第3話 戦場

「それはそれは美しい色だったわ」

 そう語る彼女は、おそらくこの上ない恍惚に満ちた表情をしているに違いない。見えなくてもその声だけで彼女の感情を想像できる。それだけ長い間、一緒に過ごしてきた。

「話に聞いていた通り。今にもとろけ出しそうな、なめらかな光。……あなたにもこの気持ち、味わってほしいの」

「ねえサツキ」

 はい、と返事をして手にそっと触れてくれる。彼女の手はいつも華奢でひんやりと冷たい。

「その子の目をもらえたら、世界もまた違って見えるのかな」

「ええきっと。だってあんなに綺麗ですもの。とろりと甘い、はちみつ色」

「……欲しい」

 そう呟いた自分は、どんな顔をしているだろう。

「その目で、ぜひ見たいな。この世界が死んでいくのを」



     ***



「ごめんなさい……ごめんなさいっ」

「だからいいってば! さっきから俺許してるじゃんか」

「でもっ……わたしが勝手なことしたから……迷惑かけて、ごめんなさいっ」

「あーもう! ソルトー! シャラが俺の言うこと聞いてくんないいいい!」

 街を出て半日ほど経った。太陽が西に傾き、空の青に橙が滲みはじめると、今日はここで寝よう、とソルトが言い出してテントを張った。『リーン・アス』のほとんどは緑であるため、あたりは広大な草原。風が穏やかに吹き抜け、順調な旅路だった。

 シャラが泣いていること以外。

「ソルト!」

「なんだ、どした?」

 夕食の支度を中断してソルトが振り返ると、まずディオンの姿に目が止まる。汚れたパーカもTシャツも脱いで、ワッフル生地の濃紺のTシャツを着ている。ワークパンツとブーツはそのままだが、黒のニット帽は新しいものをかぶっていた。

「ああ、似合ってるな。良かった」

「ほら! シャラもう泣くなって。似合ってるんだからさあ」

「なんで泣いてる?」

「これ」

 ディオンが両腕を前に差し出す。袖の長さが手のひらひとつ分くらい、あきらかに長い。

「ちょっとでかかったんだよ。でも、こうやって腕まくれば全然大丈夫だろ? 俺勝手にガルカのとこ行ってたんだからサイズわかんないの当たり前だし、それでも腕以外は合ってたんだから逆にすごいでしょ? ありがとうって言ってるのに……泣き出しちゃって」

「ごめんなさい」

「俺、もういいって言ってるのにぃぃ……」

 なぜかディオンも泣き出しそうな顔になる。……二人してそんな顔されるとこちらも悲しくなってくる。

「シャラ、そんなに自分を責めるな。たいしたことじゃない」

「でも迷惑かけちゃって……」

「ディオンだって喜んでるだろ。いつまでも自分を責めるのは、ディオンの感謝も無下にするってことだ。それだとディオンは悲しいと思うぞ? 大丈夫。失敗は補える」

  おだやかで、ソルト本来のやさしさが沁み渡った声はディオンにも響いていた。失敗は、補える。

 な? とソルトのおだやかな眼差しに、シャラがこくりと頷いた。「わかりました……ごめんなさい」最後まで謝っていたが、もう泣いてはいなかった。ディオンはやっとほっと肩を落とした。

「よし、じゃあ」

 シャラから視線を外すと、ソルトは空を仰ぐ。

「さっさと夕飯にして、そのあとディオン、始めるか」

「え? 何を?」

「何をって……その剣、使いたいだろ?」

 薄く微笑んでソルトが言った。

「修行だ」





「うーん、素振り五十回でまさか倒れるとは……」

「俺、ゼイラでよくクラスの奴らに追っかけまわされたりしてたんだけど、最初はいいんだ。でも十秒くらい経つと、バテちゃってさ……」

「……なるほど」

 口には出さなかったものの、内心では大きな大きなため息をついてるに違いないソルト。いたたまれなくて、ディオンはタオルで顔を隠した。

 まずは基礎体力作りだと、ソルトはディオンに素振りをするよう指示した。追いかけっこと同じように、最初は良かった。言われた通りしっかり握って、強めに振るとびゅっと風を切る音がする。ソルトが槍で戦ってるときと同じで、自分もいずれああなれるようにとこうやって修行してるのだと実感が湧き、なんだか誇らしい気持ちになった。物語に登場した勇者たちのように剣を握っていること、そしてこれは自分の物であることが嬉しくて、それらがディオンを調子に乗らせた。もっと風を斬りたくて力いっぱい振った。振って、振って、振って、振って……どんどん剣が重くなっていき、手首がじんじん本格的に痛くなってきた。いやいや我慢できてこそ強さだと、歯を食いしばりペースをそのままに続けると、悲鳴を上げたという表現がまさにぴったりな激痛が手首に走った。剣と一緒に、地面に倒れてから自分が全身汗だくだということに気づいたのだった。

