第153話 江の島巡り
江の島へ渡る橋は、かなり強い海風が吹いていた。
吹き飛ばされるというほどではないが、白雪は日除けの帽子をかぶってこなくてよかったと思った。多分かぶってきていたら、必死に抑えることになっていただろう。
とはいえ、この強風だと髪の毛も乱れる。
あとで少しセットし直すか、いっそ髪型を変えた方がいいかもしれない。
なんとか歩くこと二十分。無事二人は江ノ島にたどり着いた。
「ちょっと風が凄かったな」
「はい。髪がちょっと……あ、思ったより乱れて……ない?」
触ってみた感じ、それほど崩れてはいない気がする。
とはいえ自分の頭の後ろ。全く見えないのだが――。
「大丈夫じゃないかな、ほら」
和樹がスマホで写真を撮って見せてくれた。
確かに、思ったよりずっとマシだった。思わず安堵する。
白雪が確認したのを見ると、和樹は律義に写真を削除していた。相変わらずそういうところはキチンとしてくれている。
「さて、とりあえず……どこへ行くか」
「島の裏側に洞窟があると聞いたので、そこに行ってみたいです。色々
「あそこか……俺も昔一度行ったっきりだな。了解だ」
時刻は午後二時前。
まだかなり時間はある。
江ノ島の裏にあるという洞窟――岩屋――に行くには、基本的に江ノ島をぐるりと周る必要がある。島の海岸線を行くルートはなく、基本的に一度江ノ島を登って、また降りなければ無理らしい。
「け、結構暑いと大変なんですね」
「小さいながらも、高低差が六十メートルくらいあるからな。冬よりこの季節の方が辛いか……あ」
「なんです?」
「いや、そういえば有料のエスカレーターがあったっけ」
「ああ……あれですか?」
ふと前を見ると、それっぽい建物があった。
「あれだな。上るのには楽が出来るが……」
「大丈夫です。私もまだ体力尽きてません」
何より、和樹と一緒に歩ける方が嬉しい。
「まあ……俺もさすがにこれで悲鳴を上げるほど年寄りとは思いたくはないか」
「和樹さんだって若いですよ」
「まだ十代の白雪に言われてもなぁ、とは思うがな。大体、子供の頃って二十後半なんて、もうおっさんだと思ってたところはあるし」
それは少し否定できない。
白雪の記憶する、当該年齢の最も近しいのは、他ならぬ亡き父。
考えてみれば、今の和樹はちょうど父が死んだ時とほぼ同じ年齢なのだ。
その意味では、最初以上に父親であると感じても不思議はないが――。
(ダメですね。もうそんな風には思えない)
目線の高さが近いのもあるだろうが、もう父親だと思うことはできないだろう。
和樹のことを誰よりも好きだと、そう確信できる。
「とはいえ、水分不足になるのはまずいしな……と」
いつの間にか、和樹の手に二本のペットボトルがあった。
「水分は適宜補給しないとな」
そういうと、一本を渡してくれる。
「あ、ありがとうございます」
「まああとちょっとで山は越える。その後は結構きつい下り……と言っても階段なんだが」
実際、和樹が言うようにしばらく平坦な道かと思ったら、いきなり急な下り階段になった。
むしろ、これを帰る時は登るのかと思うと、ちょっと怖い気すらする。
ただ、下り初めてすぐに、白雪は顔を上げて思わず「わぁ」と感嘆の声を上げていた。
目の前に一面の海が広がっていたのだ。
「きれいですね、和樹さん」
「そうだな。この先はずっと太平洋だからな」
沖合を見ると、水平線の向こうに青みがかった大きな島が一つだけ。あとは本当に海だけだ。
「あの島は……伊豆大島?」
「だな。さすがにこの距離でも見えるらしい」
「横に小さな島も……ちょっと見えますが」
気になってスマホで調べてみると、伊豆大島より先にある島が、天気がいいと見えるらしい。
「山の先端が見えている感じみたいです。こうやって見ると、地球が丸いんだなぁって思いますね」
「そうだな。普段はまず意識しないからなぁ」
水平線もわずかに湾曲している。ともすれば直線だと思いそうになるほどのわずかな丸み。改めて、地球がどれだけ大きいのか、と体感できる気がした。
そうやって歩くこと二十分ほどで、岩屋に到着した。
ここも仏教の寺院のような扱いになっているらしく、拝観料を払って中に入る。
「予想は出来ましたけど……ひんやりした感じですね」
「そうだな。外に比べるとかなり涼しい」
中に入るとすぐは、展示ギャラリーになっていた。江ノ島の歴史や成り立ちなどがパネルで紹介されていた。
白雪はこういうのを見るのは好きなので、ついつい見入ってしまう。
その後、第一岩屋、第二岩屋と見て回って、外に出た時にはもう午後三時半になっていた。
「面白かったです。それにしても、あの穴、本当に富士山までつながっているんでしょうか……ちょっと気になります」
