第二部 四章 夏の出会い

第160話 思わぬ来訪者

「月下君。唐突だが君に来客が来ているんだ」


 大学に到着し荷物を置いた直後、和樹は大藤教授にいきなりそう言われた。


「え。俺今日はラフな格好で来てしまってますが」


 和樹は普段スーツを着ることはない。

 確かに官公庁や企業の関係者(特に重役などが多い)と会う場合は、やはりどうしてもこちらもスーツを着る必要がある。そのため最近は着る機会が著しく増えているが、その必要がある予定は事前に組まれており、急遽予定が入る場合でも必ず前日は大藤教授から連絡があった。


 今日は朝の八時にはもう三十度に届かんとするほどの暑さで、必要さえなければそもそも家から出たくないと思えるほどの暑さだ。

 上は日除けのため薄手の長袖で一応襟付きのシャツではあるが柄が少しあるし、下はスラックス。ジャケットも持ってきていない。

 普段であれば非常用にスーツを一揃え、研究室に置いてあるのだが、先週やむを得ず使って汗だくになったので週末にクリーニングに出していて、取りに行くのは今日の予定だった。


「多分大丈夫だ。先方もかしこまった感じじゃないらしい」

「……そもそも、私にですか? 教授ではなく?」

「ああ。この発端となった論文を書いた本人と話したいと。正式な訪問ではない。協力企業の相談役とのことらしい」


 相談役。

 一般的には元取締役などが引退後に就任したり、系列会社に事実上『天下り』する際に就任するイメージだ。

 ただ、企業によってその位置づけは色々で、一概に判断しづらい。


「分かりました。すぐですか?」

「先方も先ほどいらしたばかりらしいが、待たせるのも悪いだろう。連絡があったのも直前だったしな。今お茶を出してもらってるから、一息ついたら行ってくれ」


 和樹は頷き、とりあえず給水機から冷水をコップに注いで一息に飲むと、大きく深呼吸。


「そういえば、どなたなんでしょうか」

「ナインテクノロジーの相談役らしい。まだ名刺ももらってないんだが」

「……教授も挨拶すべきでは?」

「と思ったんだが、まず君に会いたいとのことなんだ。話が一段落したらその後で呼んでくれ」


 なんとも奇妙な話だ。プロジェクトの責任者である大藤教授より先に自分に会いたいとは。意図が分からない。確かにこのプロジェクトの発端になったのは自分の論文だろうが、すでにプロジェクトの規模は一学生の論文の領域を越えている。


 もっとも、相談役ということはそれなりに高齢だと思われるので、あるいは気になっただけという気はする。

 これまでも国の役人やら企業のリーダーやら色々会ってきたので、そこにはもうあまり緊張しない。ただ、おそらく今まで会ってきた誰よりも年配だろうと思われ、どう対応すべきかという方が悩む。

