第4話 あかいろ

「へえ、そうなんだ」

 報告を受けたあの方はどこか嬉しそうに微笑んだ。

「もっと詳しく話して。三人の様子を」

「はい」

 自分は尊敬に値する生き物にしか敬語を使わない。つまり、この人にしか。

「最後に残った改造死音の目では、例の人間の子供が剣を振るっていました。けれど稚拙なもので、感情に任せ振り回した、という印象です。実際はギルデラによって全滅させられたと考えます」

「感情……」

 あの方は考え込む素振りをした。死音に手を加える際には外見や身体能力だけではなく、目を我々の視覚と繋ぐことができる。改造死音を通し、いかに弱者が偏見を持たれ、化け物呼ばわりされ、排除されていくかがよくわかるのだとリーダーは言った。個人的にはクズどもが抵抗も虚しく無残に殺されたり死音に堕ちる瞬間を存分に見ることができるので、ただの娯楽だった。自分の手でやる以上の快感はないけれど。

「ハート」

「はい」

「彼の、目はどんなだった?」

「……あれは、何でしょう……。俺がサツキと村に訪れたとき」

 話しながら胃のあたりがむかむかしてくる。皆殺しにしたはずだったのに……あんなガキ一匹取り逃がすなんて。

「その時のものとは明らかに別物でした。殺意、とまではいかないでしょうが、激しい、」

「怒りだね?」

「はい」

 あの方が歯を見せて笑った。なぜそこまであんなガキに興味を持つのか理解できなかったが、自分はただこの人の意向に沿うまでだ。

「ハート、お願いがあるんだ。もう一人の、人間の女の子のことも調べてくれないかな。シダやサツキと協力して」

「承知しました」

「魔法使い。死音。……怒り」

 ふふふっ、とまるで子供が内緒話でもしてるみたいなかわいげのある笑い声を立てた。

「面白いね。楽しみだ」



   ***



 包帯を巻こうと思うんだが、どう思う?

 朝ごはん中何やら神妙な面持ちでそう問いただしてきたソルトに、てっきりどこか怪我でもしたのかとシャラともども心配すると、いやいやと片手を振って否定され、

「この肌を隠すためだ。気温も高くなってきたし、やっぱり厚手の上着は暑っ苦しくてな、動きにくい。気候にそぐわない格好してるとかえって目を引くだろ? それなら包帯のほうがまだ自然に見えると思ってな」

「あー、まあ言われてみれば。巻くって全身?」

「そうだ」

「顔も?」

「ああ。その上から薄手の服を着る」

 サンドイッチを口にするソルトに、頭の中でぐるぐる巻きつけてみた。昔姉に読んでもらった太古の昔から封印されていた宮殿のお宝を盗む冒険者の物語を思い出す。主人公の行く手を阻む宝の守り役として登場した化け物と重なる……ミイラとかいう名前だった。

「だめか?」

「うーん……まあ、子供には好かれないかなあ」

「ん? どういう意味だ?」

「あ、ううん。でもさ、ずっと気になってたんだけど何でそんな隠すの? ゼイラじゃほとんど見かけなかったから俺ビビっちゃったけど、やっぱり他種族って珍しいもんなの?」

「……まあな」

「下手に隠すとかえって目立つよ。こないだなんてそれでジエンターに捕まっちゃったじゃん」

 ここへテントを張る前に寄った街で、ソルトと二人で食料品の買い出しをしている最中のことだった。今までも何度かそういうことはあったもののその時声をかけてきたジエンターはやたらしつこく凄みのきいた(しかも女)ジエンターで、ものすごく怖かった。幸い窃盗事件発生とかいうジエンターの無線が入り、注意が逸れた隙に全速力で逃げた。あのジエンターを足で捲けたことはゼイラだけではなくどこの街でもちょっと自慢できることだ。自分の逃げることに関する脚力と言ったら……少し情けないけれど、息をぜえぜえ切らせながらソルトと手を叩き合った。

「そうだが……今でも他種族に偏見を持つ人間は少なくないからな。『人外』っていう蔑称があるくらいだ」

「人外? ひっどいなー」

「人間として振る舞ったほうが何かと円滑なんだ」

「へえ。そっか」

 頷いたものの、ソルトはどこか気まずそうに視線を逃がし煙草の箱に手を伸ばした。少し不審に思ったけれどジエルの情勢をほとんど知らないディオンは納得した。

「そういうことなら包帯のが怪しまれないかもな。ね、シャラ」

「そうですね。わたしもそう思います」

「そうかよかった。まあ街での反応によって変えるがな。あとで巻くの手伝ってくれ」

 ほっとした様子でソルトは最後の一口をたいらげると、煙草を一本引き抜きながら立ち上がりテントの裏に歩いて行った。何か食べた後は必ず吸う。出会った当初に比べてディオンとシャラの目を避けるようになった。

「いいのにな、ここで吸っても」

「体に悪いからじゃないですか。煙草から出る煙って吸う煙より害が大きいらしいですし」

「え、うそ。あれいい匂いするからすごい嗅いじゃってたよ。……病気とかになるのかな嫌だ!」

 あからさまに怯えてみせるとシャラは困ったような顔をした。彼女はいつもこう、何かで凝り固まってしまったかのようにほとんど同じ表情をしている。大きくくぼんだ目を伏せてきょろきょろさせて常に何かを怖がっていた。骸骨のように痩せ細った外見も作用して少しでも強く触ってしまえば消えてしまいそうな雰囲気で、話すこっちも慎重な気持ちにさせる。

 なんとか距離を縮められないものかと思案して、

「ねえ、なんで敬語なの?」

「え?」

 黒い目をまんまるくして、シャラがディオンを見た。意表をつかれた顔だ。

「これから先も長いんだしさ、せめて俺だけでも敬語なしにしようよ」

 明るく提案すると、シャラが視線を落とす。なれなれしかったかと慌てて、

「や、やだ?」

「えっいえ、そんなことは……」

「歳近いよな?」

「……十四」

「同じじゃんか! ディオンって呼べって」

 な? と笑ってみせるとシャラはうつむいたまま黙り込んだ。まだ半分も食べ終わっていないサンドイッチがレタスとハムを舌みたいにべろんと出してうなだれている。

ぴくりともしないので肩をつつくと弾かれたように顔を上げた。一瞬泣いているように見えて思わず手を引っ込めるも涙は見えず、でも心なしか瞳が潤んでいて狼狽し、

「ご、ごめんうそ。いいよ敬語で。ごめん、ごめんな」

「……ごめんなさい」

「いやいやシャラは謝らんでも……」

 動揺した手で皿に手を伸ばすとさっき一番に完食したのであるはずもなく、隣のカップも空だった。目標を見失って少しばかりひらひらしたあと、頬をぽりぽり掻く。気まずい沈黙が体中をちくちくした。

 ……まだまだ道のりは長そうだ。



     ***



 道なりに進んでいくとぽつりぽつりと人とすれ違うようになった。おそらく商人だろう、大きめのバッグパックを抱えていたり車輪のついたトランクを引いていたり。皆げんなりした表情で「いやあの街きつかったわー」「ありゃ死音が絶えないわけだよな、できれば二度と行きたくない」これから行く身としては聞き捨てならないやりとりに思わず彼らを見ると、相手もこちらに視線を向けていてそのまま通り過ぎていく。それを追って振り返るとソルトミイラと目が合って、肩をすくめられた。

 シャラと協力して持っていた包帯三本を駆使して、ソルトの全身に余すことなくぐるぐる覆った。顔がいちばん苦労したが、目と鼻の穴と口をなんとか開けられるようにして今や彼は立派なミイラだ(それが目的じゃないけど)。その上からシャツとジーンズを着て、ハットをかぶってしまうと、普通の人間に見える。……訳ありの。

「ソルト普通に歩いてると変じゃない? 怪我人がそんなぴんぴんしてるとさ」

「う。そ、そうか……」

 見えてきた街はやたらととげとげしていた。……というのは、ディオンが見る限りすべての建物が三角に尖った屋根をしていた。ソルトの槍よりも鋭利で、晴れ晴れとした空を牽制するかのようにいくつもいくつも伸びている。それらはぎゅうぎゅうに立ち並んでいて街はとても窮屈かつ、暗かった。合間を縫うように細く狭い道があるものの高い建物のせいで日陰り、どんよりと陰気な雰囲気を漂わせていた。雨のにおい、湿ったアスファルトの燻った匂い。水たまりが、舗装が十分でないぼろぼろの街道あちこちにできている。

「何かから街を守ってるのか」

 歩きながら見上げてソルトが呟く。人気もなく、市場のにぎわいも聞こえない。街は静かだった。さっきの商人たちのやりとりが思い出される。

「雨避けか? いやでも地面は濡れてるよな」

「死音だよ」

 悲鳴を上げてソルトにしがみついた。「旅行者だろあんたら。雰囲気でわかるよ」街壁の小窓がガラッと開いて、若い男がにぱっと笑った。歯に金属の、初めて見る何か器具のようなものが着いている。一見歯に鉄格子がはめられているような。

「翼を持った死音がここのへんはうじゃうじゃいてなー、空から狙ってこの街を襲撃してくるんだよ。その対策ってやつ」

「翼?」

「そうそう、改造死音。一体どんな技術をお持ちなんだかねーローティフルは。まあそのへん這いずり回られるよりは気分いいけどー」

 改造、と呟く声。横目で見ると、シャラは無表情でその男を見ていた。

「気休めだけどね。無いよりはマシ。治安悪くてなー自殺者が多いんだよ。死音は増える一方でますます治安悪化。ジエンターも死音の方で手一杯でさ、犯罪者はほとんど野放しだし。まあだからそんな長居しないほうが身の為だよ。っていうかお兄さん怪我人? だいじょぶなの?」

「昔の傷跡を隠してるだけだ」

うまい言い訳だと思ったけれど、全身を覆う必要があるほどの大怪我とはいったいどんな過去からなのか。

「どっから来たの? しかもそこの二人子供じゃんまだ。何、どういう旅行?」

「宿はどこがいちばん近い?」

 無遠慮な質問を遮るようにソルトが口調を強めた。しかし男は臆したふうもなく待ってましたと頬をほころばせる。

「俺んち空きあるよ? ここまっすぐ進んでくと赤い鉄の扉があるからそこから入って。三名様ご案内~」

 素早く窓を閉めると走り去っていく足音がした。「馴れ馴れしいと思ったら客引きか」ため息をつくソルト。

「な、なあここ泊まるの? 危なくない? 犯罪者が野放しって」

「そうだなー……気は進まないがこの先しばらく街がないんだ。仕方ない。なるべく出歩くのは控えよう」

 男が案内してくれた部屋は狭く、三人入るとさらに窮屈だった。街があの様子なのだ、どこも室内はこんな様子なのかもしれない。隅っこに追いやられているかのようにベッドがひとつ設置されていてディオンとソルトは床で寝ることが決定したが、二人寝転がれるかどうかも怪しかった。荷物を下ろして、三人で一息つく。

「とげ生えてるのだけじゃないんだな、改造死音って」

「そうだ。この前遭遇したのが通常の姿だが、翼があったり、やけに巨大だったり、あの姿以外のものは皆ローティフルに改造されている」

「ゼイラじゃ見かけたことなかったからさ。死音って、世界中にいるの?」

「死音はいつの時代にも存在した。そもそも自殺者が後を絶たないからな。……死音に堕ちる生き物を減らそうと試みた王族が発表した声明のなかで、こういう一節があった。『死音はジエルで最も罪深いもの。苦しみから逃れようとその道を選択しても、苦しみから解放されないまま永遠とさまよい続ける。天使にも悪魔にもなれない、命を無駄にした弱者への罰があの化け物なのだ』と」

「化け物、って……」

「ソルトさんもそう思うんですか?」

 シャラが声を上げた。普段ならうつむいて黙って聞いているだけなのに、じっとソルトの顔を見つめていた。さっきと同じ無表情は、睨んでいるようにも思える。

「化け物への……弱者への罰だって、そう思うんですか?」

「……いや、俺はそうは思わない。姿かたちがどうであれ、あくまでもその生き物自身だ」

 少し戸惑いながらもソルトははっきりとそう言った。

「王族の声明は住人を戒めるためにあえてそういう言い方をしたんだろうが……誰かを、それも大事な誰かを失くしていればそんな考えはできないはずだ。あるいは、死音に大事なものを奪われ、憎しみゆえにそう考える者もいるだろうし……一概には言えないな」

シャラは視線をそらさない。まっすぐと、大きい黒い目を揺らがせることなく。凛とした、ただならないものがそこに感じられてディオンは思わず息を飲んだ。初めて見るシャラの一面だった。

 少しして視線を外すと「ちょっと出てきます」「なっ、どこに行く」「ごめんなさい」ソルトが引き止める間もなく部屋から出て行ってしまい、

「シャラ待って!」

 ソルトが部屋を出るより先に、ディオンが後を追いかけて行った。

 外に出て左右首を振ると、結構なスピードで進む小さい背中を発見してディオンも走った。呼ぶと振り返ったが、足は止めなかった。

「シャラ、どうしたんだよ」

 追いついて足並みをそろえると顔を覗き込む。口を引き結んで頑な表情のままシャラは歩くのをやめない。

「怒ってんの? ソルト何か言った?」

「……ごめんなさい」

「いやそうじゃなくて、どうしたんだ」

「ごめんなさ、」

「謝ってばっかじゃわかんねえよ!」

 つい声を荒げると、シャラが立ち止まって目を見開いた。固い表情の中に傷ついた様子が滲んでいて、あーえっとと言い繕うが言い訳が出てこない。事実、シャラには苛立っていた。こちらがどう接しようと何を言っても、謝るか黙るかで何もくれないのだ。……まるで拒んでいるかのようで。

 でもさすがにここで変にこじらせて別行動するわけにはいかないので、こほんとを咳払いをひとつして場を繕うようにあいまいに笑った。

「あのさ、とにかく、ひとりじゃこのへん危ないよ。どっか行くんだったら俺も一緒に行くから。あの、話したくないんだったら俺、何も聞かないからさ。黙ってるから。な。だめ?」

 シャラがうつむいて、しばらくして小さく頷いた。内心ほっとして、彼女の後をついていった。歩調が少しゆるくなっていた。

 そしてしばらく歩き回っていたが、どこへ行っても同じような街並みだった。一度できた水たまりはこの空間だとなかなか蒸発しないのだろう、何度も足を突っ込む度やけに大きく音が響く。薄暗く、湿気の漂う細い道がどこまでも迷路のように続いていて人通りはほとんど無かった。たまに見かけると言えばあきらかに柄の悪いチンピラや布一枚を身にまというなだれる浮浪者で、どちらも通りかかるディオンたちをじっと鋭く目で追っていた。本当にシャラをひとりにしないで良かった……後ろ手で剣の存在を何度も確かめる自分がいても相当頼りにならないけど。やっぱりソルトに行ってもらえば良かった。死音に遭遇したら終わりだ。

 意識を完全に周りに向けていたので(チンピラとは目を合わせないように)シャラが突然立ち止まると思い切りぶつかった。軽い体が吹っ飛びそうになったのを慌てて捕まえて「ごっごめんっ」ちゃんと立たせてから、シャラの視線の先を辿る。ぎゅう詰めの建物に肩身狭そうに喫茶店、と書かれた看板が下がった一軒があった。他のものよりあきらかに古くて今にも倒れそうだが、見ようによっては古き良き、と言えるのかもしれない。歩き疲れたのだろうか。シャラがこちらを伺うようにちらっと見るので、

「入る?」

 正直ディオンもこれ以上外を歩いていたくなかったので問うと、小さく頷いて中に入っていく。横顔は未だ固いままだった。

 ベルが安っぽい音を立てて、左手に伸びるカウンターに立った店主と目が合った。意外に奥行きがあり、外よりも明るい照明が店内を照らしていて安心感に包まれた。店主はディオンたちを一瞥しただけですぐうつむいてしまったので(何か作業している、わけではなく雑誌を開いていた)、シャラの後に続いて手前の四人席に座る。机に無造作に置かれたメニューから適当に冷たい飲み物をふたつ注文し、無愛想な店員がそれを雑な仕草で置いていく。シャラが口を開く様子はなく、ディオンは気まずい沈黙のなかひらすらちびちびとフルーツジュースに口をつけていた。

