第117話 終わる決意
ピ、ピ、ピ、という定期的な電子音のかすかな音で、白雪の意識はゆっくりと浮上してきた。
開いた瞬間、その目に飛び込んでくる光を警戒したが――意外にもそれほど眩しいと思う状況にはならなかった。
どうやら、部屋はかなり暗く保たれているらしい。
(ここは……病院?)
暗いながらも清潔に保たれていると分かる部屋は、かなり広く、そして顔を動かしてみても、今白雪が眠っているベッドと、すぐ横にソファの様な長椅子がある以外、あまり調度品がない。
その一方で、壁に洗面台があるのが見えたので、こういう構造は普通の家ではないだろう。
それに見上げると、自分にいくつかの機器のコードが繋がれているのが分かる。どう見ても、医療機器の類だ。
(そっか……私、倒れたんだ)
意識を失う前のことが、少しずつ思い出されてくる。
もうどうしようもなくなって、全てを諦めて婚姻届にサインしようとして――直後に、体中に異常が起きたように思えた。
それで意識を失ってしまったのだろう。
だとすれば、あの後どうなったのかが気になるが――それを教えてくれそうな人は、いない。というよりは周囲には誰もいない。
あれからどのくらい経ったのかが分からないが、そんなに時間が経ってるとは思えない。何日も気を失っていたら、もう少し大仰な病室にいる気がする。
今が何時なのかを知りたいと思ったが、視線を動かせる範囲に、時刻が分かるようなものも見当たらない。壁に時計があるように見えるが、暗くてよく見えない。
少しずつ覚醒してきた意識に伴い、少なくとも身体に痛みはないことから、怪我はしていないことが分かる。
服は、入院患者用の服と思われるものを着させられていた。
(どこの……病院でしょうか)
さすがに、どこの病院なのかは全く分からない。
顔を動かすと、大きな両開きと思われるガラス戸が見えた。カーテンがかかっているが、薄いレース生地なので部屋が暗い今なら透けて外が見える。どうやらすぐ外はベランダになってるようだ。
ただ、ベランダの柵が見える以外は空しか見えないので、どこかは分からない。とりあえず、そこそこの高さのある場所だとはわかる。
(誰か……いないのでしょうか)
そう思った直後に、そういえばこういう時は、ナースコールのボタンを押せば看護師が来てくれることを思い出した。
頭を動かすと、すぐ近くにそれだと分かるボタンがある。
なんとか右腕を動かして、そのボタンを押した。
すると、一分と待たずに、扉が開いたと思われる音が聞こえてきた。
「あ、玖条さん、気付いたのですね」
現れたのは、女性の看護師だ。三十歳くらいだろうか。少しだけ、紗江に似ていると思えたのは、単に年齢が近いからか。
「は、い……」
ちゃんと喋ろうと思ったのだが、うまく声が出ない。
喉がカラカラに乾いている。
「大丈夫ですか? お水を飲みますか?」
白雪はそれに、小さく頷く。
看護師はそれを確認するとコップに水を持ってきてくれたので、なんとか白雪は起きようとしたが、看護師はそれを止めて何かを操作した。
すると、ベッドの頭の部分が少しずつ高くなっていく。可動式のベッドだったらしい。
「はい。一気に飲まないで、少しずつ、ですよ」
白雪は頷いて、水を口に含んでから、少しずつ
ぬるい水が喉を潤して、それから身体にしみこんでいくかのようだ。
水がこれほどに美味しいと思ったのは、初めてかもしれない。
「大丈夫?」
「はい……ありがとう、ございます」
やっと普通に喋れた白雪を見て、看護師は安心した様な笑顔を見せると、ベッド脇のテーブルにコップを置いた。
「あの……今って、いつでしょうか?」
「今は二月十四日の夜九時過ぎよ。貴女、失神して倒れて、運び込まれたの。二時間と少し寝てたわね。特に怪我はないはずだけど、気分はどう?」
「今は……大丈夫、です。ここは、どこ、ですか?」
「ああ、ここはね……」
言われた病院名は覚えがなかった。
とはいえ、倒れたのは玖条家別邸のはずだから、そこからそう離れていない病院だとは思われる。
その後、女性の医師がやってきて、看護師と共に白雪の脈などの状態を確認し、いくつか問答を行うが、それで大丈夫そうだと確認したのか、白雪に付けられたモニター用の機器の接続を外していった。
食事がいるかと問われたが、とても何かを食べる気にならなかったので、それは断ってしまう。
「おうちの方が気付いたら連絡をと言っていたけど、連絡をしても大丈夫かしら?」
おうちの方。
この場合当然、貫之のことだろう。
だが、白雪は今彼に会いたくはなかった。
だから、ゆっくりと首を振る。
「そう。わかったわ。とにかく今は休みなさい。しばらく面会は繋がない、でいいかしら?」
