明治から西南戦争までの動き

  明治に入り一度新政府と、距離を置くが、結局1年ほどで中央政府に戻される。その当時、明治政府内は混乱しており、長州の広沢真臣ひろさわさねおみ、や大村益次郎も徴兵令のごたごたで暗殺されました。

 新政権の要人が内ゲバで命を取り合うのは、フランス革命でもあったことで、これは不平士族の行動というより、内部対立の結果とみるほうが良いと思われます。

 元々考え方完全に一致したもの集まりではなかったため、新政府の手ごまに使われた後に、始末された人物、部隊も多く存在しました。


 その後問題山積の最中に、新政府の文人派の人々が、西洋に今後の日本の手本を求めて、外交の不平等問題の解決のために国を留守にすることになります。

 わからないでもないが、残ったのが実務はできるが、外交に行った派閥とは距離を置く人物が多く残る形になり、有名な征韓論せいかんろんの問題が持ち上がります。


 西郷の座右の銘は「天敬人愛てんけいじんあい(天を敬う、この場合のテントは天皇のことなのか、天命にかかわることなのかはわからない)」という言葉とは、似つかわない行動に出ます。

 征韓論の先方として半島に赴くという決断をします。しかし、帰ってきた「国を改革する」派閥の巻き返しで、彼は職を辞し、鹿児島に戻ります。


 鹿児島に戻った後の彼の行動は、全く政治や社会の行動から距離を置いた状況であったが、元部下たちの不満を抑えられなくなり、兵をあげる。西南戦争と言われるものです。


 しかし、軍事にも軍議にも興味を示さず、他の人たちにすべてを託し、流されているように見えた。そして最後は城山しろやまにて最期を遂げることになります。


 前回の禁門の変から戊辰戦争の行動とは、全く同じ人物と思えないほどの流れ、ながされ、まるで死に場所を探しているような後半生でした。


 享年は51歳と言われているがこれは、昔の暦の換算で、現在の換算だと、49歳になるらしいです。しかし50年の人生の中で、どれだけ表舞台や、裏工作で活躍していたかと言えば、3分の1もないのが、不自然で、その期間も細切れであるのには何かの意図があると考えてしまいたくなります。

 自分なりの考えは、次回の考察において買いたいと思っています。

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