い声でディオンは続ける。
「闇の罪人シダ?」
「お前らが昨日までいた森があるだろっ。そのどこかにいるはずだよっ」
「本当か?」
「羽根はシャインの命だよ。金より大事だっ」
シャインの荒い息遣いしか聞こえない少しの間の後、相手を突き放すと剣を持ったままディオンは走り出した。
「待てディオン!」
「クソッ。人間があ……!」
シャインが勢いよく起き上がったところを、ソルトが肘で打ち再び地面に倒した。
「もう俺たちに関わるな。……あいつで運が良かったな。俺なら二度と飛べなくしてやっていた」
痛み半分苛立ち半分で呻くシャインに吐き捨てると、ソルトは急いで部屋に引き返した。槍を手に取ると悲鳴が聞こえて、ディオン同様窓から飛び出す。道なき茂みをナイフでかき分けながら進むと青い炎が見えた。
腐敗した肉に覆われた全身に口を生やした改造死音。十体はいた。
「改造死音だ!」
「くそっ……どけよ!」
体中の口から悲鳴をあげて襲いくる改造死音に、ディオンは剣を薙いだ。が、側頭部の口にがっちり刃をくわえられ、一瞬の隙のち腕にかじりつかれた。改造死音の腹部の口が筋組織を引いて飛び出してきたのだ。そのまま体重をかけられ押し倒されそうになるのを蹴飛ばしてなんとか剣を引き抜く。頭蓋めがけ突き刺すと、金切声をあげ一体が消えた。
口を引き剥がすと歯型がしっかり刻まれ、腕は血まみれだった。痛みより先に恐怖が背筋に走る。食われたら、死音に……!
「ディオン!」
槍で二体まとめて片づけると、ソルトが背中を合わせてくる。
「ソルト、俺っど、どうしよっ」
「大丈夫だ、致命傷でなければ死音に堕ちたりしない。奴らの放つオーラに自分がどのくらい侵されるか、によって決まるんだ。肉体的傷口の広さと心の隙が大きいと堕ちる」
「? つ、つまり? 俺は?」
「大丈夫だ。心を強く持て」
口早だがしかと安心を与えてくれる声に、背中の恐怖が溶けた。
悲鳴はまだまだ迫ってくる。シャラ! 焦りを滲ませながら目の前の敵に剣を振るった。
***
最初に感じたのは、湿った草の感触だった。重い瞼を開くと、今横たわっている芝生の緑と黒い人影が見える。人影……誰? 体を起こすと、急に心が戻ってきたかのように強烈なめまいに襲われてうずくまった。どこにも痛みや怪我はなさそうだが、鼻の奥が匂う。薬品のような、決して良い香りとは言い難い。さらわれた時にかがされたのだろうか、めまいに続き頭痛と体の重さを痛感した。
必死に視線を巡らせる。霧が立ち込めていたものの、どこかの森であることは確かだ。そこでハイドレンジアを見つけ、ディオンたちとテントを張っていた森だと気づく。やたら巨木が密集した道なき道。去った嵐の雨粒たちは霧の中に溶けていく。
「起きたな。意識は鮮明か?」
生き物の、男の声。ゆっくりと顔を上げると、シャインではなく人間の男が立っていた。猛獣のたてがみのような橙色の髪。真っ黒なレザーのジャケットにスキニーパンツ、そして狼狽するシャラを映す、濃い色眼鏡をかけている。
「……あ、なたは……」
すぐに記憶がひらめいた。闇の罪人シダ。ローティフルの、魔法使い。
「答えなくてもわかってるはずだ」