「ごめんなさい」

 しばらく経ったシャラの呟きに顔を上げると「……さっきの、態度」見慣れた暗い表情でうつむく。沈黙が終わって安心して、ディオンはグラスを置いた。

「怒ってたの?」

「……」

「あの、死音の話?」

「……」

「シャラっていつもそうやって黙るけど、何考えてるの?」

「……え?」

「フウ姉が言ってた。しゃべらない人は、たくさん言葉を飲み込んでる人だって。その代わりにシャラは、ごめんなさいって謝るのかなってなんか、思って」

 ディオンの言葉に、シャラは目をまん丸くした。伝わらなかったのかと思って「えっとだから、その、色々我慢してるのかなって。我慢っていうか遠慮っていうかさ」

「初めて聞かれた」

 呆然とした顔でぽつりとシャラがこぼした。

「そんなの、初めて聞かれた」

さっきのより間の抜けた表情に、少し空気がくだけた気がしてディオンは嬉しくなる。コップに手を伸ばして「言われた時さっぱりだったけどシャラ見ててわかったよ」浮き立った指先がコップを掴み損ね、コップが倒れた。半分以上残ってた中身がこぼれだし慌てて備え付けの紙ナプキンで拭こうと手を伸ばすと肘でコップが落ちた。ほんの小さいものなのに派手な音が店内に響いた。

 あっと思ったときに、そこに人がいるのに気づいた。四人の人間の男たち。先頭を歩いていた前髪を七三に分けた男のズボンに、小さいシミができていた。「すいませんっ」即座に頭を下げて、紙ナプキンを何枚か手に取ると、その彼がディオンに手を伸ばした。

 後頭部を掴まれ、破片が散らばる床に叩きつけられた。シャラと、複数の悲鳴が聞こえた。焼けるような痛みが顔中にまとわりつき顔を上げるとそれは鋭利な痛みに変わった。破片が顔に、そう考えるだけでぞっとしてかろうじて目を開けた瞬間背中を何度も踏みつけられて息が詰まった。

「なんだガキじゃねえか」

「なにお前相手見ずに手出しちゃったの? あー怖えなあ」

 こちらを見下ろしながら四人がげらげら笑い合っていた。鼻血が口に伝い、痛みと苦しみとざわつく店内が際立って感じられ、ディオンの体が震え出すのに時間はかからなかった。

 なあぼっちゃん、七三がしゃがみこみ低い声で囁いてくる。

「俺ら帰るところだったんだけど。なのにお前が床汚しちゃったせいでここ通れねえんだけど。この店狭いよね? 見ればわかるよね」

「ご、ごめんなさ、ごめ、」

 舌がまわらないのと、足がどんどん背中に食い込んでくるのとでうまく謝れないでいると笑い声はさらに大きくなる。そのうちのひとりが、向かいで怯えるシャラに近づいた。

「なんだこいつ、女? つうか人間か?」

「新しい人外じゃね? ははは!」

 金髪の男が髪を掴みやたら顔を寄せるとシャラは目を固く閉じてそむける。

「まあいいさ。こんなんでも突っ込む穴ぐれえあるだろ」

「おいおい昼間っからかよ。まだ早えって」

「ちょうどいい。溜まってんだ。ガキ、こいつでお前のことは許してやるよ」

 ディオンに唾を吐き捨て七三は立ち上がると、乱暴にシャラを引き寄せて歩き出す。シャラの抵抗は彼らの前では紙のように軽く、悲痛な目がディオンを見た。とっさに周囲を見回すも、皆こちらに視線は投げるが止めに入ったりジエンターを呼んだりする様子は一切無かった。どうして、何で。助けて誰か。ソルトやフウの姿がよぎり涙がこみ上げてくる。そうしてる間にもドアが開きベルがやかましく鳴り響く。

 そうだ剣。俺には剣が、席に置いた剣を取り「待てよ」叫んだつもりの声はベルにかき消されそうだった。だが、ドアは閉まらなかった。七三らが凶悪な目つきで振り返ったところ、剣を構えてみせた。

「なんだガキ、大層だな」

 頬を歪めて笑われる。震えが止まらず剣の柄がかたかた音を立てて情けない気持ちがこみ上げてくるも「シャラを返せ」「ひゃははっ! だったら取り返してみろや」「返せ!」剣を振り上げると頭上でがつんっと固い音がして、見ると狭い天井に先がつっかかり直後お腹に衝撃が叩きこまれた。ひとつ後ろの席のところまで背中から転ぶ。鈍痛に咳き込んで蹴られたのだとわかった。彼らがまた笑う声が聞こえて、剣!剣は……無様に転がっているそれに這うように手を伸ばすもそれを汚いスニーカーが踏みつけた。笑い声とともに頭を蹴られ、恐怖と痛みで顔すらあげられなくなった。

 誰か。耳を澄ませて、足音が聞こえる。けれど信じがたいことに足音はディオンの体を跨いで、ドアのベルを鳴らして出て行ってしまう。どうして……どうしたらいい。だんだん感覚がぼんやりしてきていると視界の端でまた席を立つ客。こちらにずんずん近づいてきたものの、この人も通り過ぎるだけだろうかと半ばあきらめて震える手を握りしめる──……。

 直後に、派手な物音がして顔を上げると、長い髪の女性が片手で七三の頭をテーブルに叩きつけていた。彼の頭はテーブルを破壊し、慌ててディオンは後ろに下がった。コップやメニューや机上のもの全部ひっちゃかめっちゃかに巻き込んで突っ伏し、周囲が少しどよめいた。手下たちが唖然としながら七三の安否を心配するも、なかなかそばに寄れずにいる。

 立ちはだかった女性はミルクティー色の長い髪をしていた。タンクトップに太ももよりも短い短パンと露出度の高い服装。そこからすらりと伸びた小麦色の足……その左足が、ディオンは初めて見る、義足だった。まるで人間の筋肉組織そのものを機械で再現したかのようだった。その義足が転がったディオンの剣を踏むと、モーター音とともにこちらへ滑らせた。

「おい童貞ども」

 ディオンを背に不機嫌極まりない声でチンピラたちを見下ろす。

「今すぐ散れ」

「てめえ……」

 井戸の底から這い上がってきたかのようなどすの効いた声。七三がゆっくりと(衝撃で見事な分け目が崩れてしまった)、ふらつく頭を押さえて起き上がった。ぶつけた額から血が流れ、あちこちに破片が刺さっている。

「何しやがったこの俺に」

「散れって言ってんの。不愉快。喋るな」

「なんだこのアマ! ぶっ殺されてえのか!」

「あ、その顔図星? 童貞。チェリーちゃん」

 声色一つ変えない女性に対し、七三はみるみるうちにチェリーのごとく真っ赤になっていく。しかしすぐにニヤリと嘲笑をたたえ、

「義足……ってことはお前魔法使いだな」

「え? 何それだけで自分の方が強いって錯覚しちゃうわけ? これだから童貞は。現実に夢持っちゃって」

 肩をすくめる女性に、七三は言葉にならない怒声をあげると立ち上がりポケットから何か取り出した。

 ナイフだ。反射的に剣を掴んで上体を起こす。

「殺してやる!」

「殺してみろ」

 しかし女性は臆せずにずかずかと近寄り「なんだよ、なんだおい本当に刺すぞこの、」完全に動揺する七三の手首をつかむと、その手を使いナイフを自分の上腕に突き刺した。思わずディオンとシャラからも短い悲鳴が上がる。容赦なく真っ赤な血が女性の白い肌に流れ出し床に落ちる。対照的にナイフを持った張本人含め手下たちがそれを凝視しながら青ざめていくなか、女性はいっそう不機嫌そうに舌打ち。

「初めて見る? あんたにも流れてるんだよこれ。……見たい?」

 ナイフを引き抜くと血が飛び散り、自らの血でまみれたナイフを向ける女性。「な、なんだっおかしいぞお前! くるな!」七三は表情をひきつらせながら喚き後ずさるも完全に腰を抜かしたようでその場でがたがた震えるばかり。女性の顔は見えないが、迷いが無かった。

 するとディオンを押さえていたチンピラが同様ナイフを手に女性に向かってきていた。女性からだと死角だ。危ない! とっさに相手に向かう。刹那女性が振り返りディオンが剣を振り上げてチンピラがなぜかしゃがんだ瞬間、何かが飛んでくるのを察知しそれをまともにくらった。



   ***



「ほら」

 差し出されたものを無言で受け取り、さっそく一本口で引き抜いた。上着のポケットからマッチを取り出す前に相手が人差し指を煙草の先に持ってきて、音も立てずに小さな炎がそこに灯る。

「魔法使いか」

「まあね」

 へらっと間の抜けた笑顔を見せると、歯をびっしりと拘束した金属具がきらりと光る。ソルトは加えたそれを深く吸って、深く吐く。求めていた鉄の味で口内が満たされて、体から力が抜けていく。

「すぐわかったよ。匂いと、その目つき。同業者だって」

「俺は売ってない」

「でもかなりハマっちゃてる感じだよお兄さん。なに、もしかしてあの子供も、」

「あの二人の前でこの話はしないでくれ」

 思ったより大声で遮ってしまい、宿主がきょとんと見つめていた。ばつが悪くなって視線を遠くへ逃がすと、くすくす笑い声がする。

「大丈夫だよ、俺は子供には売らないから。やっぱり知らないんだね。当たり前か、保護者がこんなん吸ってるって知ったら止めるもんね」

 彼も一本引き抜いて、火をつけた。保護者じゃない、と内心で付け加える。

 宿とその隣の建物の間にできた狭い路地……というより隙間だ。部屋に匂いをつけたくないのでここで吸っていると、宿主が現れた。自分と同じ銘柄の煙草を何箱も持って。彼は売人のようだった。煙草以外にも粉末やアルコールと混ぜたものなどいろいろ持ち合わせていて進めてきたが、同じ煙草のみ買った。

「お兄さん人外でしょ? シャイン、ではないよね。ジエンター? ギルデラ? 目見せてよ」

「そういうお前は何だ」

 つくづく無遠慮な奴だ、しかも蔑称で呼ばれて苛立ち煙を吐きだすと、突然宿主が肩を掴み顔を寄せてきた。とっさに懐のナイフに手を伸ばしたが、相手はそのままぴたりと動きを止め、耳元で囁いてくる。

「ご存じのとおり、魔法使いって弱者の集まりなんだよね。どんな欠陥品でも役立たずでもなれちゃう。だから落ちこぼれって言われんのさ。……嫉妬って生き物を特に狂わす実にやっかいな感情だよ。それを人に直接向けると凶器になるわけ。だから別の方法で発散させないとね、保ってられないんだ自分を」

 はははっと抑揚のない調子で笑うと煙がかかった。紅茶のような、甘い香り。本来の味を隠すためのカモフラージュとしてついている香りだった。いい匂いだなーなんか腹減ってくるー吸う自分の隣でディオンが言っていた。それから二人の前で吸うのをやめた。

「まあそれに、この味結構好きなんだ。血の味。ハマる気持ちはよくわかるよ」

 人間で鉄の味を好むなんて歪んだ嗜好だ、なんて思ったが、全種族に言えることのような気がした。短くなった煙草を手の空き瓶に入れる。ディオンたちが飛び出して結構経つ。そろそろ探しに行ったほうがよさそうだ。

「出てくる」

「人間がこれ吸い続けるとどうなるか知ってるけど」

 こちらの言葉を無視し宿主は言った。見ると、笑顔には不釣り合いな冷たい声で、

「人外さんも同じだよね? お兄さん知ってる? 知ってて吸ってる?」

「……」

 答えずに、踵を返した。舌を動かすとまだ残っている味。脳裏に浮かぶ槍やナイフ、今までの戦場の数々。……違う。自分はそうじゃない、必要以上は求めていないのだから、決してそうはならない。言い聞かせ無理やり思考をそらし顔をあげると、見通しの悪い細長い道を三つの人の姿が歩いてくる。何とはなしに眺めていると、その中の一人が手を大きく振ってきた。ぴょんぴょん飛び跳ねて、

「ソルトー!」

「ディオン!」

 確かに無事な二人の姿に心底ほっとして、駆け寄った。保護者の三文字が思い浮かび我ながら内心苦笑する。

「シャラ、心配したぞ。今探しに行こうと」気まずそうにしているシャラの頭を撫でながらディオンの顔に視線が引き付けられた。「ディオン、顔どうした」「ん? ああちょっとね。それよりさソルト聞いてよ!」

 複数の絆創膏と左頬の大きいガーゼをもろともせずディオンは元気だった。腫れている。別に疑うわけではなかったが背後のもうひとつの姿に目を向けた。「半分は事故よ事故。もう和解は済んでるから」飄々と両手を上げて降参の格好をする、髪の長い若い、人間の女性。やけに露出度の高い服装で剥き出しの腕や腹部や、あちこちに古い傷や包帯やガーゼがあった。そこから色彩豊かなタトゥーが覗いていたり、何より目を引いたのは左足の義足だ。……なんというか、ぼろぼろな女性だ。

「あーれ! なんだいサムじゃん!」

 ディオンより一際明快な声が背後から飛び出してきた。いつの間にか宿主が隣に立ち、片手をひらひらさせながら、

「すっごい久しぶりー全然会ってくれないんだもんなー元気? 俺に会いにきたの?」

「やっぱりあんたんとこだったんだ行きたくなかった」

 顔見知りなのか、女性は即座に不愉快そうに顔を歪めると吐き捨てた。宿主は気にしたふうもなく隣に回ると女性の腰に手を回し、

「相変わらずつれないんだからー。今晩俺暇だよ?」

「じゃあこれで。ほんと悪かったわね。次出歩くとき気をつけんのよ」

 宿主の手を捻りあげ悲鳴を上げさせると女性は踵を返した。そこに「え!サム待ってよ寄ってってよ部屋」ディオンがとことこ寄っていく。すっかりなついているようだ。ここがディオンの長所であり、短所だ。女性はすらりと長い指でディオンの頬を弾いた。

「いてっ」

「今日はゆっくり休みなさい」

「じゃあ明日また会ってよ。俺サムみたいに強くなりたい」

「お子様はそんなこと考えなくていーの」

 じゃね、と後ろ手を振り女性は行ってしまった。ディオンが最後までぶうたれて、その隣では宿主も同じような顔で立ち尽くしていた。




 チンピラのナイフから女性……サムを守ろうと立ちあがったディオンだったが、それに気づいていたサムの回し蹴りを見事にくらい気絶してしまった。目が覚めるとサムの家にいて、チンピラはすっかり彼女が片づけた後だった。

 なぜあんなに強いのか話を聞くと、彼女は元傭兵らしかった。何よりディオンを惹きつけたのは、痛みを感じない体ということだった。詳しく聞きたがると、生まれつき頭がイカレてんのよーと笑って流されてしまった。

 ソルトはあからさまに渋い顔をした。

「本当に治安が悪いなここは」

「怖かったよ。サムがいなかったらどうなってたか……でもなっサム本当にすごかったんだ。奴らのナイフ見ても全っ然て感じでさ。自分で自分の腕刺しちゃったときはビビったけど、何て言うのかな」

 彼女のような人は初めてだった。堂々としていて、まるで恐怖など心にないかのような。

「すごかった。俺もああなりたい。そうだ、サムに稽古つけてもらえないかな。どうせしばらくここから動けないんだし」

「ダメだそんなの」

「えーなんで!」

「ろくに知りもしないのに、図々しいだろ。それにちょっとは警戒心を持て」

「なんで! サムいい人だよ」

「ちょっとやそっとじゃわからないもんだぞ生き物なんて」

「えぇー……」

 不服な視線を向けるものの「シャラも怖かったな」ソルトはあっさり受け流し隣へ目を向けている。

「はい。でも、それよりも、ごめんなさい。急に出てって、あの……」

「いや、落ち着いたならいい。無理には聞かない」

「……はい」

「ソルト話そらすなよ!」

「そんなに稽古つけて欲しいなら今からやるぞ。ディオン、腹筋百!」

「えー!」

 そうじゃない違うーと抵抗したが、槍の刃先に首根っこを引っ掻けられて床に転がされるディオンだった。



   ***



 最初に駆り出された戦の相手は、シャイン族だった。もう何十年も前のことだ。ジエルを独裁していると人間に不満を抱いたシャインが仕掛けた戦争。当時の長の判断で、ギルデラは人間側につき参加していた。自分は若く、当時一族の中では最年少で前線に配置された。異例だった。

