第155話 思わぬ機会
和樹が大学に行くようになってから一月が過ぎた。
和樹の勤務は、大体週のうち二日から三日は大学へ。一日から二日は家で作業、もう一日は大抵は外部の協力企業や官庁との打ち合わせという感じだ。
基本、土曜と日曜日はお休みだが、フリーでやっていたころより遥かに忙しくしている。
さらに土日についても、前にやっていた仕事の引継ぎそれ自体は終わっていても、やはり頼られてしまうこともあるらしい。
和樹としてもある程度のサポートは必要だと考えているようで、実際契約上も必要な場合もあるようだ。
そんなわけで最近はほとんど休みなしのような状態になっている。
加えて、これまではほぼ一人で仕事をしていたのに対して、対面で人に会う機会や、そもそもこれまで関わることなどなかった国の役人との会合などでは、さすがにスーツを着ての外出の上、帰ってくるのも遅いことが多い。
白雪としては一緒に食事したいので基本待っているし、和樹も時間が遅くなりそうな時は必ず早めに連絡をくれるので、それ自体は困ってはいないのだが、それはそれとして急にこれほど忙しくなると、和樹の身体の方が心配になる。そうでなくても最近急激に暑くなってきていて、体力を消耗しやすい季節になっているのだ。
無理はしないようにと言ってはいるし、実際疲れはともかく本人も仕事自体は楽しくやっているようなので、大丈夫とは思いたいのだが――土日も忙しそうにしているので、白雪としては少し寂しいのは否めなかった。
「それじゃあアルバイト行ってきます。和樹さん、今日はお仕事はないんでしたよね? じゃあ、ゆっくり休んでくださいね」
「なんか娘に生活の面倒見てもらってる感じになりそうだな……まあちょっと最近疲れ気味なのはそうだが。今日はのんびりするつもりだ。ああ、でもたまには食事にくらいは行かないか?」
「え。また突然に」
「白雪もこのところずっと学校と家の往復か、あとはバイトだけだろう。少しは気分転換もいいんじゃないかと思ってな。最近少し、白雪も元気がなかったし」
元気がなかったのは、どちらかというと和樹が忙しくてあまり二人の時間がとれないことに気落ちしていたからなのだが、それだけにこの提案はとても嬉しい。
「はい。じゃあ……バイトは二時には終わりますから、いったん帰ってきますね。楽しみにしています」
「ああ。何か希望はあるか?」
「……もしよければ、また焼き鳥とか」
あの焼き鳥屋は本当に美味しかったので、久しぶりにまた行きたくなったのだ。
「分かった。二時過ぎに帰ってくるなら、その前にどこかでお茶してから、のんびり行くのもありだな。考えておくよ」
「はい、楽しみにしています」
白雪は半ばスキップするように家を出ると、そのままバイト先に到着。普段通りに仕事をしていた――つもりだったが。
「玖条さん、何かいいことでもあったの?」
客がいない時間帯に美佳に言われて、少し驚いて振り返る。
ちなみに今日は美佳と白雪の二人のシフトだ。
「え? えっと……あ、はい。ちょっと、あったかも……いえ、あるかも、です」
「そ。まあ仕事にいい影響があるようで何よりね。けど……」
「はい?」
「何でもないわ。お客さん少ないから、裏の整理お願いしていい?」
「あ、はい、わかりました」
白雪はバッグヤードから冷蔵庫の裏に入る。
何気にこの時期のここの作業は、重労働ではあるが涼しくていい。
時々レジの様子をうかがいながら作業するが、数人並んでいても美佳のレジ処理能力は非常に速いので、ヘルプに出ようと思った時には客が
(いつも思いますけど、ものすごいお仕事出来る人ですよね……アルバイトなのがもったいないと思うくらい)
白雪は経験が浅くて分からないが、普通の仕事でも非常に効率よくテキパキやる様子しか思い浮かばない。
これは同じバイトである美咲も同じ意見らしく、むしろなんで何年もアルバイトのままでいるのか、わからないらしい。
もちろん一緒に働く身としては助かるが。
そうしてる間に繁忙時間であるお昼――さすがにこの時は忙しかった――を乗り切り、二人ともバイト時間が終了する。
交代要員との間で引継ぎ――問題があったかどうか位だが――をして、二人ともアルバイトを上がった。
「それじゃ玖条さん、お疲れ様」
「お疲れ様でした、竜崎さん」
美佳は軽く手を振ってから、そのまま街の方に歩き去って行った
そういえばどこに住んでいるのだろうとふと気になったが、今はそれより急ぐべき案件がある。
バイト先のコンビニから家までは、普通に歩いても三分もかからない。
この時期はその程度の距離でも汗ばむほどの陽気ではあり、白雪的にはせっかくデートに行くのならシャワーくらいは浴びていくべきか迷うところではある。
とりあえず帰ってから決めようと思い、玄関の扉を開け、中に入る。
「ただいまです、和樹さん。……和樹さん?」
家に入ったときに返事がなく、不思議に思ってリビングまで来てから、その理由が分かった。
和樹がソファで横になっている。
というより、寝ていた。
「和樹……さん?」
別に倒れたとかそういうわけではないようだ。
ちょっと横になろうと思って、そのまま寝てしまったのだろう。
この家のソファは大きめの二人掛けのもので、和樹の身長でも少し足が出る程度で横になることができる長さがある。
部屋は適度に空調も効いていて、暑すぎず寒すぎない。
