第一部 十六章 望む明日へ
第123話 先への希望と惑う心
「白雪、そっちは大丈夫か?」
「あとちょっとだけ右、あ、和樹さんからは左に……はい、大丈夫です」
二月二十四日。
土曜日の今日は、白雪も和樹も休みとなる。
そこでこの間に、白雪は早速引っ越しを開始していた。
といっても、業者を呼ぶ必要はほぼない。
移動距離があまりにも少なすぎる。
そもそも、あの家のもので持っていけるものは、あまりない。
あの後、夕方には家に帰りついた二人だが、さすがにお互い疲労していることを自覚したので、その日は食事は外で済ませてしまった。
その後、とりあえずお互いの家に戻り、三日ほどは何事もなかった――和樹の家には当然のようにお邪魔していた――が、四日目に玖条家から手紙が届いた。
それに、今白雪が住む家は、三月末日までに退去するように、と書かれていたのである。その期日以後に家にあるものは、全て処分すると書かれていた。
伯父の宣言通りとはいえ、やはり少なからずショックではあった。
ただ、二十歳までは形式上は貫之の扶養に入ってる状態は変わらないらしい。
これも宣言通りなので、当面、医療保険などは気にしなくていいようだ。
結局、あの時に和樹に言ってくれたように、和樹の家に行くことに決めたのは、その翌日。改めて正式に和樹に頼んだところ、むしろとっくにそうなると思ってたと言われてしまっているが。
そして、和樹の手首の包帯が取れるのを待って、引っ越し作業に着手したわけである。
手紙には、現在家にある物は好きに持って行っていいとも書いてあった。
ただ、調度品の類は、どれもあまりに大きすぎて、和樹の家にはオーバーサイズか、そもそもそぐわないし、邪魔になる。
一方、家電類は出来るだけ持っていくことにした。
ただ、冷蔵庫と洗濯機だけはさすがに二人で持ち出すのはは不可能なので、後日業者を呼んで移動してもらうことになっている。今あるものはどちらも、和樹がこの家に住んだ時に買ったものなので、すでに八年経っている。白雪の家にあるものはまだ三年しか経ってないので、せっかくだからと交換することにしたのだ。
他は、オーブンレンジと炊飯器、オーブントースター、ミシンやアイロン、掃除機などである。
和樹も『ほとんどの家電はそろそろ買い替え時だったしな』ということで、この辺りはかなりありがたがっているようだ。
さすがに諦めたのはテレビ。いくら何でも和樹の部屋には大きすぎたので断念した。
白雪の家から持ち出す物で、最も多いのは被服類である。
新しく白雪が使うことになる部屋は、六畳の板張りの部屋。前に美幸と一緒に泊まった部屋だ。
最大の特徴は、ウォークインクローゼットがあること。
最初、持ち出す服は普段着として使っているものなどを含め、必要最小限にするつもりだったが、結局ほとんど持ってきている。
和樹は持ってる服の数が多くないから必要としなかったらしく、そのウォークインクローゼットに入っていたのは客用の布団だけで、ここに白雪の服はほとんど収納できてしまったのだ。
さすがに実家のパーティ用のドレスなどは、今後使うとも思えなかったので厳選して、後は置いていくことにしたが。
最初、居候の自分がこんな場所を使うわけには、と白雪は言ったのだが、使ってないスペースを有効活用してくれと言われてしまっては、返す言葉がなかったので、使わせてもらうことにした。
他に白雪の家から和樹の家に持ってきたのは、白雪が愛用していた机と椅子、寝室にあったローチェストだ。最低限の服はまだ置いてあるが、小さな衣装ケース一つで事足りる。
もちろん、和樹にもらったぬいぐるみなども最後に持ってくるつもりだ。
ちなみに、白雪の家のベッドは持ち込んでいない。入らないわけではないが、装飾類などで場所をとるので邪魔になるからだ。
それなら新しくベッドを買おうかという和樹の提案は、謹んで遠慮した。
いつまでも和樹の世話になるわけにはいかない、というのがその理由だ。
実際、そこまでされたら本当に居付いてしまいそうである。
(本音を言えば……ずっと一緒にいたい、ですけど……)
好きな人と一緒の部屋で過ごすというのは、本当にいいのか、と思うほどに嬉しいと思ってしまう。
ただその一方で、和樹が白雪を一人の女性として、恋愛対象として見ていないのは明らかだ。
そしておそらく、この先も見ることはないと思われる。
