第1話 ローティフル(修正版)

 種族について


死音  自ら命を絶った生き物の成れ果て。


人間  ジエルにおいて一番数の多い種族。心身ともに他の種族より弱いとされ、死音のほとんどが人間からと言われている。だが知能が高く、ジエルの生活においての技術は彼らが作り出したもの。


ジエンター  外見は人間とさほど変わらないが、瞳の色がエメラルドグリーン色をしている。天使、化け物の力を兼ね備えていると言われている種族で、ジエルの秩序の番人。種族同士の揉め事や事件などの解決に当たる。


シャイン  真っ黒な肌に大蛇のような体。背中にベールのような大きい羽根を携えている。太陽に当たると皮膚に火傷を負ってしまうため、夜に活動する。他種族ねの反感を抱いており、トラブルが絶えない。


ギルデラ  真っ白な木の枝を模したような赤い模様が刻まれた体。他種族と比べ皮膚が厚く硬い。戦闘民族と呼ばれ、戦争では大いに活躍してきた。種族間の結束が強く、独自の伝統を重んじる。






 死音。自ら命を絶った生き物の成れ果てを、この世界───ジエルではそう呼ぶ。人間でも、ジエンターでも、シャインでも、ギルデラでも例外は報告されていない。不気味な青白い光を身にまとい、顔を除いた肉体は肉がかろうじて付着しておりほぼ骨と皮の姿。その手足は生前の力を失い、這いずりまわる姿は蛇のよう。髪は抜け落ち、鼻の下から顎にかけての皮膚すべてが外へめくれ、そこには複数の牙が生え揃い、絶えず悲鳴が垂れ流される。唯一、生前の面影が残るのは目だけだと言われているが、それも自殺に至るまでの苦痛か、こんな姿になってしまった自分への嘆きか、歪み切っているため、定かではない。

 死音は、命あるものを襲う。死音に食われた者は絶望が伝染して死音に堕ち、その数の多さたるやジエルは長年苦しめられてきた。後年、ジエンターが正式に死音を排斥対象と認め、全住人に武術または魔法を学ばせることを義務付けた。九歳になるとまずジエルの住人は各地に設立された武術学校に入学し、身を守る術を学ぶ。

「───けどなあ、未だになぜ自殺者だけが死音に堕ちるのか、なぜ生き物に襲いかかるのか、解明されてないことは山ほどある。ただわかるのは、死音の頭蓋を完全に打ち砕かないと奴らは消えないってこと、そしてやらなきゃ……やられるってことだ」

 ヤイ先生はいつもよりやけに声に凄みを聞かせて、黒板を叩いた。先生は板書が雑だし、一時間の授業につき二言三言しか書かない。だから集中して話を聞かなければならない。

「だからこうした武術学校が設立された。ウチみたいな小さな村じゃ死音は出たことないが、お前らもいずれ成人して村を出るなら覚えておけ。ジエルは広い。そのぶん、死音も後を絶たない」

「先生は死音に遭遇したことあるんですか?」

 クラス委員長のジーナが手を上げると、先生はトーンをそのままにはっきりと、

「ない。俺はゼイラで生まれゼイラで育ち、こうして教員になった」

「……この学校で遭遇したことある先生いるんですか?」

「どうだろうなあ……実技のクロエ先生とかあるんじゃないか? みんな、世界は怖いぞー故郷が一番だ故郷が」

 うんうん頷く先生に「なにそれー説得力薄っ」「実技習う意味あるんですかー」「歴史学とかいらないんじゃないの?」「おい誰だ今のっ先生の仕事を奪うな!」クラスがどっと笑う。そんななか、ディオンは先生の言葉を頼りに描いてみた死音を眺めてみる。絵心がないディオンではいまいち迫力に欠けたが、少なくとも人間でない得体の知れない生き物というのがわかって、それだけで鳥肌が立った。本当にこんなのが現実にいるのか。先生ののんきな笑顔とクラスの騒ぐ様子を見ていると、誰もゼイラの外に出て行かないようにと戒めのおとぎ話なんじゃないかと思えてくる。そもそもあの森の言い伝えだって……思考を巡らせながらイラストの輪郭を何度もなぞっていると、頭に何か投げられた。結構な痛みに腰を浮かしてしまい椅子が派手な音を立てる。

「なんだディオン? どうした?」

「あっ……いや……」視界の端で音もなく転がるボールに気づいたが「なんでもないです。すいません」

「ビビったか、死音の話。お前は怖がりだからなー」

 教室内が笑い声でいっぱいになった。頬と耳がどんどん熱くなるのを感じてますます恥ずかしくて、座りなおして背中を丸めた。ボールが持ち主のところへ戻り、アルトがそれを握りしめて嫌味な笑顔を浮かべていた。

「さてさて授業に戻る。ディオンには悪いが、ジエルの脅威はほかにもある」

 ヤイ先生が黒板に大きく書いていく。

「『ローティフル』」

 不思議な響きの単語だが、それを聞いて怯えない者はジエルにいない。クラス中がどよめいたが、手を上げたのはやはりジーナだった。

「ジエル史上最悪、最強と言われている殺戮集団のことです」

「そうだ。今から三十年ほど前と、まだそう遠くはない昔に現れた。種族も素性も、目的も不明。当初は九人構成だったが、たった九人で、ジエルに名を残す悲惨な事件を起こした。『王都青大火』」

 ディオンはまだ生まれてなかったものの、話は知っている。

 王都とは、『ロイヤル・ファーヴァン』のことを指す。ジエルにおいてすべての決定権を所有する王族の住居、また全世界種族会議が行われたりジエンターの総本部があったりと、ジエルで最も人口が多く、発展し、重要な都市だ。

 そんな大都市で、皆が寝静まり、夜が最も深い時間。ローティフルによって大量の死音の軍勢が全土に放たれた。生き物は皆死音に食われ、恐れをなして自ら死を選び、『ロイヤル・ファーヴァン』は死音で溢れかえったという。死音の青い光に包まれた模様は、まるで青い炎に焼かれていくようだったことから『王都青大火』と呼ばれている。

「ローティフルは、死音を操り支配下に置く力を持っているらしい。その方法は不明だ。ジエンターが他種族と手を組み、この三十年で何度も何度も戦争があった。そのかいあって、現在は四人となっている。ジエンターが賞金を懸けたことでそれぞれのメンバーに通り名がつけられた。わかる人ー?」

「死んだ目」

「死んだ目だ……」

 口々にクラス内で囁かれる単語を拾い、ヤイ先生は板書する。

「ローティフルのリーダー、死んだ目。素性は一切不明だが、一体どういう存在なのかがわかる言い伝えがある。『その目、命あるもの忌み嫌い殺める』。目に入った生き物はすべて殺される。ほとんどは手下にやらせて滅多に現れないそうだが、奴が訪れた街や村は生き物どころか動植物も消され、二度とそこに命は芽吹かなくなるそうだ。だからジエル上で奴を見たって生き物はいない。会ったら最後、だからな。今までも何万て街や生き物が殺されてきた。