 死への恐怖より、周囲に力を認められた興奮のが上回った。槍が初めて生身の体を貫いたとき、想像よりずっとやわらかい肉の感触に寒気とは異なる何かが肌を走った。周囲は悲鳴と怒号刃が肉を裂く音で溢れている。その中で、自分の喉が上げるは鬨の声。槍を引き抜き、薙ぐ。敵が死んでいく。自分の槍で、次々に次々に、敵が死んでいく。そのぶん自分の軍の勝利が確実なものになっていく。

 もっとだ。槍が戦場を切って唸る。もっと実感させろ。俺は強い。強い。強い。赤い血。誰が相手であれ流れる血は皆同じ、赤。これが強さの証。

 血が欲しい。もっと、血。証。俺は強い。血を、もっと血を血血血

 鬨の声か悲鳴か多分そのどちらも叫んで握りしめたものを振り上げていた。体を起こし、隣を見ると人間の少年が眠っている。窮屈な床に体を詰め込んでいるため皮膚同士が密着していて、これを裂けば血が吹き出てまた俺は強さを、

 待て。

 たぎる自分の思考回路が止まった。口をおっぴろげてよだれを垂らした無防備極まりない寝顔は、あのときの自分より若かった。ディオン。今自分が道を共にしている仲間。今自分がいるのは、あの戦場ではないのだった。

 振り上げた右手のナイフ。今俺は、これで。驚愕で固まった右手が震えだしてナイフを落とす前に左手で掴み、膝に下ろした。

 人外さんも同じだよね? 宿主の声がよみがえる。知ってて吸ってる? もう一度ディオンを見て、ベッドで小さく寝息を立てるシャラにも目をやって、ナイフを置いて薄手の外套を手にした。二人を残して行くのは危険かと一瞬考えたが、今の自分のほうが二人にとって危険な気がした。

 外に出ると死音のうめき声や小競り合いか、怒号や悲鳴が聞こえてくる。真夜中のこの街は本当に暗くて、壁に申し訳程度に付けられたランプが道を照らす。不便だが、目立たなくていい。首に巻いたストールに口元を沈めて歩き続ける。湿気同様、熱気も出て行かず風も吹かないのだろう。汗が滲むのを感じる。

 いよいよ本格的に暑くなってきたころ、急に明かりの強い場所に出た。そこだけ窓が大きく、曇りガラスだったため中はよく見えないが何かの店だろうか、と明かりで影になっていた看板を上に見つけた。バーのようだった。酒なんていつぶりだろうか……少し考えて、ドアを開ける。

 外と大差ない控えめな明るさの店内。木製のカウンターと丸テーブル四つの狭い隙間に詰め込まれるような形で、ガラの悪い声を立てて男たちがジョッキを持って騒いでいた。カウンターが無人だったので腰をかけたが、正面で氷をガンガン砕いているバーテンダーは一切こちらに目もくれない。手元にメニューもなかったので「ジンジャーレモン」どこのバーにも大抵はあるだろう酒を注文すると、バーテンダーは手を止めて無言のままグラスを取り出した。よくこんな態度で商売ができるものだ。内心毒づきながら煙草を引き抜いて、マッチを擦った。

「ここ、いい?」

 不意にかけられた声に振り返ると、思いがけない人物が立っていた。

「子供はおやすみ? 失礼」

 こちらが何か言う前に隣に座って「レッドダブル」度数がかなり高いものをバーテンダーに注文する。長い髪を一つにまとめ、昼間とはまた違った雰囲気だったが、露出度の高い服装であることには変わりなく目のやり場に困った。慌てて煙草をもみ消し箱をしまう。

「あ、別にいいのに吸ってたって」

「一人か?」

「そう。毎晩ここで何杯か飲まないと寝れないの。ここ、いいでしょ? うるさいけど」

「初めて来た」

 夜も深い時間だ、こんなところで会うとは思わなかった。あまり深入りされたくないのだが……さりげなく身を寄せてくる相手に対し気づかれない程度に席を離す。

「昼間は二人が世話になった。面倒かけてすまなかった」

「あーいいのよこちらこそ。ほっぺもう大丈夫?」

「腫れは引いた」

「あ、サムよ。サム・ストレイア。改めまして」

 ふわりと微笑んで右手を差し出してくる。こちらも名乗って、握手に応じる。細い手だったがチンピラを殴り倒すくらいのことはある、力強い握手だった。

 バーテンダーが無骨な手つきでそれぞれグラスを置いた。サムが妖艶な笑みをたたえてグラスを差し出すので、軽い音を立てて乾杯した。

「あの子好きよ、ディオン」

 ショットグラスを一瞬で空にして、サムははっきりと言った。

「素直で人懐っこくて、目きらっきらしてて。はははっかわいい。あと連れの女の子。シャラだっけ? 大丈夫なの? すっごいガリガリなんだけどちゃんと食べさせてあげてるの?」

「ああ」

「兄弟とか?」

「いや、旅の仲間だ」

「あんな子供連れて? 何しにここに?」

「修行だ」

 ローティフルの名前を出すと災いになりかねないのでそういうことにしている。どうしてどこの街もこう、旅人に敏感なんだ。

「武術学校だけじゃ不十分でな。実戦で鍛錬を積んでいる」

「あんた兵士でしょ」

 意表をつかれてサムを見た。彼女は先ほどと同じものを注文すると、こちらに視線を戻す。

「目配せの仕方でわかった。滑るようになめらかに、全てを隅々把握できるような無駄の無い動き。気配消す癖ない? あとその包帯。一緒」

 自分の包帯だらけの体を指差すサムに、驚いて思わず聞き返した。

「本当に傭兵なのか? その若さで」

「あたしの歳知らないくせに……元よ。今でも護衛やら頼まれることはあるけど基本断る。あ、ちなみにあたし二十四」

 予想以上の若さに驚いた。その年齢で元傭兵であり、片足を失っているとは……するとソルトの思考を見抜いたかのように、

「人間よ。ジエンターでも、魔法使いでもない。よく勘違いされてナメられるわ、コレだとね」

 義足を指で弾いた。義手や義足などは魔法使いに多い。魔法学校に入学し最初に決めることは、魔力の出入り口をどこにするかということだ。手や足が一般的だが、決めた部位は強力な魔力に侵されるため通常の生き物より劣化が早く、機械に頼らざるを得なくなる。

「まあそれでよく絡まれたりするんだけどね。……あなたは?」

「昔の話だ」

 グラスを傾けて炭酸が舌をぴりつかせる。一呼吸置いて、言葉を選ぶ。

「俺も今は違う」

「はーん。そっか今はあの子らの保護者だもんね」

「あの二人は旅の仲間だ。子供じゃない」

「へえ。一人前扱いしてるの。そういうことすると子供は過信するわよ、自分は強いんだって。ちゃんとわからせないとただの足手まといになる」

「……」

「ごめん、余計なお世話ね」

 同じの! 二つ! 空のグラスを勢いよく掲げる。出された二つのうち、ひとつをソルトに差し出した。

「いや、まだある」

「でもあの歳で意識高いわね。ちゃんと自分の身は自分で守ろうって考えてるのね」

「悪いが、一人で飲みたい」

「なによつれないわね、案外年寄ってオチ? ま、いいわあたし年上……好きよ」

 空けた距離をずいっと縮め、耳元で囁く。若く艶のある小麦色の肌が(……胸が)眼下に迫り思わず立ち上がっていた。会計、と近くのバーテンダーに伝えると、えー!とサムがブーイングを飛ばし、

「なあんだ。こういうことしない人?」

「帰る」

「いいじゃないすぐ済ませれば。子供らが起きる前に終わらせてあげるから。あ、でもあいつには内緒ね、宿の。一回寝ただけでもう恋人気取りなんだもん」

「……」

 何をと聞くほど若くはないし、身を任せるほど浅はかではない。相手のぶうたれを無視して会計を済ませ、出口に足を向けると後を追う気配はなかった。振り返ると、足をぶらぶらさせながら不服そうにソルトのジンジャーレモンに口をつけていた。そんな彼女に頬を赤らめた千鳥足の男が一人近づいて行く。あの容姿と服装だ、男は吐いて捨てるほど寄ってくるのだろう。アルコール瓶で乾杯を催促する男を完全無視してグラスを傾ける彼女、自分は上着の襟を立てて背を向ける。

 ばりんっと何かが割れる大きな音が響いたのはそのときだ。店内は静まり返り「てめえナメてんのかよッ!」酒で潰れた声で怒鳴る男の手には割れた酒の瓶、滴る赤いアルコール。床に散らばった破片と、そこと同じように染まったサムの頭。おい!乱暴にサムの腹を容赦なく蹴る男につかつか近づくと、その胸倉を掴んで顎を拳で殴り上げた。

「大丈夫かっ」

 白目を剥いた相手を捨てて、傍らにしゃがみこむ。うつ伏せで顔は見えないが、裂けた頭皮からどんどん血が溢れてくる。「おい、医者を早く!」「うるせえなあ、喧嘩は外でやれよ」焦るソルトに対しバーテンダーはグラスを磨きながら蚊帳の外を決め込む。周囲もさっきまでの静寂はすでに流れ、喧噪を取り戻している。頭にきてバーテンダーを引きずり出してやろうと立ち上がった直後、滅茶苦茶な大声とともに後ろから掴みかかられた。割れた瓶で肩を刺されたがギルデラの肌に通じるわけもなく相手の首根っこを取り、前へ投げ落とした。顎に打撃を食らったはずの男が血と唾を泡立たせて再び立ち上がる。騒ぎを最小限押さえるために急所である顎を狙ったというのに、打たれ強い奴だ。舌打ちをして身構える。

 そいつの髪を背後から鷲掴んだのは、サムだった。怪我人とは思えない力強さで引き寄せ顎を掴まれると、男は驚愕と痛みで錯乱したのか喚いて尖った部分をサムの頭に突き刺した。しかし血が垂れた両目は確かに殺気立ち、動じていない。

「不思議よねー、女に絡んでくる奴ってどうして相手が自分より弱いなんて決めつけるのかしら? よっっっぽど自信がおありなのね拳にもココにも、ねえッ!」

 膝で男の急所を直撃し、倒れたところをさらに、微塵の躊躇もなく踏みつけた。いよいよ男は色んな意味で再起不能となり同じ男として生理的にぞっとしていると、

「フニャチンが。はーっ酔い覚めたー最悪。あ、ありがと。助けてくれたんだ」

 ニコッとすると、血まみれのこめかみに刺さった破片がひょいっと上がる。さもどうってことないと言わんばかりの振る舞い……俺もサムみたいになりたいと話したディオンの話を思い出す。

「おにーさん片づけ頼むわよ。チップ弾んどくから」

 ポケットから十ギーロほどを置くと(バーテンダーは当然というように鼻を鳴らした)首を鳴らしてかったるそうにちょうど傷にあたる部分を無頓着にがしがし掻くので、手を掴んだ。カウンターにあったナプキンを取って頭に当てると、

「あーいいわよそんなん」

「送る。押さえててくれ」

 彼女の手をナプキンに持っていき、体を抱き上げた。サムはお礼を言って微笑んだが、怪我人の弱弱しいそれではなく、さきほど言い寄って来た女性の匂いを漂わせたものだった。




 サムの家はバーから少し離れていた。鬱蒼とした道中を進んでいくと、不自然にぽっかりと光が差し込んでいる場所が見えた。そこから見上げると、棘の屋根の間から星が見えた。空が藍色で、月も出ているのかもしれない。しかし美しい静寂の夜空を切り裂くように死音の悲鳴が響き、星空を不安定に泳いでいた。

「こういう隙間がちょいちょいあるのよ」

 サムが言った。

「改造死音を完全に防ぐなんて無理よね。……もう下ろして。あたしん家あそこ」

 広場を正面に構えた黒い小さい一軒家。うーん、とサムが思い切り伸びをするとまた傷口から出血し出す。

「まだ押さえてたほうがいい」

「んもう過保護ねーほっときゃ止まるから」

「……包帯どこだ」

 送ったらすぐ帰るつもりだったが、まったく意に介さない様子にソルトはため息をついた。

「ディオンから聞いてないの? あたし、」

「痛みを感じないことが強さじゃないだろ」

 ぴしゃりと言うと、サムがたじろぐ様子を見せた。でもすぐに口をとがらせて、渋々ドアを開けてソルトを招き入れた。

 サムと同じ、柑橘系の香水の匂いと、不思議と嗅いだ覚えのある甘い匂いが鼻腔に入り込んできた。ベッドと小窓、部屋の作りは宿と同じようで狭かったが、明かりとつけると赤やピンク、白のキルトが四方壁にかけてあり、女性らしい部屋だった。キッチンの棚にずらっと並ぶ一人ぶんにしてはやけに大きいアルコールボトルを除けば。

「紅茶好き?」

 サムが戸棚を開けると香ばしい匂いが強くなった。ラベルの張られた缶が何種類か置いてある。紅茶の匂いだったのか。どうりで。宿主と知り合いのようだったし、もしかして彼女も……そう考えただけで酷く失礼な気がした。

「いや、いいから座ってくれ」

「じゃあたしだけ飲もっと」

 可愛らしいビーズのあしらったカップを出しポットを火にかけると、ようやくサムは椅子に座った。救急箱は古びていてかび臭く、包帯や脱脂綿、ガーゼが若干黄ばんでいるように見える、ずいぶん使っていないのだろう。消毒液を取り出して、包帯の隙間の素肌に落として鮮度を確認する。

「適当でいいからね。沁みたりしないから」

「そういう程度の傷じゃない……」

「よくあることよここじゃ。みぃんな普通にしてたでしょ?」

 昼間のディオンの話と、店内の光景。子供が絡まれることや女性が瓶で殴られることが、よくあることなのだ、この街では。綿を湿らせ、傷口に当てていく。

「でも、助けてくれたんだな。二人を」

「まあね。子供に手出すクソは許せないの」

 サムは肩をすくめた。綿をいくつも真っ赤にしてからガーゼをちょうどいい大きさに切る。

「いつからなんだ?」

「ん、体? よく覚えてないんだけどさ、四つのとき。凍った湖で姉と遊んでて、凍傷になったのにヘラヘラしてたんだって。医者にも行ったんだけど、ストレスかなんかで一時的なものじゃないかって言われて結局わからずじまい。切り傷や擦り傷なんて日常茶飯事でさ、骨折も火傷も……それで、十二の時に、傭兵の訓練施設に入れられたの」

「十二?」

 ディオンとあまり変わらない年齢だ。

「武術学校で先輩とモメて、退学になったの。大怪我させて病院送りにしちゃったから。……わからなかったのよ、どれだけ殴ったらどれだけ相手に痛い思いをさせるのか。そうやってしょっちゅう問題起こしてたから父親が入れた。いい厄介払いになったんじゃない? ……そこで、体や脳をいじくられて、完全に痛覚を切られたってわけ」

 手が止まった。目だけでサムを見ると、微笑んだままだ。

「まだ実験段階みたいだけど。倫理的にアレだからね、公にもされてない」

「人間の施設か?」

「そーよ」

「そんなの」

 そんなの、ローティフルの死音改造と同じじゃないか。憤りすら覚えるソルトに対し「あ、言っちゃいけないんだっけ? まあいいや引退したし酔ってるし」至って変わらない調子でサムは話を続ける。

「痛覚のない兵士って使い勝手がいいでしょ。戦闘はもちろん、拷問されたって怯むことがない。敵に対して手加減もできなくなる。理想の兵士よ。この通り足切り落とされたって口割らない」

 軽快な笑い声が静かな室内に響く。ガーゼをテープで止めて、包帯を丁寧に巻いていく。

「酷いな」

 自然と呟いていた。固定したガーゼからはすでに血が滲んでいる。赤色が意味するのは、戦場、勝利、敗北などのあらゆる証。希望、悲劇、そして、痛み。ソルト自身、昔から教え込まれ学んできたこと。

「酷いことするな、人間てのは。……こんなに綺麗な女性に」

 サムがこちらを見上げる。もう女性の色っぽさは消えていて、初めて見る真面目な顔つきだった。包帯をピンで止めると、ふとサムの手が自分の胸にあった。外套のボタンは三つほど開けてあって、その下の包帯に覆われた自分の、ギルデラの体。

