第156話 研究室の環境

 翌週の月曜日、白雪と和樹は並んで登校していた。

 美雪と孝之も一緒である。


「なんか白雪ちゃんいいことあったの?」

「え? いえ、別に何もないですよ」

「……まあそうなんだろうけど……でもアヤシイ」

「なんですかそれは……信用してもらえてないんでしょうか」

「そうじゃないんだけどね……何もなかった、はその通りなんだろうけど」


 意味深な笑みを浮かべている美雪は気になるが、実際特に何もなかった――はずだ。

 危うく不埒な行為に及ぶところだったのは否定できないが、結局何もしていない。そしてあの後は、美味しいケーキとお茶の後、夜にあの焼き鳥屋で美味しい夕食を食べただけで、日曜日は少し散歩がてら一緒に歩いた以外はほぼ家にいてのんびりしていた。


 和樹もゆっくりできたようで、少し顔色も良くなっていると思う。

 それが嬉しくて顔に出ていた――と思うことにした。

 実際には、土曜日の行為について思い出しては百面相をしていたのだが、白雪にその自覚はない。


 大学に到着後、孝之、続いて和樹とも別れ、教室に向かう。

 その道中、大藤教授とばったり出会った。


「おはようございます。大藤先生」

「おはよう、玖条さん、春日さん。ああ、そうだ。今日から君たちは研究室に来てくれていいよ」

「あ、いいんですか?」


 美雪が嬉しそうに声を弾ませた。


 白雪と美雪は、共に大藤研究室への出入りを申請していたのである。

 この情報学部は、通常であれば三年生からどこかの研究室に属してそこで研究を行い、その成果を発表するカリキュラムがある。ただ、希望者は二年生から所属できるし、望めば一年生から研究室に出入りすることもできる。単位には数えられないが、一年生から参加するケースも稀にあるという。

 実際、和樹は一年生から大藤研究室に出入りしていたらしい。


 ただ、大藤研究室は例のプロジェクトの中心でもあるため、学生の間でも評判で、それゆえに通常であれば来るもの拒まずの早期研究生や体験入室の受け入れを、今年は許可制にしているのだ。


 白雪はもちろん、美雪も当該のプロジェクトには興味はあったので、申し込んでいたのである。

 許可されたのは、あるいは和樹のおかげではないかというところはあるが、それでも嬉しい。


「正式な通達はあとで事務局で受け取ってくれたまえ。今日の十五時に、研究室で顔合わせも行ってもらうということでいいかな」

「わかりました、大藤先生」


 白雪が丁寧にあいさつし、美雪もそれに続く。

 大藤教授は満足そうにうなずいて去っていった。


「よかったね、白雪ちゃん。これで一緒にいられる時間が増えるし」

「そ、それは……否定しませんが。でも、みゆさんも申し込んでいたんですね」

「うん。興味があったというか……ここに来た目的の一つだしね」

「え?」

「少し後付けではあるんだけど、例のプロジェクトに協力してる企業の一つが、春日家うちの関係なの。それで、この大学で、しかも情報学部に入るって決まったとき、それなら関われそうなら関わっておけってお父さんに言われててさ」