 はい、あとわかる人ー?」

「紅血のハート!」

 次に手を上げたのはアルトだった。なぜか自慢げにはきはきと、

「真っ赤な髪した男って聞いた。血で染めた頭なんだってな」

 後半をいやに強調してディオンに視線を送る。カツカツ音を立てて板書が進んで行く。

「そうそう。初期メンバーのひとりだ。あとは?」

「血狂いのサツキ! 生き物を食う女なんだろ?」

「なんだアルト。やけに詳しいな。あ、そうかお前の父ちゃん元傭兵だもんなあ」

「そう! 父ちゃん見たって! 血狂いのサツキが、こんっなにぶっとい男の太もも捥いでさ、そのままかぶりついて食べてたって!」

 女子の悲鳴があがるとアルトは満足げに鼻を鳴らしてみせた。

「ハイハイ、そのへんで。そして残る一名は、闇の罪人シダ。驚くことにシダは魔法使いで、見立てでは、こいつの魔法で死音を従えてるんじゃないかって言われてる」

 魔法使い、と聞いてクラス内がまたどよめき、中には笑い出す子もいた。

 初めはどの子供も武術学校に入学するのだが、十四歳時点の成績、特に武術においての成績が一定の値に達していない場合、その学生は魔法学校に移され、魔法使いとして生きることが決定される。肉体の強さは才能と努力の賜物だが、魔法は心の力という曖昧なものが魔力の源とされており、誰でもなれるが故、『落ちこぼれ』と認識されているのだ。

「お、もう時間だな。いいか、収穫祭ではしゃいで忘れるなよ。明後日は認定試験の日だからな。ここに残れるか落ちこぼれるかが決まる。鍛錬にいそしめよー」

 そう、ディオンたちのクラスは十四歳。明後日で優秀か落ちこぼれかが決まる。終業のベルが鳴り、皆席を立った。

 



 ジエルは全部で四つの大陸に分かれている。高低差さまざまな山に囲まれ、一日中降雪だったり雨量が多い街や朝の来ない街、太陽が沈まない街など特徴の強い『アマール・セゾン』。気温が高く海にいくつも島が点在する『クリヴィア・メル』。先ほど授業で取り上げられたが、それらの大陸に囲まれるように位置し、王族の住居やジエンターの総本部があるとされる首都、『ロイヤル・ファーヴァン』。そしていちばん街や村が多いとされる、緑豊かで気候も穏やかな『リーン・アス』。ジエルの中で最も大きな大陸だった。

 ゼイラ村はその片隅に位置していた。小さな村で人口は五百人ほど。育む文化は小さく、いわゆる田舎であった。

「ただいまー」

「あ、ディオンおかえり。市場で買い物してきて。はいメモ」

「えぇー! なんで」

 村の移住区の一角、紫の屋根を被った一戸建て。そこでディオンは十二歳離れた姉フウと二人で暮らしていた。フウは腰まである桃色の髪を高く束ねながら、

「言ったでしょ、今年はあたしが料理班班長なの」

「そうだっけ? じゃあ肉料理いっぱい作ってよ」

「今年は野菜中心にしようってみんなで決めたの。どこの家も野菜が豊作だったから」

「なんでーやだ肉はー!」

「あぁ?」

 ソファで寝転んでぶうたれる弟をフウはぎろりと睨みつける。

「何そのツラ」

「いえすいません嘘です」

「収穫祭の日ぐらい手伝ってよ。普段家でゴロゴロしてんだから」

「祭りつったって大人が酒飲んで暴れて後片付けすんの俺ら子供なんだからな」

「いいから行ってこい!」

 有無を許さない怒鳴り声に追いやられるように、ディオンは買い物メモを握りしめ走った。

 今日は年に一度の収穫祭の日だった。朝から村全体が忙しなく、移住区も皆家をカラフルな紙テープで飾りつけたり、自分の畑で自慢の作物を看板に描き垂れ下げる人も多々いた。通りの街灯も付け替えられて橙色のやわらかい色味が灯る。心持、ディオンも浮足立っていた。

 市場とは、ジエルの村街すべてに設けられている商人が店を広げるための場所だ。商人は世界を旅しながら仕入れた品や自分で作った物を、各地の市場にてテントを広げ住人に売る。これは世界共通のシステムだ。商人たちはそれぞれ担当地区や訪問回数が決められていて、よって訪れる商人たちとは自然と親しくなる。

市場はもうテントでぎゅう詰めで、まだ始まってもいないのに祭りのようににぎわっていた。テントは彼らの商売道具のひとつである為、お店によって様々だ。自分で染めたと言うまだら模様の布にカラフルな糸で刺繍してある凝った作りのものや、藁を粗雑に重ねただけのものや。それらが一層市場を騒がしくさせていた。

「ジーン!」

「よおディオン! 元気してたか?」

 にぎわいに負けない声量で、大きく手を振る男。ジーンは食材屋だ。肉や野菜、果物などを始め、独自に開発した調味料や飲み物、惣菜など。彼のテントは麻でできていて、いろんな生野菜が縄でくくりつけられて無造作に垂れ下がっている。店のアピールの仕方が雑だが、そこが彼の人柄を表していた。

「ほらこれ、ジーン特製調味キューブ! 仕上げに使えって伝えてくれ」

「ありがと! じゃまた!」

 果物でいっぱいになった籠を背負って、ディオンは次のテントに向かう。買い物メモを見直して市場をきょろきょろすると、一つの物に目が止まった。

 市場の中心にそびえる、大きな翼を持った女神の像。何年か前に、ゼイラの女性たち一丸となって造ったオブジェだった。長年ゼイラをまとめあげてきた村長は『同じ土を分かち合ってともに生きている』と謳い続け、言葉通り、農業が生活の中心である村で住人たちは手を差し伸べ合って生きて来た。その証を残そうと、ゼイラの土でこの女神が造られたのだ。瞳の色は塗装し、ゼイラの住人の証である橙色(フウとディオンは別の大陸から来たので瞳の色は異なる)。村の歴史を物語る象徴と言える物となった。いつも穏やかに村を見守っているそれを毎日目にはしてるものの、ついふと足を止めて眺めてしまう。

 今宵は街灯も同じ色。日が沈むにつれて村も女神の眼差し同様、優しい雰囲気に満ちていく。酔っぱらう大人たちには困ったものだが、普段忙しく働く皆が手放しで楽しめる一日である収穫祭は、ディオンも楽しみだった。買い物メモをチェックして、買い物を続けた。

 籠がいっぱいになり、目的のテントを探していると、にぎわう市場から少し外れた道端に見つけて、

「あれ? カリー!」

「あら、ディオン。久しぶり」

 カリーは灰色の長い髪に黒いローブを羽織った魔法使いの女性だった。薬草や薬品を扱っているので、真っ黒なビロード生地にラメがついたテントからは不思議な匂いがいつも漂っていた。

「久しぶり! なんでこんなところにテント張ったの?」

「んー……なんかぼーっとしてたら場所、取られちゃって」

 彼女はなぜか会うたび眠そうで、言ってるそばからあくびをする。

「まあ周りの視線も面倒だから、楽でいいよ」

「視線て?」

「落ちこぼれを見る視線。ディオンとフウだけよ、買うだけじゃなくて、気さくに話しかけてくれるの」

「だってカリーと話すの楽しいよ。それにここの薬草がいちばん効くってフウ姉いつも言ってるし、こないだも俺、殴られた時の傷二日で消えたしさ」

「……そう。良かったわ」

 メモを見せて、薬草を何束か買った。

「あとね、ルルんとこでビーズの飾り買いたいんだけど、市場にいなかったんだ」

「ルルなら、確か向こうよ。私と同じで場所取り損ねたの」

 カリーが指差した方向に、心臓がぎくりとした。市場を抜けて野道が続いた先にある、暗い暗い大きな森……。

 ザンビルの森。ゼイラに隣接する深い森だ。その木々はまだ明るいうちに見ても緑、というよりもどす黒い葉をつけていて、何者をも拒む閉鎖的な雰囲気を漂わせている。夜になるとより濃くなり、森全体が『化け物』という表現がぴったりな姿で風に揺れ、恐怖を放ってくる。