 そんな年齢の知人となると祖父母くらいだが、ここ数年は全く会っていない。


 プロジェクトの都合上、来客に対応するための会議室を別に設けてあり、そちらに通しているらしい。

 そちらに行くと、そちらから学生が一人戻ってきた。確か研究室の学生の一人だ。お盆を持ってるので、お茶を出してきてくれたのだろう。


「あ、月下さん。お客様がお待ちです。お茶は月下さんの分も置いてあります」

「ああ、ありがとう」


 この場合、まだ来てない人のお茶も置いておくのがマナー的に正しいのかは疑問に思うところだが、こんな場所の応対で文句を言う人もあまりいないだろう。

 今回の客がそんな細かいことを気にするタイプではないことを祈るばかりだが。


 扉の前に立つと軽くノックし、そのまま開く。

 この大学の扉は基本的に分厚くて防音性が高いので、ノックの音はともかく中の音は外にはほとんど聞こえないため、返事を待つ意味がない。


「失礼します。月下和樹と申します」

「おう、君がそうか。すまんな、急にきて呼び立てて」


 軽く会釈をした和樹は顔を上げて来客の顔を見た。

 年齢はちょうど自分の祖父母くらいか。八十歳前後かと思われる。

 服装はスーツではあるが、少し気崩している感じだ。

 背はそれほどないが、精悍な顔つきと鋭い目つきは、まだ現役ではないかと思わせるほどで、和樹が部屋に入るのに合わせて席を立つ仕草にも不安はない。

 のんびりしたご老人かと思ったが、違う気がする。

 あるいは自分の企業が出資するに相応しいかどうか、見極めに来たのか。


 会議室は大きめの長テーブルが中央にあって、両側に五人ずつ座るための椅子がある。その、上座に当たる場所の中央に座っていたのが、今回の来訪者だ。

 彼は立ち上がるとそのまま部屋の入口までくる。

 和樹はそれを待ちつつ名刺を取り出した。今回に合わせて作ったものである。


「初めまして。研究基盤プロジェクトに属する、月下和樹です」

「うむ。ナインテクノロジー株式会社の相談役をやってる、玖条定哉さだやだ」


 名刺を交換してから――和樹は動きが止まった。

 今、彼は『玖条』と名乗ったのか。


「くく。聞き覚えのある名前だろ?」


 そういうと、彼は元の椅子に戻る。

 和樹は動揺を抑えつつ、その向かい側の椅子に座った。

 あらためて、玖条定哉を見る。


(年齢的には……まさか、白雪に祖父、か?)


 白雪から何回か聞いていた、両親の墓をあそこにしてくれるのに協力してくれた人物。白雪自身もそう何度も会ったことがあるわけではなかったようだが、それでもいくらか感謝もしていると聞いている相手だ。


 和樹が白雪を引き取ることになったことをおそらく白雪の伯父である貫之は知っているだろうから、当然その父親である祖父も話を聞いている可能性は高い。そして、考えてみれば孫がよくわからない男の元に転がり込んでいるという状況だ。

 一言いいたくもなるのか。


 やましいところは全くないとしても、それでも背筋が寒くなる。

 それは、この目の前に座る定哉が持つ雰囲気にも理由があるだろう。

 おそらくは八十前後。つまり戦後の日本の荒波の中で、しかも貴族が権威を失墜していく時代を生き抜いてきた人物だ。


「最初に言っとくが、別にお前さんを責め立てるつもりはない」


 定哉はそういうと、テーブルの上にある氷の浮いた麦茶を一口飲んだ。


「まあ推測出来てるようだが、儂はお前さんのところで世話になってる、玖条白雪の祖父だ。今回は、孫娘が世話になってる相手をちゃんとこの目で確認したかったってところだ」

「……プロジェクトの協力企業の相談役、という事ですが」

「そっちも本当だ。まあ偶然そうだったというだけだが。普通にそちらの自宅に行くことも考えたが」


 そういうともう一度麦茶を飲んで、それからニヤリ、と表現するしかないように笑った。


「こっちのが不意打ちになるだろうから、お前さんの素の反応を見れるだろうな、と」

「不意……」


 思わず呆気に取られてしまった。

 あの貫之の父でもあるのだろうが、どうにもイメージが重ならない。


「そう警戒せんでくれ。別に取って食おうってわけじゃない」


 玖条家の力を考えると、それはかなり笑えないが、実際そのつもりはないだろうというのは、その態度からも分かる。


「では一体……」

「まあ偶然とはいえ、玖条家うちの関係企業が関わってる大きな話の中心にいるのが、孫娘が世話になってる男と同じと聞いて、興味がさらに湧いてな。見てみたくなったというのが一番だ」


 裏表なく、本当にそう思っていたらしい。

 思わず唖然としてしまう。


「まああとは、孫の様子も聞きたくてね。白雪はどうしてる?」

「どうもこうも……今もこの学内にいますよ。楽しく学生生活を送ってると思います」


 すると定哉は嬉しそうに顔を崩した。

 その様子は、確かに孫を思う祖父の顔だ。


「そうかそうか。それは何よりだ」

「……私からもいいでしょうか」

「おう、なんだ」

「白雪を……その、どうするつもりなのでしょうか」


 現状白雪は、実質は玖条家を勘当されたような状態だ。

 だが、現在の法制度で勘当というのは存在しない。

 白雪はすでに成人しているとはいえ、玖条家の一員であることに変わりはない。今後彼女がさらに成長していくと、玖条家の一員であることは少なくない意味を持っていくようになる。