「多分ふかし過ぎるんだ、スタミナを。後々のことを考えて温存しながら動かないと。自分の体力をコントロールするのも大事なことだ」

「……はい」

 そういやフウ姉にも昔からよく言われたなあ……後先考えてから行動しなさい。

「あと、体力ももっとつけて、長時間剣を構えられるように鍛えないと。立てるか? やるぞ」

「へっ……な、なにを?」

 鍛錬前と同じような反応をして、同じようにソルトは薄く微笑んだ。

「腕立ては……手首を痛めるといけないからな。腹筋と背筋だ。最低でも百回はできるようにならないとな」

「ひ、ひゃ、ひゃっかいっ?」

 幼児のように舌足らずになってしまう。五十でここまでへろへろなのにその二倍? それが最低? しかも今?

「どうした、青い顔して」

「い……いや! やる! 頑張る!」

 白っぽい声を引き締めて、まだ汗の引かない体をなんとか起こした。そうだ、強くなるって決めたんだからこの段階で根を上げてどうする。それに、さも当然という顔のソルトにあれこれ言う度胸も立場でもないのだった。

 しかし結局百回まで及ばず、すっかり骨抜きにされたディオンを見かねてソルトが切り上げた。水を持ってくる、とテントに戻って行って、ディオンはひとり草むらに倒れていた。体中の全水分が汗になってしまったようで、口の中はカラカラだ。せっかくのスウェットは暑苦しくて脱いでしまい、草や土が素肌にへばりつく。両腕も腹も背中も、とくに手首が痛くて熱を帯び、酸素不足なのかめまいがひどい。

 ふと意識を周囲に向けてみる。静かな夜だった。真っ黒な夜空に散らばった星が宝石の欠片みたいだ。聞こえるのは自分の荒い息と、夜風で揺れる草の囁き。ゼイラの夜と似ている。そこまで近くはないにしろ、ずいぶん遠くに来たわけでもないのだった。

 夜は好きだった。フウと二人でゆっくり過ごせる、ディオンにとって一日で最もやさしい時間だったからだ。それはもう二度と戻ってこないのだと思うと、胸の底から重く黒い痛みが湧き上がってきて、涙が滲んできた。

「大丈夫ですか」

 遠慮がちな声がかけられた。そのあとすぐ、額にえらく冷たい何かが乗せられて小さく悲鳴を上げた。夜空だけの視界に、シャラが現れた。

「シャラか、ビビった……ありがとう、コレ。冷たくていいや」

 手をやると、水で濡らした小さいタオルだった。さりげなく目を拭いて、おでこに乗せる。

「あの……そのままだと……風邪、ひいちゃいますよ」

 こちらと草むら視線を行ったり来たりさせてるシャラの目先を追うと、上半身裸の自分。「あ、ご、ごめんなんか……」慌てて起き上がると脱ぎ捨ててあったTシャツを差し出され、受け取ると手首に鋭い痛みが走った。