 しかし森には本物の化け物がいると、ゼイラでは言い伝えられてきた。死音ではない。白い肌に美しい外見を持ち、甘いお菓子のような香りを漂わせ生き物を誘惑する。そして手中に納めた者の、血をすべて吸い尽くしてしまう種族不明の化け物。ゼイラの住人は幼い頃から親に、眠る前の物語として言い聞かされてきた話だった(悪夢にうなされた経験があるのはディオンだけではないはずだ)。

 森に入るのはもちろん、ディオンは近づくことすら心底嫌で滅多なことじゃその方角には行かないのだが……しょうがない、買い物だけしてさっさと帰ってこよう。カリーにお礼を言って、ディオンは一息つくと歩き出した。

「化け物なんてさ! どーせ脅しだろ。お前行ってこいよ」

「や、やだよ。アルトのが強いんだからボクなんてすぐ食われちゃうよ」

 しかし歩けど歩けど商人の数はごく数人で、その内ルルの姿は見えず、気づけば森の前の敷地内に辿り着いていたし、とてつもなく嫌な人物を発見してしまった。アルトと、取り巻きのシラとホルダーが何やら話し込んでいた。

「シラ、言ったろ? これは予行演習だよ、試験の。落ちこぼれになりたくねえだろ?」

「そ、そうだけど……じゃあホルダーも一緒に」

「オレ成績優秀だから。アルトの次に、だけどね」

「あ、ディオン! いいとこに来たな」

 意地の悪い笑みを浮かべてアルトがこっちに歩いてくる。慌てて方向転換し走り出すがすぐ髪を掴まれて、籠の果物たちがどさどさ落ちる。

「お前のそのビビり、俺が治してやる」

「いたたた! 痛いって!」

「このままだと試験落ちて魔法学校行きだぜ! 落ちこぼれのままでいいのかよお? パパママだけじゃなくてフウもさすがに愛想つかしてお前のこと見捨てるんじゃね?」

 三人のげらげら下品な笑い声がやけに胸に刺さった。アルトたちはディオンたちの生い立ちを知っている。しかし髪を引き抜かれるんじゃないかという激痛に何も言い返せず、そのまま引きずられていく。

「森に行け。森の入口。そこに咲いてる花を一本取ってこい。そしたらお前のこともう誰も弱虫なんて呼ばなくなるぞ」

「なっ、無理だよそもそも禁止されて、」

 言い終わらないうちに腹に拳を叩きこまれて、うずくまる。咳き込む首根っこをつかまれて無理やり上体を起こされると、突き飛ばされた。シラとホルダーが笑う。アルトがじりじりと距離を詰めてきて、お腹を押さえたまま後ずさるが背後の不気味な暗闇も怖くて涙が滲んでくる。

 そこで、ごんっと鈍い衝突音がした。見るとアルトが頭を押さえていて、足元にオレンジが転がる。

「暇そうじゃん、あんたら」

 フウがそこに立っていた。手で林檎をいじりながら例によって悪魔的な笑みを浮かべて、

「あたしたち女は飾り付け買い出し料理って駆けずり回ってるっていうのに、お子様は肝試し?」

「なんだよフウ! 鍛錬してやってんだよ。このままじゃディオン落ちこぼれ確定だからな、あッ」

 アルトの口に林檎が命中する。もごもごしてる隙にフウの平手がアルトの鼻っ柱に叩きつけられ、そのまま地面に押し倒した。

「そんなに人のことに首突っ込みたいなら、て、つ、だ、え」

 ぐりぐり口内にめり込んで行く林檎の果汁とよだれで溺れかけるアルト。フウが立ち上がり、睨みを効かすと手下たちはしっぽを巻いて猛スピードで村の方に走っていった。

 林檎をなんとか引き剥がして地面に捨てると、アルトも走り出す。

「女に助けられて恥ずかしくねえのかよ、弱虫!」

「全くひねりのない捨て台詞ね……笑う気も失せるわ」

 フウはうんざりとため息をつき、地面に転がった籠を抱えた。

「ほら拾って。泥は洗えば落ちるから。……あ、これジーンのでしょ! ディオン気が利くじゃない、」

「姉ちゃん先に帰っていいよ。忙しいんだろ」

「え? なんでよ、二人で持ったほうが早いでしょ」

「ひとりで持てるよっ」

 籠を奪うとまた中の買った物たちが地面に転がった。無言でそれを拾うディオンの背中に、フウはただ一言、

「寄り道しないで帰ってきてよ」

 森周辺は、不思議と湿気に満ちている。湿った足音が、ゆっくり遠ざかっていった。ディオンは買ったものに籠に戻していく。薬草を手に取った時、ルルいなかったじゃんかカリーの嘘つきっと心の中で叫んだが、すぐに取り消した。人のせいなんかにして最低だ。アルトに少しでも抵抗ができないのは怖いのが何よりの理由だが、言っていることが正しいからだ。弱虫。ビビり。……いらない。

 ジエル中の誰にも誰かをバカにする権利はない。姉の言葉のように生きられないまま、落ちこぼれの道を行くのだろうか。自分は、バカにされて当然の人間のまま変われずにこの先も生きていくのだろうか。

 ディオンはしばらくその場から動けなくなった。森が湿った風に揺れてざわざわうごめく。もうすっかり夕日は沈み、夜の色が濃くなっていった。

  


   ***



「いくぞぉー! そおれええーっ」

 細かく刻まれた大量の、それはそれは大量の人参が鍋に流し込まれ、周囲から歓声と拍手が湧いた。おおよそ村人全員ぶんのスープを煮込む鍋を五人がかりで混ぜ込み、よーく煮込む。食欲をそそる熱い湯気が夜空に立ち上っていった。

 商人たちの客引きで騒がしかった市場は、テントがすべて畳まれて代わりにテーブルとイスが並べられた。子供たちが踊りを披露したり、大人たちはアルコールジョッキで乾杯し、村の音楽隊の奏でるアップテンポな音楽と街灯のおだやかさがすっかり村に浸透する。その様子に、女神像がいつもよりやさしい眼差しを向けているようだった。

 ディオンは誰とも話す気になれず、隅っこの方で立ち尽くしていた。夜は少し冷えるのでパーカを羽織り、ニット帽を被った。商人たちも加わって大人は皆顔を赤くしている。ヤイ先生は甘いアルコールの注がれたグラスをクロエ先生に渡したりして(狙っていることは学校中のみんなが知っている)、カリーもみんなの輪に入っていたし、ディオンより下の子供たちが走り回って誰かにぶつかっても今日は誰も咎めない。

「ほら!」

 急に目の前に現れたスープにびっくりした。髪を頭上で団子のようにまとめ上げた、エプロン姿のフウだった。

「なんで取りに来ないの。お腹空いてるくせに」

「……」

 無言で器を受け取ると「ありがとうはっ?」「ひっあ、ありがとっ」「よし」ディオンの隣にフウも立ち、スープを口に運ぶ。じゃがいも、人参、玉ねぎ、ニンニク、多種類のハーブなどみんなが育て上げた野菜たちと、ジーンがおまけしてくれた調味料。スプーンで一口すすると、香りが鼻に抜け野菜たちの旨みが一気に口内に押し寄せる。

