閑話9 不器用な大人
京都市、東山地区の一角。
やや山がちになっており、外から見るとほとんど木々しかないようにも見えるその場所は、外からはやや見えにくいが、大きな屋敷が存在する。
四季折々の木々が色々あって、四季それぞれで色づくその一帯は、季節毎に美しい顔を見せることから、『東山の四季屋敷』と呼ばれることがあるほどだ。
ただ、その敷地に入れる人は非常に限られる。
なぜならその屋敷は、千年を超える昔より皇家を支えてきた名家の一つ、玖条家の中心となる邸宅なのだ。
やや斜面にある玖条邸は、門を抜けるとまず木々のトンネルが迎える。
そしてそれを抜けた一番手前には
敷地だけで、四千坪以上。家の広さは、記録だと延べ床面積で三千平米以上あるとされる。
増改築を繰り返しているので、正確な広さを覚えている者もいない。
その広い家の、斜面の上の方へと上がる通路を歩く人物がいた。
周りには誰もおらず、一人である。
普段であれば、常に執事が付き従うのだが、今回だけは待たせている。
移動を楽にするために、エレベーターやエスカレーターなども設置されているが、彼はそれらを使わずに階段だけで目的の部屋までたどり着いた。
「父上。貫之です。よろしいでしょうか」
「おぅ。入れ」
返事を受けて、男――貫之は扉を開けた。
畳敷きの広い部屋。その奥にある大きな卓で、本を読んでいる人物がいる。
「頼みがあるってことだったが……お前、しばらく東京じゃなかったのか?」
「さすがに他人を介する話ではないと思いましたので」
玖条
玖条家の前当主。すなわち、貫之と白哉の実の父だ。
今年で八十一歳。
先の当主、玖条
妻であり、貫之と白哉の母親でもある玖条
「父上の名義を、貸していただきたく」
「また突然だな……何にだ?」
「白雪に生活費を送金するのに、私の名前ではいささか都合が悪くなったので」
定哉が不思議そうな顔になる。
「今までだってお前の名前で渡していただろう。それがどうして突然そうなる?」
「白雪を勘当しました」
定哉の表情が厳しくなる。
「どういうことだ?」
「白雪に結婚の話をしましたが――それをあれは拒否しました。なので、もう玖条家としては白雪の面倒を見る必要はないという判断です。あれももう、成人となる十八ですし」
「ああ、そういえば……成人年齢が変わったんだっけな」
「はい。ただ、慣例に従い、二十歳までは生活費は出すつもりなのですが、勘当した私が出すのでは格好がつかないので、父上の名義を借りたいと」
すると、定哉がはっきりと、それはもう深く深くため息を吐いた。
「お前な……嘘つく時に、逆に人の目を凝視する癖はやめろと言っただろう……さ、本当のことを話せ、貫之」
「嘘は……言ってないですよ、父上」
「そうか。じゃあ言ってないことを話せ」
しばらくの沈黙。
だが、この父を誤魔化すことができないのは、貫之も分かっていた。
「私が……ちょっと行き過ぎたのだとは思いますが」
そう言うと、貫之は過日の話を、事実だけ述べた。
白雪に夫をあてがおうとしたこと。
しかしその夫が白雪の進路を認めず、しかし白雪がそうせざるを得なくなった結果、命まで断とうとしたこと。
しかし結局――結婚をなかったことにして、白雪を勘当し、今の白雪はあちらで、助けてくれた男性と住むことにしてるらしいということ。
「お前な……相変わらず行き過ぎっていうか真面目過ぎるっていうか……やりすぎだったと反省はしてるんだろうな?」
「……はい」
実際、自分でも止まれなかった。
白雪に対する憎しみは、もはや彼女の心情を慮ることすら出来ないほどに、強く、濃くなっていた。
そしてその結果――白哉の忘れ形見を失う寸前だったことは、貫之にとっても衝撃だったのだ。
「その……月下って人には感謝だな。で、そこまでしたから格好がつかないと」
「はい」
「はーっ。まあいい、そういうことなら。好きにしろ」
「感謝します、父上」
要件はそれで終わりだ。
あとは問題はないだろう。
「ところで、その月下って人と、お前は直接話したんだよな」
「ええ」
「どんな奴だった?」
言われてから、思い返す。
若造と言っていいだろう。
年齢は二十六歳。自分の二人の子供よりさらに年下だ。
ただ、その年齢の割には堂々として、度胸もあった。
あの場面で自分相手に怖気づかないのは、普通できることではない。
「若いですが、悪くはない人物だとは思います。白雪が信頼しているだけはある」
「そうか。……そいつのこと、少しこっちに回してくれ」
「……会ってみるんですか?」
父はもうかなり高齢ではあるが、まだ足腰はしっかりしているし、今でもよく温泉などに遠出はしている。先日は北海道まで行ったらしい。
二十年ほど前、早々に貫之に当主の座を譲ってはいるが、今でもその影響力は健在で、貫之自身、父を越えられたとはまだ思えていない。
「興味が出たらな。それに、白哉の忘れ形見がそこまで信頼してるというなら、白哉の代わりに見定めてやるのは、わしやお前の役割だろう。で、お前のメガネにはかなったようだからな」