「痛むんですか?」

「ああ、ちょっと、いてて……剣って意外と重くってさ」

 Tシャツに通そうとしたその手をシャラが取った。小さい彼女の手がわずかながらひんやりと、怪我の熱を冷やしてくれる。

「大丈夫大丈夫、ちょっと休めばなんとか、」

 シャラが目を閉じた瞬間、手首に光が纏った。それが皮膚下に吸い込まれ、緑色の柔和な光が規則的に明暗を繰り返す。

 ぎょっとして声を上げそうになったが、聞こえてきたメロディに口が閉じた。


 おやすみ可愛い子 迷子の象のお話

 おやすみ素敵な子 お月様の内緒話

 あなたを守るおとぎ話たち 続きはまた明日

 おやすみ 愛おしい子


 収穫祭で歌っていたものとは違う、子守唄のようだった。メロディが終わり、シャラが目を開けると、光はディオンの中に吸収され消えた。 

「……痛くない……」

「両手とも……?」

「うん! すっげえ! 今のが魔法?」

「はい」

「すっごいなあ、魔法って本当何でもできるんだな。さっきの歌なんて言うの?」

 身を乗り出して尋ねると、シャラはうつむいて黙ってしまった。何かまずいこと言ったかなと考えるがそれより魔法を初めて体感した感激が上回り、

「なんで魔法使いって落ちこぼれって言われんのかな? こんなにすっげーのにな」

「……」

「シャラの歌やっぱり綺麗だな! ゼイラで歌ってたのも俺感動したんだよ。自分で作ってるの? いつから歌の仕事してんの?」

「……」

 膝の上で固く拳まで作ってシャラは黙りこくったままだった。なんだか怒られてる子供みたいな……むしろ誉めてるのにどうしてそんなふさぎ込むんだ? 

 気まずい沈黙が流れる。なんだかシャラと、うまく話せない。まだ知り合ったばかりだし村で女の子と話す機会もほとんどなかったせいもあるだろうけれど、どうも調子が狂う。こっちが何か言うとすぐ謝るし……何を考えてるかさっぱりだ。

 とりあえず今のこの空気どうしたものかと色々考えを巡らせていると、背後で草を踏みしめる音がした。ソルトだ。でもどうしてテントと反対側から?と疑問がよぎったが「ソルトー、ありがとみず、」振り返って衝撃が走った。シャラの悲鳴が聞こえたが、ディオンは固まってしまう。

 青く、不気味などろどろとした光を纏い、死音が目の前に佇んでいた。けれどあの森で遭遇したものと姿が違うことに戸惑った……骨と皮だけの背中に、同様に発光した長いとげをいくつも生やしていた。目つきもこちらを威嚇するように鋭くつり上がっている。しかしおどろおどろしい、不気味な空気感は変わらず、また胸がきつく締め付けられて痛む。

 刹那死音がめくれた口から絶叫を上げると勢いよく飛びかかってきた。

 ざしゅっと確かに何かを切り裂く音がディオンの意識を戻した。槍はディオンの右側から突き出されていて、死音を真正面から叩き切った。

「下がれディオン」

 ディオンの前に立ちはだかった声は冷静だった。入った刃は浅かったのか、死音は痛みにもがくようにその場でうずくまるが、再び悲鳴を上げてソルトに口を開けて襲いかかる。

 それから一瞬だった。即座にソルトは死音を槍で下からえぐるように切ると、そのまま脳天を突き刺した。ぎゃああああああ断末魔の叫びを上げて死音の青い光が強まったと思うと、次第にそれは炎のように揺らぎ自らの肉体を燃やし始めた。強力な感情を秘めた目だけがいつまでもこちらを見ていた。

「大丈夫か、二人とも」

 ディオンたちのそばにソルトが来る。槍は突き刺したままだ。

「ディオン? しっかりしろ」

「あっ……ああ……」

 やっと息はできたものの言葉にならない。傍らにしゃがみ背中をさすってくれて、直前まで煙草を吸っていたのかふわっと甘い匂いが香る。

「改造死音は初めて見るのか」

「かっ……かい、ぞう?」

「ローティフルに改造された死音だ。どういう方法かは明らかになっていないが、ローティフルは死音を改造し、支配下に置くことができるんだ。姿が違っただろ? 森で遭遇した姿以外の死音は全部奴らの手下だと思え」

 淡々と説明すると「シャラ!」少し焦ったふうにディオンのもとを離れる。シャラはディオンのように硬直はしていなかったものの、涙を流してあきらかに動揺していた。

「シャラ、もう大丈夫だ」

「……っちが、だ、大丈夫です、わたしは……」

「でも涙が」

「ごめんなさい……わたし、何も出来なかった……ごめんなさい、ごめんなさい」

 思わずソルトと顔を見合わせた。

「歌……歌えなくて……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」

「落ち着け。もう死音はいない」

「違いますっ、わたし、……そうじゃ……そうじゃなくて」

 かぶりを振って泣きじゃくるシャラに、二人できょとんとする。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「シャラ、俺無事だよ。大丈夫、誰も怪我してないよ」

 ディオンはシャラの前で両手をかざしてみせる。

「な? ソルト」

 再び目を向けるとソルトはナイフを取り出していた。それをおもむろに自分の左肩にあてがうので「ちょ! ちょちょちょ!」慌てすぎて言葉にならなかったが制止の手は届いた。