「やっぱり、人間じゃないのね。……教えて。あなたのこと」

 包帯越しに伝う体温。人間の手は、触れるだけでこんなに穏やかな気持ちにしてくれるのか。……ああ嫌だ。やめてくれ。自分に優しいものを向けるな。潰れた左目がむずがゆく痛み、一気に吐き気が押し寄せてきた。

 手を胸から離す。少々荒っぽくなってしまったが、吐き気がどんどん強くなり、

「今日はゆっくり休め」

 相手の反応を待たずに家を出た。ドアを開けると湿ったぬるい空気を感じ歩き続ける。

 体温。ぬくもり。……愛。

 そんなもの、とっくの昔に自分が殺した。ポケットを探り、一本引き抜く。傷から膿が出るように吹き出る記憶を煙で取り囲み、吐き出した。口内に広がる血の味……赤の味。過去の、ルージュの色。

 煙草を挟む自分の指先は冷え切っていて硬く、少し震えているようだった。



    ***



 腰痛というのはお年寄りだけだと思っていたが、今朝それは間違いだと知った。なにせ部屋の八割がベッド一割が荷物なので、残りの1割床面積で男二人寝なくてはいけなかった。足を中途半端に折り曲げて二人仰向けになれるかどうか、という始末。結局横向きになり、ソルトの背中を鼻先に眠った。

 ゆっくり立ち上がって腰を左右に捻ると、

「あ、おはよシャラ」

「おはようございます。大丈夫、ですか」

 ベッドにシャラが起きているのに気づいた。おずおずとたずねる彼女は、もう身支度を終えていた。

「んー……寝返りって大事だな」

「……ごめんなさい」

「あ、いやいやいいって! シャラ寝かせらんないよこんな固いとこ。……あれ、ソルトは?」

「朝起きたらいませんでした」

 槍とナイフはあるものの上着がなくなっている。こんなとき強盗にでも入られたらどうするんだ、武器取られたらかなわないじゃんか……ビビり思考がよぎった。

「腹減ったー……ここメシとか出してくれんのかな。俺ちょっと聞いてくる」

 腰を叩きながら部屋の戸を開けると真ん前に白い何かが立っていたので、猫のごとく悲鳴を上げて飛び退いた。

「な、なんだよそんなに驚くことないだろ」

「ソルっ、ああもうー……ビビらせんなよお」

 涙目になるディオン。昨日と同じシャツからは包帯が覗き、ちょうどディオンの目線の高さだった。

「早起きだね」

「ああ、あまり眠れなくてな。ちょっと出てた」

「ごめんなさい……」

「いや、こんな固い床にシャラを寝かせられない。腹減っただろ。朝飯買ってきたぞ」

「わあい!」

 食いつくように紙袋を受け取ったとき、お菓子のような甘ったるい匂いがした。煙草だ……いつもより濃い。食前なのに吸うなんて珍しいな。そのせいで余計お腹が空いてきて、早速中身をベッドの上で広げ始めた。

「市場あるんだね、ここにも」

「探すのに苦労した……小さかったし商人の数も少なかった」

 相槌を打ちながら小窓に目をやる。朝なのか、と疑うくらい外は暗かった。晴れとか雨とか、天候はこの街ではあまり意味をなさないのだろう。ソルトの話ではここは『リーン・アス』内で、それが本当なら天候にはあまり変化のない穏やかな土地なのだが……時折死音の悲鳴は遠くから聞こえてきて、背筋が縮む思いだった。

 昨日の一件から外に出るのは危険だからと、ディオンはひたすらトレーニング(腕立て腹筋スクワット素振りを各百回三セット)を、この狭い部屋でするようにとソルトに命じられた。合間に、剣術ではなく肉弾戦にもそなえた軽い稽古をつけることになった。

「人間の学校でも教えてるんだろ? 組手」

「……うん、まあ……」 

「じゃあちょっと組んでみよう。狭いからできる範囲でな。かかってこい」

 武術学校でも棒術に並ぶメインの科目だが、ディオンはそのどちらもビリなので不安からためらった。するとソルトは優しく微笑んで、

「大丈夫だ、笑うやつなんかいない」

 ソルトは頷いて、もう一度構えを作った。無意識に周囲に目をやるとシャラと目が合った。心配そうな顔。そういえばディオンが稽古しているときいつもこういう顔で凝視している。学校にはそんな人、いなかったな。

 改めてソルトと向き合うと、拳を作った。

 声を上げて、一発腹めがけて繰り出す。予想通り避けられたが次々と拳を突き出し続け、ソルトの空いている体の部位めがけ間合いを詰めていく。

 鼻への攻撃の際両手でガードされる。腹がぽっかり隙だらけになり、左足で蹴り上げる……が、少しふわっとした感覚があって、次の瞬間には床に後頭部を打っていた。痛みよりも何が起きたのかわからなくて、頭を起こすと、確かに入ったはずの左足がソルトの鼻の位置まで抱え上げられていた。

 あっという間に好奇心が満ち溢れてきて、うおおおと声を上げて、

「何今の!」

「なるほど……わかった」

「ねえ何! 何したの俺に!」

「自分から攻めるんじゃない、受け流すんだ」

「攻撃食らえってこと?」

「たぶん学校じゃ攻め続けるように教えられたんだろう。そうして相手の隙を見極めたり相手に作らせたり。力がある奴が向いてる戦法だ。今のはお前の蹴りの勢いをそのまま掬い上げて、ひっくり返したんだ」

「俺の?」

「相手の力を利用して倒す。……受け流すっていうのはつまり、利用するってことだ」

 武術学校のと全然違う。ギルデラ独自の武術なのだろうか。それからディオンは何度も手や肘足を取られひっくり返されたが、そうするうちに体が仕組みの感覚を掴む。しばらくやりあっていると、ソルトが拳を突き出したので避けるだけではなく、思い切ってその腕を両手で掴みそのまま勢いの先へ引っ張った。手を離すともんどりうってソルトが地面に手をつくが、床を蹴って半回転すると転ぶことなく天井に足をつけてそのまま静止した。

「そうだ。今みたいに相手の勢いをそのまま使えばいい。……なんだ、お前出来るじゃないか」

「ほんと? 合ってた?」

「ビリだなんて言うからもっとへろへろだと思ってたが」

「へろへろだよ。いつも学校じゃ倒されてばっかだったよ。先生にもよく怒られて、クラスの奴にも、よく……」

「そうか。きっと力だけのバカが多かったんだな」

 足を下ろしながらばっさりと切り捨てるソルトに、ディオンは目をぱちくりさせた。バカって言った。先生や学校の奴らのことを、はっきり。

「何より、何度倒されても楽しそうに俺に向かってくるだろ。教えがいがあるよこっちも。お前はそのままでいい」

「そのまま……」

 言われたことはもちろん思ってもみなかった言葉に、ソルトの笑顔に、胸の奥から明るい色をしたものが湧き上がってくる。一気にやる気が満ちて再び構えて足に力を入れると、大きな物音が聞こえた。誰かの声……が、途中で裏返る。悲鳴? 死音か? 固まるディオンに対しソルトはナイフを持ち「行くぞ!」「お……おう」やる気が恐怖に萎んだが躊躇なく出ていくソルトについていく。あっと振り返ると、シャラもしっかりと後に続いていた。  

「痛いってサム! まったくほんと君はこういじめっ子というか照れ屋さんというか、あぁあああいででででででッ」

「十秒以内に言わないと折るわよ」

 物騒なやりとりは下の、これまた物凄く狭い玄関からだった。階段を下りてすぐ受付が設けてあるのだが、カウンター内にいるはずの宿主が外にいて腕が背中の、あり得ない位置まで締め上げられていた。長いミルクティー色の髪で、ディオンはすぐぴょこんと喜びアンテナを立てる。 

「サム! サムじゃん!」

「あ、いたいた。おはよーサン、ご一行」

 早速駆け寄っていくディオンに、サムは片目をつむった。

「ほっぺもう大丈夫そうね」

「おはよ! どしたの? なあ、上がってってよ。俺いろいろサムに聞きたいことあってさ……大丈夫? 頭、怪我したの?」

「あー大したことじゃないわ。それよかあたしも話があって来たのよ」

「サムもういいでしょ見つけたじゃん! マジで折れる折れる折れる!」

 宿主の必死の訴えでやっと開放すると、もうサムの中では無かったことのように背を向け、

「部屋寄っていい?」

「うん!」

「こらディオン!」

 とっさにたしなめられてディオンがきょとんとすると、ソルトはサムを睨んで口を閉じる。サムは気分を害したふうでもなくいたずらっぽい視線をよこして、唇を動かした。か、ほ、ご。




「どういうつもりだ」

「だから言ったでしょ。昨日のお礼よ」

 ディオンとシャラを部屋に残し、外に連れ出して問いただした。サムは自分たちがこの街にいる間、ディオンの修行に手を貸すと言い出したのだ。

「最初は断ってただろ」

「あのフニャチンに殴られてあんたに助けてもらう前よ。……なによ今更、そんなつんけんして」

「宿主を脅迫して俺たちを探すような奴から守りたいだけだ」

「はん。こういうときだけ保護者面して。そんなに自分のこと聞かれたのが気に入らないわけ?」

 図星をつかれて押し黙る。ほら、と言いたげにサムは眉を上げた後、昨日と同様真面目な顔で、

「嬉しかったの。昨日、あんたがああして助けてくれて、手当して……気遣ってくれて。本当に」

「……」

「心配しなくても別にもう詮索しないわよ。……ただ、親切には親切で返したいの」

 ここまで包み隠さず自分の気持ちを言う人間も珍しい。サムのはきはきした口調は気持ちが良かったし、信頼できるもののように感じた。それに、自分がギルデラであることを隠したいのはあくまで自分の事情であって、この旅とディオンを巻き込むのは自分勝手だと思った。……あんなに喜んでいたし。

「俺たちは、ローティフルを倒すために旅している」

 サムの顔色が変わった。ジエル中の生き物を震撼させる名前。

「ディオンは、ローティフルに故郷を奪われた。奴らを討つために俺が鍛えてる。俺たちはゴーファンに行くつもりだ」

「……冗談でしょ」

「本気だ」

「子供よ? まだ親がいなきゃ何もできないガキでしょ」

「ディオンはそのたった一人の家族を奴らに殺された。だから俺とシャラがいる」

「三人で太刀打ちできると思ってるわけ?」

「無謀だって笑うか?」

「無謀よ」

 低い声にも怯まず即答される。

「あんたも兵士なら奴らと当たったことぐらいあるでしょ」

「ああ」

「じゃあなんで止めないの。チンピラにもボロボロにされてたのにそんなの、」

「決めたのはディオンだ」

 畳みかけるサムを遮り、

「俺は、すべてをかけて導くだけだ」

「なんでそこまで入れ込むの? 肉親でもなしに」

「……久しぶりだった。誰かに、感謝されるのが。俺のような生き物でも、まだ誰かの中に存在していいって、思えた」

「何それ?」

「つまり、一緒だ。親切には親切で返したいんだ」

 眉間に皺を寄せて怪訝にソルトを見つめるサム。ピリピリした沈黙が流れるが、長くは続かなかった。

「わかった」

「……え?」

「そういう話なら、生っちょろいやり方じゃダメね。みっちり訓練したげなきゃ」

 あっさりと思考を切り替えるサムに拍子抜けする。さんざん反対しておいて……今度はソルトが怪訝な視線を送ると、

「あたしはローティフルに家族を殺されたりしてない。どんなにつらいことなのか知りもしないで、止める権利なんかないわね。奴らのやり方や特徴、あたしの視点からで良ければ教える。あんたさえ良ければ」

 それにね、と最後彼女は付け加えた。

「昨日も言ったけど、あたしディオン結構好きなの」

 サムの目は、誰にでも心を開くディオンの素直な目と似ていた。



   ***



 翌日の夜、早速サムは宿を訪れるとディオンたちをある場所に案内した。黒い外壁にぎゅう詰めにされた街の中で唯一開けた場所……市場として設けられた荒地だった。弱弱しい街灯とサムのランプしか光がないので全貌はよく見えないが足元がなんだかぶよぶよして、視線を落とすと靴がすでに泥だらけだった。

「この通り、夜は商人たちもいないし基本誰も来ないから」

「……なんで夜……?」

 昼にも増して四方から聞こえる死音の悲鳴や物騒な喧噪に身震いしていると「だってここぐらいしかないんだもの、思い切り暴れられるところ」さらっと返される。

「それにゴーファンに行くんでしょ? あそこは死音の巣窟って言われてるんだから悲鳴とか暗闇に慣れとかないと」

「そ、そっか……そだね」

「大丈夫よー! 犯罪者に襲われても逆に鍛えられていいでしょ。戦場で何より強みになるのは経験だからね」

 ソルトにも言われたことだった。屈伸したり体のあちこちを伸ばしながら、サムはディオンの背後に向かって、

「帰んないの?」

「ここで見てる。……問題があるか?」

「あっそ。別にいいけど、やり方にケチつけないでよね」

 鼻を鳴らしてから、サムはディオンに向きなおった。

「ディオン、剣抜いてかかってきなさい」

「え、剣っ? サム丸腰じゃんか。やだよ」

「なに甘いこと言ってんのよ、早く」

「……せめて鞘つけたまま」

「んな棒きれ同然のもんでローティフルどもぶちのめせんの?」

 すぱっと切り捨てられ「ほらはやく!」とても気が進まなかったが、言われた通りにした。最初はゆっくり間合いを詰め、次の一歩で剣を振り上げ走った。スピードの差は歴然だ、次の行動を考えながら振り下ろすとなぜか確かな手ごたえがあった。

 ぱっと血が地面に散ったかと思うとサムの腕には一本赤い線が走っていた。そこからどんどん出血してきて本当に自分が切ったのかまさか腕でガードしたのか思考をぐるぐるさせていると、鼻面を思い切り殴られ背中から倒れた。

「遊びじゃないのよ」

 剣をつま先でつつき、サムが見下ろしてくる。

「一発入れば終わり、じゃない。一発入れてからが勝負!」

 横腹を蹴られ地面を転がされる。頭上でざっと地面を踏みしめる音がしたが顔を上げられない。

「ケチつけんなって言ったわよね?」

 彼女の、今までいちばん鋭い殺気を持った声に制され、ソルトは踏みとどまる。容赦なく脇腹を何度も踏みつけられ───義足の性能なのか、まるで複数にやられているかのように一撃が重い───胸倉を掴まれると無理やり起こされる。足に力が入らずなかなか立てない。

「紅血のハート。魔法使い。髪を針に変化させてそれで相手の自由を奪って、いたぶる。特に女を狙ってはその体を弄ぶ。身のこなしは軽いし、何より残酷」

 ふっとサムの手が体を突き飛ばしたと同時目の前から消えて、直後背中を蹴られ再びレンガに倒された。

「血狂いのサツキ。女とは思えないくらい怪力の持ち主。どんなに屈強な男の体でもステーキみたいに噛み切るし、その手で紙切れみたいに肉や骨を千切って、食う」

 背後でごりっとサムの義足がレンガの欠片を踏みつぶした。以前遭遇した血狂いの、笑顔のまま口の中で誰かの頭蓋を砕いた姿が浮かび上がって、恐怖に体を引き起こされる。振り返って剣を薙いだがかわされ、その刃を無造作に片手で掴まれる。

「闇の罪人シダ。二年前に加入したメンバーでハート同様魔法使い。落ちこぼれなんて笑えないくらい奴の閃光弾の威力は爆弾並みって聞いた。……最後、死んだ目。命あるものすべてを忌み嫌うと言われていて、遭遇すれば最後、生き延びた生き物は報告されてないわ。あたしもさすがに会ったことはない」

 わざと食い込ませている、サムの手のひらから刃を伝って血が滴った。

「でも生き物を平気で殺せる奴が、どんなものかは嫌ってほど知ってる。奴らの世界に他人は存在しない。自分の過去、現在、未来に対しての憎しみや怒り悲しみ欲望、それしか頭にない。だから言葉なんか通用しない。生きてる世界が、あまりにも違いすぎるから」

