鬼に対する私的結論

 上記の私見的考察から、私は鬼というものに対する考察をこのように行いたいと思います。


 一つ、鬼とはどの文献が書かれた時代にその文書を書いた者たちに、都合の悪い存在だった。敵対もしくは、手を出すことができない強者、アンタッチャブルな存在、勢力だったもの。


 一つ、鬼とするものも、人(怨霊おんりょうを含む)以外にも、過去の恐ろしい伝承や神話、自然災害(主に火山活動)を中心としたどうにも制御できないものだったというもの。その為、火山の麓と山頂に外宮げくう内宮ないくうという形で神社を建てそれを抑えようとしていたという考えです。

 これにはたたりを怖がる心、とがなくて迫害したものにたいする、後ろ暗い気持ちが含まれている場合が多く存在しています。

 同時にそれらは、他の場所で別の形、例えば別の名前や超人的な活躍をしたものとして祭られていることがあるということです。

 阿來丸あくるまるなどは、他の文書ではヤマトタケルの功績に非常に近いものがあったりします。一例ではヤマトタケルは伊勢に入った後鈴鹿峠を越えることなくなくなりますが、同様に阿來丸は鈴鹿姫と一緒に討伐対象になった文献も見られます。これは歴史を乗っ取り、自分たちの功績にするために、主客しゅきゃくを逆転させているのが見えます。

 実は歴史の乗っ取りは古代から中世、近世にかけて行われていたのだろうと思われ、最も近いものが戦後の教育によって、それ以前の歴史観をなかったことにするために新しい歴史書が作られたのだと、私は思っています。

 戦中に英雄視されていた楠木正成、に対する評価の揺り戻しなどが有名です。

 

 童謡である桃太郎に出てくる鬼に対する対応が情け容赦ないものと、鬼ヶ島に存在する鬼が金棒を持っていることから、それが製鉄に携わった人々に対する迫害という側面もあるのかもしれません。

 実際「備の国」とよばれる、岡山や兵庫中心にある程度力を持った古代国家(室町時代成立といわれる)物語集において悪役にされているだけで、元々は、その国の神話を乗っ取り書かれた可能性は大きいと思われます。


 日本の歴史書は、他の国と同じく何度も都合よく書き換えられているというのが、私の私見です。

 

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