「何してんの!」

「何って……ああ、そうか悪い悪い。ギルデラの習慣なんだ」

 周りを見渡してから、ソルトはコートを脱いで見せた。本当に隅々まで真っ白な肌だったが、鍛えられた男の半身だ。

「赤い模様と言われているが、これは全部傷なんだ」

「き……傷っ? 全部?」

 血管がそのまま浮き出たかのようなぼこぼこした赤は全身に走らされている。足の甲、ふくらはぎ、太もも、背中首筋腹に胸部、そして顔。よく見ると、線だけではなく不思議な形のものや、小さい丸いものもあった。

「基本は切り傷だがな……銃創や火傷、戦で負った傷は完治させずにあえて跡を残すように治療される。そして、自分にとって意味のある戦いのときは、こうして自分で傷を作る。……ギルデラにとって傷は戦士の証なんだ。戦って生き抜いた、証明だ」

 再びナイフを手にして、左肩に刃を滑らせた。とっさにソルトの顔に視線を逃がしたけれど、その表情は満足げだった。

「勝ち負けがすべてじゃない。白か黒かなんてつけられる戦のほうが少ない。大切なのは、生き抜くことだ」

「傷のぶんだけ戦って、生き抜いてきたってこと?」

「そうだ。傷は恥じるべきことじゃない」

 そっと肩に視線を戻すと、一筋の赤い線が白の上に現れた。だんだん赤は太くなっていき、ゆっくり腕を滴っていく。じっとそれを見ているとソルトが苦笑し、

「でもお前は真似するなよ。人間と違ってギルデラの皮膚は丈夫にできてるからな。勝手が違う」

 取り出した布で血を拭った。まじまじと傷ひとつひとつを眺めてしまう。これらすべてが戦いの傷なんて、想像もできない。傷が彼を強くしたのだ。……やっぱりソルトはすごい。改めて彼を目標に思った。

 そこで突然ソルトが立ち上がり、ナイフを構えた。ランプの行き届かない夜闇に目をこらし、耳を澄ませる。

「どうしたの」

「ディオン、テントをたたむぞ。移動する」

「え?」

 早口に言うなりテントへ歩き出すソルト。慌てて追いかけて、

「なんで急に……まさか」

「剣を放すな」

 声が固くなっている。その意味を目で問うと、ソルトは足を止めて言った。

「おそらく囲まれた。まだ何体かいる」




 風の音なのか、死音が立てる物音なのかディオンには全くわからなかった。

 握る剣はずっしり重い。鼓動が早くなり、またあの胸の痛みを思い出して冷たい汗が噴き出してくる。

「……十体……は、いるぞ」

「じゅ、十ッ?」

「街に死音はいなかった……なぜこんなところに。よりにもよって……クソ、油断した」

 ソルトが悔しそうに舌打ちした。闇の中で大きく小さく、あちこちで青い光がうごめく。あの目で、こちらを見ているのだろう。三人で背中を合わせて、小声でやりとりをする。

「改造死音は厄介だ。普通の死音より速さも力もある。俺が奴らを散らす。その間にシャラを連れて走れ」

「う、うんっ」

「万が一襲われたら、剣を振れ」

「お、俺まだ無理だよっ」

「わかってる。だがやるしかない。奴らを倒さなくていい。斬りつけて後は走れ。倒すことより撒くことを考えろ。いいな?」

 口早な指示からも緊迫感が伝わってきて「わかった」ディオンは頷くしかなかった。シャラが不安そうにこちらを見たが、余裕がなくて何も言うことができなかった。

 刹那、悲鳴とともに青い体が闇から飛び出してきた。「ぅわあッ!」反射で剣を盾に後ろへ下がろうとしてシャラにぶつかりそのまま一緒に尻もちつく。

 目の前でソルトの槍がそいつを貫くのを見た。とげを体中に携えている……さっきの奴と同じ。謝る間もお礼を言う間もなく、それが合図かのように次々と悲鳴が飛び交い、死音たちが襲いかかってきた。ほとんどが改造死音で皆鋭利なとげをこちらに向けてくる。

「ディオン、立てッ!」

 槍を片手で振るいながら、硬い手がディオンを荒々しく立たせた。

「走れ!」

「うっ……あいっ……」

 情けない返事しか出て来ず、シャラの手を取って走り出した。ソルトも後に続いて飛びかかってくる悲鳴たちを次々に薙ぎ払っていく。生々しい、何かを切り裂く湿った音、耳を塞ぎたくなるような絶叫、濁声、ソルトの咆哮、目で耳で肌で、入ってくる感じる伝わる今までの生活にはなかった殺伐としたもの。

