安政の大獄と将軍継嗣問題の中での西郷
家定には島津家からのちの
初代家康から七代の
この場合は一四代目の将軍をだれにするのかという話になるのですが、その当時は
それによって、十四代将軍は血筋が近い紀州の
西郷は、この状況で、慶喜を押す派閥に藩主である
父親も勘定方という内務の中でも会計を中心とした仕事についており、彼自身も外回りの内務畑の人物でしたので、中の人が変わったかのような配置転換になります。
西郷が父から家督を継いだのが一八五三年であり、同年に天璋院篤姫の嫁入りがありますが、彼が島津斉彬に
彼女は斉彬の養女ですが、親類筋の島津家の娘からの養女ですので、関わる可能性は低く、江戸城明け渡しの時に天璋院の書状で態度を変えたというのも、会った事もない、ただ斉彬の養女であるというだけの人物、あの時代の女性は嫁いだ後は夫の家に入るものという考え方からも、江戸城開城まで、接点もあり得なかったはずです。実際西郷はほとんどが遠島中であり、そんな人物がいたことも相手が知らなかったというのはあり得るでしょう。
一八五四年から彼が越前や水戸の重要人物とあっていたというのも、二十代半ばの口下手な人物を、学問を
ですから外交の
しかし一三代将軍の徳川家定はなくなり、幕府は非常事態ということを宣言し、彦根(旧佐和山城の近所)藩主、
性格的にも、思想的にも直弼という人物は、水戸の派閥に近い人物でしたが、彼は阿部正弘のとった、「広く世に意見を聞く」という制度を取り下げ、昔からの、幕府のことは
そして十四代将軍は紀州の
その当時江戸にいた西郷は処罰される人が増えたため、月照を島津藩まで連れて逃げようとしたとされていますが、その間に藩主である島津斉彬の急死と、新藩主に斉彬と藩主を争った
当然、斉彬派だった月照や西郷の居場所はなく、彼らは月照の国外退去の船の上から海に身を投げたとされています。
普通に心中の場合は、生き残ったほうが悪者扱いにされるのがあの時代の感覚らしく、なぜ西郷だけ生き残ったのかわかりませんが彼は、藩の意向で遠島とされます。
このあたりからなにか、芝居じみた伝説が西郷にまとわりついてきます。明治の
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