私はなぜ古代史を信用していないのか?

 自分の私論っては全部ここに帰結きけつする。今回の場合は西暦1000年前後と言われる時代、他学問的の計算で行った日本の人口は700万人で平均寿命は25歳とされている。この場合、日本の人口が、おそらくその当時の平安の政権だけでなく、日本全体にいた人口であると考えられる。

 また平均寿命が圧倒的に低いのは、子供が生まれて成人する確率が低かったこと、同時に医学、衛生学が発達していなかったことから類推される。


 で平安の都は何人の人口を支えることができたのか?っていう話になる。それを考えるうえで、平安時代の京都の政権がどのくらいまで徴税権を行使できたと考える。

 平安時代の歴史を読むと東の征伐と、その戦果の記録が残っていたりする。それを見てもわかるのだが平安時代初期は明らかに東国と呼ばれる国は政権の外にあったのがわかる。下手をすると平将門たいらのまさかどっていう人が、その当時の関東を収めていた王であり、将門記は、それにつじつまを合わせるために創られたもの、藤原純友ふじわらのすみともだってその当時の瀬戸内から九州を収めていた王の話の可能性が高いと思っているからである。


 なぜそういう考えになったのかというと、日本において「軍記もの」という分野が出来たのが「白河院政期しらかわいんせいき」以降とされている。ざっと西暦1050年以降、藤原障子ふじわらのしょうし(藤原道長の娘とされる人物)が京都の政権を「ゴッドマザー」として動かしていた時代の、あとの時代からとされている。そうなると1000年より前にあったとする「将門記」の信用性は後の江戸時代に著作された「太閤記」や「仮名手本忠臣蔵」レベルまで落ちる。


 では平安時代とされる時代に京都にどれだけの人が生業なりわい(せいかつ)を安定的に送れたのか?という考えになる。鴨川の問題もあるし、単純に食料の問題、徴税したものを安定して京都までどれだけの範囲で輸送が可能だったのか?ということになる。


 ちなみに私が学生時代に古典文学の授業で平安時代(多分、更級日記か伊勢物語だったと思う)の授業中に、先生が、「これを書いた人の中では尾張おわり(西愛知)は近国(近い国)、三河みかわ(東愛知)はそれ以外の地域と認識されていたらしい」との見解を述べていた。

 そう考えるのその時代の近国の定義が、大きく権力をふるえる範囲として考えてよく常識的に考えて、大きな川の向こうの人間をその当時の軍事力で従えられるか?っていう考えが浮かぶ。


 じゃあ、洪水やそれにともな赤痢せきりや天然痘が起こりやすい、京都という土地に400年も一定数(国の運営を出来る最低限の人数)が置けたのかという疑問につながる。


 そのうえで最も大きい疑問要素に、明治時代から戦前においての「天皇家は万世一系ばんせいっけい(早い話が直系)」っていう考え方と。神格化教育があった。

 そこで明らかにそれ以前の歴史は政府の都合の良いもの置き換わっている。私が良く言う『歴史のフィルター』ってやつである。

 そして戦後もう一度その『歴史のフィルター』を通ってきたのが現在の歴史と言われるものである。

 私はそのほかにも「乙巳のいっしのへん」や「壬申しんしんの乱」、「南北朝統一なんぼくちょうとういつ」の最低でも3回の歴史のフィルターを通っていると考えている。

 なぜなら徳川光圀が編纂したとされる「大日本史だいにほんし」においての記録でも、南北朝の話までしか存在していない。

 だから日本史、特に古代日本史なんて言うのは、「そうであったであろう」と言う仮定の中で最も信じられる話というだけで、それが実際の出来事だったかはわからない。


 最後に個人的な意見です。こういう話の中で、一般論というものを「すべて正しい」というのではなく、こんな考え方も可能であるっていうのを、統計学や、自然科学、遺伝学なんかから「異説いせつ」として書いています。

 ですから、こういう話もあるよね程度の話を「陰謀論」的な話にするのはやめてくださいね。

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