「はい……あ」
「何?」
ふと思いついたことが一つだけあった。
それは、あるいは白雪にとっては最後の望み――だが、それは奇跡が起きなければあり得ないことだが。
「あの、もし……月下和樹という方が来たら……その人だけは、通してください」
「わかったわ。字は? あとどんな感じの方かしら?」
「えっと……」
簡単に説明すると、女性医師は頷いて、病室を出ていく。
その後看護師がベッドを戻すか聞いてきたが、この角度は意外に楽なので、しばらくこのままにしてくれるように頼むと、十時にまた来ると言って、彼女は部屋を出て行った。
再び、部屋が静寂に満ちる。
今度は機械も止まっているので、本当に静かだ。
そして一人になると、急に現実が戻ってきた気がした。
十色泰との結婚。
両親の墓。
貫之の言葉。
それらが次々と思い出されていく。
(多分もう……どうにもならない、ですね……)
何をどうやっても、
そう判断してペンをとったが、それを、心と身体が全力で拒否したのだろう。
だから、倒れてしまったのか。
サインをしてしまったかどうかは記憶がないが、多分していないと思う。
というか、あの状態で書いても、ミミズがのたくったような字になっていただろうから、婚姻届として有効かどうか怪しいところだ。
だが、それとて時間稼ぎにしかならない。
身体の調子自体は、多分もう何ともないだろうから、明日には退院することになるだろう。
また倒れるかどうかは分からないが、そうなったとしても事態は全く改善しない。
時間の問題だ。
だが、
あんな男との結婚生活に、耐えられる自信はない。
それどころか、触れられたくすらない。
(あ、これは……もうダメだったんですね)
完全に八方塞がり。いや、塞がれただけではない。
この場に留まることすらできない。
完全に――何もかもが終わり。
どこに進んでも終わり。
どこに進んでも崖から落ちるしかない状況で、その足場もまさに崩れようとしている、そんな状態なのだ。
(人生が終わったって思う時って……こういう時なんでしょうか)
白雪があの男との結婚を拒否すれば、貫之は両親を引き離す。
白雪があの男と結婚することが、それをしない条件だ。
どちらにせよその先の白雪には、苦痛に満ちた未来しかない。
絶望に満ちた結婚生活か、両親が引き裂かれたことを悔やみ続ける人生か、どちらかのみ。
逃げ道は、もはや一切――。
(あれ?)
AがBの実施を拒否すれば、Cが実行される。
AがBを実施すると、Cは実行されない。
だが、AがBを実施も拒否もできなくなれば、つまり条件式からAが消えれば、式は成立しない。
Cの実行は、Bが実施されないことではないのだ。
コンピューターのプログラムの条件でいえば、全ての条件に対する実装がされていない状態。
Aがないという状況が考慮されていない。
無論プログラムの場合は、Aという要素が絶対に欠けないような構造になっていれば、それは問題にはならないだろう。
だが現実の世界は、『絶対』などというのはそうあるものではない。
たとえ小さくとも、可能性は存在しうるのだ。
そしてそれはこの場合、この閉塞した状態を突破できる唯一の道となる。
白雪が、十色泰と結婚することも、そして結婚の拒否もできなくなればいい。
そうすれば、両親が引き離されることはなく、結婚もしなくていい。
現状で最良の結果がもたらされる。
しかもそれに至るための方法は、今の自分一人でも容易に実行が可能だ。
可能だと思えてしまった。
(あ、簡単でした)
白雪はキョロキョロと周囲を見回した。
やがてもぞもぞと動いて、ベッドから降りる。
そして、あまり力の入らない足を叱咤しつつ、窓際へと足を向けた。
ベランダに出るための扉は、鍵が内側からかけられているだけで、簡単に開けることができる。
扉を開けた途端、二月の夜の冷えた空気が一気に白雪の身体を襲うが、もはやその感覚すら遠かった。
そのまま、フラフラと柵に近付く。
近づくと、やっと外の光景が見えてきた。
少なくとも五階以上の高さはあるだろう。
これなら――十分だ。
(条件が満たせなくなれば、いくら伯父でも――)
その後のことは、もう白雪にもあずかり知らぬことになる。
どうせ条件を満たしても、遠からず結果は同じだろう。
どうやっても、苦痛に満ちた未来しかありえず、それに自分が耐えられるとは思えない。
(そんな、苦痛しかない未来が来る前に――)
この方法なら、その未来は来ない。
だから、これしかない。
白雪は、自分の全てを終わらせるその決意を、とてもあっさりとしてしまっていた。
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