シダは簡潔に吐き捨てると、右手を掲げた。刹那首が圧迫され、呼吸ができるぎりぎりのところまで首を絞められる。
「シャラ・ファウス。魔法使い。魔力の出口は声帯。歌による治癒を得意としている」
「ぅうっ……あ、くっ」
「聞きたいことがある。五秒以内に答えないと四肢を順にもぎ取っていく。わかったら俺を見て瞬きしろ」
シャラに抗う術などなく、言う通りにすると圧迫が解けて咳込んだ。頭痛が脈打つ。懸命に息をしていると「ひとつ」早速シダは問う。至極事務的な口調だ。
「なぜお前は我々の邪魔をする? ディオン・リック、ソルト・レイグルの動機は把握しているがお前の動機がわからない。答えろ」
「……二人を、助けたい」
「知り合って日は浅いはずだ」
こちらのことに詳しい。まるでずっと見ていたかのような……恐怖と不快感が這い上がってくるが、正直に答える。
「関係ないです。二人は……初めて、わたしに手を差し伸べてくれた人だから。力になりたいだけです」
「カリヤの出身だな?」
心臓が凍りつくような、冷たい衝撃が走った。
「……今、何て」
「お前の故郷はカリヤだな?」
「なん、で、知って……」
「カリヤにいたお前ならますます我々の邪魔をする理由がわからない」
「誰から聞いたの!」
体の異変を一瞬だけ忘れ、思わず声が大きくなる。シダは少し驚いたが、すぐにやりとして、
「怖いか」
「……っ」
「この世界の仕組みは間違っている」
「やめて」
「力の強い者だけが自由を手に入れ、弱い者は排斥される」
「やめてっ。なんで知ってるの」
「世界はただ吐き捨てる。弱さの居場所などこの世にない、死ねと」
「やめてって言っ、」
再び喉を締め上げられ、体が宙に浮く。足がつかなくなり、シダと顔を突き合わせるかたちになる。
「どれだけ世界が腐ってるか気づかせてくれたよな。村を出てお前も思い知っただろう、虐げられて、傷つけられてきたはずだ。少なからず憎しみを抱いた。違うか?」
締められて否定できないのか、相手の言葉に否定しないのか……自分でもわからずシダを睨んでいると、ぐっと顔を近づけられて囁かれる。
「手を伸ばしちゃいけないって頭が言った。触れたいって心が泣いてた。体が二つにちぎれるような痛みに叫んだ。強烈な、赤、悲鳴、感触。……これだと思ったんだ……気が紛れるなら何でもよかった」
「何を……何の話を」
「あの方がお前を欲しがってる。お前は、俺たちと同じだからだ」
「おな、じっ……?」
「お前はそっちにいるべき人間じゃないんだ。自分を傷つけるくらいなら、そうさせた世界を憎め」
顔を反らしたくてもできなくて、圧迫はどんどん強くなる。比例してぐるぐる視界が渦巻く。酸欠なのか朦朧とした中で見たシダの色眼鏡に自分の不気味な姿。言葉がダイレクトに響く。お前は同じ人間だそっちにいるべき人間じゃない……わたしは、世界を───……
「や……いや、嫌!」
悲鳴をあげた直後、シダが弾かれたように視線を右に向けた。「動くな!」圧迫はそのままシャラも方向転換させられて、その目線の先にいた人物に目を見開いた。
息を切らした、ディオンが立っていた。なぜか裸足で左腕は血まみれ、そして剣を握るその手は震えている。ソルトは?まさか一人で?
