第122話 白雪の去就

 和樹が病院に着いたのは、十二時半前。

 すんなり面会できるかどうか少しだけ不安があったが、ほとんど顔パスに近い状態で通された。これはこれで複雑な気持ちにはなるが。


 昨日飛び込んだ病室の扉の前に来ると、少しだけあの時の緊迫感が思い出される。大丈夫だとは思っても、なぜか少しだけ不安になってしまった。

 コンコン、とノックして「和樹だ。入っていいかな」というと、すぐに扉が小さく開いて白雪が顔を出した。


 服装は、いつもの白雪らしい、クリーム色のブラウスにチェック柄のフレアスカート。その上に淡いピンクのニットを着ている。二月のこの時期なので、それにダッフルコートが置いてあった。

 顔色は、朝見た時よりもさらに回復しているようだ。

 白雪は扉を開くと、和樹を部屋に招き入れた。


「和樹さん。来てくださったのですね。なんか、スーツ姿は久しぶりです」

「まあそうだな……しかし白雪、服はどうしたんだ?」


 誰かが家から持ってきてくれたということはないはずだ。

 あるとしたら、玖条家別邸に白雪の服がまだあったのか、あるいは――。


「これ、昨日の服です。その、病院の方が洗って下さって。あ、下着だけは買ってきていただきましたが」

「そ、そうか」


 そこまで説明を求めたつもりはなかったが、思わず赤面してしまいそうになる。


「もう検査は終わったのか?」

「結果待ちです。ただ、多分大丈夫だろうから、帰り支度はしていいと言われました」

「なるほど。荷物……はあまりないか」

「元々、泊りがけというつもりもありませんでしたし……」


 白雪がどういうつもりで昨日に玖条家別邸に行っていたのかは、正確なところは分からない。

 おそらくは結婚の中止または延期か、自身の大学進学を認めてもらうためだったのだろうとは思うが――結果としては、それは叶えられたのは間違いないだろう。

 結婚は中止が確定したし、元々、結婚相手が京都に住むから大学に行けないという事態になっていたのだろうから、結婚中止は認めて大学進学は認めないというのはないはずだ。


「えっと……和樹さんは、その、伯父に会っていた……んですよね」

「そうだな。そっちから直接ここに来たんだ。玖条家別邸からは、歩いても三十分くらいだしな」

「あ、そんなに近かったのですか」


 昨日倒れて、病室で目覚めたので、自分がどこにいるのか把握していなかったらしい。


「ああ。それで、ちょうど良さそうなので一緒に帰ろうかと思ってな」

「あの、それで……どういうお話をされたのでしょうか」


 白雪が聞きたがるのは当然だろう。

 和樹と貫之が話すのに、白雪が無関係のはずはない。

 そしてもちろん、黙っている理由もない。


「まあ……色々話したけど、白雪に言うべきことは一つかな。白雪の今回の結婚の話、取りやめてくれることになったよ」

「え?」


 白雪が呆然として立ち尽くしていた。

 本当に何を言われたのか、理解しきれていないようだ。


「え、えっと、どういう……?」

「だからそのままの意味だ。君の伯父が進めていた縁談を、中止してくれることになった。もちろん、君の両親の墓もそのままだ」

「う、そ……」


 白雪が両手で口を覆って、驚いたように目を見張る。


「勝手なことをしたかもしれないが、多分こうするのが一番だと……とっ」


 いきなり白雪が抱き着いてきた。

 そして次の瞬間、ポロポロと、白雪の目から涙があふれだす。

 しかしそれを拭うこともしないで、白雪はそのまま強く強く抱き着いてくる。

 和樹は一瞬戸惑うが、それから肩と頭に手を置いて、軽くぽんぽんと叩くと、白雪は涙で濡れた顔を上げた。


「い、いったいどうやったんですか。和樹さんって、本当は魔法使いだったりしたのですか」


 そう言われるとは思わなかったので、和樹は思わず吹き出してしまった。


「さすがにそれはないな。というかそういう発想が出るのはさすがというか」

「でもじゃあ、いったいどうやってあの伯父を納得させたのですか」


 言うのは簡単だが――多分それこそ、本来は和樹が踏み込むべきではない領域だ。

 それは、白雪と貫之の間で話し合うべきことだろう。


「多分、白雪も伯父さんも、言葉が足りてなかったんだとは思うよ。まあ、お互いかなり頑固で強情だったというのもあるだろうけどな」


 白雪の顔が困惑気味になって、疑問符が浮かんでいるのが見えるようだ。

 だが、これ以上のヒントは出すべきではないだろう。


 なおも白雪が首を傾げていたところに、控えめなノックの音が響いた。


「はい、どうぞ」


 現れたのは看護師だ。


「失礼します。玖条さん。玖条貫之という方がお見えになってます。どうされますか?」

「え?! 伯父が……?」


 白雪は考え込む様に顔を下に向ける。

 だが、すぐに顔を上げると、はっきりと「お通ししてください」と言った。

 それを受けて、看護師が去っていく。

 その間に白雪はハンカチで涙を拭っていた。


「いいのか?」

「今、和樹さんが言ったばかりじゃないですか。確かに、私も伯父とちゃんと向き合ったことはなかったと思えますし……それに、先の話を、ちゃんと伯父の口から聞きたいというのもあります」