 その時、玖条家という存在が彼女をどういう風に扱うのかによっては、彼女の親を自認する和樹としても振舞い方を考えなければならない。


「別にどうもしないさ。白雪は自分の意思であんたの所にいるのだろう。そして自分の意思で進路も決めた。なら、それを尊重する。本当にどうしようもなくなったら、可愛い孫の頼みはもちろん聞いてやりたいと思うが、かといって白雪にとっては玖条家おれらはあまり歓迎しない人種みたいだからな」


 そういう定哉は、少しだけ寂しそうに見えた。

 彼からすれば、遅くに生まれた子供のたった一人の忘れ形見だ。だからこそ、白雪の両親の墓をあそこにすることを手伝ったのだろうし、少なくとも定哉は貫之ほどにひねくれた想いを、白雪には持ってないように見える。


「逆に俺から聞きたいんだが、あんたは白雪をどうするつもりだ? めとるのか?」

「めとっ……」


 思わず絶句してしまった。

 こういうところは、さすがに遠慮がなさすぎるというか。


「なんだ。俺は最近直接は見てないが、美人だろうが、白雪。それとも不満でもあるのか?」

「そういうわけではない、のですが」


 普段考えないようにしていることを、ここまで正面から言われると、さすがに動揺する。


 普通に外部から見れば、和樹じぶんと白雪は下手をしなくても夫婦の様な状態だと思われても仕方がないのは分かっている。

 八歳差は小さな差ではないが、かといって親子だと思う人は普通いない。


 そして、かつて高校生だった白雪だが、さすがにもうその頃にあった幼さは、ほとんどない。文句なしに一人の女性として成長している。

 その彼女が家族として一緒にいることを選んでくれていることを、嬉しいと思うのは否定できない。


「彼女とは……家族の様なものではあります。ですが、家族であっても、将来ずっと一緒にいる家族では……ないんです」

「なんだそりゃ。よくわからないが。一緒になるつもりはないのか?」

「その、どう説明すべきか……彼女にとって、私は『親』なんですよ」

「は?」


 和樹は一度大きく呼吸すると、改めて顔を上げた。

 今まで一度も他人には説明してこなかったが、白雪の本当の家族にはむしろ説明すべきことだろう。それが義務だとは思う。

 さすがに全部を説明するのは白雪にも同意を取る必要があるとは思うが、少なくとも今の関係について、和樹は一通り説明することにした。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「それじゃ、失礼する。突然邪魔してすまなかったな。プロジェクトの立ち上げ、頑張ってくれ」


 定哉はそういうと、足取りも確かに歩き去って行った。


 あの後、定哉は和樹の話を一通り聞いてから、とりあえず現状は理解できたとだけ言うと、一言だけ『孫をとりあえず頼む』とだけ言った。

 その後は教授を交えて、今度こそプロジェクトの話を三十分ほどして、帰ったのである。


「月下君は玖条氏とどういう話をしたのだ?」


 教授が不思議そうに訊ねてきた。

 それは当然だろう。

 大藤教授が入ってから、改めてプロジェクトの概要などを説明しているわけだが、大藤教授からすればそれは当然和樹が説明済みのことだと思ったのだろう。


「ちょっとまあ……色々ありまして。個人的な話をしたんです」

「また君の交友関係も謎だな……まあ、推測はつくが。あの方、玖条君の御親戚だろう?」


 さすがに『玖条』という珍しい姓で、それは気付いたらしい。


「ええ、まあ。その関係で俺にも聞きたいことがあったようで」

「いまさらに聞くが、君と玖条君はどういう関係なのだ?」

「一応説明しませんでしたっけ」

「家庭教師をやってた、というのは聞いている。だが……そうだな。まるで家族の様に近しいという気はしているが」


 ある意味ではこの上なく正しい。恐るべきは教授の洞察力か。


「まあ、ちょっと白雪にも色々事情があるんです」

「ふむ。まあいいが。そうそう。話は変わるが、合宿の行先が決まったよ」

「やっとですか。でも今から予約取れますか?」

「問題ない。私の友人がやってるところを融通してもらうからな」

「さすが教授。で、どちらですか?」

「ああ、それは――」


 その直後、和樹は半ば呆気に取られていた。

 教授が言ったその行先は、和樹の実家がある街だったからである。

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