第二部 三章 重なる時間

第154話 初出勤

「恰好はいつも通りなんですね」


 玄関を出たところで白雪にそう言われて、和樹はむしろ少し戸惑ったように自分の服装を見直した。

 いつもの黒のスラックスに、カジュアルシャツ、それに薄手のジャケットといういつもの格好だ。


 六月になって最初の平日。和樹は今日から央京大学を中心に実施されるプロジェクトの正式メンバーとして参加することになる。

 プロジェクト自体の立ち上げは、十月の予定だが、その立ち上げの準備はもう始まっているのだ。

 実際、大学側の中心メンバーである大藤教授はすでに関係各所への根回しなども行っているし、実質はすでにプロジェクトの体制は出来つつある。


 とはいえ、正式にスタートするのは十月。プロジェクトの名称は現在のところ『研究成果共通基盤の構築』というそのまんまな名前が仮採用されている。

 元は和樹が書いた卒業論文からスタートしてるのだから、和樹としては恐縮する限りだが、実際にそれが実現できるかもしれないというのは、それだけで嬉しい。

 もっとも、やらなければならないことはそれこそ山の様にあるわけだが。


 無論一人でやることではないというか、むしろ和樹は全体の統括を行う人間の一人だ。このプロジェクト自体、何かのシステムを開発するというものではなく、共通の基盤フォーマットを提唱するのが目的だという。

 ただ、ゆくゆくは日本のみならず、世界における共通基盤を作ることを目的としている。


「一応説明は受けましたけど、なんか私だと壮大過ぎて、よくわからないのが本音です」


 白雪が感心し、かつ尊敬のまなざしで見てくるのが、少し面映ゆい。

 実のところ自分でも、ある種の『夢物語』という認識で考えたものだったが、ここ数年のネットワーク技術の進歩と情報伝達の速度の向上が、実現の可能性を後押ししたのだろう。


「俺も正直不安の方が大きいけどな……ただ、やりがいはあると思ってる」


 過去の経緯から、どうしても和樹は万事すべてに対して、どこか引け目を感じる部分があった。

 ただ、優一とのわだかまりが解け、心のどこかに引っかかっていた負い目のような意識も、今はない。

 おそらくあの出来事がなければ、今以上に自信が持てなかったと思える。

 そう考えると、あの時後押ししてくれた白雪には、本当に感謝しかない。


「なんか和樹さん、かっこいいです」

「ん……そ、そうか。ありがとう」


 いきなりそう言われるとは思わず、顔をそらしてしまった。

 家族のように思っていても、あるいはだからこそ、そうはっきりと言われると照れ臭い。

 もっとも和樹が顔をそらしていたので、言った側は言った側で直後に顔が真っ赤になっていたのだが、それを見ることはなかった。


「と、とりあえず行くか。初日から遅れると格好がつかないしな」

「は、はい」


 二人は並んでバス通りまで行くと、そこでバスを待った。

 駅前まで行く方が本数は多いのだが、駅から大学へ行くバスはたいてい混む。

 一方、このバス停を通過するバスは駅を通過せずに大学まで行く経路のため、少なくとも駅から乗るバスよりはすいていることが多いのだ。


「あれ。白雪ちゃん……と月下さん? あ、今日から?」


 バス停には美雪と孝之がいた。どちらも今日は一限から講義があるらしい。

 そして美雪と孝之も、和樹が大学を職場にすることはすでに教えているのだ。


「ああ。まあ、俺は毎日ってわけじゃないが」

「でも一緒に登校できるのは楽しそうですね。ね、白雪ちゃん」

「そ、そうですね」


 やや戸惑ったような白雪の返事だが、後ろ姿だったのでどういう表情だったかはわからなかった。

 振り返った白雪はいつも通りだったので、単にどもっただけだったのか。


 五分ほどでバスはやってきて、四人は乗り込んだ。

 出勤する人と逆の方向に行くバスのため、かなりすいていて、四人はそれぞれ座ることになる。

 ナチュラルに美雪は孝之の隣に座ったので、その前の二人掛けの椅子に、和樹と白雪が座った。


「大学、白雪ちゃんが案内するの?」

「え? いえ、そういう予定は特には……」

「でも、大学広いよ。迷ったりは……」

「……ああ、そうか。話してないか。俺も央京大の出身なんだよ」

「へ?」


 美雪と、それに孝之もぽかんとしていた。


「そういえば話してないな……君らよりはだいぶ年上だが、俺も央京大のOBなんだよ。白雪と同じ情報学部。元々、大藤教授の研究室にいた。今回の仕事についても、その縁もあって参加することになったんだ」

