チキンズ・ストーリー

黒澤すい

第0話 弱さの生きる場所

「お前なんかいらない」

 顔を砂利に押し付けられて耳元で叫ばれた悪態が、今日はいやにディオンの胸に突き刺さった。弱っちい、甘ったれ、根性無し、今までたくさんたくさん言われてきた。こうして殴られて蹴られて地面に踏みつけられることだって初めてじゃない。なのに、世界のありとあらゆる明かりが消えて目の前が真っ暗になったようだった。奴らがジュースをディオンの頭にかけたのを最後に帰って行って、周囲は静まり返る。

 ここは武術学校から少し離れた空き地で、よく学校帰りに生徒が組手を組んだりしているので、四人が寄ってたかって一人を叩きのめしていてもそれと見分けがつかないのだ。……いや違うのかもしれない。ここを通りすがる人はみんな少なからず、見て指差し笑っている。立ち上がるとジュースが頬を伝って口に入り林檎と砂と血の味がした。

 家に帰ると、姉のフウはいつもみたいに顔をしかめて、救急箱とタオルを持ってきてくれる。

「アルトのやつでしょ。あいつ虫とかそういうちっちゃいことでびびるくせに図体だけはでかいから、それ振りかざしていきがってんのね」

「フウ姉」

「なに?」

 口を開くと涙が出てきた。これもいつものこと、フウはため息をついて髪を拭こうとしたが、

「いらないって言われた」

 その手が止まる。タオルを被せたまま、顔を覗き込んでくる。姉のそのまっすぐな目に、ますます涙が出てきた。

「弱虫とか、甘ったれとか、さんざん言われてきてさ俺、慣れてるのに……本当のことだから何も言い返せなくて、当然なんだけど……い、いらないって、いらないって俺……そうなのかな。学校でもいつもビリでさ、毎日ボコボコにされてさ」

 顔をくしゃくしゃにすると傷が沁みて、その痛みが余計に自分の弱さを突きつけるようで。

「こんなんで、俺、このさき、生きていけんのかな。いらないのかな、俺みたいなやつ」

「ディオン」

 強いけれど決して乱暴じゃない、そんな動作でフウは頭をぽんっと撫でた。

「バカにされるのに、慣れるなんてだめ。確かにあんたは学校じゃそんなかもしれない。でも、それがあんたの全部じゃないの。あんたは、どんな人でも、きっとどんな種族でも、困ってる人がいたらすぐ手を差し伸べられる手を持ってる。こうやって自分をいじめる相手にさえ笑顔を向けることができる」

 わしゃわしゃとタオルで髪を拭きながら、

「ジエルでは肉体的な強さが生きる要になるけど、そればかりに気を取られて、ディオンのそういうところが消えていくのはあたしは絶対に嫌。それでも悔しいと思うなら、ゆっくりでいいの。周りの声なんかに耳を貸さなくていい、ディオンのペースでいい。自分の心を守れるように、その努力をしな。あんたはバカにされていい人間じゃない」

 フウの目が自分の目線まで下りてきた。ディオンと同じ、はちみつ色をした瞳。

「ジエル中の誰も、誰かのことをバカにしていいわけない。……あたしの言ってることわかる?」

 頷くと、今度は顔をわしゃわしゃされて「痛いっ姉ちゃん痛い痛い!」「泣いてばっかいるからすぐお腹減ったって騒ぐのよ」タオルをどかすと、フウは笑っていた。

「手当てしたらごはんにするよ。体流してきな」

 フウは強い人だった。武術学校でもトップクラスの成績で、誰かとの組手で彼女が負けたところを見たことがない。村で何かトラブルが起きた際にもジエンターが駆けつけるより早く事を納めることができるのだった。

 それなのにフウは、ディオンを一度も「弱虫」などと罵ったことがなかった。色んなことで叱られることはあったものの、もう十四歳のくせして毎日のように同級生にボコボコにされて泣きながら帰ってきて、情けないとか男のくせにとか一度は言ってもいいはずなのに。

 フウはディオンにとって、たったひとりの家族だった。両親は自分たちを酷く虐待する人間だったらしく、フウが赤ん坊だったディオンを抱えて逃げ出してきてくれたのだ。それから色んな人の助けを経てこのゼイラ村に来たのだと。ここまで育てて、守ってきてくれたのは紛れもないフウで、そのことに深く深く感謝していた。……なんだか照れくさくて、今の自分が情けなくて、お礼を伝えたことはないけれど。

 いつかちゃんと言えるようになりたいなあと、風呂場に向かう。シャワーを浴びるとあちこちの傷に沁みたが我慢して、髪を洗おうとかがむ。自分の足元に流れていく泥に交じって、微かな血が排水溝に吸い込まれていくのが見えた。

 

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