「サムっ、手っ……血が!」

 剣を下げようとしてもサムの手ががっちりと離れない。どんどん力をかけられていき赤く染まっていく刃。

「話せばわかるかもとか、どうしてこんなことをとか、ちょっとでも奴らとコミュニケーション取ろうと図れば、」

 剣が軽くなった途端サムが血まみれの手を目に押し付けてきた。視界を奪われ伝った血が口に入って不快でしかない味を唾と吐き捨てる間もなく、腹を蹴とばされる。

「バカを見るのはこっち。見れればいいけどね、死ぬ前に」

 咳き込んで目を必死で拭い顔を上げると、サムが足を振り上げた時だった。

「やめてくださいッ!」

 鋭い制止の声とともに、その間に入ったのはシャラだった。思わずサムの足が寸で止まり、下がる。しばらくサムと睨み合ったあと、くるりと背中を向けてディオンの体に両手を当てて、歌い始めた。ぼうっとやわらかい、緑色の光がディオンの全身を包む。どくどく流れる鼻血が薄くなり、緑の蒸気を放って消えた。

 間合いをそのままに、サムがしゃがみこむ。

「ねえ、今の治癒魔法よね?」

「……はい」

「他のは?」

 困った顔で黙り込むシャラに対しサムもきょとんとしていたので「え?なに他って?」首を押さえながらディオンが割って入る。

「昔一緒に仕事してた魔法使いのジエンターが、魔法には種類があるって教えてくれたから」

「ん? どういうこと?」

「えっと……魔法には種類があって」

 シャラが若干戸惑いながらも、丁寧な口調で説明する。

「大きく分けて三つあるんです。攻撃魔法と、防御魔法、治癒魔法。武術は体の力ですが魔法は心の力なので、それぞれに必要な感情をエネルギーにしています。攻撃魔法は怒り、治癒は慈悲、防御は、その両方。ローティフルや死音へ、怒りや憎しみを抱く人が多いですから、ほとんどの生き物が攻撃魔法を最初に覚えます」

「あれ、でもシャラ変身は? 外見変えて歌ってたよな?」

「あ、あれ一応、防御魔法です。あ、でもご、ごめんなさい、その、わたし変身しか出来なくて……」

「あ! いいこと思いついた!」

 サムがシャラに言った。先ほどまでの殺気は微塵もない明るいトーンで、

「シャラ。防御魔法を少しでも強く扱えることを目標にしない? って言ってもあたしもあんま教えてあげられないけど、コツだけでもつかめるように」

「……でも」

「ほら、こうやってディオンがぶん殴られてるうちに開花するんじゃない?」

「おい」

 ソルトがいよいよ、怒りを携えてずかずか歩いてきた。

「シャラにまでこんな暴力振るう気か」

「修行よ」

「暴力だ」

「あ、そ。でもディオンに必要なのはその暴力を振るわれても動揺しないよう慣れることで、シャラに必要なのはおそらく誰かを守りたいと強く想うこと。ディオンはこれぐらいしないといざ奴らの拳でもなんでも食らったとき衝撃で動けなくなるだろうし、シャラは性格的に自分のためより誰かのために、のほうが強くなれる傾向にあるからそうするの。……で、以上だけど、あたしの言ってることどっか間違ってる?」

 理路整然とまくし立てられて、しかもすべて暴論ではあるが、納得できる理由にソルトは押し黙る。

「これがあたしのやり方。気に入らないならどっかのチンピラにでも頼んで、」

「やだ」

 ディオンが立ち上がって、剣を鞘に納めた。鼻血をぬぐって、

「俺サムに鍛えてもらいたい」

「いや、だめだ。こんなんじゃお前体が、」

「たださ、サムは体術のほうが得意だろ? そっち中心に教えてもらえないかな。剣術はソルトに教わるから。だめ?」

「……ご本人がこう申してますけど?」

 片眉をあげて睨まれて、釈然としない気持ちはくすぶったものの、本人がそう言うのだからこちらからは何も言うことはない。

「シャラ。お前はどうする?」

「ディオンさんと一緒にいます。少しでも、力になりたいです」

「わかった。……サム。条件がある。毎回、朝までに二人を宿まで送り届けてくれ」

「言われなくてもそのつもりですよーだ」

 舌を出すサムを一瞥すると、ソルトは踵を返し、夜闇に消えて行った。

「ほんと過保護よね、アイツ」

「やさしいんだよ、ソルトは。いつも俺とシャラのこと考えてくれる。でもすっげえ強いんだよ。俺の目標なんだ」

「ふーん。まあタダ者じゃないってことは見てすぐわかったけど。……この子もタダ者じゃないわね」

 視線を流すと目が合っただけでシャラはびくっと怯える。

 目元のクマ、やせ細った体、なによりいつも沈鬱そうな顔は、時折悲痛に歪む。まるでここにいることがいけないような……生きてることがいけないと誰かに言われてきたかのような。そこまで悲しい印象をこちらに与える。しかし、先ほどディオンをかばう姿は、正直サムが内心たじろぐほど頑としたものがあった。

 そもそもあの年齢で、あそこまで強力な治癒魔法を使いこなせているなんて。十四歳……まだ見る世界は小さくて、自分でいっぱいいっぱいの頃だ。


 ───大丈夫。

 唐突に浮かんだ、厳しい声。他に向ける抱きしめるような声とは違う、突き放した言い方。

 ───お前は大丈夫だ。

 泣いても、怒っても、謝っても、悲しくても寂しくても……痛くても。かけられる言葉は同じだった。


「───っでもさ、助けてもらって……サム?」

 はっと我に返った。

「あ、ごめん全然聞いてなかった」

「全然て……まあいいけどさ」

「さ! やるわよ。シャラ準備いい? ディオンちゃんとついてきなさいよ」

 仕切り直すように手を叩き、サムは再び構えを作った。




 ディオンとシャラが帰ってきたのは陽が昇ってすぐの時間だった。ディオンはシャラによって治療はされたらしいが、顔が腫れて唇が切れていて体中も痣だらけだった。しかし本人は部屋に入った途端目をきらきらさせて、修行の様子を語り始めた。

「サムの言ってることわかってきたよ! あちこちボコボコにされてるけどさっなんていうの、ショック受けなくなった! サムすごい力だから最初は頭真っ白になってやられる一方だったけど、今はだんだん殴られてる時も考えられるようになって!」

「ずっと殴られてるのか? 夜通し?」

「ただやられてるだけじゃないよ! 俺もね、少しだけど躱せるようになったんだ! サムにな、褒められた! 俺さんざん逃げ足だけは速いってバカにされてきたけど、それって言い方帰れば素早いってことなんだな!」

 興奮冷めやらぬ、舌も回らない様子でディオンは嬉々として続ける。

「あとあと、前より痛くないんだ! 腹も、ガードするときの腕も、筋肉ついたから固くなったんだよなっソルトのおかげだよ!」

「功を奏して何よりだ」

 こっちは気が気じゃなくて眠りが浅かったのだが……ディオンの年相応の、無邪気なはしゃぎっぷりで目がちかちかする。

「戦い方のクセって誰にでも絶対あるんだって! だからそれを見極めるために……あれっまだ話の途中っ」

「煙草。あと何か買ってくるから食いながら聞くよ」

「やった! そいや腹ペコ!」

 ころころ変わる素直な表情に、つい口元がゆるんだ。隣に座っているシャラも、疲弊してはいるもののディオンにつられてるのか心持明るい顔をしていた。

 宿を出て、箱から一本。火をつけながら、寝不足の状態で思考を巡らせる……サムは思ったより良い師のようで心底安堵した、最初の容赦ない態度に痛覚がないことも相まって、人に痛みを与えることに抵抗のない人間かと思ったが違った。煙を口内で転がしてから肺に入れる。シャラも別段と怯えているわけでもないしうまくやってくれているのだろうか、鉄、違うこれは血の味、名前の通り血の煙草だから自分に必要でしかし本物と、本物の血の味と比べたら味わう快感が違うのだろう赤い鮮血強さの証血を浴びたいどこかで誰かを、

 足を止めた。

 なんだ、今のは。煙草を口から取り、まじまじと見つめる。今のは……自分の思考か? 赤い一本が燃えて、灰になり落ちる。この赤は……箱を取り出した。『B・ダイニ―』と黒い文字で書かれている。B……意味は、

「違う!」

 自分は、違う。たまたま手を出したのがこれというだけで、血に飢えてなど……求めてなどいない。依存促進成分のせいだ。まだ十分な中身ごと箱を握りつぶし、水たまりに捨てた。潮時だ。誇りなどもう持ち合わせていないが……そこまで堕ちる気はない。煙の味が残る唾を吐き捨てて、市場へと急いだ。




 昼間は体を鍛えつつソルトと剣術稽古、夜はサムとひたすら格闘して夜明けに宿に帰宅する。朝ごはんを食べて眠って起きたら腕立て五十、とディオンのタイムスケジュールは回っていた。ほぼ毎日、一日中修行の日々で疲労困憊かつ痣や傷だらけ。しかしディオンは自分でも意外なほど、充実感と好奇心に満ちていた。あれだけ憂鬱で恥ずかしく、嫌な思いしかなかった授業とは大違い。ディオンが倒れたり攻撃が空振っても笑う者はいないしサムは感情任せに怒鳴るのではなく、どの動きがどう悪いのかと叱ってくれた。シャラの防御魔法のほうはなかなか上手くいかず、あっさりサムに蹴り破られてディオンの腹に直撃することが多かったが、心なしか歌の治癒力が上がっている気がした。

「ただいまー!」

 一週間が経った。今日もしこたま殴られ転がされたが、どんどん体が覚えていく感覚が嬉しくてついつい大声になる。

「ソルトおはよっ。今日は俺寝なくても大丈夫だよ。稽古つけて!」

「声が大きい」

 見ると、ソルトは床に伏せっていた。眉間に皺を寄せた目つきは不機嫌な印象で、ため息とともに唸られた。そういえばまだ早朝だった。「ごめんうるさくして。朝飯、今日は俺が買ってきたよ。置いとくね」「俺は疲れてる。少し黙ってろ」今までされたことのない物言いに体が若干硬直する。そのまま背中を向けて横になってしまったので、本当に疲れてるのだろうかと「ごめんソルト、おやすみ」小声で言ったが、返事はなかった。

 シャラと顔を見合わせて、なるべく静かに二人で朝ごはんを食べた。今日は市場で買った肉と野菜の缶詰だ。味付けはしたのか疑問なほど薄くて、ただ茹でたものを食べてるみたいだった。

「ここの市場さ、おいしいものあんまり売ってないよな」

「そうですね」

「いい商人もあんま来ないんだろなあ、こんなとこ」

「……」

 すぐに会話のやりとりは弧を描いて落下する。ディオンがいくら話題を振っても、いっこうに広がらない。

「シャラ、防御魔法、どう? コツ掴めてきた?」

「……いえあまり……ごめんなさい……」

 そして何かにつけ謝ってくるので、もういっそ無言のままのほうがいいのだろうか。でもせっかく二人で修行しているのだし、これからも長く一緒にいるのだし……シャラが「ごめんなさい」の代わりに、何を我慢しているのか知りたかった。

「そうだよなあ、いつも俺ボコボコにされてるから防御より治癒に魔力使っちゃうもんな」

「そんな! ディオンさんは何も、」

「あー、そうじゃなくてさ、助かってるって言いたいんだよ。シャラがいてくれてるから修行がはかどるんだ。……ありがとないつも。シャ、」

「おい」

 唐突に降ってきた低い声。頭を上げると、取れかかった包帯から鋭い眼光が覗いていた。まるで死音と対峙してる時のような。

「喋るなら外で食べろ」

「ご、ごめんなさい。すみません」

「どしたの?」

 震え上がるシャラを気にも留めず威圧的な態度を取るソルトに、率直に疑問を持った。

「言っただろ、疲れてるだけだ」

「何かしたの昨日?」

「何もしてないッ!」

 部屋の空気がびりっと震撼した。内心怯えたが、それよりもディオンはただただ唖然とした。誰しもそりゃ不機嫌な時くらいあるだろうけれど……ソルトじゃないみたいだ。

「ソルト、何怒ってるの? 何かした? 俺」

 まっすぐ見つめて疑問をぶつけると、だんだん鋭さが目から消えていき、みるみる動揺に染まっていく。額に手をやって、ディオンとシャラ、交互に見やった後、

「悪かった。俺が外に行く」

「え?」

「今日は……いや、しばらく稽古はできない、サムに頼め。すまない」

「ちょ、ソルト!」

 外套を着こむと足早に出て行ってしまった。追いかけようと剣を手に取ったらシャラが震えて大粒の涙を流していたのでそれどころじゃなくなった。

 それから数日彼の様子はあきらかにおかしかった。苛立ち、冷汗を浮かべ、落ち着きがない。時折殺気立ってるようにも見えたかと思えば、悲壮感を漂わせ背中を丸め、話しかけても返事はない。

「どっか悪いんじゃないの? 風邪とか」

「でも、シャラの魔法を拒むんだ。触らせてもくれないんだよ」

 ある晩、いつもの場所でディオンはサムに相談してみた。組手前にストレッチしながら、

「ここんとこまともに顔合わせてないもん。……なんか、隠し事してる、に近いかな」

「隠し事?」

「俺とシャラを近づけないようにしてるみたい」

「……ふーん……」

 サムも眉根を寄せる。自分たちより付き合いの短いサムに聞いてもわかるわけないか……ディオンは小さく嘆息する。

「そういうわけで、剣術も教えてほしいんだけど」

「いいわよ。しっかりとした型じゃないけど、それでもいいなら」

「うん。ありがとう」

「じゃ、最初みたいにやるわね。あたしは体術で攻めるから、あんたは剣を抜きなさい。……そんな顔しない!」

 叱咤されて苦い顔をすぐに引き締めた。

 サムが指の関節をぱきぽき鳴らすと、目が合った瞬間一気に間合いを詰めてきた。バックステップで下がり拳を次々と避ける。その際サムの右腕にかすってしまい、地面にぱっと血が飛んだ。

「いい加減覚悟決める!」

 ディオンの動揺を見抜いたサムが叱責する。回し蹴りが飛んできてぎりぎりでしゃがんだが、顎を膝で打たれた。

 体勢を立て直してすぐサムが踏み込んでくる。向かってくる右手の血が動揺を誘い、剣ではなく左腕でガードした。刹那足を掬い上げられてそのまま地面に叩きつけられ、のしかかってきたサムが刃を無頓着に掴み、ディオンの首に押し付けていく。手のひらからも出血し、ディオンのTシャツは赤く汚れた。

 喉元にわずかに切り込みが入った時、意を決して剣で強く押し返すと同時頭突きを食らわせた。目をつむった一瞬の隙をついてそのまま突き飛ばし、間合いを取る。しかし、すぐに体を起こしたサムが垂れる鼻血も意に介さずに再び回し蹴りを繰り出した。とっさに剣を構えてしまい、サムの右ふくらはぎに刃が入った。引っ込めようとした刃をつかさずサムは掴んだ。

「わかる?」

 じくじくと、より深く刺し込んでいく。

「浅い。もっとここまで斬り込むの。ここはね、第二の心臓って言われてるくらい血管が密集してて、致命傷を与えられる。だから……」

 足を下ろすのと同時刃を滑らせ、傷口大きく切り裂いた。返り血を浴びてディオンは思わず悲鳴を上げる。どくどくと勢いよく血が吹き出し「シャッシャラ!早く手当て」「頼んでないけどっ?」真っ赤な足で横面を蹴とばされた。

「足を狙うときは、脛、ふくらはぎ、あとふとももの横は痛覚が密集してる箇所だから少し切っただけでも隙を生めるわ。とにかく足にダメージを与えれば相手はしばらく動けなくなる。じゃ、もう一回」

「その前に傷! 死んじゃうよ!」

「さっきの感触が残ってるうちにもう一度!」

 今更だが、サムは本当に痛みを感じていないのだ。動きに変化はない、変わらないスピードで血まみれの足を支点に踵を落とされた。完全に混乱したディオンは、気づけばその日は攻撃を食らい続けていた。

 


 その翌日、ソルトが心配だからとシャラは宿に残ることにした。ソルトが朝からトイレにこもったきり出て来なくなったのだ。ノックをしても返事がないので、二人で話し合った結果だった。

 ディオンの気は沈んでいた。今日も自分は剣で向かっていかなきゃならないのだろうか。シャラがいないならすぐに手当てできない。もし、あり得ないことだが、万が一、自分のせいで死んだら……足が重くなる。そして無意識に苛ついていることに気づいた。