 白雪は思わず目を丸くした。

 まさかそんな方面で繋がりがあるとは思わなかったのである。


「というか、確か玖条家関連もどっか関わっていたはずだよ。まあ、今の白雪ちゃんは玖条家とは一応直接の関係はないだろうけど」


 それはさらに予想外である。

 まだ玖条家という呪縛が自分にまとわりつくのかと一瞬考えたが、さすがにそれは考え過ぎだろう。


「ま、それはともかく、私は実家の要求も満たせて、ついでに面白そうってのはあるし、白雪ちゃんは好きな人のそばに居れるし」

「み、みゆさんっ」


 思わず白雪は周りを見回すが、幸い聞こえるような距離に人はいなかった。

 白雪も美雪も、良くも悪くもやはり学部内はもちろん、学校全体でもそれなりに注目される立ち位置にある。

 高校の時と違って、名家の令嬢という立場はあまり知られていなくても、単純に容姿で目立つのだ。

 美雪の場合、さらに新入生代表を務めた学生の婚約者であるという要素までついてくる。


 あの研究室に好きな人がいるらしいという噂が広まれば、和樹の迷惑になる可能性もあるので、白雪としては気を付けなければならないと思っているのである。


「大丈夫だって。でもさ、知ってる人から見ればバレバレだよ? 一緒の場所いたらすぐわかっちゃうだろうし」

「う……それは、頑張ります、から」


 何をどう頑張るのか全く分からないが。


「ま、とにかく許可出たから、さっそく今日、行かないとね」

「そ、そうですね。挨拶もしないと、ですし」


 実は大藤教授とは何度か昼食を一緒にしている。

 もちろん和樹とも一緒だが。

 ただ、それ以外の研究室のメンバーは、なかなか時間が合わないのか、この一か月ほどはすれ違う程度でそういう機会がなかったのだ。

 これに関しては、半分以上は和樹にもお弁当を持ってもらっているので、和樹と昼食を一緒にすることがないというのも理由ではある。

 最近知ったが、研究室の昼休みは比較的取る時間が自由なので、学部生の昼休みとはずれることも多いのである。

 出来れば、特にあの倉持奈津美とはちゃんと話しておくべきかというのはあるが――ただ、よく考えるといったい何を話すのかというと、思いつかない。


 そういったわずかな不安はあれど、和樹と大学でも同じ場所にいられる時間が増えることに、白雪は少なからず心躍っていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 大藤研究室は、教授の控室と研究生が集まる教室の二つで構成されている。

 通常は小さな部屋に数人の研究生がいることが多く、あまり広くはない。

 情報学部の場合は、基本的にコンピューターさえあればいいわけで、今時は大きなコンピューターを研究室に抱えているケースも少なくなっている。

 ただ、元々人気の研究室だったこともあって、通常講義で使う部屋を研究室として利用させてもらっているのだ。


 実際、研究室に属する学生は四十人余り。うち、三十人は学部生で、残りは院生。それに外部職員――要は和樹――がいる。男女比は半分程度。

 ただ、件のプロジェクトに参加しているのはその中でもごく一部ではあるが、プロジェクトの手伝いを研究室全体でやるという雰囲気はあるらしい。


 そこに、白雪と美雪も新しいメンバーとして紹介されたわけだが――。

 当然ではあるが、男子の何人かが二人を見て驚きや好機の視線を向けてきていた。


「色気づきそうになる男子に言っておくと、こちらの春日さんは良家のお嬢様の上、婚約者がいるそうだからな。それに玖条さんも良家のお嬢様だ。下手なことを考えないように」