「すっげーうまい!」

 思わず大声で言うと、フウは満足げに鼻を鳴らした。

「でしょー? あんた普段お肉ばっか食べてるんだから、今日はたくさん食べなよ」

「うん! ……フウ姉」

「んー?」

「さっきはごめん」

「何が? 買い出しありがとね」

 さらりと返されて、ディオンはそれ以上二の句がつげなくなった。姉のやさしさを感じながら、自分の情けなさが再び思い出される。

「俺さ、多分魔法学校に行くことになると思う。……そうなったら、ごめん」

「あたしは落ちこぼれなんて思ってないから、魔法使い」

「みんなも先生もそう言うよ」

「だから何? 関係ない。あたしは、ディオンが元気でいてくれればそれでいいの。外野が何言おうがどうでもいい。今までもそうやって育ててきたんだから」

 姉の瞳に祭りの光がゆらゆらと溶けていく。

 ディオンは両親のことを詳しく知らない。六歳の時に一度だけ尋ねたことはある。あんたのことを傷つける最低な二人だった、とだけ言ったフウは今と同じ、迷いのない頼もしい印象だったが、どこかその横顔が悲しい色をたたえているように感じた。フウはいつだって自分を最優先に想ってくれた。ディオンが見なくてもいいようにと、ディオンが考えなくていいようにと、その分色んな重たいものをひとりで背負ってきたのだ。それ以降両親については知りたいと思わなくなった。

 たったひとりの、家族。ディオンにとってひとりの、味方。

「姉ちゃんあのさ……ありが、」

「フウちゃーん! いたいた! 村長が呼んでるぞ料理班長さんよお」

 いつもの数十倍高いテンションで、ジーンがジョッキを片手にやってきた。「あんたいっつも飲み過ぎなのよ、弱いくせに」「フウちゃんも飲めよ、ほらよお」あきれながら差し出されたジョッキを受け取る。抱かれた肩越しに振り返り、

「なんか言った?」

「あ、いいや、あとで」

「そ?」

「なあそろそろいいだろお? 俺と結婚してくれ!」

「悪いけど酒飲みは嫌い」

 ジーンをあしらいながら、フウは祭りのにぎわいに戻って行った。ディオンは残ったスープを飲み干すと、おかわりをもらいに鍋へ向かった。

 鍋の横には木の箱をいくつも組み合わせ、幾何学模様柄の布で覆った大きなステージが設置されていた。二杯目を食べ終わる頃には、その上に一本のマイク前に村長とフウが立った。麦わら帽子に長いひげをたくわえた、もう二十年以上もゼイラをまとめ上げてきた長だ。

「さあ、みんな。今年もこうして無事に食物が育ち、収穫祭に至ったことを心から嬉しく思う。楽しんでいるかな? さて、今年の大鍋は、皆の畑で育った野菜たちと、商人たちが運んできてくれた物資で作った特製スープ。料理長を務めてくれたのはフウだ。ありがとう」

 拍手と歓声の中、フウは笑顔で村長の抱擁に応じた。

「今年の収穫祭は二十年目を迎えた。皆の惜しまない働きのおかげだ。そこで今宵は客人をお招きしている。皆に心の癒しを、そして、今後もゼイラの土に実りあらんことを」

 一礼して、舞台から降りた村長の代わりに、人間の女性が一人現れた。恍惚のため息が、特に男性陣から漏れた。

 婚礼の儀を彷彿させる純白のドレス姿。年齢はフウと同じか上か若い。胸まであるつややかな髪を、花冠とビーズがあしらわれたベールが覆っている。それを隔てて、夜闇のような漆黒の瞳がディオンたちを一望した。

 口元をマイクに近づけると、

「今後この村を、実りある土がますます豊かにし、皆さまの命を育みますように」

 深く息を吸い込み、メロディを紡いだ。

 圧倒されたのはディオンだけではないはずだ。ハスキーだけれどなめらかで、奥行きのある歌声は、皆の心を震わせ、綴られた詩はしんしんと染み込む。何より声色の美しさが感覚のすべてをやわらげ、心地よく、安堵を与えた。楽器はない、しかし歌い手の声だけで圧巻な舞台だった。

 

 太陽 大地の希望となれ

 月よ 皆の安息となれ

 母なる世界 ジエルよ 

 耕す命に 幸あらんことを

 

 あの女神が実在したらきっと、彼女のように歌うのだろうか。振り返ると、やさしい表情と目が合った。

 悲鳴が聞こえたのはその時だった。

 ふっと歌い手が口を閉じるのと同じくして、その場の全員がどよめいた。

「なに」

「今の、悲鳴?」

「ローティフルだ!」

 どこからともなく飛んできた警告に皆震撼する。

「ローティフルだ! 早くジエンターを呼、」

 何かがぶつかる鈍い音とともに声が途切れた。村の動揺はさらに大きくなる。思わず姉の顔を見るとステージから降りてきて「ここにいて、動かないで」皆にそう言い渡すとフウは歩き出す。

「誰かジエンターを呼んできて」

「ろ、ローティフルって、う、う、ウソだろこんな田舎に」

 その言葉にディオンを含め皆に恐怖の色が浮かぶ。しかしフウは顔色ひとつ変えずに、

「まだわからない、でもジエンターが来たらみんなを避難させて」

「フウちゃん待て、ひとりでどうする気だ」

「姉ちゃん!」

 ディオンたちの声を無視してフウは華やかに彩られた市場を進んでいく。

 そこで突然、フウの目の前に人間が現れた。まるで空から降ってきたかのように着地し、真っ赤な髪をした青年が笑みをたたえ立ちはだかる。悲鳴が周囲から上がった瞬間フウが拳を繰り出したがあっさりかわされ、そのまま蹴り飛ばされた。一瞬の出来事だった。

「フウ姉!」

「えー……っと、ゼイラ村? だよな? こんばんわ村人ども」

 みんなの足元でうずくまるフウを見て、青年はますます笑みを深めた。赤銅色の髪。Tシャツにハーフパンツ、ショートブーツと外見はどこにでもいるような若い男だが、凶悪な笑顔は確かに狂気を携えている。

「ハート」

「紅血のハートだ……」

「じゃあ、本当にローティフルが!」

 口々に伝染していく恐怖の中、青年だけが場違いに軽快な口調で、

「へっえー! こんなど田舎でも俺らのこと知ってるのかー。まあ有名になったこと」

「ジエルは小さい世界ですから」

 彼に答えたのは静かな女性の声だった。青年の背後からゆっくりとした足取りで、美しい女性が現れる。祭りの飾り付けみたいに色鮮やかな衣装を、腹部に金色の帯を巻きつけて着ている。その上品さには不釣合いなものを手に持って。

 無理やり引きちぎったかのような男の腕に、女性は噛り付いた。文字通り骨付き肉を頬張るように……口内が一気に酸っぱくなる。

 血狂いのサツキ。紅血のハート。殺戮集団、『ローティフル』の重鎮とされる二人だった。

「こんばんは。祭事のさなか失礼いたします」

 血や脂で口の周りを汚しサツキが微笑んだ。

「改めまして……私はサツキ・ミヤガと申します。こちらはハート・ヴァレイン。……ローティフルの者です」

 その名前が、ずぐりと黒い影を村に落とす。

「皆さまの貴重なお時間を頂戴しては失礼ですので、単刀直入に申し上げますね。……皆殺しにします」

 断末魔の叫びが皆の耳を劈いた。振り返ると、叫びの主の村長は側頭部を押さえていて赤い血が流れて落ちて一緒にぼとっと耳が転がって、続けて彼の頭が、人間の頭が、ザクロの実みたいにぐちゃっと髄液と脂肪骨脳みそとかをまき散らして潰れ、体が倒れた。