でなければ、養子縁組など提案しない。
そう思うと、一気に気持ちが沈んでしまう。
「ここでいいのか、白雪」
和樹の言葉に、白雪ははっとなって顔を上げる。
二人で協力して、白雪の机を運び込み終わったところだった。
「あ、はい。ここでいいです。すみません、お手数をおかけして」
「構わんよ。提案したのは俺だ。このくらいは手伝うさ。冷蔵庫と洗濯機以外の大物はこれで終わりでいいのか?」
「はい。後日の冷蔵庫と洗濯機以外は、あの家の大きいものは要りません。残る物は小物だけなので、私一人で大丈夫です」
持ってくるつもりの物で残るのは、被服類の一部、洗面道具やお風呂の消耗品、それに本や教科書類など、自分一人で何とかなるものばかりだ。ほかに少しだけ、花瓶などは頂戴する予定だが。
「これで何とか……ですね」
「そうだな。日当たりに関してだけは、我慢してもらうしかないが」
和樹の寝室には東と北に窓がある。
と言っても、北の窓は共用廊下に面しており、型ガラス――表面がデコボコした見通しの利かないガラス――になっており、採光は申し訳程度だが、東側は開けており、眺めもそれなりだ。
朝日が差し込む方向であり、このおかげで意外に昼間は明るい部屋である。
一方、廊下を挟んで向かい側の新しい白雪の部屋は、北側の窓しかなく、共用廊下に面しているので、眺望や採光という点ではないも同然。
部屋の広さ自体は同じ六畳で、ウォークインクローゼットがある分便利だが、部屋の快適性という点ではやや劣る。
「いえ。私にはこれでも贅沢過ぎるくらいです。それに、陽が射さないということは、暑くなりすぎないという事でもありますし」
「それでも夏は無理だからな。エアコンだけは調達するぞ」
最大の問題は、当該の部屋にはエアコンがないことである。
そのため、冬の寒さはまだしも夏はさすがに異様に暑くなるらしい。
泊りの来客――誠たちや家族――がある場合はその部屋を使っていたらしいが、夏はそういう理由で、来たとしてもリビングで寝てもらっていたという。
白雪の家から空調も移動できればいいのだが、実はあの家にはエアコンがない。
いわゆる全館空調のため、個別にエアコンが設置されてはいないのだ。
もっとも、仮にあっても出力過剰だっただろうが。
「でもそんな費用……夏本当にまずい時はリビングでも……」
「元々あった方がいいと思ってはいたから、いい機会だ。リビングで寝られたら、それはそれで色々困る気がするからな。それに今なら季節外れで、新機種が出るタイミングだから、現行機種は少し安く手に入る。時間ありそうだし、この後行くか」
「え。今日すぐですか」
「後回しにする理由もないからな。工事とかもあるし」
といっても、配管工事などは不要だ。
このマンションはエアコンを設置するための穴などは最初から開いている。
設置しない場合は塞いであるが。
「わかりました。えっと……あと、お昼はどうしましょうか」
現在時刻は十二時半。そろそろお昼ご飯にしたいところだが、今日は特に準備をしていない。冷蔵庫の入れ替えがあるので在庫はかなり絞っているが、それでも何かはあるはずだから、それで手早くというところだろうか。
「どうせだから外に食べに行こう。この時間だとちょっと混んでるかもしれないが、入れるところはあるだろうし」
「あの、でも……」
その流れだと、お金を出すのは和樹になる。
以前だとそこまで気にしなかったが、居候するとなると逆に気になってしまう。
そしてその考え自体は和樹にも伝わったらしいが――。
「気にするな。一月あまり、白雪の悩みに気付いてやれなかったっていう負い目を勝手に俺が感じてるから、少しくらいなにかしてやりたいんだ」
「え、あの、それこそ和樹さんには……」
「言ったろ。勝手に俺がそう感じてるだけだ。白雪は気にするな」
それこそ無理というものである。
(私は、いったいどうやって、和樹さんに恩返しすればいいのですか……)
最近の白雪の思考はほとんどそれに占められている。
あの絶望的な状況を覆せたのは、和樹のおかげだ。
彼がいなければ、今頃自分は――仮にあの時に自ら死を選んでいなくても――生きていないかもしれない。
二年半前に事故に遭いかけた白雪を救ってくれた和樹。
それからの月日で彼に受けた恩は、もはや白雪では一生かけても返せないのではないかと思えるほどだ。