 確かに、部外者の和樹より、直接聞いた方がより信じられるだろう。

 まさか、わずか一時間前の話を覆しに来たとも思えない。


 ややあって、扉がノックされる。


「白雪。貫之だ。入っていいか」

「はい、どうぞ」


 スライド式の扉が開き、現れたのはもちろん玖条貫之本人だ。

 すぐ後ろに先ほども会った執事が控えているが、彼は部屋には入らず、貫之だけが部屋に入ってくる。


 その貫之は、和樹を一瞥したが何も言うことはなく、白雪に向き合った。


「もう、こちらの月下殿に聞いたかもしれないが、お前と十色泰殿との結婚の話は、正式に断ることにした。すでに先方には連絡済みだ」

「ありがとう、ございます」

「礼はいい。やや強引だったのは否めん。だが、お前の存在は、玖条家にとってさしたる利がないということもまた、事実になった」

「え……ちょっと待ってください、それは」

「早とちりするな。もうあの墓に手出しはしない。また、お前が大学に行くために渡した費用も、そのまま学費にてるがいい」


 墓に手を出さない、というより出せないのは予想の範囲内だ。

 ただ、貫之にも面子は在る。

 白雪こども相手にという気はしなくもないが、このまま我儘を許せるほど、白雪を認めているわけではないはずだ。

 なのですんなりと引き下がるとは思えず、大学の学費については、納入済みの初年度の分はともかく、それ以降は奨学金なりで自分で何とかしろというくらいはあるかと思ったのだが、それもしないらしい。

 予想以上に温情をかけてくれたかと思ったが――。


「だが、お前の生活の面倒を見る必要は、もうないと判断する。お前は昨日で成人だ。少なくとも、玖条家の庇護は不要だろう。判例に従って、二十歳までは生活費は渡すが、あの家も来月末で引き払わせる。その前に自力で何とかするがいい」