 それを皮切りに市場は混乱と恐怖に支配された。みんな一斉にそれぞれの方向へ走り出しディオンはもみくちゃにされて、フウがどんどん離れていき誰かの腕だかどこかが額に当たって地面に膝をつく。裏返った声聞いたこともない何て形容したらいいかわからない極限の恐怖が作り出す絶叫悲鳴、みんなで作ったスープがひっくり返され踏みつけられて土とぐちゃぐちゃになり、赤い血や、いつの間にか放たれた炎が村のすべてに燃え移っていく……ステージが人々の重みで倒れたりそこで誰かが飛び散ったり殴られたり切られたり食べられたり笑い声、体を燃やして暴れまわりそれを見て甲高い歓喜の声。二人が蟻の大群を踏んでいくかのようにすさまじい速さでみんなを殺していく。たった二人、なのに……あっという間に、走る人間より死体がどんどん増えていく。

 なんだこれ。自分の体が自分のものである感覚が消える。人が、人間が、みんなさっきまで話したり歌ったり酔っぱらったりしてたのに、今は首だけだったり血まみれだったり焼け爛れたり、目玉が飛び出てたり足が変に曲がったりなんか、なんでそんな人形みたい好き勝手遊ばれたみたいな姿に、

「どけえッ!」

 いっそう強い力で押し飛ばされて尻もちつくと、ぐしゃっと湿った音がして顔に何かが飛び散った。目の前に、アルトが立っていた。いつもの意地の悪い笑みはなく目を大きく見開いて驚愕してるような顔で、震える唇から赤い血がよだれと一緒に垂れる。その腹からは、人間の手が突き出ていた。

 アルトがこちらに倒れ込むと、その背後に血狂いのサツキが立っていた。血と脂肪でべっとりした指を一本ずつ舐めていく。

 アルトの血走った両目がディオンをとらえた。

「たすけ、て……ディオ……たすけっぎゃああああああ」

 サツキは恍惚の表情で、アルトの傷口に両手を突っ込んで肉をかき分けると赤くじゅくじゅくしたそこに顔を突っ伏した。

 その狂った所業にやっと自我のスイッチが入って、立ち上がり走り出すと何かにぶつかり物凄い力で首根っこをつかまれた。

「おいおい、どこ行くどこ行く?」

 ハートだとわかった瞬間ディオンの腹に衝撃が走った───アルトなど比にならない、背中まで突き破られたのかと思うくらい強烈な一発で、地面にうずくまり胃液を吐く。と、背中に踵でも落とされたのかさらに激痛、視界が歪んだ。前髪を掴んで顔を上げさせられる。

「そそられるなあ……お前いじめられっ子だろ? そういうツラしてる」

「みの……がして、」

「あ?」

「見逃して……くだ、さい」

 苦味でねばつく口を必死に動かして、

「お願いします……見逃してください……助けてください、俺、俺だけでも、おねがい、します。死にたくない……」

 ハハハハハハ! ハートの威勢のいい笑いが心臓をえぐるように恐怖をあおる。

「いいねそのクズさ! いたぶりがいがある!」

 ハートが自分の髪を一本抜くと、風になびく赤い毛が瞬き一瞬で銀色の針に変わったのをディオンは見た。それを突き刺されちくりと体のどこにと考える間もなく容赦なく殴り飛ばされた。像の足元に叩きつけられ、怖い、死にたくない怖い立ち上がろうと腕を立てようにも、思うようにいかない。どころか、全身のどの部分も全く動かない。

 腰に重みを感じる。馬乗りになったハートの手に、数本の針が光っていた。その背後、顔をアルトの血で真っ赤にしたサツキが横切る。

「ハート、遊び過ぎないよう。とくに子供は生かしておかなきゃ」

「へいへい、わーってるよ。……楽しませろよガキ」

 髪の毛から頬へ伝う血を舐めとり、ハートの口元は歪んだ。これから襲いくる、未曾有の恐怖にディオンはかろうじて動く瞼をぎゅっと強くつむった。

 しかし突然腰のあたりが軽くなった。怖くて怖くてその場で縮こまっていると、

「うちの弟に触るな、クソ野郎」

 聞きなれた声に、目を開けた。フウの踵が着地し、少し離れた場所でハートがうずくまっていた。針を抜かれると目に見えない拘束が解かれてフウに抱き起される。 

「ディオン! 逃げて!」

「……んなっ、そんな、フウ姉、」

「逃げなさい!」

 体だけでなく思考回路も震えて何もできないでいると、ハートが起き上がるのが見える。フウもそれに気づきディオンの両頬を挟んで、すがるように囁いた。

「お願い。あんただけでも……生きて」

 その言葉が強力にディオンの中に響いた。

 気づけば走り出していた。力の抜けた足で何度も転んだが這ってでも走る。背中に姉を置いて、周りにみんなを置いて、いくつもの悲鳴怒号血死体たくさんのあらゆるものを置いて、ディオンは走った。



 何かにつまずいてその勢いのまま地面に投げ出された。急に止まったせいか咳き込む。殴られた腹も背中も頬も激痛が戻ってくる。暑いのか寒いのかわからない、ただ汗で全身はびっしょりだった。

 横になったままあたりを見回す。静かな場所だ。虫の声も風の音も、何もしない。真っ暗。背中に、落ち葉と湿った土の感触だけ感じた。森? 村外れの……ザンビルの森……? 恐怖ですくみあがったのは一瞬で痛みに体を丸める。心臓が大きく激しく脈打つ。いくら呼吸しても息が切れる。どれくらい走ったんだ。ここが森なら村からそんなに離れてはいないはず。しかし、何も聞こえない。明かりもなく、あんなに綺麗に出ていた月も見えない。何の気配もない、闇の中にひとりディオンはいた。まだあの混乱がわんわん耳の奥でこだましてる気がして……

 逃げた。唐突に現実が頭をもだげる。逃げた。自分は、姉を置いて、みんなを置いて、自分だけ助けてって命乞いなんかして、走って走って走って……逃げてきた。事実が全身に行きわたると涙がとめどなく溢れた。最後に見たフウの顔、あんな苦しそうな……泣きそうな顔。

 生き延びてしまった───落ち始めた思考は止まらない加速していく───俺だけ生き延びた。逃げたから。俺だけ、俺だけ俺だけ……ゼイラは。みんなは。フウ姉は……!