 サムの言っていることは正しい。どこを、どれくらいの力で斬れば致命傷を与えられるのか、それを学ぶべきだし微塵も躊躇してはいけない。わかってる。

 じゃあ、自分は何に苛立っているのか。

「今!」

 耳元で指示を飛ばされたが従わずに、右フックをそのまま食らった。剣を持ったまま地面に倒れると、サムは苛立たしげに、

「何回言わせるの」

 ショートパンツの尻ポケットから小さな折り畳みナイフを取り出すと、ためらわず自らの左腕に滑らせた。血が噴き出す。

「覚悟決めなさい」

「やめろよ」

「は?」

「こんなやり方、やめろって言ったんだ」

 立ち上がって、剣を収めた。

「それはあんたが決めることじゃない」

 向かってくるナイフをクロスした両手首で制した。舌打ちされて、すぐ押し飛ばされる。

「今更ケチつける気?」

「なんでわざわざそんな、深く斬らせるんだよ」

「生き物を斬ることに慣れさせるためよ」

 面倒くさそうにサムはため息をついた。切った腕を下げると血が一気に滴った。サムのショートブーツが汚れる。

「決して気持ちよくないはずよ。でもそんなこと言ってらんないからこうやって、」

「なんでそんなことばっかすんだよ!」

 思わず怒鳴ると、サムが目を瞬いた。

「サム、人間じゃんか! めちゃくちゃ強いけど普通の人間なんだろ! 死んだらどうすんだよ!」

「ローティフルにも同じこと言えんの!」

「違う! そうじゃなくて」

「いっぱしの口きいてんじゃないわよ! これがつらいって言うならこれ以上進むな! 自殺行為には付き合わない!」

 傷口を見せつけてサムも怒鳴り返した。

 それがつらいんじゃない。いや確かに良い気持ちのものではないけれど必要で覚えておくべき感触だ。ただ……。

「痛いって感じないから、どれだけ酷い傷かわからないから、平気で動き回って……まだ足治らないんだろ」

「そうよ。だから何されても戦ってこれたの」

「……痛いってさ、自分の体の悲鳴みたいなものじゃんか。誰かに悲鳴あげられたら、手、差し出すだろ。俺のこと助けてくれたみたいに。なんで自分のことは助けてやらないんだよ」

「……」

「サムの戦い方、嫌いだ。そんな、自分の体……いくらでも使い勝手きくみたいなの」

 小声で吐き捨てると、立ち上がって踵を返した。サムは何も言わなかったし、止めなかった。



 シャラは、ただそこにいた。時折こちらを伺うように視線をよこしたがすぐに外して、何をするでもなくベッドの上にちょこんと座っていた。いつも通りディオンと出かけたのかと思いトイレから出ると「大丈夫ですか」萎縮しきった声で尋ねてきた。

 うっとうしい。一体なんだ。話しかけてもらいたいのか。心配してくれてありがとうとでも? 放っておいてくれと何度言えばわかるんだ。

 ため息をついて、額を小突いた。苛立ちが次から次へと湧いてきて、嫌気が差す。こんな風にシャラやディオンを萎縮させたくないのに。しかし口を開けば……唾液とともにじわっと滲む味が意識を支配しようとする。飲み込む前にハンカチに吐き出すと、真っ赤だった。

「血?」

 振り返ると、シャラがソルトの手元を見つめていた。丸めて床に投げ捨てると、早足で廊下に出る。後から追ってくるのも構わず階段を降り、エントランスまで進む。

「あれ? なにそんな血相変えて」

 受付カウンターの向こうで、退屈そうに雑誌をめくる宿主に顔を近づけて、

「あるぶん全部欲しい」

「……ああ、アレね。今切らしちゃってんだよねー。でも明日には、」

「今すぐよこせッ!」

 胸蔵を掴んでカウンターから引っ張り出した。「ソルトさん!」シャラがやめさせようとするが容赦なく床に押し付ける。「今だ!今必要なんだ!」「あれ?あんなに買ったのにもう終わっちゃったってこと?」宿主は呻きながらも、飄々としていた。

「もう終わりだね人外サン。自分でもわかってるよね?」

「……ちがう」

 息がしにくくなって荒く呼吸していると、同時に腕の力がどんどん強くなっていき「やめてくださいっ」視線を引っ張られるとか細い手で必死に自分の拳を解こうと躍起になる人間がいた。ここにいるじゃないか、痩せっぽっちだが首か腹を裂けば問題ない。アレがないならこの子を、

 思考を遮るために彼女を突き飛ばした。力加減もできないくらい体中が熱くなり宿を飛び出した。以前捨てた一箱、あれが最後のものだった……宿の玄関近くの水たまりを探し当てるも、水が減ったそこには煙草の欠片すらなかった。

 ここに捨てたはず、どこだ、なぜない! 焦燥が思考回路、そして枯渇に拍車をかける。欲しい今すぐ欲しい血、違う! 煙草だ、あれさえあれば俺はディオンたちを殺さ、

「うるさいッ!」

 外壁に頭から激突すると、血の味があっという間に広がり飲み込みそうになるのを指で掻き出しそのまま嘔吐する。街灯にぬらりと浮かぶ、吐しゃ物に混じった、血。

 禁断症状は知っていた。まず、苛立ち、焦燥感、気分の落ち込みと精神面に影響が出る。身体面では口内の毛細血管が切れ出血し、続いて全身の皮膚が干からびると言っていいほど水分を失い、ひび切れがいくつもいくつも浅く深く出来る。いくら水を飲んでも浴びてもどうにもならず、激しい痛みや上下する感情、口内を絶えず犯し続ける血などに思考が追い詰められ、そうなったときにはもう、煙草の煙では治まらないと聞いた。

 わかっていた。鉄の味、灰の味とごまかしてきたが、自分は、血の味を欲していた。血を目にし、浴びることで強さを実感してきた。煙草を吸うと、当時の高揚感や賞賛、幸福でみるみるうちに内面が満たされ、自我を保つことが許された。それに、すがっていた。すでに自分のせいで失ったという虚無感に殺されないために。

 鋭利な痛みが走って見ると、握りしめた右拳が、陶器のようにひび割れて出血していた。ギルデラの皮膚は硬い。症状の進行が速いのか。

「クソッ」

 もうボロボロの包帯を強引にきつく巻きつけて、軋むように次々とあかぎれていく全身を引きずって歩く。もう何でもいい。あの二人を傷つけずに済むなら、自我を保てるなら、それが一時的でもこの苦痛から逃れられるなら、もう一度。

「探し物か?」

 突然降って来た声に弾かれて目線を上げると、その先に見慣れた黒い箱があった。黒い文字で『B・ダイニ―』。見つけた! 歓喜と安堵でいっぱいになり手を伸ばした直後、古びたスニーカーがそれを踏みつぶした。ぐしゃっと紙と砂利が音を立て、言葉を失う。頭上から、笑い声。

「びー、だいにー、の、Bは、ブラッド。つまり、血」

 そこに立っていたのは自分と同じくらい長身痩躯な青年で、その真っ赤な髪を認識した瞬間ほとんど反射でナイフを抜いていた。一太刀振るうも軽々かわされ、全身に走る激痛に膝をつく。口の中でどんどん血の味が濃くなり、そのたび粟立つ自分の肉体。

「おぉ、怖ぇ怖ぇ。さすが戦闘民族ギルデラ。中でも最年少で分隊長に抜擢された、偉大なるソルトさま」

「……おまえ……見つけたッ……やっと……」

「見つけた? 何を? 見つけてやったんだろ俺が。コレ」

 ぺしゃんこの箱を摘み上げ、にやりと笑う。長い間、村を追われてあの森に住みつき孤独と自責の念に潰されそうになりながらも、消えなかった宿敵の存在。痛みを噛み殺し膝を立てる。

「ハハハハハハ! やめとけって。それ以上動くと全身の血液がぶしゃーって吹き出ちゃうぞ。やばいんじゃないのそうなると」

 少年が自分の髪を撫でると、その手がべっとりと真っ赤に濡れる。彼の髪は抜き取ると針や刃物に変化し、今までそれで何千もの生き物を引き裂き、なぶり、そして、動きを封じて凌辱してきた。それは頭に突き刺すと髪に戻る、つまり彼の赤い髪は過去殺してきた生き物の生血によるものだった。

 それが、紅血のハートと呼ばれる由来だ。

「ギルデラもオチたなあ。昔っから名高き戦士の民! なーんつって活躍してきたのに、ほら見てみろよ。その中でも選りすぐりの戦士だったあんたが……ドラッグ中毒者て」

 耐えきれないように吹き出して笑う。かろうじて視線を突きつけると、ハートはさらに口元を歪める。

「そう。あんたは結構有名だった。長の護衛で、」

 振り上げたものを相手の胸めがけ刺した。が、ハートはそれを避けずに腕で受け止めた。柄まで埋まるくらい、深く手首付近を貫いた。

「貴様が長の名を口にするな……! 殺す!」

「自分たちが対峙する敵のことは調べて当然だろうが」

 へらへらした態度は一向に崩れない。

「まあクスリにも逃げたくなるよなあ。コイビトがあんな目に遭えばさ」

「……!」

 まるで他人事のように話す相手の髪に目がいき、記憶に繋がる。最後に見たあの人の……彼女の姿。戦のさなか何人かの同胞に運び込まれた───とても直視できない状態、けれど、目をそらせなかった。いくつかの防御爪、切り傷、あちこちに突き刺さった、針……それらは、ずたずたに引き裂かれ汚された衣装から見える素肌に残されたものだった。そして目は、風穏やかな深い森を思わせる美しい緑色の左目は、幾千もの針の束に潰されて真っ赤にただただ真っ赤な血が、

「最ッ高にそそられたよ。名高き一族のアタマが抵抗できずに、血まみれで喘ぐ姿は」

 渾身の力で手首から引き抜いた。鮮血を全身に浴びもっとだ。もっともっともっと、あの人の痛みは屈辱は……もっとだ、もっともっともっともっともっと!

「里を追放されりゃギルデラもただの人外だな。いくらでもイッちゃえるよな、ジャンキー」

「殺す!」

 憎悪と血まみれの欲、長年蝕まれてきた感情に突き動かされるままナイフを振るう。もっともっともっと彼女はこいつがもっともっと血を血だ償え彼女は俺は血が欲しい、欲しい欲しい欲しい! 

 赤く煮えたぎっていく思考をぶち切ったのは、ひゃっはー!敵の、若造の声。次の瞬間に相手の切り裂かれた腕を口元に押し付けられた。血と筋組織が垂れ下がったそれに不覚にも、求めていた快感を味わって一瞬浸りその隙に押し倒された。手首に針を刺されるとどんどん力が抜けていき、ナイフを握ることすらできなくなる。

「『Bダイニ―』の禁断症状で全身の血管が切れて血が止まらなくなるの何でか知ってるか?」

 手首に負った深い傷に関わらず、至って変わらない調子でハートが囁いた。どんどん自分の口内に染みていく、赤。

「血の味で得た快楽を思い出させるためだってよ。だから真っ先に口内の血管が切れるんだ」

 ハートがもう片方の手で今一度自分の髪を撫でる。濃密にてらてらと光る、手のひら。そこに舌を、ゆっくりと這わせた。

「あの方が欲しがってる。ガキ二人と、お前を。俺たちと同じだからだ」

「なにを! っざけたことをっ、」

「言葉じゃわかんねえよな」

 血なまぐさい吐息が、静かに鼻にかかる。

「誇りなんかぶっ飛ぶくらいもっとイかしてやるよ、ギルデラ」

 腕を外されたのもつかの間舌をねじ込まれ、抵抗しようとした意思も視界も頭も自分たらしめるものすべてが真っ赤になった。



   ***



 ここの布団はかすかだが、果物が腐ったような匂いがする。こうして頭から被ると鼻腔の奥にぐんっと入ってくるが、それでも苛立ちに任せてぎゅっと目をつむる。しかし眠気のねの字もやってこず顔だけ布団から出した。悲しかったり腹が立ったりしたときは寝るに限っていた。そうしていると決まって姉が起こしに来てくれた。いつまでもふて寝しないの、ほらごはんだよ……もう、そんな人はいない。

「具合、悪いんですか?」

 不意に遠慮がちにかけられた声に、布団ごと振り返るとシャラが身をすくめた。こちらの顔色を伺うようにディオンを見つめていた。

「ごめんなさい」

「あー……違う。そうじゃないけど」

 口が重くて沈黙を持て余していると、紙袋を差し出された。

「ごはん、食べました?」

 肉の、ジューシーな香りが漂ってきて条件反射でお腹が大きく鳴った。受け取って開けると、分厚い焼肉を白い生地で挟んだ饅頭だった。

「ありがとうシャラ」

「ごめんなさい、勝手なこと」

「嬉しい。ありがとう」

 心なし、泣きそうになりながら饅頭を頬張った。ほとんど脂身でおいしい味ではなかったけれど夢中で食べる。

 あっという間にたいらげると、シャラがおずおずと切り出した。

「あの、ソルトさんが」

「うん? あ、そいやいないな……一緒にいて大丈夫だった?」

「帰ってこないんです」

「え? いつから?」

「今朝、ハンカチに血を吐いたんです。それから宿主さんに何か、よこせとか怒鳴って。それから出ていってしまって……近くを探したんですけど、どこにも」

「よこせって何を?」

 もう深夜だ。最近の態度しかり、ディオンが勝手に行動したときあんなに怒るほど時間に厳しいソルトがこんな時間まで帰ってこないのは……。

「何かあったんでしょうか」

 シャラの呟きが余計に不安さを煽る。少し考えてから、布団を剥ぐ。

「探しに行こう。シャラ、俺のそばから離れちゃだめだぞ」

「はい」

 少しは彼女の恐怖や心配を軽くできるように目をしっかり合わせて、頷いた。ニット帽を被りなおして、剣を背中に装備して部屋を出た。




 もうすっかり夜道には慣れていた。閉塞された道の息苦しさも、あちこちから聞こえる死音の悲鳴、誰かの小競り合い、何かが壊れる音など物騒な空気の中、足早ではあったが進めるようになった。泥でぐちゃぐちゃの道中は足跡が残りやすい。いくつか重なり合っていたものの、一つだけ直進しているものがあった。追っていくと、市場のほうだ。

「最近のソルト、何だったんだろな」

「あまり夜も眠っていないみたいでした」

「そうなの? てっきりさあ、俺がサムのところに行ってるのが気に入らないのかと思ってたんだけど」

「夜はイラついてた、というより、苦しそうでした。声かけたんですけど、なんでもないの一点張りで……あ、あとトイレに籠って出てこない日もありました」

「なんだろなあ……」

 よく見てるなあとシャラに感心しつつ、他に何か変わったところはないかとと思考を巡らせると、そういえばここ数日煙草の匂いが一切してなかったことに気づく。同じ部屋にいるだけで香るほどだったし、そもそもディオンが知る限りずっと部屋で寝ていて、吸ってる様子はなかった。……だからあんなに攻撃的な態度に? そうなるくらいなら遠慮なく吸ってくれていいのだけれど。

 すると、男の怒鳴り声が間近で聞こえた。角を曲がると、いつも修行している市場に出る。シャラと顔を合わせて走ると、

「てめえ俺とやろうってのかッ! ああッ?」

「なにおっさん、俺のこと知らないの? 酒でアタマやられてんのかあ。小物ほどでけえんだよ声が」

 恰幅のいい男と若い青年が喧嘩している、と認識した瞬間ディオンに戦慄が走る。赤い髪。この世の生き物すべてを軽蔑しているかのような微笑。

「あーあーあーオヤジ萎える、超萎える。……お。ガキ。久しぶり」

「お前っ」剣を抜いて、紅血のハートめがけて突進した。「お前ぇぇぇぇぇ!」

 この上なく嫌味な笑みを浮かべて高く跳び、剣先は壁にがつんっと激突した。街灯の上に易々と着地すると、

「なんだあ、ずいぶん威勢よくなったじゃねえか」

「降りて来いよッ!」

「俺なんかよりオトモダチの相手してやれよ」

 ひょいひょいっと指差されたほうへ目をやると、凍りついた。

 少し離れた街灯の下、血だまりができていた。その中心に座り込んでいる露呈したギルデラの肌も古傷からではなく真新しい切り傷から血が溢れていて、

「ソルト!」

「ソルトさんっ」

 走り出すもすぐ首根っこを引っ張られて「クソガキ!まだ話は終わってねえ!」ハートに絡んでいた男が唾をまき散らし手を振り上げていた。

「おい! はなせやめ、」

 言葉の途中で突き飛ばされ「何すんだよ!」叫んだ直後鋭利な痛みが走って顔をしかめた。思わず手をやった胸元の感触に、鳥肌が立った。横に一筋走った傷から厚手のスウェットに赤い染みが広がっていく。……男?俺を?切ったのか?衝撃に唇がわなわな震えだすと、ヒステリックな笑い声が耳を突き抜けた。

