第119話 本当の事情
「では、今日はここにいていいですから。何かあったら、すぐ呼んでください」
看護師と医師はそう言って、病室を出て行った。
和樹はそれに一礼すると、振り返る。
その視線の先には、
他には誰もいない。
部屋の照明は間接照明だけにしてあるのでやや暗いが、それでもなお、白雪の表情が
あの後、病院は結局大騒ぎになってしまった。
自殺未遂などということが起きたのだから、仕方ない。
幸い、未遂で終わったこと、夜だったのもあって他の入院患者には気付かれなかったこと、白雪がもうそういうことをしないから、ここだけに留めてほしいと必死に頼んだことで、警察沙汰にもならず、玖条家への連絡もしないで済ませてくれた。
ただ、白雪が和樹に一緒にいてほしいと希望したため、和樹も結局、今夜はこの病室で過ごすことになってしまったのである。
もっとも、この状態の白雪を置いて帰るつもりは、和樹にも毛頭ない。
赤の他人である和樹と白雪を二人きりにしてるのは、病院としては破格の対応だろう。逆に言えば、それだけ白雪が和樹を信頼し、頼っているのが、分かりやすかったということでもあるが。
看護師と医師が去ると、部屋に静寂が訪れる。
今度は何かしでかさないように、ベランダに出る扉は別の鍵が付けられてロックされたし、白雪の状態をモニターするための医療機器が繋がれていた。
外せばすぐ、看護師がやってくるだろう。
「大丈夫……ではないのだろうが、今はとりあえず落ち着いたか?」
「……はい。ご迷惑を……おかけしました」
あらためて白雪を見るが、驚くほどにやつれていて、本当に白雪かと思うほどだ。
最後に見たのはほんの二日前のはずなのに、別人の様ですらある。
その美貌は確かに白雪なのだが、その目は何も見えてないかのように、曇っていて、生気を感じない。アニメの表現でいうなら、文字通りハイライトがない、という感じだが、実際にこんな表情になる人間を、和樹はほとんど見たことがない。
しいて言うなら――十数年前、事故で親を亡くした時の友人くらいか。
「どうして、とは聞かない。ある程度は……想像がつく」
「え……?」
「十色泰という男と、結婚させられるから、だろう?」
その言葉に、白雪の表情にわずかに変化が生じる。
さすがにその名前が和樹の口から出たのには、驚いたらしい。
「ちょっと事情通から話を聞いてな。大学にも行けなくなりそうだと聞いた。それで、白雪を探していたんだ。まさかこんな形になるとは思わなかったが。このところずっと、白雪が落ち込んでいたのが気になってて、そこに来てすごく嫌な感じがしたからな……間に合ってよかったよ」
本当に間一髪だった。
あと十秒、いや、五秒も遅ければ、手遅れだっただろう。
自分の勘の良さを呪ったこともあったが、今は本当に感謝したい。
「ごめんなさい……そんな怪我までさせて」
和樹の左手首には、包帯が巻かれている。
白雪を受け止めた時に捻ってしまい、今は湿布が貼ってあるのだ。
骨には異常はなかったらしいが、今も鈍く痛む。とはいえ、さほど腫れてるわけでもなく、数日で治るとのことなので、いつぞやの足よりよほど軽傷だ。
「この程度は気にしなくていい。ただ、一つだけ教えてほしい」
「何を……でしょうか」
「一体何があって、君は玖条家に……伯父に逆らわないんだ?」
その言葉は、白雪には予想外だったらしい。
驚きで目が見開かれている。
「何が……って……」
「普通に考えれば、玖条家に生活を依存しているから、と考える。だが白雪は、すぐには難しいだろうが、一人で生活することだってできるだろう。実際、君のご両親はそうやった。その覚悟を知っている君が、それでもなお、望まない結婚を強いられてまで玖条家に従う理由が、俺には分からない」
今回の結婚を拒否すれば、玖条家から追い出される、というのは考えられる。
だが、白雪がいくら成人年齢に達したとはいえ、確か判例では二十歳までは保護義務があるとされているらしい。
学費が出してもらえないという可能性はあるが、白雪の実力なら、奨学金などで何とかする方法だってあるはずだ。
少なくとも、自ら命を断とうとするほどに追い詰められてまで、玖条家に逆らわないというのは、明らかに違う理由があるとしか思えなかった。
和樹の言葉に、白雪はうつむいたままだ。
部屋の暗さもあって表情はよくわからないが、言うべきかどうかを迷っているように見える。
そして、たっぷり一分は沈黙が続いた後、小さく白雪の口が開いた。
「……お墓、です」
「お墓?」
白雪は小さく頷いた。
それから、わずかに顔を上げる。
「両親のお墓です。無理を言って、両親二人を一緒にしてもらったってお話したの、覚えているでしょうか」
「もちろん。忘れるはずがない」
「私が玖条家に――伯父に逆らえば、伯父は父だけを京都に移すと言っているんです。もう死んでいる人なのに、と思われるかもしれませんが……でもそれが、私にはとても耐えられないことなんです。本当にバカなのだと、わかってはいるのですが」
その白雪の顔は、本当に悲しみに満ちていた。
それをみて、『死んだ人のことなんて気にするな』などとは、言えない。言えるはずもない。
それに、あのお墓に込めた白雪の想いを、和樹はよく知っている。
だから和樹は、ゆっくりと首を横に振った。
「そんなことはない。少なくとも俺は、白雪が両親のことをどれだけ大切に思っているか、少しなりとも知っている。君が、あのお墓にどれだけ思い入れがあるかもな。だがそれでも、命を断つようなことをしては、ダメだ。それは、両親が一番望まないと、君にだってわかるだろう」
「……はい」
その返事と共に、白雪が再びポロポロと泣き始めてしまう。