 叫んで、拳を地面に叩きつける。ありったけの怒りと悔しさを込めているのにひびが入るどころかへこみさえしなかった。どんなに叫んでも、森の闇はそれを吸収し形を消していく。まるでディオンの無力さを証明しているかのようだった。

 絶望。それしか感じることができなくなり、首を落とした。

 そんなディオンの耳に物音が聞こえたのはそのときだった。

 顔を上げると、真っ暗な景色に白くぼんやりと光るものが動いている。こっちに近づいてきてるのがわかると反射ですくみ上がったが……白い、ドレス? よく目をこらす。

 純白の、大きな花があしらわれたドレスはあの歌い手が着ていたものだった。しかし、月光に一瞬照らされた顔に頬が引きつる。

「だ……だれ」

 着ていたのは別人だった。森に浮かぶ純白のドレスは一見不気味に思えたが、今それを着ている少女は骸骨を連想させるほどガリガリにやせ細り、頬がこけているためか大きな目がくぼんで見えた。

 戸惑っていると彼女が叫んだ。

「逃げて!」

「え?」

 力つきたのかディオンに倒れ込むように転んだ。声もあの歌い手だが、やっぱり容姿はまったくの別人だ。年齢も自分と同じくらいか、子供だ。あちこち破れて汚れた衣装が彼女をよりみすぼらしくさせていた。

「だ、大丈夫……ですか」

「……に、げて」

 息を切らして、細い腕でディオンにしがみついてくる。必死の形相に思わず後ずさりしていると、警報のような音が森中に鳴り響いた。あたりを見回しても真っ暗で何も見えず、その代わり妙な音が聞こえた。べちゃっと、水分を含んだ何かが落ちる音。べちゃっべちゃっ。やけに、大きく、近く。

 青く、不気味などろどろとした光が複数、目の前に佇んでいた。闇の中で炯々と光る青は炎のようにも思える。それが大きくなっていく……距離が、縮まるにつれて出で立ちがはっきりと浮かんだ。

 ヤイ先生の授業の落書きを思い出した。青白く発光した体は骨と皮だけでできていて、ほぼ力のない手足、毛髪はなく、鼻から下の皮膚すべてが外側にめくれていて鋭い牙がびっしりと生えていた。弱弱しく、地を這うような動作でこちらに一歩一歩近づき、その度あの不快な足音が背筋を震え上がらせる。

「死音……」

 呟いたのは、少女だった。それに呼応するかのように、死音たちが顔を上げた。授業で聞いた、唯一その生き物の面影であるはずの片目と目が合った瞬間、胸が何かに突き刺されたのかというほどの痛みが走る。人じゃない。他の種族なんて知らないけれどこれはとにかく、生き物の目ではない。恨み、嘆き、憎しみ、そしてなにより、悲しみ。今まで感じてきたどの感情より強烈で、ディオンは声も出なかった。息かできない、胸が詰まって、なによりも怖くて。

 胸の痛みに呼吸が浅くなる。恐怖のせいもあるが、息がうまくできない……まるで、泣き出す前兆のように。動きはゆっくりなのに、今からでも逃げられるはずなのに、どんなに速く走っても追いつかれる気がして、怖い。怖い。

 故郷はいいぞ故郷は。さっきからヤイ先生の顔がやたらと思い浮かんで、鈍く青い光を纏った目玉がディオンを見て、警報のような甲高い悲鳴を上げた。

 次の瞬間強い風が吹き付けて少女を抱きしめて目をつむった。

「死音か」

 低い、おそらく男の声がした。なぜか今まで全身を支配していた恐怖、混乱、不安すべてが、その一言で払拭された気がした。

 目を開けると一体の死音が何か鋭利なもので切り付けられたのか背中に裂け目ができていて、ぎゃあぎゃあのたうちまわっていた。そして呆然と立ち尽くすディオンと少女の間に長身痩躯の人影。風が木々を揺らしてこぼれた月の光でその姿が見え隠れする。

 鎧。そう思ったのも人影は、雪のように真っ白な肌をしていて、そこにまるで血管がそのまま浮き出ているような、赤い模様が全身に張り巡らされていた。人間じゃないことは確かで、でも種族を特定できるほどディオンは知識も思考も空っぽだった。そしてたくましい左腕には、彼の身長より高い高い、槍が握られていた。それを構え直すと、頭ひとつぶんはあるだろう大きな刃が白く光った。

 空気がぴしっと凍ったのを肌で感じた。死音の呻きもぴたりとやむ。

「空へ還れ」

 瞬き一回。槍が死音たちをいっぺんに貫くまでの時間だった。

 またあの警報のような甲高い絶叫が相次いで森中を駆け巡った。死音はそれぞれ抵抗するでもなく、悲鳴が途切れると、青い光が青い炎と化しそれに焼かれるように消え去った。静寂が戻ってきて、耳鳴りがきんきんと痛い。

「ここ数年……死音なぞ見かけなかったが……」

 跡形もなくなった場所から槍を引き上げると、こちらを向いた。さっきの一太刀でまた木々が揺れて、今度は顔が見える。体同様白い肌に赤い模様、鎧ではなく彼の肌なのだった。鋭く光る瞳は宝石みたいな赤色をしていて、おそらく右目しか機能していないだろう。左目はいくつもの大きな切り傷が潰し、赤く腫れ黒ずみ酷い色に変色してしまっていた。身に付けているのも、ボロボロの布きれを腰に巻き付けているだけだ。

 片目とはいえ睨まれ、ろれつが回らなくなる。

「人間……」

「ひっ」

 男の雰囲気が一変した。おそらく、さっき死音と対峙したときと同じ空気を感じた。……槍を、持ち直す。

 殺される。再び絶望感と恐怖が全身を支配する。男が槍を上げたとき「あの!」とっさにディオンは、自分でも耳を疑うようなことを口走っていた。

「助けてくれて、ありがとう!」

 殺伐とした空気が完全に停止した。殺気を帯びて標的を定めた男の槍も、小さい体がさらに縮みそうなくらい怯えている少女も、暗闇が支配する森も。

「……何?」

 男の怪訝な反応で我に返る。何言ってんだ、これから自分を殺そうとしている相手に。とんちんかんなのはわかっているものの、もう次から次への規格外の出来事にディオンの口は理性がぶっ飛んだのかぺらぺらと「しっ死音、ゼイラじゃ見たことなくて、お、俺学校の成績も悪いしあのまま殺されてたと思う、ありがとう。死音、やっつけてくれて」ははははと乾いた笑い。男も少女も、殺気も恐怖も消えてあっけにとられている……より、引いているかもしれない。

「ね……姉ちゃんが、優しくしてもらったらお礼言いなさいって、いつもきつく言ってたから。だから……姉ちゃん」

 言いつけを破るとこっぴどく叱られたけれど、たったひとりの、家族。

「……もう、会えない、けど……わかんない、俺死んどけばよかったのかな。そうすれば俺、会えたのかな……フウ姉に……もう一度……」

 言葉に勢いが消えて、代わりに涙が出ていた。怖いのか悲しいのか寂しいのか、自責の念なのかもう自分でもわからない涙だった。

「いま、ここで殺されればもっかい会えるのかな……姉ちゃんも、みんなにも……」

 そこで猛烈に瞼が重くなり、気がすうっと遠くなる。目を閉じる間際倒れ込む自分を受け止めたのは男の両腕だった。



   ***



 周囲がざわざわ騒がしい。視線をあっちにそっちに滑らせるが真っ暗で何も見えない。ざわざわこそこそ、大量の羽虫のように耳元を、いや頭の中を声が駆け巡る。

 こいつ、親に捨てられたんだって

      なんでこんなこともできない?

 黙 れ 弱い  うる  さい

            泣  く な

 誰のものかわかる声とそうじゃない声とごちゃごちゃで、耳を塞いでも響いてくる。

 あんたが元気でいてくれればそれで出来損ない

   ジエル中の誰も、誰かのことをバカにしていいわけない

 甘ったれ

     あたしの言ってることわかる         ?