 ソルトが、ディオンの目の前に立っていた。ゆっくりとした足取りで男に近づいていくと、ぼたぼたと血がレンガを濡らす。足にも真新しい切り傷がいくつか出来ていた。生き物とは思えない、けたけたと声をあげて、自分の爪を街灯の光に照らす……付着した赤いべちゃっとした、あれは、ディオンの。答えに行きつくまえに指の根元までしゃぶりついた。キャンディでも味わうかのように恍惚感に満ちた、けれど決してディオンの知るソルトではない不気味な笑顔を浮かべていた。ちゅぱっと音を立てて指を抜くと、体を弓のようにしならせて高らかな笑い声を響き渡らせた。粗暴な男が恐怖で顔を歪め逃げていくには十分で、ディオンとシャラの背筋を硬直させるには十二分な、彼が彼自身を、一切失った姿。

「ぎい」

 しゃぶった人差し指を自分の唇に持っていき、ディオンを見下ろす。尻もちついたまま後ずさりするも、ゆっくりにじり寄る。

「ぎい。ぎい。ぎいぎ」

「……ソルト?」

「手を伸ばしちゃいけないって頭が言った」

 振り返ると、ハートが地面に着地し、静かな口調で語り始めた。

「触れたいって心が泣いてた。体が二つにちぎれるような痛みに叫んだ。強烈な、赤、悲鳴、感触。……これだと思ったんだ……気が紛れるなら何でもよかった」

「何言って……お前何を」

「大層な武器掲げて綺麗事並べて? 結局は俺たちとなんら変わらねえんだよ。……思い知れ人外」

 吐き捨てるとハートは夜闇に姿をくらました。「待てよ!……ソルト!」状況が全く理解できないが奴を追わないと。しかしソルトに呼応する様子はない。

「ぶらっど。びー。だいにい。びー。びーびーびー」

 意味不明な言葉を抑揚のない口調で繰り返すそれは壊れた機械そのもので……いや違う。彼はそんな作り物じゃないちゃんと生きててすごい強くてすごいやさしくて、自分の、目標。シャラをなるべく背後に押し込んで「ソルト! ソルト! どうしちゃったんだよ、おい!」徐々に距離を縮めていくソルトに叫んだ。目を白黒させながら、舌をだらんと垂らし下品な引きつったような笑い声を立てる。なんだかむかむかしてきて息を大きく吸うと、

「ソルトッッッ!」

 近所からうるせえなどと罵声がいくつか飛んでくるくらいの大声を出した。胸の傷に響いて少しうずくまったが、ソルトがぴたっと停止する。焦点の合わない目、それでも勢いのまま、

「なんなんだよッ! どうしたんだよッ! 説明くらいし、」

 直後、一気に間合いを詰められて視界が暗転し、何がどうなったかわからなかった。思い切り背中を叩きつけられて目を開けるとソルトの下品な笑顔があって噛みつこうとしているのか口を開けてディオンの服を引っ張ってくる。腕を突っ張って抵抗していると足が地面に着いていてたぶん壁に押し付けられていることを認識して「シャラ!」どこにいるのかわからないけれど、叫んだ。

「シャラ走れ!」

「なっ、だめですっ!」

「いいからはや、」

 ソルトが動きをぴたりと止め、後ろを振り返った。立ち尽くすシャラを視線で捉えてまずい!とっさに泥を鷲掴んで目に向かって塗りたくるように投げると物凄い力で押し返され呼吸が一瞬止まる。

「ディオンさん!」

「ここにいても何もできねえだろッ! 早く走れッ!」

「……!」

 悲痛な表情をして、シャラは背中を向け走っていく。相手がぎゃあぎゃあ言いながら目を何度も引っ掻いている隙に腕を外し、咳込みながらすっ飛ばされた剣に手を伸ばす。どうしようどうしたらいい、戦う?ソルトを斬るのか?もし殺したらどうしよう、でもその前に、勝てるのか?けれど素手じゃすぐにこっちが殺される。どうしようどうしよう、自分に何ができる。目の泥を拭い終えて、再びソルトと目が合った。そもそも何があったんだ、なんであんな……改造死音みたいな……。

 そこで思い出した。

 倒すことじゃなく、逃げることを考えろ。先日大勢の死音に襲われたときそうして生き延びたんだ。そうだ、勝とうとしなくていい。生きることだけ考えればいい。柄を掴み、立ち上がると、膝が笑っていた。

「……くそっ……」

 怖い。しかし甦ってきたソルトの言葉が震えを止めた。やるしかない。その張本人を見据えて、足に力を入れる。

 先に動いたのはソルトだった。いつの間にか生えた牙を剥き出し突進してくるのをかわし、勢いそのままの背中を蹴った。よろめいた隙に剣で斬りつけたがかちんっと間抜けな金属音が響く。硬い。いつもよりずっと、岩みたいだ。もう一度振り下ろしたが跳ね返され、振り向いたソルトが爪を向けた。すれすれのところでしゃがみ、脛を狙うも同じだった。どうして!体中がそれこそ鎧と化したようだが相手の素早さは変わらず、頭を掴まれて思い切り膝を食らった。

 襟を引っ張られ荒い息が至近距離に迫る。脳がぶるぶる揺さぶられているような感覚の中剣で振り払うと、再度両手で持って薙いだ。地面に、ぱっと血が散った。自分の鼻血だけではなく、ソルトの鼻筋に一本傷が走っていた。

 浅い、しかし相手の注意がその傷に向いたのを確認すると、身を翻して走った。鼻っ柱の痛みがドクドク脈打ち血が止まらない、強烈なめまいで吐きそうだ。とにかく逃げないと!けたたましく笑う声。背後に視線を投げると、すぐ目の前にソルトの双眸があった。

 肩にのしかかられてあっという間に押し倒された。両者もみくちゃに暴れて泥と血でまみれて剣を盾に防いでいると体中にとんでもない激痛が走って叫ばずにはいられなかった。

 ソルトの爪がディオンの胸に突き刺さっていた。指の第一関節は先ほどの傷口から完全に入り込んでいて暴れるとさらに食い込み痛くて痛くて剣を振り回す。顔に当たっても、首や肩、どこに当たっても硬さに弾かれソルトはますます口元を歪ませる。

「きる」舌を垂らして肩を揺らし「ぎい。ぎいろすころすころす」激痛と機械的な狂言に思考を混濁させられながらも腕を剥がそうとすると爪が折れた。

 相手を見る。夜闇に溶けそうなほど暗い、殺意とか闘志とかそういう、心のない目。だからこそ微塵の迷いもない。

「ソル……ソルトっ……」

 かろうじて絞り出した声で呼んだが喉に血がごろついて届かない。胸に体重をかけられ、相手の舌が首元まで近づいた。

「ころすころすころ……ろせっ」

 その時。かすかに違う言語が、ディオンの耳に引っかかる。

「せっ……ころ、すせ……ころせ、ころせっ」

「……え?」

「ころせ……ろせ、殺すころせころせっおれを……俺を、ころせ」

 聞き取れた言葉に絶句した。

「……ソルト……」

「殺せッ!」

 胸に刺さった爪がわずかに肉を裂き、絶叫した。剣を振り回しそうになったが、死に物狂いで力をかき集めて止める。

「ぐっ……や、やだっこっ殺さないっ」

「殺せ! 殺せ! 殺して……くれ」

 ほんのわずかに、普段のソルトのトーンが滲む。何度もかぶりを振りながら、 

「もういいっもういい……彼女が……俺のせいで彼女が……」自分の首を爪を立てて締め上げ、ソルトは泣いていた。口から血を流し涙とともにディオンに落ちる。「もういい! 殺してくれ! 殺してくれ!」

 彼女? 俺のせい? わけがわからないことだらけだが「やだッ!」鋭く叫び返す。

「んなことっ……できないっ。できない!」

 自分の体内に突き刺さるその手を、握った。いつもの何倍も硬く厚くなっていてソルトのいつものそれではなかったが、強く、強く、握って叫ぶ。

「しっかりしろよッ! ソルトッ!」

 そこで突然誰かが視界の外から飛び込んできてでソルトが横に吹っ飛び、指が引き抜かれた。激痛と開放感で咳き込みうずくまると、長いミルクティー色の髪が頬にかかった。

「! サッ……」

「大丈夫? しっかり」

 胸の激痛で動けないディオンを軽々担ぎ、サムは少し離れた、入り組んだ道の角に降ろす。そこにシャラがいた。サムを呼んできてくれたのだ。

「シャラ、治療してあげて」

「はいっ」

「……うっげほっ……あぁっ……」

 息をするたびに胸が痛んで血を吐いた。

「ディオン、説明できたら手短に。喧嘩? まさか修行?」

「う……ぐっ」

 聞かれてもディオンも確信がないことだらけだった。わかった、とサムが頷く。

「とりあえず叩きのめしてから全部聞くわ。これ借りるわよ」

 手から剣を取ると、サムは立ち上がる。咳き込むディオンの目を見て、微笑んだ。

「戦い方はすぐには変えられないの。もうずっと周りにも、自分にも、そういう扱いされてきたから。……でも、死んだりしない。ソルトもそうはならない。約束する」

 血の味を噛みしめながら、ふわっと甘く香るミルクティー色の髪を見送った。シャラが血まみれの胸に手を当てて、癒しの歌を歌い始める。

 ソルト。サム。力の入らない手で拳を作る。

 死なないで。




 突然蹴飛ばされて怒るでもなく、消えた獲物を探すわけでもなく、ソルトは咆哮を上げ、血まみれの自分の体を掻き毟っていた。そのまま自滅するだろうかと少し様子を見ていたが、匂いか気配か、手が止まり充血し切った両目がこちらを向いた。

「ソルト。どういうつもり」

「うぅぅうううぅう」

「修行にしちゃ笑えないけど」

「うううううううう」

 会話にならない。というか、明らかに正気ではない。掻き毟られた皮膚を見る。雪のように真っ白な肌には、いくつもいくつも赤い切り傷のような模様が走っていた。今までの彼の、一般人らしからぬ振る舞いにすべて合点がいった。

「ギルデラだったの」

 呟いた瞬間、口を開けてこちらに跳びかかってきた。両手に鋭い爪が生えているのを捉え剣で受け止める。きんっと甲高い、確かな手ごたえ。ギルデラの爪なんてよく見たことないが、生き物の爪とは思えないほど太く硬く、鋭利な金属にしか見えない。

「まさか、あれ本当に……」

 バーで会ったとき、さりげなく灰皿に押し付けていた……宿主が吸っているものと同じ香りだったが、その時は深く考えなかった。

 以前彼と親しかったとき(一晩だけだが)、薬物を売りさばいていると言っていた。ダイニ―ドラッグ、という種族を越えてジエルの薬物の中で最も強力で凶悪と言われている麻薬。それを煙草や錠剤、粉末などに改良して裏社会では多く出回っているらしい。傭兵時代に何度か耳にしたことはあった。ジエル中の快楽をすべて独り占めしたかのような恍惚感と優越感、悲しみや苦しみなどの負の感情を記憶から消し去ることができるという。肉体面では種族によって差はあるものの今までの力の比ではないほど強化される。無論長時間は続かず、禁断症状も半端なものではない。精神面では焦燥感、苛立ち、悲壮感。肉体面では異常なまでの枯渇や脱水、やがて口内から始まる全身の至る箇所からの出血。そうして自我を失い、血を求める化け物と化すそうだ。

 今のソルトのように。太い爪は指先の皮膚を割って太く鋭く、よだれと血で泡立った口には牙といっていいほどの歯が剥き出し、自ら傷つけた傷からは人間の腸のような触手らしきものがうねうね這い出てくる。

 間違いないだろう。

「ころす、きるころせころせ、ころすころす」

 あんなにディオンたちを大事にしていた彼が、どうして。戦闘民族ギルデラに加え麻薬中毒者となると。厄介、の一言じゃ済まない。

「ころ、せ、ころせ……ころせ」

「そうね。殺すつもりでいかないとキツイかもね」

 剣に力をこめる。

「……んなことできるわけないでしょ、子供らの前で!」

 爪を払いのけると、地面を蹴って相手に思い切り飛び込んでいった。ギルデラの肌は硬くできているはず、刃で加減なく切りつけた。が、まるで甲冑の盾に当たったかのように弾かれる。間髪入れず触手がこちらめがけ飛び出してきて払いのけると、逆方面から触手とソルトの爪に頭部を狙われる。首に力を入れてあえてまともに食らうと視界を固定し、剣を突き出した。

 がつんっと感触があり、ソルトが後ろへよろけた。顔半分の皮膚が焼ける匂いと血の冷たさそれよりも、敵は無傷。両手で握りしめ繰り返し振るい続けるが、スピードはこちらが上ですべて当たっているのに文字通り、刃が立たなかった。これもドラッグの作用だろうか?

 突然、ソルトが視界から消えたと思うと、両足をがっちりと抱かれて押し倒された。剣が手から離れる。右足の包帯、先日ディオンに切らせた部分から血が滲んでいる。この上ないご馳走でも見つけたかのように口角をつりあげると、舌を這わせてきたので無茶苦茶に足をばたつかせると、相手は余計に近づいてきて今度は馬乗りになり手の傷にも口をつけようとする。

 義足を思い切り急所に叩き込みソルトが動きを止めた隙に(ソコの強度はそのままだったようだ)、そのまま頭上に投げ飛ばした。

 即座にその場から離れ、剣を拾う。ぎぃぎぃ奇妙な音が聞こえて視線を落とすと、どのタイミングでくっついたのか、手の甲の上で皮膚を焼きながらうねる触手。酸でも出してるのか。生理的に無理なそれをケロイドごと掻き毟り剥がす。

「あー! もうキレた!」

 胃のあたりがむかむかして剣を捨てると、相手に突っ込んでいく。一発目の爪を躱し、二発目を左腕で受け貫通するくらい自ら深く突き刺すと、力を込めた。引き抜こうとしても筋肉で止めた、これで片腕はもらった。腕を引くとソルトの重心がこっちに引っ張られて肩に拳を振り下ろして筋を叩く。間髪入れず側頭部を膝で蹴ると、そのまま押し倒せた。両脇に手を差し込んで、抱きつく形で締め上げていく(腕の肉ごと爪は引き抜いた)。両手が上で固定され、圧迫される首にソルトはもがき吠えるが抵抗させない。このまま落ちてくれれば……

「ソルトッ!」

 突如投げかけられた、すがるような声。

 服に血をつけた少年が、ふらつきながらこちらに向かってくる。

「ディオン、何やって、」

「だめだよソルト! 二人とももうやめろ!」

「逃げなさい!」

「やだ!」

 これだからガキは! 舌打ちしたとき触手が両目に飛びついてきた。視界を奪われ不覚にも隙ができ押し飛ばされ、早急に触手を剥ぎ取るとソルトの背中がディオンに向かっていくところだった。

「ソルト! もうやめろ! 死なないで!」

 ───お前は大丈夫だ。

 突然浮かんできたのは、ずいぶん前に死んだ父親の言葉だった。

 生まれつき痛覚がない自分と、普通の感覚を持った姉。

 二人で綺麗な蝶を追いかけて、木を登った時。自分より高い場所で姉が枝にぶら下がり、それが折れて下敷きになる形で落ちた。姉を抱き上げ、血を流す自分に向かって父はそう言ったのだ。もう何万回も言われてきたことのはずなのに、薄れていく意識のなかで聞くそれは、やけに耳に残った。

 お前は大丈夫だ。

 それより×××を……!