おそらくこのところの疲労もあって、ついうっかり寝てしまったのだろうが、一緒に住むようになってから和樹の寝顔を見るのは、実は初めてだった。
普段の寝室は当然別だ。
さすがに白雪も和樹の寝室に忍び込むことは――美幸が悪乗りした時は別にして――することはない。それに、和樹は朝はわずかな気配でも目が覚めるらしいので、白雪が先に起きて、朝の準備を音を立てないようにしている時でも、目は覚めてしまっているらしい。
なので、実はあの病院で目覚めた時以降で、和樹の寝顔を見たことはなかった。
なのだが――。
完全に寝入っている。
和樹と違ってインターホンを鳴らして帰ってきてるわけではないが、それでも玄関では普通に『ただいま』と言ったはずで、これで彼が起きないのは珍しい。
しかも薄暗かった病院の時と違って、今度は昼間。
それも自分のベッドから二メートル以上空いていたあの時と違い――。
白雪はソファのすぐ横に座り込んだ。
すぐ目の前、それこそ数十センチの距離に和樹が寝ている。
(知ってましたけど、やっぱり整ってますよね)
誠や友哉の様なわかりやすいほどの美形とは言わないが、どこか安心できる顔立ち。あえて言うなら、『かっこいい』というより『優しい』という感じだ。
この方が自分の好み――というのはあまり意味がないだろう。好きな人の顔なのだから、好きに決まっている。
かすかに胸が上下し、時折口から吐息が漏れている。耳を近づけるとかすかに呼吸の音が聞こえた。本当に良く寝てるようだ。
と、正面を向いたところで――顔が驚くほど近付いている事実に気付いた。
その距離、十センチ程度。
(ち、近い……です、けど……)
驚くほど無防備な和樹がすぐ目の前にいる。
その時に沸き上がった衝動は、本来白雪にとってはしてはならないと分かっていても――それに抗うことはできなかった。
顔が近付く。
こんなことは本当は良くないだろうが、今それを止める者はおらず――。
「ん……」
和樹からわずかに声が漏れた。
手が動いて、頬をくすぐったそうにかく。
見ると、白雪の髪が和樹の頬に触れてしまっていた。それで起こしてしまったのだろう。
驚いて、白雪は一瞬で跳ね飛ぶように顔を上げ、勢い余ってバランスを崩して背中からすっころんでしまった。
「あきゅっ……」
幸い頭をぶつけることはなかったが、リビングテーブルに背中が思いっきり当たって変な声が出てしまう。
「ん……あれ、白雪すまん、寝てたか。って……どうした?」
上体を跳ね上げた勢いでリビングテーブルに背中をぶつけてしまい、その痛みに白雪はしばらく声も上げずに悶絶していた。
その様子を見て、心配そうに和樹が覗き込んでくる。
「どうした。どっかぶつけたのか?」
それはその通りだが、多分これは先ほどの不埒な行動への報いだろう。
白雪は声を出せずに、ただ手で和樹を制してからプルプルと震えて立ち上がった。
「だ、大丈夫です。その、ちょっと滑ってぶつけただけ、です」
自分でも無理があるとは思うが、そういうしなかった。
ただ、和樹も状況が分からず、問い詰めてくることはなかったので、安堵する。
「大丈夫か?」
「は、はい。その、和樹さんはお疲れなのでは? このように寝ているのは珍しいですし」
「そうかもだが……まあ大丈夫だ」
「和樹さん」
ようやく痛みの治まった白雪は、ソファから立ち上がろうとする和樹の前に立つ。
「お世話になってる私が言う事ではないのは重々承知ですが、それでも言わせてください。ここ一ヶ月、新しい生活になって、和樹さんは多分とても疲れていると思います。その、もう少し自分のことも気にしてください。倒れたりしたら、本当に心配しますから」
実際、世話になってる身分で言えたものではないのは重々承知している。
だがそれでも、ここ最近の様子を見るに多分かなり無理が出ているようには思えるのだ。
実際それで、このように無防備に寝てしまったのだろう。
あるいは、自分と同居しているから、普段の生活でも何かしらの緊張をさせてしまっているのかもしれない。白雪の存在が、和樹にとって負担になっている可能性はある。というか普通ならそうだろう。
ただ、今のこの環境が白雪にとってはあまりに理想的であり、これを捨てるという決断は、今の白雪では難しかった。だからせめて、彼の生活の援けになるように、できるだけ家事などは手伝うと決めている。
「すまん、そうだな。確かにちょっと疲れていたかもしれない。家族に心配されるようじゃ、家主として失格だな」
「い、いえ、その、差し出がましいことを言ってすみません」
「ちょっと無理が出てるなとは思い始めていたところだ。気を付ける。まあ、若くないしな、もう」
「そ、そういうことを言いたかったんじゃないんですけどっ」
和樹はもうすぐ二十七歳。だが、まだ若いとは思うが――あるいは自分もそのくらいの年齢になったら衰えを感じるのかは分からない。
「とにかく、無理をなさらないでください、本当に」
「それはともかく……出かけるか? 俺の方は出られるが」
「あ、えと……すみません、ちょっとだけ準備しますっ」
その、疲れて寝てるところにこっそりと何をしようとしてたのか、という罪悪感から逃げるように、白雪は自室に駆けこんでいった。
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