弱虫

      いらない           いらない      声が、大きくなっていく。

いらない   いらない


 お前なんかいらない



「ぅわッ!」

 早くなった呼吸を整えて、周囲を見回して夢だったことを理解し、安堵の息をつく……いや待て。

 再び顔を上げて目を見張る。どこだここ。部屋じゃないのはもちろん、昨夜いた場所とは異なるようだった。森の中ではあるのだろうが、砂利ではなくディオンの尻の下にはほんのりあたたかい芝生が敷かれていた。見上げると、悪魔の羽根に見えた木々は陽の光をきらきら揺らがせ、おだやかな雰囲気を醸し出している。死音もいないし槍を持った男もいない、禁じられた森とは思えないところにディオンはいるのだった。

 もしかして、昨日のことは夢だったのか? さっきの悪夢以上の悪夢を見ていただけなのだろうか。ということは、フウ姉やみんなも! 期待に突き動かされ立ち上がった途端体中に激痛が駆け抜け膝をついた。「……ってええぇぇええ」特に痛んだのは腹と背中……こんなに痛い怪我今までしたことない。だってそうだアルトでさえローティフルの前じゃ人形同様あっさり殺されて……記憶は無意識に辿っていて、繋がり、最後フウの両手のぬくもりと声が脳内でひらめく。生きて。

 頭が真っ白になって動けなくなる……夢じゃない。夢なわけない。あんな光景、あんな……胃から酸っぱいものがこみ上げてきて口を押えた。

 その時、物音が耳にひっかかった。誰かいる。停止した思考回路がゆっくり動き出したのは、聞き覚えのあるものだったからだ。祭りで披露されてた……歌だ。ディオンはなんとか立ち上がり、自分の体を引きずるようにして歩き出す。腹に手をやったとき、長い草が包帯のようにぐるぐる巻きつけられているのに気が付いた。

 スポンジのようなふわふわした形の木々に包まれた道を見つけ、そこを進んで行く。耳を澄ませると、小鳥のさえずりと調和するような控えめな音量だったが、確かにあの歌だとわかる。導かれるように歩き続けると、少し開けた場所に出た。円形の綺麗な池があり、そこを囲むようにして草花が生い茂っていた。天上は目が覚めたときと同様木々が陽の光できらめいていて、あたたかい空間にいるように感じた。

 歌声の主は池の近くに座っていた。長い黒髪はボサボサで、異常に細い手足。薄汚れてぼろぼろになったドレスはあの歌い手のもので「あの」小声だったにも関わらず彼女は思い切り体をすくませて、振り返った。明るいところで見てもやっぱり外見が違う。少女だった。目元にクマがくっきり刻まれた不健康な目をこちらに向け、少女は後ずさる。

「あの、き、昨日の……」

 なんて言っていいかわからないでいると少女は身をひるがえし走り出した。しかしあっと声をあげる間もなくすぐ転ぶ。

「大丈夫?」

 駆け寄ると少女はすかさず距離を取った。震えている。あきらかにディオンに怯えていた。

「そんなに怖がんなよ、何もしないって」

 ディオンは手を差し伸べる。

「ほら膝が……血が出てるよ」

「うた……歌聞いてここまで来たんですか?」

「え? うん。誰かいるって思って」

「……ごめんなさい」

「へ?」

「ごめんなさいっごめんなさい、ごめんなさい」

 髪を前にかき集めて、まるで昨日着けてたベールのように顔を隠す少女。今にも泣き出さんばかりの声で何度も何度も謝るので、何かされたっけ?とぽかんとしてしまった。

「えっと……とりあえず、膝、手当てしないと。何か、ハンカチとか持ってたかな」

 差し伸べた手を引っ込めポケットを探ると何度目かの背中の痛みに顔をしかめた。そういえばこの包帯(草)、誰がやったのだろう。

「これ、きみがやってくれたの?」

「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」

「いやいや怒ってるんじゃなくてさ、」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「ねえ、」

「ごめんなさ、」

「もういいよそれは!」

 思わずカッとして大声になる。少女が黙りこくって髪の間からこちらを覗いてるのがわかる。

「ここどこ? 昨日いたあの男は? 森は? というか、ゼイラどうなったんだ? 昨日のアレ、本当に……」

 矢継ぎ早に質問を浴びせると、少女が震え出して、

「ごめ、ごめんな、」

「だからそれはもういいって! いったいどうなったんだ! 教えろよ!」

「そんなにしてやるな。怖がってるだろ」

 ざっと草を踏む音がして振り返ると、あの槍男が立っていた。悲鳴を上げて尻もちをつくと、

「悪かった。驚かせたか?」

「おっお前昨日っ……昨日のっ」

「ギルデラを見るのは初めてか?」

 ろれつが回らず言葉に詰まっていると、男は少し考え込むような仕草をして、両手をあげてその場に座った。

「それなら怖がるのも当然か。……大丈夫だ、この通り何もしない。まだそんなに動き回ると傷に響くぞ」

 目でディオンの腹部を差す。少女じゃなくて彼がやってくれたのだろうか。森でのあの猟奇的な姿と、目の前でこちらの身を案じている姿じゃ別人に思えた。頭がぐるぐるしたが、男の近くに槍は見当たらないと判断し、ディオンも姿勢を正しちゃんと座った。ありがとう、と男は言ったが距離は保ったままだった。

「俺の名はソルト。さっきも言ったがギルデラだ」

 なんとか正常に働いた記憶の引き出しを探り当て、ヤイ先生の音声付きで思い出す。戦闘民族と呼ばれ、ジエル上での数多の戦争で活躍してきた古い一族。雪のように白い肌に血のように赤い模様が刻まれているという。確かに男の肌はそれだし、昨日の様子からして間違いないだろう。

「ここは……」

「森の出口あたりだな。唯一水が生きてるんだ」

 森について詳しい口ぶりだ。言い伝えられていた森の化け物とは彼のことだったのか。

「ど、どうする気だ」

「どうって?」

「ここの森のことは昔から言われてきたんだ。入ったら甘い匂いのする化け物に、生血全部抜かれて永遠に森から出れなくなるって……お前のことだろっ」

「なんだそりゃ。おとぎ話じゃあるまいし」

「だって昨日俺らのこと殺そうとし、」大声になると腹部にじわりと嫌な痛みが広がり「……てたじゃ……うう、いって……」

「腹だろう。すごい痣だったぞ。骨折してなかったのが奇跡だ」

 こちらの反応を伺いつつ近づいてきたので身を強張らせていると「背中、触るぞ」一言置いてから背中をさすってくれた。彼の手はやすりのように硬く、岩のようにごつごつしていたが、やさしいものだった。

「昨夜から勘違いしてるな……殺そうとなんかしてない。死音を始末しただけだ。……ああ、そういえばいつぞやか会った人間たちがそんなこと言ってたな。そうか、ここに住んで五年ほどになるがそんな迷信が出回ってたのか」

 肩を落としてソルトが呟いた。森の言い伝えはディオンが小さいころから教えられてきたことだ。彼の言葉と、今のこの若干落ち込んでいる様子が本当なら、化け物じゃ、ない?

