中国四大奇書 2‐3 三国志 何を信じればいいのだろう

 中国の歴史は「次の王朝が書き編纂する」とネット上で強く言われたことがありますが、なぜ今回のように混乱が生じるのかを考えてみます。

 始皇帝が治めたしん、晋やずいとうきんしんなどは正直どうでもいいと思っていると考えるというのが、その答えでしょう。

 中華(中原)にその祖がない国は、中華思想には含まれないのがあり得る答えとなります。隋は20年足らずで唐に禅譲ぜんじょう(皇帝位をゆずる)行動をしていますし、唐が楊貴妃ようきひという女性に入れあげて滅亡したのも、周王朝、殷王朝と全く同じパターンです。中原にいた人たちにとって彼らは蛮族の後継というの正しい認識なのでしょう。


 宋の時代に、「頭に赤い布を巻いた人たちの反乱」があったそうです。「紅巾こうきんの乱」というそうで、どこかで聞いたようなお話の気がします。

 問題はどちらが元ネタなのかということです。宋の時代は正史三国志を改訂かいていした裴元紹はいげんしょうもいますし、宋代のことから、漢の滅亡の予兆とした可能性はなくはありません。

 

 後漢に都は洛陽らくようとされていますが、その位置は非常に大変な位置にあります。三国志のゲームや地図を見た人ならおわかりのように、洛陽の北の部分がえぐれるように書かれています。あれは山や湖などの自然があるわけではなく、あの部分には彼らが「胡族こぞくという北荻ほくてきという異民族が存在しています。これは西涼せいりょうと言われる地域が、現在のモンゴルかかっていること、東夷とういと呼ばれる勢力が半島からその北に存在していた事と同じく、異民族の国家のあった場所です。


 前漢ぜんかん高祖こうそと呼ばれた劉邦りゅうほうの時代、彼は北方の異民族に悩まされていた(有能な人物を亡き者にしているんですが…)ということがあり、山に囲まれた長安ちょうあん(現在の西安しーあん)に都を構えています。


 北方の異民族ということは当然になりますので、黄河を背水に置く洛陽は危険な都であるとするのが妥当でしょう。

 実際宋代の都である開封かいふうはその位置を黄河の南に位置させ、黄河を天然の堀(と言っても対岸の見えない距離だから理論上6km以上離れているはず)ですので、それは理にかなっています。実際に北方の民族であるのちに「金国」と称される国に揚子江の南あたりまで追いやられていますからどこまで防御効果がったのかはわかりませんが、意味はわかります。


 とにかく正史三国志は、のちの加筆もあり、同時にフィクションである三国志演義からのフィードバックもあるようなので、どこまで信用できるのかは不明です。


 「歴史は生き残った者がつくる」この言葉が重すぎて、どこまでが正確なのかが全く分からないというのが感想です。

 晋ののちは「五胡六国ごこりっこく戦国時代」という戦乱の時代を過ぎているのでは、たしてその正確な歴史もどこまで伝わっていたのかがわからない、というのが実情になります。

 

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