 その男子たちに釘をさすように大藤教授が口をはさむ。

 白雪は一瞬驚くが、少し調べれば玖条という姓だけでも調べはつくだろう。あまり一般的な姓ではない。

 それに、玖条家や春日家の関係企業がプロジェクトに参加しているのであれば、そちらから気付いたのかもしれない。

 見た限り、おそらく二年生以上だろうか。高校と違って大学は見た目で学年を識別する方法がないので、こういう時は不便だ。


「春日さん、玖条さん、とりあえず挨拶を」

「あ、はい。春日美雪、情報学部一年です。よろしくお願いします」

「同じく情報学部一年、玖条白雪です。まだ慣れないところもあると思いますが、よろしくお願いいたします」


 二人そろってお辞儀をすると、拍手が沸き起こった。

 少なくとも受け入れられてないということはないのだろうと、少し安堵する。


「ところで教授、一年でこの二人を選んだ理由は?」

「二人とも私が入試の際に面接してるんだよ。どちらも非常に優秀だったからね」


 その言葉に、学生一同納得している。


「みゆさんも、大藤先生だったんですか?」

「うん。じゃあ白雪ちゃんも?」

「はい。なるほど、そういう理由だったんですね」


 一年の研究室参加は面接などを行うこともあると聞いていたのだが、それが全くなかったので少し意外だったのだが、理由が分かった。すでに面接済みだったわけだ。

 逆に言えば、入試の際の面接でそこまで見極めていたということになるわけで、改めて教授という立場にあるだけの凄い人だと思わされる。


「さて、今日のところはみんなは先日の課題に取り組んでくれ。佐山君、こっちに。春日君。彼女は佐山あかね。修士二年だが、基本彼女についてもらいたい」

「佐山あかねです。よろしくね、春日さん」


 白雪は彼女には見覚えがあった。確か、去年の学祭で会っている。


「はい、お願いします。佐山先輩」


 美雪はそのままあかねについて行って離れていく。


「さて、玖条さんはこちらに」


 自分はどうしたら、と思ったら大藤教授はそう言って、隣の控室に連れて行く。その後に、和樹や他に数人が続いた。

 そして全員が入ったところで、扉が閉じられる。


「改めて。『研究成果共通基盤の構築(仮)かっこかり』は主にこちらで作業する。玖条君はどちらかというとこっちを手伝ってもらう予定だ」


 白雪が驚いて和樹を見ると、和樹が小さく頷いた。

 ただ、この場には和樹以外にあと三人いるが、その三人も聞いていなかったようでかなり驚いたような表情になっている。


「先生、どういうことですか?」


 詰め寄ったのは――奈津美だ。


「簡単なことだ。彼女は以前から月下君との交流があるらしくてね。月下君はうちの研究生ではない、外部職員だ。その都合上、いつもここに来てもらうわけではないからな。そこで、連絡やサポートのために玖条君に手伝ってもらうことにした。月下君には確認済みだが、頼めるだろうか」


 朝この話をしていなかったということは、和樹も相談されたのは今日来てからなのだろう。

 今時はネットワークがあればデータや連絡には事欠かないが、それでもプロジェクトの性質が性質のため、書類のやり取りも多いらしい。

 場合によっては書類の為だけに学校に来なければならなくなることもあるが、そういったものをサポートしてほしいということだ。

 無論、研究の手伝いもしてもらうらしいが。


「はい、大丈夫です」


 同じ家に住んでいるのだから、連絡のしやすさは確かに圧倒的だ。

 事実上、和樹の秘書の様な役割ということになる。

 奈津美はやや不満気味だったが、それでもいったんは引き下がった。


「さて、他の自己紹介といこう。私と月下君はいいだろう。じゃあ右から」

「私も……覚えてるかしら。倉持奈津美。博士課程の一年よ」

「僕は来宮渡。修士課程二年だよ」


 この二人はもちろん見覚えがあった。

 ただ、最後の一人は初めて見るが――。


「木下京子。今年度からこちらに合流したの。博士課程三年。ここでそのまま教授を目指したいとも思ってます」

「ぜひ頑張ってくれ。木下君なら私も応援する」


 初めて会うはずなのだが、どこか不思議な気がした。

 誰かに似ているとかそういう可能性があるかと思ったが、すぐには思い出せない。

 ついでに言うと、とても美人だと思える。

 奈津美も綺麗だと思うので、和樹の職場は美人ぞろいという気がしてしまう。

 容貌に限るなら自分も自信があるとはいえ、和樹との年齢差を考えると少し不利。

 むしろ、京子は逆算すると和樹とおそらく同じ年だと思われ、並ぶとかなり絵になるように思えてしまった。

 見える限りだとスタイルという点では自分とそう変わらない気がするが、それでも雰囲気が全然違うのが大人だという事だろうか。


(が、頑張らないと、です)


 せっかく同じ場所にいられる時間がさらに増えるのだ。

 ライバルが多い――奈津美にはかつて明確にライバル宣言をされたが――が、白雪も譲るつもりは全くない。

 とはいえ。


(まずは自分のことを頑張らないと、ですね)


 この研究室では言うまでもなく一番の若輩者だ。

 まずはお荷物にならないように、和樹の役に立つように頑張ると、白雪は固く誓うのだった。

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