「あの後お前が気を失って、俺が彼女と一緒にここに連れてきた。……悪いな、寄せ集めのもので、手当が雑だが」

「……ありがとう」

 ぺこっとするとソルトは軽くくすっと笑った。「いや礼には及ばん。……煙草、大丈夫か?」「あ、うん」懐から取り出し、一本引き抜いてマッチで火をつけた。その気遣う姿勢と手当てをしてくれた事実と、おだやかな笑みにディオンの恐怖心が徐々に溶けていく。煙とともに紅茶みたいな甘い香りが立ち上った。

 改めて少女に意識を向ける。ディオンが見ると、びくっと身をすくませてうつむいてしまう。さっき大声で問い詰めたことを後悔する。

「きみは……あの、収穫祭にいた……?」

「……はい。そうです」

 申し訳なさそうに視線を伏せたまま、少女が頷いた。

「わたし歌で……各地を回って生計を立ててるんです。でもこんな身なりだから……魔法で姿を変えて歌わせてもらってました」

「魔法使いなの?」

 つい聞いてしまったが、胸を張って魔法使いだと自ら名乗る者は少ないだろう。少女もばつが悪そうに小さく頷く。

「祭り? ってことは、村の子供か?」

「そうだよ。ゼイラを知ってるの?」

「名前までは知らないが、たまに迷い込んでくる人間が村の話をしてた。それに祭事のにぎわいがわずかだが聞こえていた。俺にとってそれが時の目安だったからな」

 すると、ソルトが声色を変えて尋ねた。

「村に何かあったのか? でなきゃ死音が急に現れるわけがない。……奴らか?」

「奴ら……」

「ローティフルだ」

 低く吐き捨てた単語が現実をディオンのお腹に重く落とす。

「こんな奥地にまで奴らの手が伸ばされるようになったのか。逃げてきたのか、二人で」

「……あ、そっか……」

 妙に他人事みたいな相槌をうつ。

「昨日起きたこと、全部本当なんだな……」

「村はどうなった」

「みんな人形みたいに殺されてって、家がみんな燃やされて……姉ちゃんも、アルトも、先生も、みんなみんな、死んで」

 なんで自分だけここにいるんだろう?

 愚問が浮かんで、乾いた笑いが漏れる。さっきソルトも言ってたじゃないか、逃げたからだ。姉を置いて、逃げてきたからだ。

 鼻の奥がツンとして、視界がどんどん滲んでいく。泣く資格なんかないくせに、拭っても拭ってもどんどん溢れてくるそれをどうにも出来ない。腹が立って、拳で膝を殴りつけた。

 その手にそっと重なる手があった。骨ばった手……少女のものだった。ディオンのほうが大きいのにその小さな手は、何倍もあたたかかった。どこか遠慮がちに、けれどしっかりと体温を添えてくれていた。

「俺……逃げてきた」

 やっとのことで気持ちを言葉にする。

「みんなを置いて、姉ちゃんを置いて、ひとりで逃げてきたんだ。……フウ姉が死なないでって、こうやってほっぺ……それで、俺だけ、生き延びちゃったんだ……死ぬのが怖かった。みんなみたいに、殺されたくなくて……」

 四肢を紙みたいに切り裂かれたり、頭を果物みたいに潰されたり、狩られた動物みたいに生きたまま食われたり……ハートの笑い声が聞こえる。楽しませろよ、と自分の目を見て確かにそう言った。

「笑ってた。あいつら、笑ってた。笑いながら……楽しみながら、みんなをどんどん殺してった!」

 今まで生きてきたなかで、おそらく一番強く、強く拳を握り締めていた。

「許さない……絶対に許さないッ。あいつら全員……全員ッ」

「お前はどうしたい?」

 不意に投げられた問いに、ソルトを見返す。

「これから、どうしたい? 故郷はもうない。ローティフル被害者の為の避難施設に行けば最低限の生活はできるだろうが……お前が望むのはそれか?」

 望み。問われてすぐに心に答えが浮かんだが、口は閉じる。今まで否定され、嘲笑されてきたことだからだ。

 けれど。少女は手を離さないでいる。ソルトはまっすぐ目を見てくれている。どきどきと鼓動する不安を飲み込んで、口を開いた。

「強くなりたい」

 かねてから、ずっとずっと望んでいたこと。

「強くなって……あいつら、ローティフルの奴ら全員、倒したい……! ジエルから、消してやりたい! いや……消す!」

 沈黙が下りた。煮えたぎる怒りは勢いを失わず拳を固くしたままだったが、二人とも何も言わないのでさすがに不安がよぎる……弱虫……お前なんか……

「ゴーファンという街を知ってるか?」

 口火を切ったのはソルトだった。真剣な眼差しでディオンに問うた。

「ジエルの北『アマール・セゾン』にある、別名死音の街と呼ばれている所だ。今は、ローティフルの根城。……俺はそこに行くつもりだ。奴らには俺も、借りがある」

 ソルトはディオンと同じように拳を作った。そして再度、同じ質問を投げかけた。

「お前はどうしたい?」

「……行く」

 思わず立ち上がって、叫んでいた。

「行くッ!」

 ソルトは、笑みを深くした。

「それなら、俺がお前を鍛えよう。ギルデラが戦闘民族であることは知ってるか? いくつも戦争を乗り越えてきた。村の学校じゃ教えることもたかが知れてる。俺でよければ鍛える」

「……どうして俺に、そこまでしてくれるの?」

 いぶかしげに聞くとソルトが小さく吹き出した。ぽかんとしてみせると手を振って、

「いやいや、昨日のこと思い出してな。あの森で俺を見た生き物は皆、化け物って叫んで逃げていく奴ばかりだったが……お礼を言ったのなんてお前が初めてだ」

「ああ、あれはその、とっさに言ったことだけど……本当にそう思ったことだから……」

 またまた大きな笑い声を立てる。けれどバカにしているのではなく、なんだか嬉しそうだった。

「これも大切な縁だ。俺がお前を導く。……名前、まだだったな?」

 立ち上がって手を差し出した赤い瞳は、おだやかに光る。昨日の炯々としたものではなく、これが彼本来の色なのかもしれない。手のひらにまで刻まれた模様、握るとざらざら硬いもののあたたかい。

「俺はディオン・リック。よろしく! ソルト」

「ディオンか。よろしくな」

 握手を交わすと、次は少女に目を向ける。逡巡した後、思い切って尋ねた。

「きみはどうしたい?」

「えっ……わたし、ですか?」

「帰る場所はある?」

 なぜか驚きを隠せない様子で少し黙った後、少女は首を横に振った。

「きみがしたいようにしていいよ。避難施設に行きたいならそこまで送ってくし、無理に俺に付き合わなくてもいいから」

 少女はうつむき、髪で表情がわからなくなった。歳もさほど変わらず帰る場所がない境遇は自分と同じだった。不安だろうし、とてつもなく怖いと思う。ましてや女の子だ。なんとなく、彼女の選択は予想がついた。

 しかし、答えは意外なものだった。

「一緒に行かせてもらえますか」

「え! 来てくれるの? 俺に協力してくれるの?」

「わたし……役立たずだと思いますが、癒しの魔法が使えます。力に、ならせてもらえますか」

 喜びがあっという間に広がった。

「ありがとう! 嬉しいよ! 名前何て言うの?」

「シャラ・ファウスです。……よろしくお願いします」

「シャラ! ありがとう」

 あまり力を入れてしまうと折れてしまいそうな華奢な手を、ディオンはそっと握った。

「俺はディオン」

「ソルトだ。よろしくな、シャラ」

「……よろしく、お願いします」

 シャラは頭を下げた後、ぎこちなく頬を無理やり引き上げてみせた。笑顔を作ったのだと気づくのに少しかかった。

 胸が痛い。この痛みが消えることなど想像もできなかった。けれど、それなら激痛ごと歩けばいいのだ。少なくとも今の自分に残された道はそれしかないのだと感じた。

 この二人と一緒に。うつむくのはやめて、ディオンは前を見た。


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