閑話10 もう一つの旅立ち
「いいですか。食べ物には気を付けるのです。それと、大変だと思ったらすぐ連絡するのです。そんなに遠くないから、すぐ駆けつけられますし。あと……」
「あのな……佳織。別に人跡未踏の地に行くわけじゃないんだから」
「そ、そうですけど……」
三月末日の早朝。
佳織は、最寄り駅の改札前に俊夫といた。
これから出発する俊夫を見送るためである。
俊夫はこれから、大学近くのアパートに行って、一人暮らしを始めるのだ。
当該の大学は、都心部から相当外れた地域にあることもあって、学生が入るためのワンルームの物件は豊富で、しかも安い。
ユニットバスではなく、ちゃんとしたお風呂がついていても十分安い物件が多いのは、さすがと言えるだろう。
俊夫が当該の大学に合格が決まったのは、三月五日。
その後すぐに、いくつか目星をつけていた物件を確認し、その一つに決めて、今日からその家に移るのだ。
大きな荷物は先に送ってあるという。
ただ、佳織は俊夫と離れ離れになるのが不安なだけである。
中学の間、確かに俊夫とはほとんど会うこともなかった。
だが、彼が向かいの家にいることは分かっていた。
生まれた時からずっと近くにいた二人が、長期間簡単に会えない距離になるのは、実はこれが初めてなのだ。
会いたいと思えばいつもで会えた相手が、遠く離れてしまうというのが、これほどに不安にさせられるとは、思ってもいなかった。
「長期休みとかには帰って来るって。あるいは佳織が来てくれてもいいしさ」
「うん、でも……いえ、何でもないです」
「そういうところは、相変わらずだよな」
いきなり俊夫が佳織の背に手を回すと、そのまま抱き寄せてきた。
「ちょ、俊夫!? ここは往来……」
「この時間なら、ほとんど人いないって」
確かにその通りだが、全くいないわけではない。
「俊夫はあっちに行くからいいですが、私は噂されるんですよ!?」
「噂されたら、嫌か?」
「そういうこと言うのは、この口ですかね~~~~~」
むにーっと俊夫の頬を抓りあげる。
それに対して俊夫は、笑いながら「痛い痛い」と言ってるが、佳織はしばらくそれをやめなかった。
「大学行って浮気したら、許しませんからね」
「それは……俺より佳織の方が心配だよ」
「な、なんで疑われるんですか、私が」
「佳織、可愛いから」
一瞬で顔が紅潮するのが分かった。
なぜこういう不意打ちをするのか。
「佳織にその気がなくても言い寄ってくる男がいるのは、容易に想像つく。それが不安なんだよな……実は」
「大丈夫です。そういう不届きな輩は、思いっきり蹴り上げます」
どこを、とは言わないが。
俊夫は背筋が寒くなったのか、少しだけ青い顔になっている。
「それに、とりあえず五月の連休には会うでしょう?」
「ま、そうだけどな」
二人の兄と姉、浩一と真奈美は、今度の連休に結婚式を挙げることが決まっている。もちろん、家族として、結婚式には参列する予定だ。
なので、一か月後には必ず会える。
ちなみに、お互いの兄姉に、自分たちが付き合うことになったことは、実はまだ伝えていない。
ただ、勘づかれている気はするが。
「今度は、三年間顔を合わせないってわけじゃないんだしさ」
「分かってます。俊夫は、私がいないと寂しさで体調崩しかねませんし」
「そうだな――」
そういうと俊夫は、もう一度佳織を抱き寄せた。
佳織も抵抗せずに、そのまま俊夫の胸に収まる。
「だから時々、会おう。ま、行こうと思えば、日帰りだって可能だしな」
「……うん」
背に回した腕に力を籠める。
そのぬくもりを忘れないようにするためなのか、二人はしばらくただ、抱き合っていた。
その時、電車の到着を報せる放送が、駅に鳴り響く。
「じゃあ行くよ。またすぐ会おう、佳織」
「はい。ホントに元気で。風邪には気を付けるのですよ」
「おぅ。佳織もな」
それを最後に、俊夫は改札を抜けて、階段を下りてホームに消えた。