 今までなかった? どこかで違和感……いや既視感を覚えている自分に気づく。身に覚えがある、だからこそこんなに怖くてたまらないのではないか? 一匹の改造死音が牙をこちらに向けた。びくっと体が強張り足がもつれて転んで、正面に回られた。

「戦えッ!」

 初めて聞いたソルトの、とげと同じくらい鋭い怒声にまたびくっとなり、その声に刺されるのが怖くて握った剣をがむしゃらに振り回した。

 ずしんっと確かな手ごたえ、目を開けると、あの目が鼻先にあった。ディオンの剣先が、改造死音の首にしっかり埋まっていて、びらっと開いた口から絶叫が上がる。……ゼイラだ。肉の裂ける湿った音、悲鳴、濁声、絶叫、そして赤い血。それが怖くて怖くて、自分はあそこから逃げ出してきたんじゃないか。

 なのに、どうして自分はまた同じ場所にいるんだ? 死音は刺された痛みを感じるのか、皮と骨だけになった手足をばたつかせて、目を見開きディオンに叫ぶ……なぜお前だけ生きている?なぜお前だけ……暴れるたび剣は食い込んでいき、その剣を握っているのはまぎれもなく自分なのだった。

「立て!」

 いつの間にか近くに来ていたソルトの二度目の怒声。体がすくんだ拍子に剣を放してしまうと同時槍がそいつの頭蓋を突き砕いた。ディオンは悲鳴を一身に浴び、頼りない音を立てて剣が落ちた。

 するとソルトの手が再びディオンの腕を掴んで立たせよう引っ張った。

 その手が血まみれに見えて、

「……ッ!」

 戦慄して振り払った。

「ディオン?」

「あっ……あ」

 色んなことがいっぺんに脳裏に渦巻いてきて村長の耳が転がって顔が半分ザクロみたいに潰れてアルトは助けてって腹を食べられて刺されて目玉が飛び出たり手足がなかったり血だらけで奴らの笑い声がして「ディオンッ? ディオン!」ソルトとシャラを置いて走り出した。口の中が酸っぱい。喉までせり上がってくるものを手で抑え込む。

「ディオン待てッ! 一人になるなッ!」

 振り返らず、闇の立ち込める草むらを走る。気持ち悪い。怖い。嫌だ。背後から伝わる殺伐とした空気一刻も早くそれらがない場所に行きたかった。暗闇でちらつく、青い光。

「ディオン、右だッ!」

 とっさに叫ばれたほうへ顔を向けると、ぎろりと見開かれた目がとげの生えた手をこちらに向けていた。

 直後、押し倒されてこれからくる痛みに思わず叫んで目を閉じた。が、何も感じない。汗で冷えた肌と尋常じゃないくらい早い鼓動。

「シャラ! シャラ!」

 ソルトの叫び声で目を開ける。すぐそばの改造死音よりも、自分の体に覆いかぶさるように倒れているシャラに目がいった。ディオンよりずっと細く折れそうな両腕は守るかのように広げられていて、赤い血が服にどんどん滲んでいく。

 ソルトが駆け寄ってきて改造死音を一刀両断、シャラの体を抱えて、

「聞こえるかっシャラ!」

「……だ、だいじょぶです……そんなに深く……」

 意識があったシャラは苦しそうに消えそうな声で答える。その視線がディオンとぶつかる。息を荒くしながら、しかし酷く心配そうに、

「だいじょうぶ……ですか……?」

 周囲に再び悲鳴が聞こえて、ソルトが舌打ちとともに立ち上がって槍を振るった。ざしゅっざしゅっ、絶叫、死音が消えていく音。シャラが眉根を寄せて、負傷した右腕に手をやる。

 彼女の傷に触れると小さく悲鳴をあげた。血が出てる。しかし彼女はディオンを案じるような表情のまま。そこで不思議とさっきまでの混乱は加速していくどころか失速し、一つの疑問が浮かぶ。怪我してる。襲われたのは自分なのに。なんで。

 俺をかばったから。

 なんで。

 俺が逃げたから。

 また。

 気づけば走っていた。ランプはソルトが持っている、真っ暗でほぼ視界はゼロだったがとにかく走って置いてきた剣を手探りで探し当てた。刹那死音がそばにいて迷わずその喉奥に矛先を突っ込んだ。悲鳴が耳を劈くが、胸の痛みはもう感じなかった。