「シャラを……離せ……っ」
歯をかたかた言わせながら、シダを睨みつけた。泣きそうになっていると圧迫がまた強くなって「従わなければこいつの首を折る。剣を捨てろ」有無を言わさないシダの言葉にディオンに動揺の色が見えた。逃げて、と言いたくても呼吸すらままならない。
「五秒やる。五、四、三、」
「わ、わかった」
唇を噛んで、ディオンが剣を地面に放った。途端圧迫が消え、シャラが倒れ込み咳き込んでいると叫び声が響いた。
膝をついてうずくまるディオンの右肩が、切り裂かれていた。シダが右手で何かを投げるような動作をすると、今度は二の腕、脇腹、片頬が見えない刃で傷つけられあっという間に血まみれになっていく。
「やめて!」
悲鳴に近い声でシャラはシダの足元にしがみついた。
「お願いやめてッ! お願いッ!」
「仕事の邪魔だ」
「行く! 一緒に行くから、お願いだからもうやめ、」
次の瞬間、ディオンが声を上げてシダにぶつかってきた。油断していたのかシダがよろめいたのもつかの間、ディオンの手がシャラの手を取った。剣とシャラを抱え走るディオン。しかし風の気配を感じると容赦なく背中が切り裂かれた。覆いかぶさる状態で地面に倒れ込んだ。
「この娘はお前たちといるべき人間ではない」
ディオン見下ろし、吐き捨てるシダ。
「俺たちと同じなんだ。お前は何も知らない」
「……にを……なにを」
ディオンが下からえぐるように剣を振ったが避けられる。間髪入れず蹴りを叩き込み、さらに迷うことなく肩へ剣を突き刺して押し倒した。シダは、避けなかった。
「何言ってんだてめえ……」
「事実だ」
「ふざけんなッ! てめえこそ何も知らねえだろッ!」
剣をぐっと食い込ませる。確かに刺さっているのに、滲む血にも激昂するディオンにもシダは態度を崩さず、淡々とした口調で言った。
「ガキは嫌いだ」
シダの右手がディオンに伸ばされる。とっさに剣を傾けてガードすると光がさく裂して吹っ飛ばされた。
「ディオンさんッ!」
剣は少し焦げただけだったが、防ぎきれなかった脇腹に火傷を負った。痛みにはだいぶ免疫がついたと自負していたが……おそらくそれ以上かつ、未経験な痛みたちに呼吸が浅かった。
うずくまるディオンを横目に、ゆっくりシャラに向かって歩いてくるシダ。声が出ない。涙ばかり溢れて早くディオンを助けなくちゃでも何を想って歌えばこの状況を打破できるのかわからず怯えて、
「少し痛い目を見なければわからないか」
右手をかざすシダと目が合った───……
次の瞬間、ディオンが半ばやけくそでシダに向かって剣を投げた。同時に痛みを無理やり捻じ曲げて立ち上がりシャラを抱えて走り出す。が、背中に無視できない強烈な痛みが走って倒れ込む。
早く逃げなきゃ早く早く背後を確認するより無我夢中でシャラを抱きしめ立ち上がるが再び同等の痛みが足をさらう。
「やめてッ!」
シャラが叫んだ直後もう二、三発続き、撃ち込まれるような感覚があった。
魔法による閃光弾だ。肩越しに見るとシダの右手から光が溢れ、その端で自分の剣が転がっているのを視認した。
背中に再び叩きこまれるそれの皮膚を焼く痛みに、絶叫した。その合間に耳元でシャラが「嫌! やめて! やめて!」狂乱気味にそう叫んでディオンの腕を振り払おうとする。しかしディオンは一層シャラを強く抱きしめた。
「放して! ディオンやだ! 放してお願い!」
「や……やだ……っ」
「お願い、わたしっわたしなんかもういいから、やめて!」
「……ッく、う、」
痛い。痛い。痛い。嫌だ痛い。どうにかなりそうなくらい、痛い。
でもそれよりも、それよりも。なぜか脳裏に浮かんできたのは、一度自分をかばって死音の針で倒れたシャラ。血は夜闇でもそのまがまがしさがわかるくらい、真っ赤だった。
そしてテントでの彼女の言葉……わたしなんか、なんて、もう言わせたくない。
「……シャ、ぁあ」
痛みを喉ですり潰そうとするも声となって止まらない。大丈夫。そう伝えたいのにそれができない自分の弱さ。せめて、シャラを強く抱きしめる。
「シャラ……俺、わかった……よ」
「え?」
「テントで……聞いたこと」