それを見届けてからすぐ走り出して駅の外に出ると、それを予想していたのか、俊夫が窓際で手を振っている。
やがて電車は加速して、あっという間に見えなくなった。
しばらく見守り続けていたが、やはり胸には寂しさが募る。
やっと素直になれて、付き合うようになってから半年あまり。
分かっていたとはいえ、離れ離れになるのはやはり寂しい。
これに関しては、好きな人と一緒に住んでいるという白雪が羨ましくなってくる。
もっとも、あっちはあっちで、好きな人と毎日至近距離なのにその気持ちを素直に表せないという、ある意味では生き地獄のような状況という気もするが。
「どっちもどっちですね……もっとも、私達が一緒に住んでいたら……ちょっとダメかもですが」
実は俊夫が一人暮らしをする地域は、近年は交通の便が非常に良くなっているので、俊夫の住む場所から佳織の進学する大学までは、一時間半ほどしかかからない。そして佳織の家からでも、それはほとんど同じ。
なので、俊夫と一緒に住むことはかなり本気で検討したが――今回はやめておいた。
他の人の目がない状況で、二人だけでいつもいたら、多分抑えが利かないだろう。
彼の合格が決まった翌日。
お互いの家族が、兄姉の結婚式の準備のために家を空けたため、佳織は俊夫と二人だけで過ごしている。
そのあとも何度も二人だけで過ごしていた。
あれが毎日となったら……多分勉強がおろそかになるだろう。
その状態だった兄と義姉がちゃんと卒業しているのは、ある意味では尊敬できる気がする。
「うん、だからこの位の方がいいんです、うん」
会えない寂しさは募るが、その分会った時の嬉しさもまた増すだろう。
それに、ある意味立場や状況が違うことで、白雪と恋愛談議ができるかもしれないという楽しみもある。
むしろ――。
「これに関しては雪奈ちゃんが仲間外れになりますね……うーん」
雪奈に関しては、前にいい人がいないかと聞いたことはあるのだが、彼女が彼氏を作らない理由には納得してしまった。
確かに、誠や友哉の様な人が子供の頃から近くにいたら、ちょっと並の男性では、候補外になりそうだ。
「大学でいい出会いがあるといいですけど」
ただ、あの雪奈が恋愛で甘々になってる姿があまり想像できない。
彼女の姉である朱里は、誠と文字通りラブラブだが、同じ状況の雪奈が全く想像できないのは、外見が違い過ぎるからか。
それに朱里に関しても、いちゃついているというか、別に何もしてなくても、お互いのことをわかり合っているという雰囲気があって、本当に、パートナーなのだと感じることもある。この辺りは、付き合ってきてる長さの違いだろうか。
俊夫とそこまでわかり合う仲になれるのだろうかと思うが、そこはもう人は人、自分達は自分達だ。
それに、雪奈には高校生らしい恋愛より、大人になってからの恋愛の方が似合う気がするが――そういう意味では、白雪もまた違うだろう。
というか、白雪に関しては、恋愛するというより、もはや和樹がいるから恋愛ができたという感じすらある。白雪の相手は、他にありえないとすら思えるほどだ。
だからやはり、なんとしてもあそこは成就してほしいが、すぐには難しいだろうということも、よくわかってきた。
「でも、あの姫様にあれだけ好き好きと思われててなびかない月下さんも、相当ですよねぇ。私でも落ちてる自信があるのに」
きっと何か理由があるのだろうとは、雪奈経由で聞きはしたが――だとしたら、そんな事情を抱えた二人だからこそ、結ばれるということもあると思いたい。
何より、そうなってほしい。
俊夫との仲を取り持ってくれた白雪には、返しきれないくらいの恩義を感じているのだから。
「さて、帰りましょう」
まだ朝の六時。
ようやく日が昇り始めた道を、佳織は一人、家路に就いていた。
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