「別にそこまでは言ってないですが……」
「お前がそういう人間がほとんどいないって、いい加減自覚しろ? お前は優秀だと思うし自分にも厳しいが、他人にお前と同じ水準を求めすぎるなって、昔から言ってるだろうに」
「肝に銘じます」
定哉はそれを聞くと、小さく笑った。
結局子は、親には勝てないのだとこういう時に思わされる。
「では失礼します、父上」
「ああ。またな」
そう言うと、父の部屋を辞して、貫之は今度は斜面を下るように家の中を移動していく。
ふと、あの時の月下和樹との対話を思い出す。
考えてみたら、普通に白雪の両親の話に和樹も応じていたというのは、後から考えたら奇妙だと気付いた。
それはつまり、白雪から両親のことやその死についても、すでに彼は聞いていたという事だろう。それだけ、白雪が和樹を信頼しているということが、よくわかる。
いつからあの二人が知り合っていたかはわからないが、少なくとも一昨年の秋には文化祭に招待するほどに親しかったのだろう。
実際、白雪が自殺しようとしたというのは、貫之にとっても相当にショックだった。あの後、病院に確認を取ったが、それが事実であることはすでに分かっている。
そしてそれを助けてくれたのが和樹であることも。
そこまで追い詰めるほどだったか、と思うが――そうだったのだろう。
客観的に見ても、そして玖条家としても、少なくとも十色泰は最悪だった。
自分でも、なぜあんなことをしたのかと思うが、目が曇っていたと思うしかない。
もはや修復不可能なほどに、白雪との間には断絶が出来てしまっただろうが、仕方ない。白雪を助けてくれた和樹という存在がなければ、もっと最悪の結果になっていた。
白雪が彼の家に転がり込むのは――やや複雑な感情がなくもないが、白雪が自ら、喜んで行っているだろうというのは、もうわかっている。
多分そうなるだろうとは、どこかで分かっていたし、むしろ期待していたといってもいい。だからあの時『任せた』のだ。
白哉が生きていたら果たしてどうだったのか。
ふと、昔の弟を思い出してみるが、もう分からない。
白哉と最後に話したのは、彼が家を出る直前。もう十九年も前だ。
そういえば、確か今日は白雪の卒業式だと聞いているが――多分あの和樹が親代わりに行ってくれているだろう。
「あなた」
ふと声をかけられて、顔を上げた。
すぐ目の前にいたのは、妻の和佳奈だ。
「十色家から、また何か言ってきたようですけど……大丈夫ですか?」
不安気になる妻の肩に手を置いて、貫之は落ち着かせる。
一方的に婚姻中止を言い渡したので、再三にわたり文句を言ってきている。
式場の準備やらといった実費も発生しておらず、最低限の慰謝料だけは渡しているし、それで終わりなのはお互い確認済みなのだが、まだ何か言ってきているらしい。
だが、これ以上関わるつもりはない。
「大丈夫だ。あの家では、
「それは……そうかも、ですが」
貫之の妻、和佳奈は、それなりに歴史のある名家の一つ、結城家の出身だった。
その美貌で知られた和佳奈には多くの求婚者がいたが、彼女が選んだのが貫之である。
そして、最後まで食い下がったのが、当時の十色家の当主の息子。あの泰の叔父だ。
なんでも当時、十色家から結城家に酷い嫌がらせがあったという。
ただそれも、玖条家――当時の当主である定哉――によって止められたらしいが。
実は貫之は、そういう家があったとは知っていたが、十色家だとは知らなかった。
今回の件――あれは本当に白雪への嫌がらせだったわけだが――が終わった後に、和佳奈から初めて聞いた。
そういう意味でも、今回十色家を持ち出したのは、貫之としては恥じ入るばかりの悪手だった。あるいは向こうからすれば、三十年前の謝罪と思われたかもしれない。
二重の意味で、今回、自分の打った手は最悪だった。
本当に自分がどうにかしてたと思うしかないが、かといって白雪を追い詰めた事実は消えはしない。
おそらくもう、白雪は一生許すことはないだろう。
それに一抹の寂しさを感じていることに、むしろ貫之は意外に感じていた。
「私もまだまだ未熟ということだな」
「何か?」
「何でもない。来週にはまた東京に行く。たまには一緒に来ないか?」
「いいのですか?」
「来るなと言ったことはないが……」
「わかりました、ご一緒します。ようやく、憑き物が落ちたようですし」
「何?」
「気付いていませんでしたか。あなた、ここ数ヶ月の間ずっと、とても難しいお顔をされていたんですよ。まるで苦虫を噛み潰したみたいに」
思わず言葉を失う。
思いつく理由は、一つだけだ。
それはつまり、自分でも納得してなかったということなのだろうか。
だとすれば――。
(若造に今更礼を言う話ではないがな――)
それでも貫之は心の中で、今回のことを止めてくれた、自分の半分にも満たない年齢の青年に、感謝していた。
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