冗談抜きで、自分自身を捧げると言いたくなるが、それを言っても迷惑をかけるのが確定なので、それもできない。
結局、彼が
正しくはそれで無理矢理自分を納得させている。
それに、何より。
「んじゃ、出かけようか、白雪」
「はい、和樹さん」
結局のところ、和樹と一緒にいられるだけで、どうしようもなく嬉しくなる自分を再確認してしまうことになる白雪だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「工事は一週間後か。まあ白雪の完全引っ越しは、その後かな」
「そうですね。正直、もうほとんど終わってるようなものですが……」
白雪の家に残っている物自体は多いが、大半はそのまま置いていくつもりの物である。ちなみに冷蔵庫と洗濯機は明後日移動の予定だ。
実のところ、もう元の家はお風呂に入って寝る以外のことはほとんどできないくらいになっている。朝起きたら、着替えてすぐ和樹の家に来ているのだ。
さすがに消耗品の類は全部使い切るか、あるいは持ってくることにしているが、それとてたいした量はない。
台所用品などはすべて持ってきている。
多分、もうあの台所を使うことはないだろう。
あとは最後に掃除をしておこうとは思っているが、その気になれば今日にでも完全に移動することも可能だろう。
なお、今年のバレンタインと誕生日は、結局うやむやになってしまっている。
あんなことがあっては仕方ない。
ちなみに和樹は本当は、今年の誕生日プレゼントは白雪が大学で使うカバンを買おうとしていたらしい。
ただ、本人が選ぶ方がいいだろうと、一緒に買いに行くと言っていたが、現状いったん保留にしてもらっている。
これ以上されると、本当に一生恩を返せない気がしてきてしまう。
和樹はしっかり覚えていて、今日もカバンを見るかどうか聞かれたが、とりあえずまだ、とだけ答えてまだ保留にしたところだ。
和樹と一緒にいられるのは嬉しくて仕方ないのだが、一方でどう考えても、和樹のこの先を考えたら、自分は完全にお荷物状態だ。
だから、一日も早く出ていくことを考えるべきなのだが、そうしたくない自分がいるのもまた、事実。
ある意味、これも進退窮まったと言えるが――前とは条件が違い過ぎる。
(とりあえず、大学に……新生活に慣れるまでは……うん)
逃げるように自分を納得させるしかない。
一緒に居られて嬉しいという気持ちと、一緒にいてはならないと自分を責める気持ちが、それこそ一瞬毎に交互に襲ってくる。
最終的には、和樹と一緒にいられる嬉しさが全面勝利してしまい、自分の意志の弱さにあきれてしまう。
「さて、と。これからどうする?」
「そうですね……ご飯の準備はするとして、少し買い足さないといけない食材を買って帰りましょう。あとは片づけを……あら?」
「どうした?」
「雪奈さんからメッセージが……あ、佳織さんからも来てる」
そういえば今日は全然スマホを見ていなかった。
和樹といると、ついつい忘れがちになる。
メッセージを開いてみると、そこに書いてあったのは――。
「雪奈さん、志望大学に合格したって。佳織さんも!」
嬉しくて、和樹の方に向き直ると、彼も少し驚いたような顔になった後、相好を崩す。
「よかったな、本当に」
「はいっ」
急ぎ返事をその場で入力すると、送信する。
「あとは……唐木君、だったかな?」
「彼は……どうなんでしょうか。国公立を狙っているという話でしたから、もう少し発表は遅いと思いますが」
私立大学に比べ、国公立大学は合格の発表が遅い。
試験自体は、そろそろ実施されているはずではあるが。
その意味では、佳織は少し寂しい思いをしているのかもしれないが、家が近所だからいつでも会えるといえば会えるのだろう。
それに、来週には卒業式がある。
それで――白雪たちの高校生活は終わりを告げる。
あれほど絶望的だと思えていた高校生活の終わりで、このような気持ちになっているとは、想像もできなかった。
不安もなくはないが、今は、これから始まる新生活への期待の方が、はるかに大きい。
もちろん、和樹への恋心が実らないという現実はあれど――。
それでもなお、やはり今の状況は、白雪にとっては理想に近い環境だった。
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