「なるほど。そういえば最初から勝手を知ってる感じでしたね」


 孝之はおそらく、入学式の時のことを思い出したのだろう。


「あれ。じゃあ私や白雪ちゃんの大先輩ってことになる?」

「まあ一応そうなるが……八年も違うからな」

「月下先輩ってことですね。学部も同じだし」


 なぜか美雪が楽しそうだ。

 ふと、あの料理教室の際の白雪の『先輩』というのを思い出してしまう。

 隣の白雪を見ると、窓の外を見ていたようだ。視線の先に何があるかと思えば、紫陽花の花が並んでいた。


 バスは十五分ほどで大学に到着。

 孝之と途中で別れた和樹、白雪、美雪らは、そのまま情報学部の校舎に入る。


「じゃあ、二人は講義頑張ってくれ」


 二人はこれから必修の英語の講義だ。


「はい。あ、和樹さん。お昼はどうされますか?」


 ちなみに今日は白雪はお弁当を作ってきていない。

 実のところ、前日のあまりものがある場合を除けば、弁当を作るのと学食で食べるのは、コスト的にはほとんど変わらないからだ。

 高校の時は作らざるを得なかったのだが、大学に入ってからは一人分の弁当を作る手間も費用もあまり見合わないので、作らないことも増えているらしい。

 五月に入ってからは和樹が家にいることが多かったので、二人分の弁当を――和樹は家で食べるのだが――作ってくれていたが、今日に関しては作ってもらってない。

 今のところどういう勤務状態になるかが不明のため、しばらく様子見ということにしてる。


「今日は多分学食だが……研究室の人間と行く可能性は高いと思う。教授は二限に講義の担当があると聞いてるから、お昼時にはなると思うが」

「じゃあご一緒します。その大藤教授の講義、私も受講してますので、そのあとで」

「あ、じゃあ私もいいですか? 多分、孝君も一緒に」


 美雪が手を挙げる。これに関しては拒否する理由はない。


「俺は構わないが……」


 そう話していると、講義開始五分前を知らせる鐘が鳴り響いた。


「和樹さん。それではまた後で」


 白雪と美雪に別れを告げて、和樹はフロアを上がっていく。

 大藤教授の研究室は、三階の奥だ。

 扉の前に立つと、かつては慣れた光景ではあったものだが、扉の向こうには何人かいる気配がして、少しだけ緊張する。前に来たときは部外者としてきたわけだが、今度は関係者。とはいえ、ほとんど新参者に近いだろう。

 意を決して扉を開く。


「おはよ……あ、先輩!」


 最初に声を挙げたのは、良く知っている人物だった。


「おはよう、倉持。久しぶりだ」


 倉持奈津美。和樹の二つ下の後輩で、和樹が四年生の時、二年生ながら研究室に出入りしていた――この学校は本人が望めば二年生から研究室に参加できる――女性だ。

 ボブカットに眼鏡、それに白衣といかにも研究生っぽい見た目で、白衣の下に着ているのはノースリーブの紺色のシャツに黒のパンツスタイル。

 研究室は空調がかなり効いているが、それゆえに逆に白衣をまとってないと寒いのかもしれない。


「はい。今日から同僚ですね、先輩」


 嬉しそうに笑う奈津美に、和樹は小さく笑って、それから部屋を見渡した。

 何人か、見たことがある人もいれば、初めて見る人もいる。

 そしてその中の、最も年長かつよく覚えている人物が、和樹の方に歩いてきた。


「お久しぶりです、教授。今日からお世話になります」

「うむ。待ってたよ、月下君。これで私も楽になる」

「教授……相変わらずですね」


 前からこの教授は面倒なことを研究生に押し付ける。無論それはその相手が頑張ればできるようなことばかりで、絶対の能力以上のことをやらせることはない。

 それを見切ってやらせてるのだから、大したものだと思うし、実際いろいろなところと仕事をしていると、こういう上司はある意味では理想的なのだろうと思うが――それでもおしつけられたら大変なのは変わらない。


「はは。まあ懐かしいだろう。さて、それじゃあほかのメンバーも紹介する。倉持君と来宮きのみや君は知ってるだろうからはしょろう」

「教授、ひどっ」


 来宮きのみやわたる。和樹の三年下、つまり和樹が四年生の時点で一年生だったが、非常に優秀で大藤研究室にもよく出入りしていた学生だ。見た目は軽い――というかちゃらい印象だし実際言動はその通りなのだが、結構真面目でもある。


「件のプロジェクトにはこの二人と、あと一人参加する。木下君、来てくれるか」

「はい」


 部屋の奥から出てきたのは、白雪より少しだけ背の高い女性だった。

 年齢が非常に分かりにくい。年上にも同年代にも年下にも見える。


「さすがに初対面だな。木下京子君。彼女は一昨年、北陸の大学院からうちの院に来た才媛だ。年齢は君と同じじゃなかったかな」


 長く艶やかな黒髪をきれいに結い上げていて、相当に美人と思えるほどの容貌だ。


「木下京子です。月下さんの論文を拝見し、感銘を受けまして。一緒に仕事出来るのを楽しみにしていました」


 そういうと、彼女は右手を出してきた。

 和樹は戸惑いつつそれを握り返す。


「光栄だ。こちらこそ、研究生活からは離れていたので、足手まといにならないように頑張らせてもらう。よろしく、木下さん」


 すると彼女が嬉しそうに顔を綻ばせた。それが、なぜか少しだけ白雪を思い出させる気がして、和樹は一瞬呆気にとられる。

 そして、それを見てとても不機嫌そうな顔をしている奈津美には、当然気付いていなかった。

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