 痛みを感じないことは、強さを、不死身を意味するものなんかじゃない。

 ただの障害。他の人より出来そこなった証。欠点。

 痛みがわからないから、自分を傷つける。

 痛みがわからないから、他人を傷つける。

 剣を拾い上げ、足元に向かってぶん投げた。一直線に飛んでいきソルトの踵あたりに当たってつまづく。つかさず背後から飛びかかり、首に腕を回す。それを振り払おうと相手が無茶苦茶に暴れてサムの髪を引っ張りぶちっと不快な音がした。しかし骨を折る勢いで力を込める。

 同時に自分の中でも何かが切れて、鼻っ柱に拳をぶち込んで、叫んだ。

「仲間の顔が見えねえのかッ!」

 一瞬。ぴたりと静止した。直後後ろに引き倒すと、さらに締める。獣のようにあちこちに爪を立て泥を引っ掻きまわしながら暴れ回る。落ちろ落ちろ落ちろ。足を絡ませ関節の自由を奪う。落ちろ落ちろ落ちろ。腕越しに伝わる彼の脈がどんどん速くなり、さらに力をこめていくと次第に抵抗する力が弱まっていき、やがてぐったりと全体重がサムに預けられた。

 



 ぼんやりとした意識のなか、白い天井が見えた。ベッドに寝かされているのもわかって、そういえばこんな穏やかな目覚めはいつぶりだろうと考えた。戦場の景色も、夢なのか記憶なのかわからない映像からくる怒りや絶望、血への枯渇も覚えず、ただ自然に目を覚ましただけというような。

「起きた?」

 体を起こすと頭か首か足かどこだかわからないが激痛が走り、うずくまった。そこで、肌があらわになっていることに気づく。ところどころ包帯があるものの新しくて、右の動脈には細いチューブが伸びていた。

「診療所」

 ベッド二つでぎゅうぎゅうな狭い白い部屋。その戸口にサムが立っていた。包帯ガーゼは見慣れたが、いつもより多い気がするし、眼帯もしてある。長い髪を一つにまとめているのも初めて見た。

「……これは……」

 喉が酷く涸れていて言葉は吐息にしかならなかった。けれど通じたようで、

「点滴。血液中のクスリの濃度を薄めるの。あくまで応急処置らしいけど。あ、コレのことは言ってないから。睡眠薬の容量間違えたってごまかしといた」

 頬に何か投げられた。手元に視線を落とすと、見慣れた黒い箱。赤い文字で書かれた『Bダイニー』。そこで頭の鈍痛が急速に消えていく。奴の赤い髪ギルデラもオチたなあ血血血早く血をソルト!途切れ途切れだがボロボロのディオンが叫んでいて殺せ殺してくれ嫌だ!

 死なないで! 鼓動が早くなり、両手が震え出した。 

「……れは……ディ、ディオンはっ俺がころ、」

「ディオンは大丈夫よ」

 動揺を打ち消すようにサムは冷静に言った。

「シャラが歌で治療したわ。あんたの怪我も。だからもう動けるはずよ」

「怪我……」

 その一言で愕然とする。「説明しなくてもよさそうね」頭を垂れる自分にサムは言った。

「何年やってんの? それ」

「……思い出すのも、嫌になるほど」

「バカじゃないの」

 率直な言葉に何も返すことは出来なくて箱を見つめる。

「ギルデラだったのね」

「……」

「何があったの」

「……」

 沈黙。サムがうんざりとした重いため息をついた。

「傭兵時代も今も、よく言われた。痛みを感じないなんて羨ましい。使える。……そうかもって思ってきた。痛みなんかない方が、色んな事が楽になる。だからそんなんが流行るのね」

 初めて口にした感覚はあまり覚えていない。村にいたときから一族のなかで流行り物として入ってきていたものの、たしなむ程度だったし執着もなかった。本格的に依存し始めたのはあの森で住み始めてからだ。たまたま迷い込んだシャインが宿主と同じブローカーで、何も考えずに山ほど買った。煙を大きく肺に入れると、自分の中でいくつもの何かが死んでいくのを感じた。それが良かった。何が死んでいくのか考える思考さえも、血の味が彷彿させる優越感と恍惚感が支配した。

「何をされても感じない。でも気づいたら、傷だらけだった。自分も周りも、傷だらけにしてた。それでわかったの。あたしはただの、欠陥人間なんだって。強いわけでも、大丈夫なわけでもない。どんだけデカい傷でも気づけない、バカなだけなんだって」

 出会う前のと、出会ってからのものと、容姿端麗な彼女には多くの傷が刻まれていた。小さいものから深手のものまで、ソルトの左目と同様、いつからあるのかぐちゃぐちゃに膿んだものまで。

「ディオンに言われちゃったわ。痛みは、自分の体の悲鳴なんだって。……あたしにはそれが聞えないから、どんどん自分も他人も傷つけた」

 ディオンの顔が浮かぶ。相当な恐怖だったはずだ。わけもわからず仲間に襲われて。それも圧倒的な力の差に、死を覚悟したはず。けれどディオンは、逃げなかった。逃げずに、自分に訴えかけた。死ぬなと。

「痛みを感じる体があって、それを必死に心配してくれる人がいる。……それってこの上ない幸せなんじゃない? あんたが羨ましい」

 サムの言葉は凛としていて、血の煙より深く体内に入っていく。

「俺が弱かった」

 対して自分の声のか細さが、情けなくてしょうがない。

「自分自身の悲鳴に、どうしてやることも出来なかった。周りにどうにかしてもらうものでもなかった。何だって良かった。悲鳴を消してくれるなら。一時的にでも。でなきゃ……生きることができなかった」

「何があったの?」

「話せない」

 二度目の答えに、そう、と相手は頷く。

「止めてくれたんだな」

「……まぁね」

「迷惑をかけた。そんなに傷つけて、本当にすまなかった」

 唯一彼女に言えることはそれだけだった。サムは再び大きくため息をつくと、

「あの子らを、もうこんな風に傷つけないで」

 厳しい彼女の、優しい口調だった。静かにドアが閉まり、サムの足音が小さくなっていくのを聞いていた。




 外へ出ると、夜が明けていた。これと言って変わりない湿度の高い空気。歩けるのが幸いだった。何か必要なものはあったかと考えて、宿とは逆のほうへ歩き出す。着替えも槍もナイフも、もう自分には何もいらない。これからどこへ、という疑問は濁った水たまりと一緒に踏みつけた。

 外套の襟を立てるが周囲には気配ひとつなく、このまま街を出れるだろうと思った。サムの傷の程度を見て、途切れ途切れの記憶と重ね合わせて、二人が歩ける程度の傷で済んでいるとは限らない。万が一軽傷だったとしても、会いにくるわけがない。もう自分は完全にギルデラではなく、化け物でしかなくなった。人外という蔑称が似合う。

 窮屈な視界に、ひらけた景色が見えてきた。地図も置いてきた。この先何があろうと、どうでもいいと足早に進んだ。

「どこ行くんだよ」

 足を止める。思いもよらない、気配にも気づかなかった。振り返ると、息を切らして、頬も目も赤くした少年が立っていた。

「ディオン……」

 治療された、と聞いたがタンクトップから見える包帯……自分が爪を刺した、殺すつもりで。他にも額や頬、肩などガーゼや包帯の白だらけでいたたまれず視線を外すと、

「逃げんのかよッ!」

 初めて聞く彼の怒号が鬱蒼とした空間に響いた。

「約束したくせに! 俺のこと導くって言ったくせに!」

「悪い」

「嘘つき!」

「悪い」

「……そうやって黙って逃げて! 何が戦闘民族だよ、情けねえ!」

 神経に触り思わず言い返す。

「わからないのか! 次こうなったらそれこそ俺はお前とシャラを、」

「何だよ! 殺すっ?」

 怒鳴り返されて、二の句が継げなくなる。ディオンは震えていた。痛むはずだ、立っているのもやっとなほど。それでも怪我に手をやらず拳を作り、話を続ける。

「あの煙草のことサムから聞いたよ。ダイニ―ドラッグ。嫌なこと全部忘れられるんだって。……でもソルト、苦しそうだった。忘れるどころか、すげえつらそうで……殺してくれって、泣いてたよ」

「……」

「知らないよ。何に苦しんでるのか、聞いたってわかんないかもしれない。……でも、このまま俺たちと別れたら、一人になるじゃんか。そしたらまた自分を傷つけるの? またそんな傷作って……それで、死んだらどうすんだよ!」

 きらっと一筋、ディオンの目からこぼれる。恐怖からではない。

「言ったじゃん俺、強くなるって! い、今は頼りなくてもっ、ソルトに勝てるくらいっ……ソルトを助けられるくらいっ強くなるから! お願いだから……い、行かないでええ」

 そのまま語尾がえええんと嗚咽に変わる。混乱の記憶のなかでの覚悟を携えた眼差しはどこへやら、年相応、そしてディオンらしい姿に、締め付けられていた胸が不思議とふっと解かれていくのを感じた。

「ソルト、いなくなったらっ誰がメシ作ってくれんだよお。誰が道、わかんだよお、地図なんか読めねえしっ……お、俺まだ……教えてもらってないこと、いっぱいあるしっひとりで、シャラ守り抜くっ自信なんかないよおおお……わああああん」

「……ああ」

 わんわん壁に響く泣き声になんだか力がどんどん抜けていき、思わずディオンのもとへ駆け寄っていた。

「ううっぐ……ひっく、うっえええ」

「ディオンそんな、泣くな」

「どこも、ひっく……いか、行かない……?」

「……」

 言葉に詰まると、ディオンは一際大声で泣き抱き付いてくる。

「ソルトぉぉぉ! やだぁぁぁぁぁ行かないでぇぇぇぇぇ!」

「いてててっちょっ、待てわかったわかった。行かないから」

「やだよお! 行かないでよぉぉぉぉぉうわあぁああああん」

「行かない! わかった!」

 何度も何度も、とび色の髪を撫でた。自分の体にしがみつく傷だらけの体は小さくて、本当に、痛々しいほど小さくて、両腕をまわして包み込んだ。

「悪かったディオン……本当に、悪かった」

 何が保護者だ。以前とは違う意味合いではっきりと否定する。手を引いてくれてるのは、明るいところへ導いてくれてるのは。

 自分の硬い手のひらで出来るだけやさしくしながら、喉からせり上がってくるものを必死に押し殺した。どうしてもこらえられなかった一粒が、ディオンの肩の包帯に染み込んで消えた。

 


    ***



 宿にディオンと戻ると、今度は大泣きするシャラをなだめるのが大変だった。気づけなくてごめんなさい、支えられなくてごめんなさい、そう繰り返して泣く彼女に再びソルトは胸が締め付けられる。こんな自分を想って泣いてくれる人たちをさっきまで置いてけぼりにしようとしていた。

「お前は何も悪くない。シャラ、本当にすまなかった」

 ディオンよりも小さいその体を抱きしめた時、後ろで鼻をすする音がした。肩越しに振り返るとはちみつ色の瞳がまた涙でいっぱいになっていて、

「もう本当にどこにも行かないっ?」

「ああ、行かない」

「ううっ行かないでよぉぉぉぉぉ」

「ひっく、ご、ごめんなさいっごめんなさいっ」

「いやいや、だから行かないって言ってるだろっ」

「ほらほら、もう帰ってきたんだからあんたたち泣かないの! 子供園か」

 ぱんぱん手を叩いて、サムが部屋に入ってきた。シャラと一緒にここで待っててくれたのだろうか。目が合うと、ふわっと微笑まれた。

「早く泣き止ませてよ保護者」

「保護者じゃない、仲間だ」

「はいはい。ディオン、十秒以内に泣き止まないと窓から放り投げるわよ」

「ぐすっ……え!」

 乱暴な手つきで涙をぬぐうディオンの目元はあっという間に真っ赤かになった。

 現場に居合わせたあの酔っ払いが昨夜、ジエンターに通報したらしい。紅血のハートが改造死音を引き連れていた、と酔いのせいか恐怖のせいか事実にフィルターがかかった内容で。ソルトはともかくディオンとシャラの顔ははっきり見られてしまったので、面倒にならないうちに街を出たほうがいいと提案してきたのはサムだった。

「世話になった。本当に」

 手早く荷物をまとめると、ソルトは頭を垂れて言った。「やーめてよ!堅苦しい!」うっとうしいわ、と言葉と一緒に何か放り投げられて、受け取ると重みで手がしびれた。ちょうど煙草の箱と同じサイズの、細く小ぶりな鉄パイプだった。

「それでも齧ってれば。血の味って鉄と似てるじゃない」

「……そうだな……」

 本気なのか冗談なのかわかりかねて曖昧に返事した。

「ディオン、シャラ。ソルトのそばにいてあげんのよ」

「もちろんだよ。……ねえサム。ここでお別れなの? 一緒に、」

「悪いけどもう戦争はこりごり。もうじゅうぶん協力したげたでしょ」

「そうだけどサム……あ、ありがっうう……」

「あんたマジで泣き虫ね。よく修行中泣かなかったじゃない。根性あるじゃん。その上わたしに説教だもんね」

 くいっと肩口を引っ張られたので反射的に目をつむると、瞼にキスを落とされた。姉にもされたことない色づいた行為に、あっという間に耳まで真っ赤になった。

「ありがとね。あんたに会えてよかった」

 今までいちばんやさしい笑顔で、サムは言った。涙をぬぐって、その笑顔にしっかり笑い返した。

「忘れないでね」

「ん?」

「サムが怪我したら、俺が悲しむってこと」

 リュックを背負いなおして、手を振った。 

 玄関にある受付のカウンターから、宿主が顔を覗かせていた。お世話になりましたーと頭を下げるディオンと、珍しく何も言わないで素通りするシャラに続き、ソルトも前を通り過ぎようとすると彼がへらっと笑みを投げかけた。ディオンたちからは見えないよう、手のひらに『B・ダイニ―』をはっ付けて。

「もういらないの?」

「手荒な真似をして悪かった」

「ねえってば」

「お前本当に知ってるのか。人間が吸い続けたらどうなるか」

「へえ? もちろん知って、」

「知ってて見ないふりをしてる。違うか?」

 飄々とした態度を一変させて、宿主の敵意ある視線を突きつける。ソルトの背後をちらっと見やりながら、吐き捨てるように言った。

「俺にはいないから。泣いて心配してくれるような人」

「……」

「断薬、せいぜい続くこと祈ってるよ」

 後ろ手を適当に振って、小窓のカーテンを閉め切られた。




 宿主と何やら話しているソルトを外で待っていると、ふと見たシャラが二人に強い目線を送っていたので、

「どうしたの?」

「……化け物じゃない」

「ん? 何?」

「死音についての、王族の声明。……大っ嫌い」

 シャラが吐き捨てた。いつもと同じ小さい声だったけれど、低い声だった。

「ジエルの最高権力者の言葉だから、そういう考えの人も増えたと思う。確かに殺せば死音は解放されるって伝えられてきたけど、本当はみんな内心こう思ってるんだ……奴らは化け物、弱者。だから殺していい。……あの宿主さんも、死音のこと気持ち悪い化け物みたいに言うから……許せなかった。機械でも、化け物でもない。苦しんで苦しんで、悲しい選択をするしかなかった人たちなのに。本当に、解放されてるのかな。わたしたちが彼らを剣や魔法で貫いて、空に、還れてるのかな。もっと、違う方法があるんじゃないのかなって考え出すと止まらなくて。……歌えなくなっちゃう」

 今にも泣きだしそうな横顔。まるで……

「シャラ……」

 誰を、亡くしたの? 

「敬語、取れてる」

 ぷかりと浮かんだ疑問の代わりに言うと、シャラの眉がひょいっと上がった。

「気づかなかった? さっきからそうだったよ」

「……あ、うそ、ご、ごめんなさい」

「いや謝んなよ」

 とっさにシャラの手を取って、ぎょっとした。見ていたよりもはるかに細く軽くて、ディオンの手の中で溶けて消えてしまいそうだった。放すのも失礼な気がして、かと言って考えて取ったわけではなくて、結局そのまま、

「そのほうがいい。俺嬉しい」

 笑って言うと、心持シャラが破顔したように見えた。笑顔というには程遠いが、普段よりもずっと穏やかなものだった。

 シャラの語ったことにどきりとした。自分には、死音が、ただの化け物にしか見えない。対峙し、消すと自分が強くなれるのだと、ローティフルまでの練習台だとすら思って、今まで斬ってきた。

 大切な人を失う気持ちは知っている。けれど『自殺』で失うのとはわけが違うのだろう。どれほどの悲しみか、今のシャラみたいに感じることはできない。

 知らないことは、語れない。ソルトの言葉がディオンの口を閉じた。

 



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