不思議だ。この場面に似つかわしくない、冷静な思考回路が働く。傷つくことへの恐怖は微塵も感じていない。ただ、シャラが傷つくのだけが嫌だった。そんな悲しい、耐え難いこと。ああ単純なことだったんだ。この人が傷つくのを見るくらいなら、自分が傷ついたほうが百倍もマシだ。シャラも、フウ姉も、きっとこんな気持ちで自分を守ってくれたんだ。
背中にまた強烈な痛みが走りまた悲鳴を上げた。やめてお願いやめて、泣きじゃくり暴れるシャラ、それでもディオンは腕をほどかなかった。
ふと、攻撃が止んで、振り返ると再びシダの手で閃光弾が膨れ上がり、反射的に目を閉じた。
直後、破裂音と強風が吹きつけたが痛みは感じなかった。
目を開けて軋む首をなんとか動すと背中越しに、閃光弾が勢いそのままに停止しているのが見えた。そこに盾か何かあるみたいにつっかかり、その場で燃え尽きる。
なんで? 何が起こったんだ……考える前にそこで意識が途切れた。
「……なんだ? 一体何を、」
言い終わらないうちに爆風が襲った。防御壁を張るのも忘れ地面に手をつくと、風と砂埃、強力な光が敵の周囲を覆っていて何も見えない。色眼鏡がなければ目がつぶれていたに違いない……目を細めると、いたぶっていた敵の姿がやっと見えた。しかし目が合ったのはディオンではなく、かばわれていたシャラだった。気を失ったのか死んだのか、ディオンを膝に寝かせ、その顔を抱きしめている。その周囲には強い光の渦のようなものが囲み、まるで二人を守っているかのようだ。
さっきからキンキン響いている悲鳴は、よく耳を澄ませばシャラの歌声だった。
ただ思う
あなたを傷つけるものすべて あたしは許すことはできない
あなたを愛さないもののこと 代わりにあたしがあげる
あたしは 許すことができない
できない
できない
これが例の歌か。彼女は攻撃魔法はおろか防御魔法もろくに扱えていなかったはず……だとしたらこれは何だ。シダは等身大の壁を張り立ち上がると、渦の隙間を狙い閃光弾を尖らせて飛ばした。
それらが吸い込まれた直後、同じ数だけの閃光弾が撃ち返される。壁を掲げたが当たった瞬間太いニードルを脳天にぶっ刺されたかのような頭痛が突き抜けた。耳……じゃない、自分の脳内から歌が叫んでくる。許すことはできない愛してあげる許すことはできないできないできないないできない「ッぁあぁああ!」耳に指を入れてぶち込まれた何かを消そうと試みるがいったい何なのかがわからない為消すこともかなわない。
ちかづくな
歌声とは違った方向から現れた囁き。
未だ光渦巻く方に視線をやると、シャラと目が合った。もともと華奢な体型のせいで大きく見えた黒い目が、シダの目を、姿ではなく目を、しかととらえているのがわかる。
闇。背筋が凍る。ただの黒でなく、闇だ。あの方と初めて話したときの光景が重なる───本当に恐れるべきは、人間の心だよ───魔法は心がそのまま魔力として作用する。だとしてもあんなガキにここまで……!
だからあの方はこいつを欲しがったのか。
ちかづくな
思考回路は脊髄に爪を立てるような囁きと、わんわん大きくなる歌でめちゃくちゃになる。あなたを傷つけるものできないちかづくな愛してあげできないできない許せないクソガキがちかづくなちかづくなちかづくなあなたを傷つけ振り払おうとシダも叫ぶが自分の声すら埋もれる許すことはできない許すことはできないできないできないちかづ
「クソッ!」
こんな小娘を目前に逃げるなど……強烈なめまいにさらされながら半ばやけくそで閃光弾を打ちまくって、断腸の思いで移動魔法を発動させた。間際に見たのはこちらに跳ね返ってきた弾と奴らの一人であるギルデラの姿だった。
「ディオン! シャラ!」
すごい風と光量に叫ぶことしかできない。敵のものだろうかと危惧したが姿はどこになかった。消えたのか。……まさか倒した? ディオンは? 疑問がどんどん出てくるがそれをかっさらっていくのは悲鳴、いや歌声だ。シャラの声だが、そうとは到底思えない、治癒魔法や子守唄など普段のものと全く違う。一体何があった。
「シャラ! 俺だ!」
光に当てられないよう極力目を下げて呼びかける。
「シャラッ! シャラッ!」
「……くな」
かすかに耳に彼女の声がひっかかった。
「ち か づ く な」
