中国四代奇書 2-2 正史三国志に対する不信点

 中国の正史とされてる「三国志」の最初の作者は陳寿ちんじゅと言われています。この陳寿に対する人物像がよくわからない。益州えきしゅうの出身ということは、蜀の大半を占める範囲、元々は劉璋りゅうしょうと呼ばれる人物が治めてころに、劉備軍が侵攻する形となり併呑したというのが、実際のように見えます。


 劉備を主人公とする三国志演義においては彼を、聖人扱いをしてますが、実際のところどこまでが本当なのかわからない人物というのが実際です。

 劉氏の松を名乗っていますが、その人物は100人以上子供がいたとされる人物なので、どこまでが本当が、本当にその血族なのかは不明です。

 黄巾討伐こうきんとうばつ以来、彼は様々勢力と関わります。公孫瓚こうそんさん劉焉りゅうえん(劉璋の父)、董卓、陶謙、袁紹、曹操、劉表と、これらの人と関わりながら蜀を建国したとことになっています。

 中には裏切る形で逃げた相手もいますので、その範囲が広いと同時に、彼についていかなかった人物も多かったことから(徐州における陳珪ちんけい陳登ちんとう父子や、のちに魏国で政治能力を振るう陳羣ちんぐんなど)、どこまで高簾こうれんと呼ばれたかはわかりません。

 ただ、元々の劉備の子飼いから、徐州じょしゅう閥、刑州けいしゅう閥、そして益州えきしゅう閥とあって、その対立は大きかったといわれています。

 ちなみにのちに丞相じょうしょうと呼ばれた諸葛亮は徐州生まれの荊州育ちですから刑州閥になります。

 益州生まれの陳寿とは派閥の違いもあり、その生年が233年と、諸葛亮の亡くなる1年前であったために、ほとんど面識はなかったと思われます。

 

 また晋の時代に書いたとされる、彼の作内では、諸葛亮と同時に、司馬懿も悪人として書かれています。晋の司馬炎しばえんの祖父である人物を晋の時代に批判するものです。

 中々恐ろしいことをするものだと思い、司馬氏について調べると、秦の建国にかかわった人物とあります。

 ここで何かが腑に落ちます。司馬氏も陳寿も中原という範囲の人間ではないということです。となると、史記の著者とされる司馬遷しばせんに対する扱いのひどさ、などがわかる気がします。

 中国史は中原と呼ばれる土地に生まれた人間を祖とする国は持ち上げています。逆にそれ以外の地域の人は見下します。


 曹氏と劉氏、孫氏にたいする、陳寿のものとされる、亡くなったときの記述が、

曹氏は「崩御ほうぎょ(皇帝の亡くなったときの文字)」「劉氏は薨去こうきょ(えらい人物の亡くなったときの文字)」「孫氏は死去(単になくなったという意味)」の3つに分かれます。それによって、彼が書いたとする正史は曹>劉>孫だったということがわかります。


 ここで問題になるのは「益州出身の陳寿に正史を書かせるのか?」ということが上がります。明らかに不適格な人物の人物を何故名前だけだとしても使用したのかという疑問が生じます。

 陳寿の書いたとされる「正史三国志」も一度紛失したのちに、発見されている事。

唐の時代に書かれたとされる晋の時代の歴史書「華陽国史かようこくし」というものに、相互間矛盾が生じていることから、元々の設定であるという行為の正当性に対する矛盾になっています。


 さてどこまでを信じてよいのかわからなくなってきました。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る