第一岩屋の最奥にあるという風穴。一説には富士山の氷穴に通じているともされているというのは、なぜかロマンがあるように思えてしまう。
「さあな……確かめた人もいないとは思うが」
「あと、私たちはこんな便利な通路があるから簡単に来れますが……昔はないですよね、当然。でも、昔の人があんな風に洞窟の中に仏を彫っていたって、なんかすごいな、と思いました」
「ああ、言われてみればそうか。確かに……」
和樹は、今自分が歩いている回廊を見渡している。
実際、これがあるから奇岩だらけの場所でも楽々と行くことができるのだ。
海の水に足を取られることもない。
だが、当然こんなものが作られたのは現代になってからだ。
それ以前は――きっと信仰のために苦労してでも来ていた人もいるのだろう。
「さてと。とりあえず……戻るか」
「はい、そうですね。ちょっとまた大変ですが」
「どこかで軽く何か食べるか?」
それは確かに魅力的な提案に思えた。
実際、お昼を食べてからもう三時間近く経っている。思いっきり歩いているので、もうだいぶ消耗している気がした。
「それでしたら……あの、江ノ島に美味しいパンケーキの店があると聞いたのですが」
実は初めて江ノ島に来た時から気になっていた店ではある。
ただ、最初の時も二回目も、行くのが遅かったのでもう閉店してしまっていた。
あとで調べて、とても評判がいい店だったので気にはなっていたのである。
さすがに、この時間ならまだ営業しているだろう。
「あそこか」
「和樹さんは行ったことが?」
「ああ、一度だけだが」
普通に考えて、男性だけで行く場所ではない。少なくとも和樹はそうしなさそうだが、あるとすれば――。
「朱里がお気に入りでな。一度、大学生の時に、誠と一緒に連れてこられた。友哉も一緒だったな」
予想通りではある。
そうしている間に店に着いた。
お昼時を外してるためか、すぐに座ることができる。
二人で注文して、待つこと少し。
頼んだのは白雪がブルーベリーソースのかかったパンケーキ、和樹はオレンジソースとヨーグルトだ。
「この眺めとこのパンケーキはちょっと贅沢ですね」
窓からは湘南の海が見渡せる。
今日は気持ちよく晴れているので、とてもきれいだ。
ここだと、普段以上に美味しく思える。
「考えてみたら、あまりお聞きしたことないのですが……和樹さん、高校の時はご家族でこちらだったんですよね」
「そうだな。今のマンションとは違うが、程近いところに家族で住んでた」
「その時は江の島とかも来たんですか?」
すると和樹は少し首を傾げてから、首を横に振る。
「高校生にもなると、あまり家族で出かけることは少なくなっててな。なので、このくらいの距離だと『行くなら自分で』という感じだったな。ただまあ、当時俺は……あまり出歩きたくはなかったからな。高校でも学校で話す程度の友人はいたが、休みでまで会うというのはいなかったし」
「あ……ごめんなさい」
あの事件でわざわざこの地域に引っ越してきた和樹。とはいえ、学校で過去のことを気にせず振る舞うのは難しかったのだろう。
「気にするな。それに、高校三年の間にそれなりには振る舞えるようになって……大学に入ってすぐに誠や友哉に出会ったからな。あとは知っての通りだし……」
就職してからは、さすがにお互い忙しくて、数カ月に一度会うくらいになっていたらしい。
お互い食べ終えてから店を出るころには、もう薄暗くなっていた。
「普通なら夕食も外で……という感じではあるが」
「でも、お腹すいてないですよね」
何しろ今パンケーキを食べたばかりだ。
白雪は、家の冷蔵庫の中を思い返してみる。
「もう少し歩いて、それから少しだけ買い物をして帰りましょう。お夕飯は簡単に作ります」
「一日出かけていて疲れてないか?」
気遣ってくれているのが分かって嬉しい。
ただ現実問題、お腹がすいてないし、かといってあまり遅くなるのはよくはない。
それに、明日も学校はある。
「大丈夫です。お食事作るのも、私は好きですから」
そういうと、白雪は和樹の手を取った。
「でも、少し歩いてお腹すかせて帰りましょう。……ちょっと食べ過ぎたという気はしますので」
「わかった。まあどちらにせよ島出るところまで歩くしな」
そういうと、和樹はその手を握り返してくれた。
嬉しくなって、その手にわずかに力を籠める。
(ずっとこうして――つながっていたいです)
そんな気持ちを籠めながら。
白雪は薄暮の江の島の道を、和樹と並んで歩いていくのだった。
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