結論 私見として考える大西郷とは?
最初に、散々この章で言っていた事は、「大西郷」と呼ばれる人の不自然さです。
活躍する期間と、全く表に出てこない期間がありすぎること、同じ人間なのに、仕事内容が一定しないこと、元々は農政の庶民の生活を間近で見て動く、下級公務員のような仕事から始まって、他藩との交渉に使われたり様々な裏工作をしたりと、そして禁門の変から戊辰戦争までは、一軍の将であり、外交もこなす、昔風にいえば、武将、明治以降は逆に、時世やほかの人の行動に流されて、自らという存在をなくした世捨て人と、こんなに複雑な生涯を送った人はいないだろうというほどの波乱万丈の人生です。
しかし、彼の元々の本名は「隆永」だったはずです。そして三番目の弟の本名も「
明治になって通称と諱で名前が違うと不都合があるという名目で通称と、諱のどちらかを選んだ人は多く居ました。
またこれを機に全く名前を変えた人も多く存在します。長州の木戸孝允(元は桂小五郎)、
元々隆盛は父の諱であり、兄弟を諱で並べると、吉之助隆永、吉次郎隆廣、信吾隆興、小吉隆武となります。なぜ西郷家は簡単に名前を変えたのでしょう?隆永(大西郷)と隆興(小西郷)は書類上の不手際だったといわれていますが、なおさらわかりません。
そして活動期間も父である隆盛から西郷が家督を継甥でから、表に現れるのは1853年から1868年の篤姫の嫁入りから
ここまで私は言うのは『大西郷という人物は実在したのか?』ということなのです。何を馬鹿なことをというかもしれませんが、彼という存在は、
彼の行動偉業は明らかに、
そんな人物おらんやろと言いますが、実際『
元々は差大西郷と呼ばれる人物の父を恐らく英雄にしたかったのではないか?とは思われますが、城山で自決した最後の一人が父の場合年齢は70歳を超えてしまいます。
明治に入り徐々に平均寿命は上がっていきますが、それでも明治では信長が
江戸時代でも40過ぎると隠居をし、身代を子供に譲るというのが普通だった(都市部のみ、農村部は働けなる=労働力じゃなくなるのだからもっとひどかったかもしれません)
ですから父の吉之助隆盛でなく、長男の吉之助隆永を神格化しょうとしたというのでしょう。問題はこの人物たちも、本当に一族だったのかについても不明瞭なものがあります。大西郷も小西郷と呼ばれた信吾従道も名前にこだわりがなかったのではなく、後付けでその名前になったし、矛盾の回避のために名前の話が出来たと考えれば、つじつまは会います。
西郷が遠島の間に妻を作りその人物が、上野の西郷像を見た時に
「うちん人はこげなひとじゃなか(私の旦那はこんなひとじゃない)」
という言葉にも意味が通ります。あの像は元々小西郷と呼ばれた従道と、西郷の従兄弟と言われている
西郷伝説については、戦前、戦中の教育を受けた人間と、戦後教育を受けたもので全く教わった人物像が違うようです。つまり「創られた英雄」なのです。
「英雄の死は悲劇的である」といわれますが当然な話で、その人は後付けで作られた人物であり、その人物は歴史が必要としなくなるとあっさり捨てられる。そういう運命になるので、悲劇的になるのだと思っています。
西郷の師として有名な島津斉彬は幕末の藩主としてはとても写真にとられることが好きな人物でしたが、その配下の西郷の写真がない(裏工作をしていたとしても)明治以降は存在しておかしくないのに、それもないというのは、存在を疑いたくなるとしか言えません。
これが私がずっと何十年も考えて出した。西郷隆盛伝説のからくりだと思います。
また西郷についてはこんな話がありました「ロシア皇太子の来日時に西郷がどうこうして帰ってくる」というものです。そんなことになったら西郷は一体いくつなんだという話になりますが、それほど薩長藩閥内閣に対して不満を持つ人間が明治期には多かったということを考えると、その状況を打開できる英雄を様々な人が望んだと考えると、理解はできます。
いつものこの話は私が考えた私説、推論であり、本当の人物と関係するかは全く考えずに書いています。ご了承ください。
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