和樹は慌ててハンカチを白雪に渡そうとするが、白雪は受け取らずにただ泣き続けた。仕方ないので、そのまま涙をハンカチで拭う。
「どうしようもないって……思っちゃったんです。私ではもう、どうにもできないって。でも、結婚しても、多分すぐそうなると思ったら……これなら、そんな思いはしなくていいし、きっとお墓もそのままだろうから、これしかないって……」
和樹は白雪を抱き寄せた。
そのまま、頭を撫で続ける。
白雪は抵抗せずに、ただ小さく嗚咽を漏らしていた。
十色泰と結婚しても、その生活は地獄になる。すぐに終わりを選ぶなら、今この場で、と思ってしまったという事だろう。そしてさすがに、白雪がそういう事態になれば、貫之も墓をわざわざ分けることはしないと思ったということか。
そこまで彼女を追い詰めてしまった白雪の周囲の大人に、和樹は怒りすら覚えていた。無関係かどうかなど、どうでもいい。
本音を言えば、全員叩き伏せたいほどだ。
ただそれでも、そう考えてしまって、さらにそれを実行してしまう白雪には、ある意味では呆れつつも感心もしてしまう。
「白雪は我慢強いというか……強情というかだな。ずっと一人で抱え込んで……そのくせ、決めたらまっすぐというか。まあ、今に始まったことじゃないが」
腕の中で、白雪がわずかに身じろぎした。
「え……そ、そう……ですか?」
「ああ。だから、俺も白雪がいる日常が当たり前になってしまったんだろうな。だが、こういう方向性は良くない」
「……はい」
それから、和樹は白雪を離すと、ベッドに寝かせる。
「とにかく今日は休め。そして、後は俺に任せてほしい」
「え、あの、でも、和樹さんは、何の関係も……」
「ここまで来てそれはなしだ、白雪。少なくとも、家族だと思ってる年下の女の子がこんなにまでなってて、それを『実際は他人だから』で無視できるとは思われたくなないぞ」
「でも……」
「大丈夫だ。別に暴力でどうにかなるとか思ってはいない」
「そ、そこまでは思ってませんが……」
「とにかく今日は寝よう。俺もまあ、疲れたしな」
和樹はそういうと、ベッドから立ち上がる。
寝るのは、ベッドの横にあるソファのつもりだ。
病院が毛布も用意してくれていた。
「今夜はここにいるよ。だから、白雪もちゃんと休め。そして頼むから、もうバカなことは考えないでくれ」
「……はい。わかりました」
そう言った白雪の目には、少しだけ生気が戻ってる様に見えた。
さすがに、今日は大丈夫だろう。
「寝る前に、ちょっと電話してくる」
「はい。戻ってきてください、ね?」
「ああ、もちろんだ」
そういうと、和樹は一度病室を出た。
そして電話利用可能エリアに行くと、時間をまず確認する。
夜の二十三時前。まだギリギリ大丈夫だろう。
電話帳アプリを起動して、和樹はある名前をタップした。
数回のコール音の後、通話が繋がる。
『こんな時間に、珍しいな。和樹』
「友哉、遅くにすまんな。ちょっと聞きたいことがあるんだが」
『なんだ? 法律がらみか?』
「そんなとこだ。ネットでも調べられるかもだが、さすがにお前に聞いた方が早いと思ってな。実は――」
一通り聞きたいことを聞いた後、和樹は礼を言って電話を切る。
そして今度は、別の番号にかけた。
時間が時間なので、もしかしたら出ないかと思ったが、コール二回ですぐ通話がつながる。
『どちら様でしょうか』
きわめて事務的な声。
今日、一度かけた時は全く取り合ってくれなかった相手だ。
だが、今度はそういうわけにはいかない。
「月下和樹と言います。玖条貫之氏とお話がしたいので、取り次いでいただけないでしょうか。可能なら、直接お会いしたい」
『失礼ながら、お取次する理由がありません。必要であれば、正規の手続きを踏んでから再度』
「俺は今、玖条白雪と一緒にいる。彼女のことで、話したいことがある」
相手の言葉を遮った和樹の言葉に、向こう側はやはり戸惑ったらしい。和樹の推測通りなら、この電話の相手も、今の白雪の状況をある程度は知っている。
面会謝絶状態の彼女と一緒にいるというのは、無視できないはずだ。
わずかな動揺が、通話の向こう側から感じ取れる。
『しばらくお待ちください』
そのまま沈黙が訪れる。
待ったのは、二、三分というところか。
『お待たせいたしました、月下和樹様。旦那様が、明日であればお会いするそうです。場所は玖条家別邸。明日の午前十一時でよろしいでしょうか。また、別邸の場所はお判りでしょうか?』
「場所は分かります。わかりました。必ず伺います」
それで通話は切れる。
「明日……か」
どういう話になるかは分からない。
だが、言いたいことは言わせてもらう。
それに、先ほど友哉から聞いたことは、一つの打開策の可能性になるだろう。
和樹はスマホをしまうと、白雪の病室に戻った。
「お帰りなさい、和樹さん」
「ああ。さ、もう寝ようか」
そういうと、和樹はソファに沈みこんだ。
多分だが、ここは特別な病室なのだろう。ソファも、どう考えても一級品だ。これなら、変に眠れないということはなさそうである。
和樹が横になったのを見て、白雪が消灯の操作をする。
部屋は大分暗くなるが、それでもいくつかの非常灯が点いているので、何も見えないというほどにはならない。
「考えてみたら、同じ部屋で一緒に寝るのって、初めてですね」
「その言い方はなんか違う意味にとられるからやめなさい」
「はい、すみません」
そういうと、白雪は少し笑ったようだ。
その声は、少しだけ以前の白雪を思わせた。
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