「え……」

「伝えるべきことは以上だ」


 事実上の勘当宣言。

 もっとも、現在の法律上は、勘当という制度はない。

 親子の縁を切る方法は、かなり特別な場合にしか存在しない。


 だが、白雪はそもそも、貫之の娘ではない。

 対外的には、貫之は両親を失った姪を『善意で』育てていたに過ぎないのだ。

 これで養子縁組でもしていれば話は別だが、それはしていないはずだ。

 そしてこの場合のこの言葉は、事実上白雪に今後一人で生きていけ、と宣言したに等しい。

 だが白雪はすでに成人年齢に達しているので、保護者としての責任放棄とはみなされない。

 とはいえ、高校を卒業する直前の娘に対する仕打ちとしては、普通ならかなり苛烈で、容赦のないモノだろう。


 ただ、白雪はそれでも、それに何一つ文句を言うことはなく、深々と頭を下げた。


「今まで十年間、父と母を失った私を育てて下さり、ありがとうございました」

「もうお前は、玖条家の人間ではない。どこへなりと好きに行くがよい」


 それだけ言うと、貫之はきびすを返し、振り返ることなく病室を出て行く。

 すれ違いざまに一瞬、和樹に対して一言だけ発して、そのまま去って行った。

 扉が閉まる寸前、執事がもう一度深く一礼しているのが見え、それを最後に扉が完全に閉まる。


 和樹はそれを見送りつつ、本当に不器用な人だ、と改めて思わされた。

 今の宣言は確かに厳しいものだが、見方を変えれば、白雪を玖条家のしがらみから解き放つことも意味する。

 それを、ああいう言い方しかできないのだから、不器用と思わずにはいられない。


 振り返ると、茫然として立ち尽くした白雪がいた。

 貫之が出て行ったことで、緊張の糸が途切れたのか。

 ひどく所在なさげに、視線がさまよっている。


「どう……しましょうかね……まず、おうち探して……ああ、でも、生活費をどうするかも……」

「白雪」

「学費があるだけマシ……ですし、大学は何とか頑張ります、うん。だから、あとはアルバイトで……大学の近くのアパートとか探さないとですね」

「白雪、落ち着け」


 和樹はおろおろと混乱する白雪の両肩に手を置いて、正面を向かせる。

 顔を上げた白雪は、ひどく不安気な表情になっていた。

 当然だろう。

 自分が望んだ場所ではなかったとはいえ、いきなり足場を失ったようなものだ。

 高校生の身で、それが不安ではないはずがない。

 落ち着いて考えれば多分何とかなるのだろうが、その知識も経験も、今の白雪にはない。身一つで放り出されたに等しい状態が、とてつもなく不安なのはわかる。


「だってこのままだと私、学校は行けても……」

「いいから落ち着け。先の話の通りなら、どの程度か分からないが、二十歳になるまでは生活費の面倒は見てくれると言ってくれているんだ。慌てる必要はない。まだ二年もある」

「そ、それはそうですが……。でもその先、私みたいな世間知らずが一人で生きて行けるかなんて、全然自信ないですし」


 なおも不安そうにする白雪に、和樹は一度肩に置いた手でそのままぽんぽんと叩いてから、大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。


「うちに来ると良い、白雪」

「え?」


 白雪は何を言われたのか理解できなかったのか、茫然としている。

 だが多分、これが正解だろう。

 世間的には何か言われる可能性は否定できないが、少なくとも法律上は、この選択は問題はないはずだ。

 それに、先ほどの貫之の言葉。あれは確かに『あとは任せた』と言っていた。

 その意味するところは、やはりこれが正しいと思える。


「大学に近いし、今までの生活とほとんど変わらない環境にできる。まあ、多少どころではなく狭くなるし……俺と住むのが嫌でなければ、だが」


 すると白雪は、首がもげるのではないかという勢いで横に振った。


「嫌じゃありません。そうなったら……嬉しいです、嬉しいと思ってました。でも、ご迷惑です。どう考えても」

「その俺がいいと言っているんだから、迷惑ってのはなしだ。前にも言っただろう。家族なんだってな。だったら、一緒に住むのもありだろう」

「でもだって、確かに家族の様にお慕いしてますけど、でも、実際には違うから、そんな他人が」


 和樹は軽く拳を握って、白雪の頭をこつん、と小突く。


「他人じゃない。俺も、白雪がいつもいる日常に、すっかり馴染んでいる。そして俺にとっても、白雪はもう大切な家族だ。その家族が困っていて、それを俺が何とかできるんだから、その手助けをさせてくれ。幸い、俺の家は部屋が余ってるしな」

「で、でも……」

「何なら、養子縁組でもするか? 確かあれは養い親が二十歳以上で、かつ年上なら条件を満たすはずだ」

「え……い、いえ、それは……」

「まあそんな形式は別に俺も気にしないが、外聞が気になるならそれでもいいと俺は思ってるくらいだ。だから、迷惑ってことは、絶対にない」


 白雪はなおも迷っているようだった。

 実際、白雪の性格だとこれを素直に受け入れるのは難しいのかもしれないが、ここまで言って断られるのは、和樹としても受け入れがたい。

 なんとか他に説得の材料を――と考えて、和樹はふと、あることを思い出した。

 そして財布から、一枚の紙片を取り出す。


「じゃ、これで『お願い』することにしよう」

「え……」


 和樹が取り出したのは、去年の和樹の誕生日の時、白雪が渡したもの。

 白雪の字で『なんでもお願いを聞きます』と書かれた、手作りの紙。


「白雪。そうだな……うちの居候いそうろうになってくれ」


 その言い回しが予想外だったのか、白雪が唖然としている。


「あくまで白雪がいいと思うなら、という前提ではあるんだが……居候になってもらえるか?」

「ズルい、です。そんなこと言われたら、断れない、です」


 白雪は一度俯いて手で顔を覆って、それから手を下すと、前でキュッと握り締めた。そしてゆっくりと顔を上げて、和樹に向き直る。


「はい、和樹さんの家に、居候させていただきます」


 そういって微笑む白雪が、和樹にはこの上なく美しく思えた。


―――――――――――――――――――――――

 陰鬱だったこの章もやっと終わりました。

 というわけで、ついに一緒に住むことに。

 法的には成年扱いなので、問題はないなはず。

 まあ、白雪はすでに親がいませんから、元々グレーゾーンでしたが。

 でも、この状態でまだ付き合ってないんですよ、この二人……。

 次章は第一部から第二部につなぐための、エピローグ的な話です。


 ちなみに、現行民法では、白雪が家庭裁判所に申し立てれば、貫之に扶養義務があるとみなされる可能性は高いです。その場合、白雪が自立するまで(つまり大学を卒業して就職するまで)は扶養する必要が生じることになります。

 ただ、白雪がその申し立てをすることはないでしょうが。

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