大西郷の生い立ちと生涯主君とした斉彬との関係

 有名な話ではあるが「西郷隆盛(吉之助隆永)の写真は残っていない」、彼の主君であり、生涯しょうがい彼がうやまっていた島津斉彬しまづなりあきらは西洋に深い造詣ぞうけいを持っていたので幕末においては、斉彬ほど多くの写真を撮った人間はいないといわれるほど、自分の写真が多く存在する人物に仕えていた割には意外である。

 これは西郷が自分の裏方としての交渉や工作に不都合をあたえないため、明治になってその写真から過去を知られることを恐れたためとも伝わっているが、だとしたら、名前を変える(木戸孝允きどたかよし海江田信義かいえだのぶよし)のような方法もあったはずだが、それを行っていない。

 西郷という姓に固執していたかというと、彼も他の志士と呼ばれた人物と同様に「菊池源吾きくちげんご」という変名も使っている。


 彼は1828年生まれで1842年に元服しているので、その当時は両親が健在であったため、隆永たかながといういみなを受けている。

 大西郷の父は勘定方かんじょうがた(経理部のようなもの)にいた人物であったらしいが、なぜその子が斉彬の小姓になれたのかがわからない。

 そして1844年に父と同じ勘定方ではなく郡奉行こおりぶぎょう配下として、内勤組ではなく領民と直接かかわる部署に就く。

 これは彼と後に並び称される大久保利通おおくぼとしみちの通った内勤、外交部門とはまた違った道になっている。ここまであからさまに2人の人間が、正反対の方向に進むのかと思うほどに全く違う方向を向きながら、最終的に同じ方向に向かっているというのも興味深い。


 1550年、藩内の高崎崩たかさきくずれ(別名 お由羅ゆら騒動において、藩内の重臣ある斉彬派の人物が粛清しゅくせいされるのだが、これに彼は反感を持ったといわれている。

 しかし勘定方の父を持ち、藩内の状況を見ていた彼が、なぜ斉彬の宗祖父そうそふであり豪胆でお金の使い方の荒かった島津重豪しまづしげひでの気風を良く継ぐ斉彬に傾倒していった理由がわからない。彼の借財のためにその後二代の藩主と、勘定方にいた父が苦労をしているのを彼は知っていたはずであるのに、彼は斉彬派として行動している。


 1852年彼の父と母が相次いで亡くなるが、その後、家督を継ぐ。のちの彼の行動を見るなら、明らかに目立ってはよくない、他藩と交渉、13代将軍の徳川家定への天璋院てんしょういん篤姫あつひめの輿入れの裏交渉の関わっていたとしたら、明らかに目立ってはいけない人物なのだが、それと真逆の人物になっている。

 なぜ彼が斉彬にここまで引き上げられ、他藩の重役連と家督を継いで一年の人物が働けていたのかが、とても不可解である。


 最もこれらの話はどこまで本当かがわからない、ただ読み聞きしている時点で何かな気がする。

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