異伝 たけとりものがたり

「今は昔。竹取の翁というものありけり、名をさぬきのみやつこといふ。」竹取物語の古文にってか書かれたものの冒頭です。

 この人物は山に入り、「たけをとり」生計を立てていた人物とされています。


 彼の名前をあえて漢字にしてみると不思議な「讃岐の宮仕え」という風に読めてしまいます。讃岐は今の香川県で、うどんと金毘羅宮こんぴらぐうで有名な地です。金毘羅宮に近い場所には琴平ことひらという地名があり、なにかの関連を感じずにはいられません。


 ある程度古い時代(およそ室町時代以前)においては、紙を使って文書を残すというのは、それなりに才能が必要です。文字を書くこともそうなのですが、書き文字と、読み方が一致したのは明治以降であり、言文一致げんぶんいっちの文章が書かれ始めた時期は正岡子規まさおかしきの時代頃からだといわれています。


 つまりそれ以前の言葉は、言っている言葉と書いている言葉が違っていたということです。「〇〇でそうろう」などと書かれている古書や手紙がありますが、あれと同じ言葉を使っていたわけではありません。

 今でも正式な手紙を書くときに、冒頭に時候の挨拶をつけますが、そんな長ったらしい冒頭の言葉を使い話すことはありません。精々「最近はご無沙汰をしています」やそれをもっと丁寧に話す程度の言葉であっても本当に使われる場所が少なくなってきたことと思われます。


 竹取のおきなの名前にこだわったのは、その翁の仕事が「山に入りそれを生業なりわいとしていたからです。

 これは本当に竹をとっていたのでしょうか?考えたときにある推論が浮かびました。翁と呼ばれる人の仕事は元々讃岐さぬき阿波あわを中心に勢力を持っていたものを倒した後に、そのを討伐していたのではなかろうか?と考えると、かぐや姫のから生まれた理由もわかります。そう、彼女は他家の生まれの美しい女性だったのなら、理解ができるでしょう。


 そして彼女は5人の皇子みこと呼ばれる人たちの求婚を避け、さらにはその時の帝の召喚も拒否します。当然です、彼女は自らの勢力を滅ぼされているのですからなびくわけがありません。

 この時の5人の皇子のモデルは8世紀初頭の権力の中枢にあった人たちがモデルになっているのは、有名かもしれません、阿倍、大伴おおとも石上いそがみ、石川などの名前があるのでそう考える方向も妥当なのですが、もうひとりを藤原不比等ふじわらのふひと(藤原鎌足の息子)とすると、あと一人は誰なんだということになります。

 もっといっしの変(旧 大化の改新)直後に当てはめると石川は、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろという蘇我氏の傍系ながら裏切り、のちに中大兄皇子なかのおおえのおうじに粛清された人物に当たります。そうなるともう一人はこの人物を指しているのでしょうか?

 

 金毘羅宮には実は人の入っていけない不入の場所があり、そこは周りを剣を地面に差すような明らかに不可思議な一角があります。また琴平というのもあてじであるとかんがえると、なんの文字が当たるのかを自分なりにかんがえました。

 その中に「古都比良」という字面じづらが浮かびました。古都は古い都、比良は古事記に出てくるあの世とこの世の回廊かいろうであるというものです。

 巨石文明やそのほかの何らかの文明の遺構いこうとみられるものが四国の阿波や讃岐に多く見られること、奈良、平安時代に、なぜか四国に流刑になる人が多いことが見られます。なぜ四国なのでしょうか?そのあたりを考えると「たけとりものがたり」の文字を「他家盗り物語」としたくなってしまうというのが、今回の私なの結論です 

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