第142話 少しだけ進む一歩

「お帰りなさい、和樹さん」

「ああ、ただいま」


 和樹が帰ってきたのは、予定より少し早く、夜の六時過ぎだった。

 なので、食事は家で食べるということで、白雪はすでに一通りの準備は済ませているが、まだ最後の仕上げはしていない。

 和樹のいつもの生活パターンから、先にお風呂に入るだろうというのが分かっているためだ。無論、そちらの準備はもう終わっている。


「お風呂先に入りますよね?」

「ああ。そうだな」

「準備出来てます。どうぞ」

「ああ、ありがとう」


 予測が外れていなかったことに、少しだけ嬉しくなる。

 それに。


(行く時より、ずっと表情が柔らかいですね)


 出発時は、少なからず緊張した様子だった。

 だが、今の和樹はその緊張がほぐれて、落ち着いた様子だ。

 無論、終わって無事家に帰ってきたからというのもあるだろうが。


 和樹が風呂に入っている間に、最後の仕上げを準備する。

 今日の夕食は餃子と春巻き、中華風スープとバンバンジーサラダだ。

 和樹の風呂は基本的にとても早いので、時間が読みやすい。

 ちょうど出てきたところで、食事の準備も終わっていた。


「はい、どうぞ。ちょうど準備終わりました」


 時刻を見ると午後六時半。

 この季節はまだ少しだけ空が明るい。


「ん。今日も美味しそうだ」


 和樹はそう言うと席に着く。続いて白雪もご飯をよそってから席に着いた。

 二人で手を合わせて「いただきます」といってから食べ始める。

 この瞬間が、一緒に暮らしていると一番実感できて、わけもなく嬉しい。


 しばらく無言で二人とも食べている。

 和樹の様子を見ると、ほぼいつもと変わらない。

 ただ、変わらないということは、少なくとも悪い結果ではなかったのだろうとは思うが――やはり顛末は少しだけ気になってしまう。

 本来は踏み込むことではないのだろうが――。


「あの……それで、どうだったのでしょうか」


 結局我慢できなかった。

 ただ、和樹もそれを聞いてくることを意外には思ってない様子で、少し考えるような素振りを見せてから。白雪に向き直る。


「まあ、なんだ。行ってよかったよ。ありがとな、白雪」


 そういう和樹の表情には、翳がない。

 本当に心底、そう言っているというのが分かって、白雪はとても嬉しくなった。


「いえ。行くと決めたのは和樹さんです。私は何もしていませんし」

「そうかもだが……いや、やはりありがとうとは言わせてくれ」


 そう言うと、和樹が柔らかな表情で少しだけ嬉しそうに笑う。

 白雪は思わず、心臓の拍動が一段階跳ね上がったかのような錯覚を覚えた。


「白雪が後押ししてくれなければ、俺はまず間違いなく優一と話せてなかった。おかげで、ずっと引っかかってたのようなものが、一気に取れたんだ。それは間違いなく、白雪のおかげだ。ありがとう」

「は、はい……そ、の、お役に立てたなら、よかった、です」


 まともに和樹の顔を見れない。

 多分今の自分が真っ赤になってることを自覚出来ていたが、どうしようもなかった。


(ず、ずっと見てたはずの和樹さんなのに、なんでこんなに動揺してるですか、私)


 あらためて、この人のことが本当に好きなのだと自覚させられる。

 そしてとても素敵な人だということも、改めて実感した。

 そんな人と一緒にいられる事実が、どうしようもなく嬉しくて、頬が緩んでしまう。ただ、さすがにそんな顔を見られるわけにはいかない。


「あ、そ、そうです。その、デザートあるんです」


 慌てて席を立つと、キッチンに移動した。

 まだ食事は全部終わってはいないが、そろそろ出してもいいだろう。

 冷蔵庫を開けると、冷えた冷気が火照った顔に心地よくて、少し落ち着いた気がする。

 一度小さく呼吸をすると、目的のものを取り出した。


「杏仁豆腐です。今日はひたすら中華風です」

「これも……手作りか」

「はい。意外に簡単なんですよ、これは。材料があれば、ですが。私は結構好きなので」


 冷やすのに時間がかかるだけで、食事のデザートに作るなら先に作って冷蔵庫に入れておけばいいので、楽なものだ。


「これも美味しいな……甘さも控えめで」

「お気に召して何よりです」


 ようやく自分が落ち着きを取り戻しているのに、内心安堵する。


 食べ終わってから、和樹が食器を片付け始めた。

 今日は帰ってきたばかりなのだから自分がやると白雪が言ったのだが、このくらいはやらせてくれと言われては断る理由はない。


「そういえば……学校はどうだ? 連休明けたら本格的に講義が始まるだろうが」

「先週ほぼ同じスケジュールで過ごした感じ、無理もなくて大丈夫です。ただ、アルバイトのある火曜日と金曜日は食事が遅くなりますが……」

「別にそれはいいよ。それに、金曜日は翌日バイトじゃなければ、たまに外に食べに行ってもいいしな」


 それはとても嬉しくなる提案で、白雪も断る理由がない。

 この家は歩いて行ける距離でも非常に多種多様な店が多くて、白雪としても行ってみたいお店は多い。

 高校生の時は、雰囲気的に行くのに躊躇するような店もあったが、大学生であればいいと思えるし、和樹が一緒ならなおさら問題はないだろう。


「あと……そうだ」


 和樹は一通り洗い物を終えて、食洗器のスイッチを入れるとリビングに戻ってきた。


「今回のことで、何かお礼させてくれないか」

「え? ……いえ、そんな、私ホントに何もしてませんし」

「白雪がそう思うのと俺がお礼をしたいと思うのはまた別だ。俺がそうしたいと思うんだから、させてくれ。俺にできることなら何でもいいぞ」


 一瞬。

 本当に一瞬だけ、『抱きしめてほしい』などと言いそうになった。

 が、それはいくら何でも――ない。

 というか言ったが最後、多分自分の頭の方が先にショートする気がする。

 頭に浮かびかけた邪念――というしかない――を頭をぶんぶんと振り払って頭の外に追いやった。


 実際、頼めばしてくれるだろうが、それはおそらく家族としてだ。

 だから、それは今はまだ頼めない。


「じゃあ……連休後半、どこか連れて行ってください」

「どこかって……また曖昧だな」

「どこかでいいです。和樹さんと一緒にお出かけできるなら、私は嬉しいですし」

「……わかった」


 やや和樹が難しそうな顔をしている。

 多分、和樹のことだから、それでも白雪が喜びそうな内容プランを考えてくれるのだろう。

 それはそれで嬉しいが、極論、白雪自身は多分和樹と一緒に出掛けるなら、それこそ駅前に一緒に行くのだって嬉しくなる。なんなら、家でずっと一緒にいるのだって、それでも満足できるだろう。


(それが伝わってほしいのです、が)


 多分それはまだ難しい。

 ただそれでも、少しでも和樹が自分のことを考えてくれることが、白雪にとっては何よりも嬉しく思えるのだった。

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