一つの考え方と、多くの考え方

 一神教と多神教の成立過程について私の推論にて語らせていただきます。


 一神教は1つの神を信じる宗教ですので、元々の信仰の対象が何か一つの存在であったのは予想されます。

 予言者ノアによるエジプト脱出以降、その次の予言者アブラハム(エイブラハム)と呼ばれる人の間に、この一神教という形が宗教だったとして成り立ったのだとしたら、仮定ではありますが元々は「太陽信仰」だったと思われます。


 中東の今の気候は一日の寒暖かんだん差が激しく、日中は肺音を超えるほどの高温で、太陽が沈むと氷点下に迫るほどの気温にまで落ちます。

 その状況で何かを信じるとするなら当然太陽を人事ることになるでしょう。これは究極の二者択一なんですが、夜ばっかりの状況では作物を育てることもできず、暖を取ることも欠かさない状況になります。その状況をとする自信は私にはありません。

 だとしたら太陽の久志が強かろうがそれを信じるしかない状況にあったのでしょう。ですからよく言われることに「一神教の人は白黒の二択をせまる」というものがあります。


 逆に日本のように自然が豊かで、様々な恵みにあふれている国は、その人のいとなみによって信じるものが変わってきます。

 農業なら、太陽と土地、漁業なら海と嵐などでしょうか?採集民なら自然の恵みに感謝することになり、立場によって信じるものに変化が現れます。

 俗にいう「アミニズム(自然信仰)」なんて言われる形になります。


 多神教において信仰の違いは、「立場の違い」でしかありません。その為に別の神を信仰する相手の立場と、自分の立場を考え、妥協点を模索もさくします。

 日本の外交ははっきりしない、なんていわれるのはこの妥協点を探っているからだと思われます。一神教には味方か敵かという立場しかないので、この場合の妥協を「悪魔に魂を売るに等しい行為」ととらえる人もいるようです。


 グリモワールという書籍がありますが、あれは元々魔術書であったわけでなく、そこに出てくる、サタンを含む悪魔と呼ばれる者たちには、元々モデルがあります。

 ベルゼブブと呼ばれる「ハエの王」なんて言われる存在は、元々は別の宗教におけるベルゼブル「丘の上の王」をスペルをいじって名付けられていますし、 マドークなんていわれる存在も、元々は別のマルドゥークをもじったものです。

 今でも続くフランス人の他の人たちに対する言葉遊びの結晶が18世紀に書かれた「グリモワール」であり、その内容は子供の頃に読んだ「妖怪大辞典」なんかと同じようなものです。


 サタンは英語やラテン語においては単数形で表現されるのですが、アラビア語においては「複数形」も存在する言葉です。どういう意味なのでしょうね。

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