 それよりも、頬が焼けるように熱い。痛いくらい、熱い。さっき背を向けた戦いの音がするほうへ、突進していく。

 激情をそのまま出したようなめちゃくちゃな叫びを上げて、次々と死音の悲鳴を浴びていった。



   ***



 指先をつつかれたように感じて振り返ると、シャラの黒い瞳と目が合った。心底ほっとして「大丈夫か」煙草を空き瓶に入れると彼女の頭を撫でた。少しぼんやりした様子で、

「少しだけ……じんじんします」

「そうか。とげの手で引っ掻かれたんだ。あまり深くはなかったが、ショックで気を失ったんだろう。薬を塗っておいた。すぐ良くなる」

 幸いとげが切り裂いたのは肩から左腕にかけてだけで、出血は多かったものの浅かった。安心していい、と一通り説明してやったが、シャラは不安の色を濃くしていった。

「……ディオンさん、は? 無事ですか?」

「ああ無事だ。今外にいるから呼んでくる。……今回はお前のおかげで助かったが、もう二度と自分を身代りにするような真似しないでくれ。いいな?」

 シャラは返事をしなかった。目を伏せて、口を頑なに結んでいる。念を押すように名前を呼ぶと、渋々といった様子で頷いた。小さく息をつき、ソルトはテントの外に出た。

 あれからほとんどソルトが殲滅させたが、ディオンも剣を振るっていた。しばらく走って、大きくて太い木を見つけてその陰にテントを張った。シャラを手当する間ずっと神経を張り巡らせていたが、不自然なほどもう死音の気配は微塵も感じなかった。木の匂いがする。ザンビルの森の死んだそれとは違ってしっかりと根を張った生命力に溢れていた。

 周辺を歩き回ると、テントの真後ろに接する盛り上がった木の幹から明かりが漏れているのを発見する。近寄って自分のランプでも照らすと、ディオンが膝を抱えて丸くなっていた。Tシャツの上からスウェットを着ているので寒いわけではない……まるで誰にも見つからないようできるだけ小さくなろうとしているみたいだった。

「ディオン」

 明かりで輪郭がより浮き彫りになる。黒いニット帽は脱いで、くしゃくしゃのとび色の髪。

「シャラが目を覚ましたぞ。もう大丈夫だ」

「そっか、良かった」

 安堵した声だったが、身を固くしたままだった。

「行ってやれ。お前のこと心配してた」

「……」

「今日は……キツイ夜だった。お前もあちこち痛めたろ。俺が見張るから中で休め」

「……」

 ディオンは顔を上げない。手をきつくきつく、白くなるまで握りしめていた。静かにディオンの隣に腰を下ろし、ランプを自分のものだけ消した(あまり明るいと死音が寄ってくる)。

「お前のせいじゃない」

 強い口調でソルトは言った。

「俺も怒鳴ったが……型が十分でないお前には特に厳しい状況だった。それなのに立派に剣を振って、次々と死音を倒していっただろ。すごいことだ。おかげでここまで、三人で逃げて来れたんだ」

 ディオンからの返事はない。さあさあと草が風で揺れる。ソルトは小さく吐息し、頑ななディオンの頭に手を伸ばした。

 かすかに、くっ、と声を漏らしたのが聞こえた。一旦手を止めてから、額に手を添えるとゆっくり顔を上げさせた。唇をこれでもかと噛み締め、眉間に皺を寄せ、目いっぱいに溜まった涙をこぼしてなるかと必死にこらえている、そんな表情だった。

「……俺……」

 視線で暗闇を見つめたまま、やっと口を開いた。下唇が赤く少し腫れていた。

「なんか……ぐちゃぐちゃになって……死音の目、怖くて……怖くて怖くて、悲しくて。でも俺、決めたから、戦わなくちゃって、け、剣……握ってたけど……戦うことって……あっあんなっ、あんな気持ち悪いもんだってわかってなくて……なんか、ゼイラでみんなが……殺されたときに……戻ったみたいで……怖くて、怖くて……嫌で……逃げたくなって……!」