一語一語異なる声色がかまいたちのように、鋭い風で猛威を振るう。そうか彼女は声帯に魔法を宿してる、その気になれば歌でなくても声ひとつを武器にできるのだ。槍を薙いでなんとか相殺すると、一瞬視界が開けその姿と彼女に大切そうに抱きしめられているディオンの姿をとらえた。呼び続けるが『近づくな』と繰り返し一向にこちらを寄せつけない。
ディオンを守ろうとしてるのか? シャラほど周りを想う人間ならば、合点がいった。少々強引なやり方だと承知しながら、声をさらに張り上げる。
「シャラッ! そのままじゃディオンが死ぬぞッ!」
直後、風はこちらにではなくシャラを囲うように渦巻き始めた。光と同一化し、急速に細くなっていくとやがて線になり、ぱんっと完全に消えた。
同時にシャラががくんと頭を垂れた。慌てて二人のもとへ走る。傍らに膝をつくと、傷を負い意識を失ったディオンが膝にいて、そこでやっと我に返ったのかシャラが自分の腕の中を見て、
「ディオンっ……やっディオン!」
「シャラ落ち着け。俺が手当てする」
シャラからゆっくりディオンを抱き抱えると、背中に生温かい血の感触があった。手伝ってもらいうつ伏せにすると、ひどい裂傷だった。
「何があった」
「わ、わたしがっ……わたしをかばって、ず、ずっとかばってくれてっ」
そこで、ディオンが薄く目を開けた。シャラが必死に声をかける。
「ディオンやだっ死なないで、死なないでっ」
「ディオン、今手当するからな、大丈夫だ」
「わたし、わたし歌う。歌わせて」
「ああ。頼む。……よくやった。シャラを守ったんだな。よくやったぞ」
頭を軽く、しかししっかりと撫でてやると、
「……はは」
「なんだ、痛むか?」
「ははっははは」
思わずシャラときょとんとする。笑っている。この怪我で。頭も強く打ったのかと一抹の不安がよぎるが、掠れた声でくすくす笑いながら、ディオンはこちらを見た。
「俺……幸せだよ」
「……な、なに言って……ディオン?」
「ディオン! やだ、ディオンッ!」
呼びかけには答えず、ディオンはそこで意識を失った。
***
「もう大丈夫だ。頭を打った様子もないし血も止まった。ただあばらにひびが入ってるだろう。しばらくは絶対安静だ」
「世話をかけた。申し訳ない」
ここは宿の三人の部屋。シャラの歌で傷はほとんど塞がったものの、念のため最寄りの診療所はないかと尋ねると、宿主は自分が診ると言い出した。驚いたが、元医者なのだそうだ。
「死音はここまで生き物を痛めつけたりせんよ。よほどタチの悪い生き物か……奴らか」
「改造死音だ。現れたぶんは片づけたが、今夜俺が見張る。ここに迷惑はかけない」
「それよりジエンターに連絡をしておこう。君も疲れただろう。ゆっくり休むといい」
「……すまない」
宿主は柔和な笑みを浮かべると、薬粥を作ると部屋を後にした。そこで、ディオンが目を開けた。背中の怪我が酷かったため、うつ伏せで寝ている。二人こぞって傍らに寄る。
「ディオン、痛むか?」
「あれ……やど……?」
「ディオン、ごめんね。ごめん、ごめんなさいっ……」
「シャラ?」シャラの声に、ディオンは笑顔を作った。「良かった。無事だな」
ぼろぼろ涙を流しながら、シャラは何度も頷いた。
「なんか、くらくらする……あ、いてっ」
「背中の出血が酷かったからな。あとあばらにはひびが入っているそうだ。まだ起き上がるな」
「……でも喋れるし……腹減った」
「今宿主が薬粥を作ってくれてるぞ。元医者なんだそうだ」
「え、そうなの。どうりで優しいじいちゃんだと思った」
へへへ、といつもの笑顔を見せるディオン。ほっと胸を撫で下ろしていると、ソルトが少し怒ったように、
「遺言みたいなこと言って」
「へ?」
「俺が駆けつけてすぐ。手当てしてる俺たちに向かって、幸せだよって呟いてお前は意識を失ったんだ。……その歳で百年早いぞ」
「ああ、あれね。違うよ、本当にそう思ったんだもん」
「どういう意味だ?」
「俺がどんなにボコボコにやられても、怖いって泣きじゃくっても、二人はいつも名前呼んでくれるじゃんか。呆れたり見放したりしないでさ、そばに来てくれるから。……一人じゃないってこんなに幸せなことなんだって思った」
掠れた声でそう言うと、ディオンはまたへらっと笑った。