 声が震えてきて、涙が流れたがすぐに拭い、

「そしたらシャラがっ……血が、いっぱい……あんな、あんなになって……俺また逃げて人を傷つけたんだって、真っ白になって……守らなきゃって、だめだって、これ以上……俺のせいで死なせちゃだめたって……たくさん、死音を斬った。たくさん……ずっと、ずっとずっとずっと……怖かった……!」

「……ああ」

「ソルト……わかんないよ……誰かを守るには、ああやって誰かを傷つけないといけないの? たとえもう人間じゃなくても……傷つけることに変わりはないじゃんかよっ……俺決めたけど、わかんない、わかんないよ……」

 再び膝に顔をうずめた。深い深い夜の闇の中でディオンのすすり泣く声だけが、ランプの明かりのように心細く滲んでいく。

「難しい話だ」

 長い沈黙の後、ソルトは口を開いた。

「そしてお前には、酷な話だ」

「……っ」

「死音は解明されていないことも多い。なぜ生き物を襲うのか。なぜ自殺者だけが死音に堕ちるのか。斬ることで、本当に供養されているのか。……誰にもわからない。だが、確実なのは、少なくとも倒してやればあんなふうにさまようことはなくなる。だから斬るんだ。……ただ、ローティフルは、生き物だ。お前は生き物を相手に剣を向ける」

 ディオンが再び拳を握りなおした。話していてソルトも胸が痛んだが、わからせないといけないことだった。いざ対峙した時に、迷う。それが命取りになる。

「何かを守るには、傷つく覚悟と傷つける覚悟が必要だ。相手が刃を持って向かってくるなら、刃を持って押し返す。それができなきゃ、すべてを失う。それが戦場なんだ、ディオン」

 覚悟がなければ、守れない。ソルトが告げた言葉の重さに潰されるようにディオンは膝から顔を上げない。

 まだ十四だ。つい最近まで死音やローティフルとは無縁の生活にいたのに、それをすべて奪われ、家族を殺され、剣を握ることを選んだ。不安や恐怖に何度足を止めたくとも、ディオンには選択の余地などなかった。帰る場所はもうないのだから。

「聞いても、いい?」

「ああ」

「ソルトの体、全部傷なんだよね?」

「そうだ」

「……その……目の傷も……自分で……?」

 聞いてすぐディオンが身をすくめたのがわかって、胸がちくりとした。また睨まれると思ったのだろう、安心させてやりたくて口を開くが、やはり言葉が見つからなかった。その時の光景も、激痛も、見たもの感じたものすべて鮮明に覚えていて、ずっとずっと全身を渦巻く。しかし、長年落としどころを見つけられていなかったからだ。

 出来る限りそっと、ディオンの背中に手を添えた。

「そうだ」

 弾かれたようにディオンがこちらを見た。体中で最も深い傷だが、今でも腫れ上がって膿み、完治することのない恥だった。

「だがこれは、決して誇れる傷じゃない。俺は大事なものを守れなかった。守ると決めたのに、いざってときに……自分が傷つく覚悟がなかったんだ。そこから逃げて、そうして……失った。それが悔しくて、許せなくて、どうにもできず、せめて同じ痛みを自分に与えたかった。そんなことしても失ったものは返ってこないのに」

 自分を嘲るように口元を歪める。ディオンは真っ赤な目でそれを見ていた。

「お前にはこんな風に後悔してほしくないんだ。お前の抱える不安や恐怖を消してやることはできないが、足を取られないよう、手を引いていくつもりだ」

 傷だらけの硬い手で、ディオンの拳を覆う。小さいその手は、しっかりと熱を持っていた。

「俺が導く。シャラも、そばについてる。……きっと心のどこかでは、戦う恐怖よりも進む覚悟のほうが強いはずだ」

「……っふっ」

 ディオンの目から、ようやく堰を切ったように涙が溢れた。こらえられず、嗚咽を漏らして、何度も何度も目元を拭う。

「俺……つっつよく、なりたい……っ」

「ああ」

「ソルト、ごめっごめん……ごめん、弱音ばっかっ……ごめ……」

「謝るな。当然だ」

「俺頑張る……頑張るから……頑張る」

 涙で濁った声に力が戻ってきたのを感じる。拳をほどいて、ソルトの手を握り返してくる。弱い握力だったけれど、しっかりと意思のあるものだった。

「……握力も鍛えないとな」

「ううっ……え、ぁいっだッ! 何すんだっよぉ」

 握る力を強めると急いで手を引っ込められる。鼻をすすりながら笑うディオンに、ソルトもほっと胸を撫でおろした。

 


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