薬粥をたいらげると、ディオンはすぐに深い眠りについた。朝まで起きないだろう。ひとまずもう安心だとソルトは肩の力を抜く。
「本当に、奴に何もされてないか?」
「まだ少し頭痛が……。でもわたしは大丈夫です。それよりディオン、治療しないと」
「もうじゅうぶんだ。傷は塞がってる」
制すると、シャラは沈鬱そうにうつむいた。顔色が悪かった。彼女自身相当疲弊しているだろうし、傷ついているはずだ。
「死んだ目のことかな……あの方が、わたしを欲しがってるって言われました」
「何?」
「前の街で、ソルト……さん、も、」
「俺にも敬語はいらない。ただでさえ疲れてるんだ、気を回さなくていい」
やさしく言うと、意外にもシャラは素直に頷いた。
「ソルト、も、そう言われたって話してたよね?」
「ああ。俺と、お前とディオンを、あの方が欲しがってると。奴らと俺たちが、」
「同じだから、って。うん。そう言われた。それにね、ローティフルは、わたしたちのことに詳しかった。ディオンとソルトが自分たちを狙う理由はわかってるって。それで……ディオンが来てくれたの。ずっと、わたしを……守ってくれて……」
「そうか。……その後のことは?」
「……うっすら」
「凄まじい守りの魔法だった。駆けつけたのが俺だっていうのも、まるでわかってなかったのか」
「覚えてないってことは、そうだね。気が付いたらディオンが腕の中にいて、ソルトがいて。……どうやったか、わたしにもわからない。ただもう、ディオンが傷つかないでほしいって、ひたすらそう思ってたの。それだけ覚えてる」
自分にそんな力があるなんて実感がなく、曖昧にしか答えられない。
「お前にあんな強力な力があるって、奴らは知ってたってことか?」
「……ごめんなさい……」
「いやいや、シャラは何も悪くな、」
「これからも、もしかしたらわたし狙われるのかな。またさらわれて、二人を傷つけるのかな」
うつむいて、自分の袖をぎゅっと握った。なんでわたしなんかを? そして、ディオンはなんでわたしなんかの為に、ここまで……。
「そうだったら耐えられない。わたし、これ以上足手まといになりたくない」
「何を言うんだ。迷惑なんて」
「もう一緒にいないほうがいいんだ。わたし一人でいたほうがいい」
「一人になってどうする。そのほうが危険だ」
「別にいい。わたしなんかどうなったって、二人が無事なら」
「シャラが捕まったってわかった途端、今日あいつ一人で飛び出して行ったんだぞ。お前が俺たちの元を離れたなんて知ったらどうなるか……わかるだろ」
震えながらも息を切らして駆けつけてきたディオンを思い出し、何も言えなくなった。
ソルトは深い息をつくと、ぽんっと頭に手を置いた。
「迷惑なんて、自分なんかなんて、言うな。俺もディオンもこれっぽっちも思ってない」
「でも……」
「前、夜に改造死音の群れに襲われたことがあっただろ。ディオンが剣を買ってすぐ」
「……うん」
「ディオンをかばったとき、どんな気持ちだった? ……俺たちは今同じことを思ってる」
髪をわしゃわしゃされると「俺がついてる。今日は休め」そばにいたかったが、ソルトの言葉に返すことができなくて、頷いた。ベッドに横になる。二人に背を向けて、目をつむる。
あの夜……一緒に旅を初めて間もない頃。二人の足を引っ張らないことだけを考えて一緒にいた。だから、ディオンをかばうことに、身代りになることに、それ以上の感情はなかった。自分なんかどうでも良かったから。どんなに傷ついても……いつ、消えたとしても。けれどディオンが今日、あんな血まみれになりながらも抱きしめてくれた理由は、自分の暗くて卑しいそれとはまったく違うと思った。
敬語とれてる、と嬉しそうな笑顔。強く目を閉じる。怖い。もしソルトの言っている通りの理由だとしたら聞きたくない。やさしくしないでほしい。あたためないでほしい。そんな資格、自分にはないのだから。
「わたしなんか」
口の中で呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく静けさに溶けていった。
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